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一遍上人と寶厳寺 写真集『掌上仏』再刊(十七年振り) 故 足助威男著 三好恭治の歴史エッセイ 『熟田津今昔』
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第六十一章 一遍の師 聖達上人と伊予河野氏 
時宗(時衆)の祖である一遍智真は、浄土教の始祖法然上人の曾孫弟子に当たる。法系図(「法水分流記」「浄土法門源流章」)によれば、法然の直弟子が証空(浄土宗西山派)、証空の弟子に聖達、華台、如仏(河野通広 一遍父)、聖達の弟子に聖観(聖達実子)、一遍、仙阿(時宗宝厳寺派祖)、聖戒(時宗歓喜光寺派祖)が続いている。一遍の父如仏は法然の孫弟子に当たる。
 一遍に浄土教を教授した聖達上人について、既に公表されている文献と、聖達が入寂した「原山松岡院知恩寺」の由緒譚から、一遍の師・聖達上人と伊予河野氏の縁を訪ねてみたい。
第六十二章 「一遍歌集 全百首」 索引 
「一遍歌集 全百首」について、@登録番号索引 A漢字交じり和歌索引 Bアイウエオ順索引 を提示する。この索引により、一遍の和歌百首についての検証が可能となった。なお、和歌の出典については15種の文献から掲載しているのでHP一遍会(三好)宛メールで照会願いたい。
尚、和歌の頭部に付けた登録番号は『一遍会報』第375号「一遍の法歌 全百首」(三好恭治)が初出である。
第六十三章  歌のひじり 一遍     ― 捨 ・ 遊 ・ 念 ―
当地松山では正岡子規(以下子規)はもっとも著名な人物であるが、時宗の開祖 一遍上人(以下一遍)については関心が薄かった。平成二五(2013)年八月道後奥谷の時宗宝厳寺の大火で「木造一遍上人立像」(国重要文化財)の焼失により改めて身近に知った市民が多かった。
 平成二七年度まで松山市で採用されている中学校教科書(歴史)は『新しい社会 歴史』(東京書籍)であるが、一遍は鎌倉仏教の開祖の一人として紹介されているが子規の記述はない。市内の中等教育学校や私立中学校の多くで採用されている『新しい歴史教科書』(育鵬社)では一遍、子規ともに詳しく説明されている。
第六十四章  「一遍歌集 全百首」の試み
子規が厳しく批判した「古今和歌集」から始まる勅撰和歌集のうち「玉葉集」に一遍の歌は四首(または二首)撰ばれており、一遍の係累(実子、弟とも云われている)である国宝『一遍聖絵』(以下『聖絵』と表記)の編者 聖戒法師も一首撰ばれている。一遍と聖戒のほかに、伊予人で勅撰和歌集に撰ばれた歌人を残念ながらあげることができない。 子規が俳句の体系化を図るべく先人の俳句を跋渉したことを見習い、子規生誕一五〇周年にあたり「一遍歌集 全百首」をここにとりまとめたが、多くの歌人、俳人、また一遍研究者や宗門関係者によって、全国各地で喪われた一遍の和歌が発掘され追加されることを願ってやまない。
第六十五章 七郎明神社の所在について
「七郎明神社」といっても宗門はもとより一遍生誕の地伊予国道後(愛媛県松山市道後町)でも知る人は少ない(と、思う。) 平成28年(2016)5月14日 宝厳寺の落慶法要にあたり、他阿真円第74代遊行上人(時宗法主)が宝厳寺に来られたが、歴代遊行上人がお参りされた「七郎明神社」に立ち寄られることはなかった。
第六十六章 奥谷道場宝厳寺歴代住職一覧(本山 遊行寺と共同で調査中)
第六十七章 一遍父「七郎明神社」の所在について (覚書)
平成二八年(2016)八月、湯神社の歴代宮司であった烏谷氏の社家が取り壊された。事情を知らない町民、氏子にとってはショックな出来事だった。湯神社境内に存在するとされる河野七郎通広(一遍実父)を祀る七郎明神社(児守社)の所在を確認しておかねばと思い立ち、宝厳寺関係者や商店街の幹部に尋ねたが確答を得ることが出来なかった。そこで文献調査を開始し、一遍会、七郎明神社の創立に尽力された一遍堂主人 故新田兼市氏の記録から安置してある場所を確認できた。
第六十八章 一遍生誕会(松寿丸 湯浴み式)考 (覚書)
宝厳寺での一遍生誕会は、平成二五年(2013)八月一〇日の本堂の焼失により中止となり、二八年五月一四日の再建により、明年(二九年)三月一一日に復活する予定である。まずはめでたいことである。この機会に、一遍生誕会(松寿丸湯浴み式)の経緯について記述し、一遍生誕会の今後のあり方についての参考に供したい。
第六十九章 奥谷道場 時宗宝厳寺歴代住職(覚書) 
一遍生誕寺とも称される奥谷道場・時宗宝厳寺であるが、歴代住職の事績を取りまとめたいと10年来調査しているがいまだ判然としない。平成二五年八月本堂出火により「宝厳寺蔵 河野家系図」はじめ約一〇巻の巻物が焼失したが、焼失した巻物のなかに宝厳寺歴代住職の系譜が記載された巻物があったかもしれないが、後述の事由から、恐らく歴代住職系譜はなかったものと判断している。
第七十章 生死)の執着)と安心 〜一遍と子規と〜
平成29年は子規生誕150年、子規没後115年に当たる。一方、一遍は生誕778年、没後728年である。子規と一遍では6世紀以上隔たるし、時代も鎌倉武家政権と近代天皇制とはまったく異質ではある。併し、個人の生死観については、時代を超克した「生死への執着と安心」があったのではないか。郷土伊予国を代表する時代の先覚者である一遍と子規の生死観を通して、現代の吾々の立つ位置について考察したい。
第七十一章 寳厳寺の再建
 豊國山遍照院寳厳寺の本堂および庫裡が全焼したのは、平成二五年(2013) 八月一〇日であった。そして、平成二八年(2016)五月十四日、時宗総本山清浄光寺(通称 遊行寺 神奈川県藤沢市)から他阿真円上人法主猊下(第七四代遊行上人)以下約二〇名の僧侶を迎え、寳厳寺本堂・庫裡・一遍上人堂の落慶法要が厳粛に執り行われた。「寳厳寺再建」という壮大なプロジェクトが僅か二年九ヶ月で完成するとは、焼失した直後に寳厳寺の境内で茫然と佇んだ関係者にとって予想しえなかった歴史的事実である。事を成すに「天の時、地の利、人の和」というが、その推進者は一遍上人その人であったのかもしれない。
第七十二章 「遊行上人伊勢参宮」考
第七十三章 「伊予三好会」論文集
平成31年(2019)亥年は7回目の「年男」である。帰郷以来20年、主に「道後学」「松山の英学」「松山の子規」「一遍時衆」を主要テーマとして研究発表してきた。8回目の「年男」まで執筆できるかどうか微妙だが、「伊予三好会」を再生させ、遠祖三好長門守秀吉から江戸期の温泉郡大庄屋(道後村庄屋)の歩みを、機会を見て執筆していきたい。お気づきの点があればご教授いただきたい。
第七十四章 一遍上人の遺言「南無阿弥陀仏はうれしきか」 〜他阿真教と伊予房聖戒〜
真教と聖戒の関係は(通説では)冷たいものであった。しかし、一遍への思いは、互いに強いものがあり、惹かれあうものがあったとしても不思議ではない。
一遍は優れた「カリスマ」であり、真教は優れた「オルガナイザー」であり、一遍生存時の「オカルト集団」から、道場を主体にした信仰集団に発展させた真教の功績は大なるものがある。一遍は後継者候補としては当初は伊予坊聖戒であった。なぜ聖戒が一遍の遊行集団(時衆)に参加せず、浄土宗(西山派)を通したのか、大いなる謎である。(『
第七十五章 正岡子規と伊予の文化  東雲女子大学第一〇講座 「子規が歩いた松山 その二」
第七十六章  子規と遊里・遊郭俳句
『松山 子規事典』編纂にあたり「松山の花街・遊郭」等を執筆したが、子規研究に当たって、おそらく意識的に、遊里や遊郭と子規との絡みは、今日まで管見では発表されていないと思われる。遊里、花街、遊郭も今日では「死語」化されてきているので、今回ささやかな研究を通して、会員各位の記憶に留まれば幸いである。
第七十七章 時宗奥谷派の盛衰〜時衆奥谷道場(宝厳寺)・松前道場(金蓮寺)〜  
第七十八章 宝厳寺小史(T)古代  作業中
寺史なり寺院の由来・縁起については、論理的にあるいは史料的にみて事実であるか否かは不明確であることが多い。一遍生誕寺(?)ともいわれる時宗奥谷宝厳寺もまた例外ではない。
(注)時宗本山遊行寺の最新の小冊子『時宗二祖上人七百年御遠忌記念 法統を継ぐ ―真教上人の生涯とその教え―』では左記である。
「時宗宗祖一遍上人は、伊予(現在、愛媛県)に勢力を誇った河野氏の出身です。父である河野通広(出家後)如仏」は、「別府七郎左衛門尉」と称していたことから「別府」(現在、松山市・東温市などの諸説があります)の地に居住していたと考えられます。そのため、一遍上人も其の地で誕生したのでしょう。
第七十九章 宝厳寺小史(U)中世  作業中
斉明帝が新羅征討時、のちの天智・天武の両皇子とともに斉明七年(661年)筑紫へ下向中、熟田津の石湯(伊予の湯)に立ち寄る。このとき奥谷を上り「金剛滝」を背に大三島の大山祇神を遥拝、「国豊民安」を誓願された。後に、天智天皇(626〜671)が越智守興(国司散位)に命じて天智四年(665年)宝厳寺を創建、「豊国山誓願院宝厳寺」と名付けた。
初め法相宗であったがその後天台別院の定額寺となり「遍照院」と院号を変えた。
第八十章 「宝厳寺古図」(伊予史談会蔵)を読み解く
第八十一章 「奥谷宝厳寺時衆連歌文化 考」
 日本の中世文化、文芸の有力な担い手に「阿弥集団」があったことは広く知られている。舞踊・歌舞伎(阿国)、立花(池坊)、絵画、茶道、連歌(時衆僧)、説教節・・・寄席芸(聖)、俳諧、能(世阿弥 観阿弥)、建築、作庭、刀剣、作陶がある。彼の集団は、すべてが念仏集団ではないが、その中核に時衆があった。浄土宗、特に時衆は、奈良・平安期の国家護持を支えた仏教と異なり、念仏信仰を通して個人と仏が結ばれた。
第八十二章 遊行上人と平将門伝承
新型コロナウイルスも令和三年夏には第五期に入り、報道では「統御不能」でワクチン頼みになっている。さすが二一世紀だけに疫病の流行に怨霊や加持祈祷の話は出ないが、一遍上人が生きた鎌倉時代ではいかがであったか。
第八十三章 一遍とほととぎす (一遍会 令和4年5月例会 卓話)  
「郭公なかぬ初音ぞ珍しき」(『菟玖波集』)は一遍の作か
第八十四章 坂の上のラジオ  一遍さん 
第八十五章 戦争と安穏 〜日蓮の「予言」と一遍の「遊行」〜修羅・餓鬼・畜生の現世には必要悪か
第八十六章 一遍聖「別願和讃」の世界
第八十七章
「愚陀仏は主人の名なり冬籠  漱石」〜漱石の「松山落ち」と子規との「愚陀仏庵五二日」
第八十八章 一遍と温泉 〜癒しと再生〜  子規博友の会総会 講話(令和6年)
第八十九章
 『百利口語』考 〜終活について〜
令和七年初、『一遍語録』所載の「百利口語」に目を通し
「六道輪廻の間には ともなふ人もなかりけれ 独りむまれて独り死す 生死の道こそかなしけり・・・・・・・・・・」
と九二句を音読しつつ、真民翁にあやかって、鳩寿を機に「終活」について真剣に考えていかねば思うに至った。
第九十章