一、はじめに |
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鐘紡株式会社(現カネボウ)で二十数年人事部に在籍し七年余にわたって人事部長の任に当たった。毎年の主要業務で且つもっとも楽しかった仕事に大学卒対象の採用時の人事面接があった。人事課長当時は四、五〇〇人以上、人事部長になってからも二〇〇人以上の学生と一時間に五人宛面談を繰り返していった。 |
面接に当たっていろいろと職業観や当社志望事由などを聴取するのだが、全員に決まって質問したのは次の三点であった。 |
1) よき友にめぐりあったか。 |
2) よき書物にめぐりあったか。 |
3) よき師にめぐりあったか。 |
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現在では考えられないことだが当時は学生運動や国籍でリストに挙がった学生の採用は大手企業ではタブーであった。人事部長としての「琴線」に触れた就職志望者につき社長を説得して採用を決定した経緯もある。名前を明かすことは絶対にしないが、現在経営陣で活躍しているその当時の学生の姿を見ると人事部長冥利に尽きるという感慨を持つ。 |
ところでこの三つの質問は私の独創ではなく、慶応義塾大学経済学部の学生としてゼミの指導教官である高村象平教授(以下高村先生)とのお付き合いの中で刷り込まれたものである。ゼミ終了後の雑談で身近かに高村先生の謦咳に接し、印象に刻んだ言葉は忘れないように下宿先に持ち帰り日誌に書き留めていったのだが、そのフレイズの一節が上記の面接の要項である。実はゼミ参加に当たっての先生からの質問も同様であった。今でもハッキリとその時の受け答えを覚えている。 |
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1)よき友については、昭和二十年の敗戦当時同じクラスの友人一〇名で「蛍雪会」なるグループを結成し、九月進駐軍が松山に赴任する前日には松山城と対面する御幸寺山に登り「敵は幾万ありとても」とか「海ゆかば」を涙して歌い、明日以降進駐軍に殺されても友情を持ち続けようと誓い合った餓鬼仲間のことを語った。現在も八名が健在であり、そのうち何名かとは毎年の様に会っている。 |
2)よき書物については大塚久雄東京大学教授の「欧州近代経済史序説」とゲーテの「ファウスト」とエンゲルスの「家族・私有財産・国家の起源」を列挙した。 |
先生はにやっと笑って「歴史を学ぶものは原典に当たらねば書籍を読んだことにはならない」との一言痛烈なコメントが帰ってきた。そんな訳で卒論は日本語文献は殆ど利用しないで「十六世紀イギリス農村の一考察」と題して教会の遺産目録から当時の農村事情を四百字詰百五十枚に取り纏めたが正直云って難渋した。 |
3)よき師については、小学校(二神日満男先生)、中学校(桑原良之先生)、高等学校(渡部勝己先生)の恩師のお名前をあげ、大学ではまだ居ませんと答えた。 |
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学問の世界から高村象平教授の先生像を描くのは不可能なので、大学時代の二年間に先生に接した印象から「私だけの高村象平先生」を描いていくことにする。 |
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二、高村象平先生のプロフィール |
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1)先生にとっての「よき友」 |
江戸っ子特有のべらんめいで辛辣な批評をする先生は、初対面から東京は下町の生まれと直観した。東京本所小梅瓦町(現・墨田区小梅一丁目)で育ち、明治四十三年(一九一〇)夏の洪水で本郷に移った由だが、いまでこそ本郷だが中央線の通っていない当時の本郷は下町からみれば郊外であったらしい。 |
先生は旧制開成中学で学んだが、ここで二人の終生の「よき友」に巡り会っている。その中のひとりは先生の研究室でも度々お会いし御指導頂いた小松芳喬早稲田大学教授である。この二人は開成中学の先輩達から神田のニコライ堂に呼び出され度々鉄拳制裁を受けたらしい。生意気過ぎる少年だったからだろうが、お二人の並んだ姿を拝見していると温厚な小松芳喬先生の方が巻き添えをくらった様に思われてならない。進学では早稲田・慶応に分かれたが、同じ経済史を専攻され、後年早慶の経済学部長から学長(義塾長・総長)まで「不本意ながら」出世されようとはご当人達は夢想もしなかったらしい。 |
高村先生は「ドイツ・ハンザの研究」では世界的な学者であるのでドイツ経済史を研究したいとは思ったが、大塚史学に魅せられるところが多かったので「十六世紀の英国農村事情の実証的研究」を選んだ。そこで先生は英国中世経済史の権威である小松先生を私に引き合わせ指導を受ける様にとアドバイスをいただいた。一学生にここまで面倒をみていただいたことは有り難いことであった。 |
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2) 先生にとっての「よき師」 |
先生の大学の指導教官は野村兼太郎教授(当時)であった。幸いなことに私の時代には慶応義塾の名物教授である高橋誠一郎名誉教授と野村兼太郎教授が教壇に立っておられたので「経済学史」と「日本経済史」を受講した。小泉信三名誉教授は東宮での皇太子(現・平成天皇)の御指導に当たっておられたので残念ながらお会いしていない。 |
野村教授の講義は四回生で受講したが、他の学生とは違いある程度まで専門的な知識があったので講義内容の過半は既知のものであった。むしろテーマの設定や史料分析に当たっての視座に興味を持ったが、ご高齢であっても(と云っても六十七歳の現在の私より十歳近くも若いのであるが)切り口の新鮮さは鋭く毎週の講義が待ち遠しく前列に座って熱心に聴講したものだった。 |
高村先生が野村ゼミに入部して「イギリス産業革命期のチムニーボーイの研究」を希望された時、野村教授が一冊の本を挙げて図書館にあるから読みなさいと指示された。先生は早速図書館でその本を貸し出したがなんと索引のない大書であった。最初から最後まで目を通さねばならないことになった。そこで必要に迫られた斜め読みの技術を習得することになった。 |
ゼミの同輩も同じ経験をしているのだが、先生から図書館にあるからR・H・トーニー著「英国十六世紀の農業問題」なる大著を一週間で読むように指示された。この本はイギリス中世経済史を専攻する学徒にとっては必須の文献と考えるが翻訳本はないし丁寧な索引もない。一週間下宿に籠りっぱなしで読んだがいつの間にか斜め読みをしていた。先生に報告すると、にやりと笑って次の本を書架から取り出して又一週間で読みなさいと手渡して頂いた。正直これほど厳しい愛の鞭を受けたことはなかった。実質一年半で二十数冊の原書に目を通したことになり、これらの原書の抜き書きから卒業論文を執筆することになった。あとで振り返ってみると高村先生が野村教授の薫陶を受けたやり方に酷似していた様だ。R・H・トーニーには他に「宗教と資本主義の興隆」があり今日では岩波文庫で手軽に読めるが昭和三十年当時は原書のみであり随分苦労して「斜め読み」をした思い出がある。 |
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2) 先生にとっての「よき書」 |
先生から伺ったことはないし、もし質問したとしてもドイツ語での文献であろうから私にとっては専門外である。ただし先生が愛読した書物は漠然とこの本ではないかと思うのだが・・・・ |
三田の通りで酒を飲みながらの雑談の折だったか、ゼミ終了後の懇談の場であったか今となっては記憶は定かではないが、先生が卒論に纏めた「チムニーボーイ」は翻訳すれば「煙突少年」であり、イギリス産業革命初期に都市の貧しい少年が身体ごと煙突を上り煤煙掃除をする少年労働者のことである。開成中学か慶応の予科の時代にディケンズの「オリヴァ・ツイスト」を読んで若者特有の正義感に燃えて塾友と気勢を挙げたらしい。先生と同世代の慶応の大先輩に高村先生のことを訊ねると、きまって「おお、チムニーボーイの高村か」という返事が返ってきたのには驚いた。青春時代は酒と新劇と読書の毎日だったらしい。 |
もう一冊は先生の研究に関係するのだが、トーマス・マンの「ブッデンブローク家の人びと」でマンの自伝的小説である。後にノーベル文学賞を得た作品でありドイツ・ハンザの盛衰を描いた大河小説である。この物語を語る時の先生は留学時代のリューベックやハンブルブの酒場と演劇を熱っぽく語る演劇青年であった。戦争のない平和でもっと自由な時代であれば新劇の俳優として築地の劇場で小山内薫の指導を受けて羽ばたきたかったのではないかという位のロマンを感じさせるひとときであった。 |
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三、学者としての先生 |
先生の学問的業績を語る程の知識もないし勇気も持っていない。昭和四十六年(一九七一)新春の宮中での講書の儀で先生が「ドイツ・ハンザの経済史的意義」について御進講された。その後御進講の原稿に目を通すことができたので要旨を少し長くなるが記述しておきたい。 |
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ドイツ・ハンザの十二世紀から約五百年に及ぶ歴史を簡潔に述べ、都市同盟的制約はなく加盟或いは脱退が自由で経済的利益を追求する団体ないし共同体であったと指摘する。 ドイツ・ハンザ都市間では利害が反するも五世紀にも及ぶ結束を保ったのは決して共同体の規制ではなかった。ハンザ会議という最高の審議機関が随時開催されたが、多数決の議決に統制力はなく軍備も持たなかったが、仲間を統一する体制が必要だとする共同体的思考が分裂を阻止したと考えられる。併せてドイツ皇帝からの援助は一切受けず自由なスタンスを保持したことも大きな要因であった。 |
ドイツ・ハンザを支えた自由都市リューベックから、イギリスとの結びつきを強めたハンブルグ、ベルリン、ハノーバーが押し上がり政治と結託し巨大な都市として成長する。ドイツ・ハンザの歴史的評価が低いのは、ドイツが自由都市から絶対主義的な領邦諸侯の支配に移行したことによると考えられる。 |
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最後に先生は昭和天皇に次の様に纏めを申し上げている。 |
「加盟都市はそれぞれが自己の経済的利益を追求しておりますものの、ごくやむを得ない場合のほかは、武力行使にでることなく、都市相互間の紛争も、外国との折衝も、話し合いや仲裁、調停によって解決することに全力を尽くしたことが、五百年間に残した記録からも明らかでございます。この点は、現在におきましも、記憶さるべきことと考えておる次第であります。」 |
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賢者は歴史に学び愚者は経験に学ぶと云われるが、先生は天皇の前でこのことを平常心で訴えられたのであろう。この年に沖縄が返還されアメリカの占領体制がやっと終結し、翌昭和四十七年(一九七二)田中角栄内閣が誕生し日中の国交正常化が実現する。以後三十余年の今日に至るまで歴史を忘れて経験に頼り日本丸の行き先が依然として見えて来ない。先生は未来を予測しドイツ・ハンザの歴史に学べと遺言したのではあるまいか。 |
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昭和三十二年の秋、慶応義塾で全国大学ゼミナール大会があった。西洋経済史分野では慶応から高村ゼミが参加し、私が基調報告をした。東京大学が大塚久雄ゼミ、一橋大学が増田四郎ゼミ、早稲田大学が小松芳喬ゼミ、福島大学からは吉岡昭彦ゼミが参加した。当時福島大学は吉岡教授の「寄生地主論」が脚光を浴びており学生の鼻息も荒かった。理論的な大塚ゼミと実証的な高村ゼミの討議は正直なところ噛み合わなかったが「対外試合」でもあり大いに勉強をしたのも今となっては懐かしい。 |
増田先生は平成九年(一九九七)八十八歳で逝去されたが、同年九月の「創文」に小松先生の談話が掲載されておるので数行引用する。 |
「(増田)四郎君と高村(象平)君と僕(小松芳喬)とでは、どこを捉えても、類似点が多いとは言えないでしょう。それにも拘らず、案外気が合ったことも少なくなかったのです。例えば、もう何年前でしたか、我々はいろいろな所へ行く機会が多いけれども、細君を連れて行ったことが殆どないから、家族会を作って、我々の行くところを細君にも見せてやろうじゃないかと、高村君が言い出しました。提案は異議なく成立して、まず高村君の顔のきく新橋で第一回が開催されましたが、僕も四郎君も、高村君のような粋人ではないので、いざ当番となると、少なくとも場所の選択には頭を悩まされることが珍しくありませんでした。それでも大いに苦心して、何回かやりましたが、言い出した張本人が一〇年近く前に姿を消してしまったのですから。今となっては、楽しかった思い出になってしまいました。」 |
大塚先生は足が悪かったし、四人の先生が新橋か祇園で席を持てば座持ち役は恐らく高村先生であったろうし、下ネタ豊富な高村先生が粋筋には持てたに違いないと妙に確信している。先生、この推測が当たっていたらごめんなさい。 |
高村象平先生は平成元年(一九八九)、大塚久雄先生は平成八年(一九九六)、小松芳喬先生は平成十二年(二〇〇〇)に相次いで逝去されている。学恩のある四先生のご冥福を心からお祈りする次第である。 |
ここで高村先生の経歴を簡単に記しておく。 |
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【略歴】 |
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明治三八年(一九〇五)東京に生まれる。東京開成中学校を経て、昭和四年(一九 二九)慶応義塾大学経済学部卒業。 |
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その後、同学部助手、助教授、教授として経済史とくにドイツ中世経済史を専攻。 助手時代にドイツへ二ヵ年留学。戦後、経済学部長、図書館長、塾長兼大学長を歴任。経済学博士。 |
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塾外では、社会経済史学会・大学基準協会の理事、中央教育審議会・大学設置審議 会の委員、私立大学審議会・日本私立大学連盟・全国大学教授連合の会長などを歴任。 |
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平成元年(一九八九)没。多摩霊園に眠る。 |
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【主要著書】 |
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「近代技術史」 (一九四〇年 慶応出版社) |
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「日葡交通史」(一九四二年 国際交通文化協会) |
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「資本主義の歴史的問題」(一九四八年 泉文堂) |
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「経済史随想」(一九五一年 塙書房) |
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「アメリカ資本主義発達史」(一九五二年 金星堂) |
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「ドイツ中世都市」 (一九五九年 一条書店) |
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「ドイツハンザの研究」(一九五九年 日本評論新社) |
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「西洋経済史」(新版) (一九七一年 有斐閣) |
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「私学に生きる」(一九七二年 文化総合出版) |
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「五年のあしおと」(一九六五年 慶応通信) |
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「西欧中世都市の研究」(一九八〇年 筑魔書房) |
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「回想のリューベック」(一九八〇年 筑魔書房) |
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追記 |
土肥恒之著(一橋大学名誉教授)『西洋史学の先駆者たち』 (2012..6.10発行 中央公論新社 [中公叢書]) |
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慶応時代の指導教官である高村象平教授から謦咳に接した野村兼太郎教授、(早稲田大)小松芳喬教授の名前がある。卒論は英国中世経済史であったので小松芳喬先生の影響が強い。
更に学恩のある(東大)大塚久夫、高橋幸次郎、松田智雄、(一橋大)上原専録、増田四郎、(関西大)矢口孝次郎、在野の服部之総諸先生の名前を見ると「学生」に戻った自分を発見する。(2012・9・21付 日記より) |
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後日、書架を整理して、「西洋史学」のコーナーを設けた。最右端は大類伸著『西洋史新講』(昭和9年 富山房)である。学生時代の「思い出の書架」となった。 |
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