第六十九章  奥谷道場 時宗宝厳寺歴代住職  【覚書】
一、 はじめに
歴史研究者にとり、いり正確な歴史的な事実や史実を求めて日夜格闘を続けている。一般には家譜や家系図は恣意的な要素が混在しているとして歴史の検証に当たっては軽視されがちである。
当家の家系図は阿波三好家系図と伊予三好家系図が二本あるが、阿波・伊予三好家の接点に大いに疑問がある。もっとも東京大学史料編纂所に写本が保存されインターネットで閲覧可能であるので必ずしも偽書とは云えないかもしれない。
一遍生誕寺とも称される奥谷道場・時宗宝厳寺であるが、歴代住職の事績を取りまとめたいと10年来調査しているがいまだ判然としない。平成二五年八月  日の本堂出火により「宝厳寺蔵 河野家系図」はじめ約一〇巻の巻物が焼失したが、焼失した巻物のなかに宝厳寺歴代住職の系譜が記載された巻物があったかもしれないが、後述の事由から、恐らく歴代住職系譜はなかったものと判断している。
一遍会の世話人として、現時点での調査結果を発表し、後続の郷土史研究者にバトンタッチしておきたい。
2、奥谷道場宝厳寺歴代住職名簿が不明の理由
歴代宝厳寺住職のうち時宗学研究の碩学として名を残している住職が二名いる。
第二五代橘恵勝師は明治四〇年(1907)四月「時宗宗学林学頭」の任にあり、第五二代 浅山圓祥師は昭和三〇〜四〇年代「時宗宗学林学頭」として子弟を育成するとともに「時宗教学研究所長」の重責にあった。宝厳寺の在職は第二五代橘師は、明治四〇年(1907)〜大正一〇年(1935)在職二八年、第五二代 浅山師は、昭和四七年(1972)〜51年(1976)在職四年であった。
(注)第二五代橘師の辞任は大正一〇年八月五日付であるが、道後(宝厳寺)から離任、上京したのは大正十一年と推定している。(三好)
第二五代 橘 恵勝師(1875−1923)は 「高槻宝泉寺徒弟 明治37年10月19日就任 大正10年8月5日辞任」として遊行寺の「僧籍簿」に記載されている。
もう一方は第五二代 浅山 圓祥師(1911−1976)で、「神戸普照院住職越智義祥徒弟 神奈川県瑠璃光寺元住職 藤嶺学園藤澤商業高等学校校長 時宗教学研究所所長 大正大学講師歴任」と「僧籍簿」に記載されている。法名は「桂光院其阿上人足下圓祥老和尚」である。
(注)参考論文
@三好恭治 「明治・大正期の宝厳寺学僧 第四五世橘恵勝師について」 『一遍会報』第三七〇号(2015年6月1日)) 
A三好恭治 「【資料】一遍上人の思想と哲学 宝厳寺第四十五世橘恵勝師」 『一遍会報』第三七一号(2015年7月1日)
B三好恭治 「浅山圓祥師と門弟の時代 「一遍会史」の試みA 誕生期) 『一遍会報』第三六四号(2014年11月1日)
約四〇年の経過で第二五代橘師から第五二代 浅山師と二〇代も飛んでしまうことは現実にはありえないことである。 
更に一代前の第二四代中島善應師は 明治三五年3月中完に「国宝之霊像開扉之弁」を著し、破損していた「一遍上人立像」を「奈良     」(現 )を大修理して一般公開した宝厳寺の歴史にとっても重要な住職であった。  
明らかに、ある時期から、歴代住職が二〇代飛んで今日に至っている。もともと宝厳寺には歴代住職簿は存在しなかったのでないか。或いは、無住寺の時期に紛失したのではないか。本山(遊行寺)所蔵の宝厳寺記録から判断していきたい。
3、時宗本山(遊行寺)僧籍簿、本山墓碑による宝厳寺歴代住職
1) 宝厳寺住職の初代「仙阿弥陀仏」と二代「珍一房」の存在は史料で明らかである。遊行七祖他阿弥陀仏述「條條行儀法則」の冒頭に初代「仙阿弥陀仏」と二代「珍一房」を記述している。康永三(1342)年四月起である。
「奥谷菓(宝)厳寺ノ開山仙阿ハ一遍上人ノ法弟也。彼ノ弟子ノ尼珍一房住持相続シテ遺跡ニ共住シテ往生ヲ願ヒ行功ヲ積ミケルガ・・・」
(注)一遍の往生は正応二年(1288)八月二三日であり、一遍の往生から起算すると54年経過している。同じく法弟である『一遍聖絵』を編纂した聖戒は『開山弥(み)阿上人行状』によれば弘長三年(1261)に生まれ元亨三年(1323)二月十五日に没している。
「法水分流記」「浄土法門源流章」等によれば
  仙阿(伊豆房)時宗旧奥谷派(宝厳寺)流祖
  聖戒(伊予房)時宗六条(歓喜光寺)流祖
 とある。
 一遍の異母弟とも云われるが、一遍(通秀)とは20才も離れ、一遍と長兄通真の年齢差も20歳以上開いており、兄弟の年齢差が40歳超であり、異母兄弟説はいささか信じがたい。
(注)【浄土法門源流章】  世界大百科事典 第2版の解説

凝然(ぎようねん)著。1311年(応長1)東大寺戒壇院で述作。1巻。インド,中国,日本3国にわたる浄土教の弘通を教義史的に明かしたもの。日本については,法然以前の智光,源信,永観などの源流を略述し,ついで法然の浄土開宗を記し,さらに法然門下の5流派(一念義流,多念義流,西山義流,鎮西義流,諸行本願義流)を詳述する。【伊藤 唯真】
(注)【法水分流記】
『法水分流記』における若干の問題点  中野正明

『法水分流記』(書と称す以下、本、)は、現在大谷大学図書館に永正七年三河立信寺康翁が大和戒長寺にて書写したものを、大永七年深草派の伝空賢智が三河満国寺にて書写し、これをさらに元禄九年匪空なるものが本寺円福寺において書写したものと、さらに元禄十五年栄正寺休是なるものがこれを再び書写したものとの二部を蔵するが、牧氏が紹介された『吉水法流記』と合冊になって現存する本書の書写年時が延宝七年というから、この方が年代的に遡るわけである。しかし、いずれも近世になってからの写本であることをまず考慮に入れなければならないように思う。
遊行七祖他阿弥陀仏が宝厳寺を拠点に賦算中に立ち寄った場所は「條條行儀法則」から確認する。
○奥谷菓(宝)厳寺(道場)
○八蔵 入仏寺
 (注)『時宗末寺帳』(時衆史料第二1965)【時宗藤沢遊行末寺帳 内閣文庫蔵】
    後書きに下記の記載がある。
「右之一帖者弟子長淳令書写」、納置七條金光寺者也」(後筆)「京下寺町荘厳寺一堂之事也」
 享保六辛丑(1721)季五月吉辰  他阿一法誌
(異筆)「嘉永五子年(1852)迄、享保六丑年(1721)ヨリ百卅弐年相成申候」
(注)八蔵 入仏寺 【愛媛県の地名 日本歴史地名大系39 平凡社1980】
 現伊予市八倉。口碑によると地名八倉は古代この地に受穴・伊予二郡の貢米を収納する八棟の倉庫があったことによるという。寛永一二年(1635の替地以来大洲領。(八蔵→八蔵ヵ)八倉山頂には戦国期に河野氏の将重見氏の城砦があったと伝えている。檀寺は真言宗智山派入仏寺である。(寺号林光院蓮華院入仏寺)・・・宝厳寺塔中に「林光院」あり。通広隠棲の塔中ヵ 関連があるヵ
(八倉集会所)@伊予市/八倉中央集会所( 伊予市八倉788番地2)
         A伊予郡/砥部町役場 八倉集会所(伊予郡砥部町八倉210)
『時宗末寺帳』では伊予国の時宗寺院は6ヶ寺である。
@定善寺(松前)A宝厳寺(道後村奥谷)B入仏寺(八蔵)C円福寺(未記載)D願成寺(内ノ子村宮床)E保寿寺(陽)
定善寺(松前)⇒ B入仏寺(八蔵)⇒ A宝厳寺(道後村奥谷)のコースが存在したヵ
【珍一房】
「播州法語集」31
又云、仏阿弥陀仏といふ尼、伊予の国にあり。習もせぬ法門を自然にいひしなり。常のちかひにいはく。「知てしらざれ、かへりて愚痴になれ」と云々。此心、浄土の法門にかなへり。」
二代「珍一房」の往生は「條條行儀法則」によれば康永三(1342)であり、仮に八〇歳とすれば二〇歳は弘安五年(1282)であり、一遍の往生は正応二年(1289)であるから両人が対面した可能性は皆無ではない。伊予の仏阿弥陀仏は奥谷宝厳寺の関連する尼僧であろうヵ。「珍一房」と「仏阿弥陀仏」は同じ時間、同じ場所を共有したのであるまいか。
時衆は尼僧も阿弥陀仏号を用いていたことがある。『播州法語集』85「西園寺殿の御妹の准后の御法名を一阿弥陀仏と付奉る、此御尋ねに付て御返事(略)」
「六月廿一日坊主珍一房来云、我一大事ヲ為奉申合参詣之處、自路次心地違例ケレトモ是マテ参レリ、其故遂我本意後、彼道場ヲハ偏可計賜・・・(中略)・・・同廿六日辰時往生畢、是偏仏智所推也、更以風情不可思量、依之任遺言、初遊行ヨリ坊主所定置也」と記している。『遊行』(平成24年9月1日長島尚道「時衆十二派(十二)」

一遍の直系でもあろう奥谷派は、康永三年に遊行派の一寺院となった。
『時宗要略譜』に「中古帰遊行派」と記載されている。

三代以降の○○代まで宝厳寺住職の名前が不詳である。

【其阿弥陀仏】
平成 年8月に焼失した重要文化財「木造一遍上人立像」の首?(ほぞ)には「当住其阿弥陀仏、檀那通直、願主弥阿弥陀仏、文明七年乙未十一月十九日」と墨書されていた。文明七年(1475)道後湯築城主であった河野通直(教通)が檀那であり、恐らく河野家に関わりある人物が願主であった。二代珍一房が成仏したのが康永三(1342)であり130余年経過している。一住職在位二〇年とすると六代〜七代となるから、八代目か九代目の住職になるのだろうか。其阿弥陀仏の「其」は宝厳寺住職に与えられた阿弥かどうか、(調べて行きたい)。