一遍会 一遍会講演記録 例会35年の歩み(資料集) 三好恭治のエッセイ 「鐘紡春秋」
寶厳寺 月例会のお知らせ ホットニュース 一遍会双書(全16巻) 三好恭治の『一遍徒然草紙』 一遍会アルバム
一遍上人と寶厳寺 写真集『掌上仏』再刊(十七年振り) 故 足助威男著 三好恭治の歴史エッセイ 『熟田津今昔』
ご意見・ご質問など・・・お気軽にどうぞ 
照会先 事務局 理事 三好 恭治 Tel&Fax 089-923-0647 E-mail
第三十一章 トポスとしての道後・熟田津古道 
 本論は平成19年2月17日開催された「伊予山の辺のみち歩こう会」(代表 森亮一氏)が主催したギャラリートークの要旨である。
第三十二章 子規サロン「子規にとっての一遍さん」 
 平成十九年九月二十日子規記念博物館で「第1回子規サロン」が開催され、スピーカーとして招待された。以下は演題「子規にとっての一遍さん」の要旨である。
第三十三章 一遍成道の地・伊予国窪寺再考 〜「一遍聖絵」に描かれた二人の僧は一遍と聖戒か〜
 今回「窪寺再考」として通説を検証したが、通説を以って正鵠であるという結論にはならなかった。むしろ多くの疑問が生じた。事実と真実の狭間で一遍成道の地・窪寺並びに窪寺閑室を考えたが、現地検証が改めて必要であることを痛感した。
第三十四章 一遍さんと道後・松山・伊予国  
 2008年7月7日路後公民館主催の婦人学級と老人学級合同の教養講座が開催され、道後にお住まいの方々約120名の出席者に地元道後からの一遍さんの発信をした。ローカル色が芬芬としているが、他地域の方にも案外ご参考になるのではなることを願っている。                       
第三十五章 「捨ててこそ」の経営〜共同体ということ
 平安仏教の天台宗・真言宗・浄土宗であれ、既存の仏教集団や朝廷や幕府から迫害を受けたことは明白な歴史的事実である。鎌倉期に入ると迫害を受けた天台宗・真言宗が浄土宗・真宗・日蓮宗・時衆(時宗)の弾圧に加担することになる。世界史的に観れば、原始キリスト教や拝火教も同様である。
第三十六章 一遍時衆を陸奥国江刺(祖父通信墳墓)に道案内した男 〜河野通次〜
 一遍・時衆の30〜40名の教団の丸3年に及ぶ猛暑・厳寒の遊行を可能にした経済的、政治的背景を如何にとらえるか。また、時衆の生命と通行(安全・安心)を保証した人的背景を如何にとらえるか。担保は「賦算」(南無阿弥陀仏による救済)だけか。
第三十七章 松山英学所初代校長 草間時福 〜小林小太郎周辺の伊予人@
 草間時福の松山時代は、松山英学所初代校長に引き続き、明治九年九月愛媛県変則北予中学校長、明治十一年六月愛媛県立松山中学校長を歴任、明治十二(一八七九)年七月まで校長の任にあった。松山英学所・松山中学校の教育内容と「演説」については直弟子永江為政(当時、雑誌『乃木宗』主筆)が『四十年前之恩師草間先生』に書き残している。
第三十八章 大野銀行頭取  大野トウ吉 〜小林小太郎周辺の伊予人A    (注)「トウ」は<人偏+同>
 実業家としてのイ同吉の優れた決断は、明治一五年家計帳簿を整理し以後「複式簿記」を用いたことである。日本における複式簿記の普及は、明治六年(一八七三)福沢諭吉訳『帳合の法』から始まるとされるが、文部省が教科書として採用するのは小林儀秀(小太郎)訳『馬耳蘇氏記簿法』(明治八年 文部省刊)と『馬耳蘇氏記簿法』(明治九年 文部省刊)以降である。
第三十九章 松山藩洋学所(英学司教・小林小太郎)出身の教育者 和久正辰 〜小林小太郎周辺の伊予人B  
 秋山好古は終生正辰を「先生」と呼び師弟の礼を重んじた。好古に「教育の何たるか」を教え、「軍人の道」を教えた教育者和久正辰こそ、秋山好古を大成させた恩人であり、好古が子息二人を慶応義塾に進学させたのは、そこに和久正辰「先生」の生き方を見たからではないだろうか。
第四十章 ジャーナリストに徹した松山中学3代目校長 西河通徹 〜小林小太郎周辺の伊予人C 
 明治七年(一八七五)三月大阪慶応義塾に入社、翌八年二月には上京して三田の慶応義塾で英学を学び、福沢諭吉の啓蒙思想に啓発され、在学中から「朝野新聞」(編集長は宇和島出身の末広鉄腸)などに反政府的な投書を繰り返した。結果、明治九年三月「新聞条例第十二条」に抵触し禁獄三ヶ月、罰金五十円の処刑を受ける。反政府的な愛媛県に県令として岩村高俊が赴任し、福沢諭吉や末広鉄腸の人脈で松山英学所の所長に草間時福を招聘、「海南新聞」の初代編集長にも起用し民衆の啓蒙に勤めた。明治十年刑期を終えた通徹は、帰郷し「海南新聞」の主筆となり「公共社」に参加した。
第四十一章 愛媛県の初代権令(県令) 岩村高俊 〜小林小太郎周辺の伊予人D
 明治元年、二四歳で陸援隊軍監となり、東山道討征群に参加し、信州平定の軍監として松代、長岡藩(家老河合継之助)を下し、新発田・米沢に転戦し、年末に京都に凱旋する。明治二年、新潟府権判事、明治四年宇都宮県権参事、明治六年神奈川県権参事、明治七年一月佐賀県権令(佐賀の乱、江藤新平処断)、同年十二月愛媛県権令(県令)となり五年余は県政では「民権知事」として保守的な風土を革新し、明治十三年三月内務省大書記官(戸籍局長)に栄進する。
第四十二章 宝厳寺の大位牌 〜河野通信夫妻・河野通広夫妻・得能通俊夫妻〜
 毎年三月第二土曜日に宝厳寺で開催します一遍聖生誕会並びに松壽丸(一遍聖幼名)湯浴み式に、本年も一遍会員のみならず多くの一遍さんフアンの方々がお参り頂きまして主催者の一人として御礼申し上げます。 三年前から一遍聖生誕会と同時に開催しております例会での講話を「道後学の試み」としてシリーズ化致しました。  第三回は生誕会法要が執行されます宝厳寺本堂で参拝者のほとんどの方が気付いておられない由緒ある「大位牌」を主題にお話して、ご一緒に一遍さんのご生誕をお祝い申し上げたいと思います。
第四十三章 松山中学校外人英語教師の来歴 〜ノイス、ターナー、ホーキンス、ジョンソン〜
 夏目金之助(漱石)赴任前に松山中学校で教鞭をとった外人英語教師四名とは、ノイス(Noyes)、ターナー(Turner)、ホーキンス(Hawkins)、ジョンソン(Johnson)である。明治二六年に松山中学校を卒業し、松山方言二五〇〇個を収録した『伊予松山方言集』を著述した岡野久胤が「回想記」に次のように書き残してくれている。初代ノイス(Noyes,)は偉丈夫で、いつもハンチングをかぶって授業をしていた。二人目ターナー(Turner)は長身で・・・・・
第四十四章 三好一族と堺幕府
 平成21年5月、堺市が「三好一族と堺幕府 堺を拠点に天下取りをした戦国武将がいた!」をテーマに大々的なイベントを開催した。在阪の長男と一遍会会員の三好晶子さんからパンフレットと細部情報を流してくれた。これを機会に「伊予の三好一族」を調査したいと考え、まずは堺に向けて出立した。
第四十五章 漱石に先行する松山中学校外国人教師の来歴  〜ノイス、ターナー、ホーキンス、ジョンソン〜
 信頼に足る資料としては、県立松山中学校同窓会誌『保恵會誌特別號』(昭和一三年十二月号)が挙げられる。第一期(明治二六年卒業)の岡野久胤、第三期の山本信博らがノイス、ターナー、ホーキンス、ジョンソン四教師の授業振りを詳細に記録している。本論では、ノイス、ターナー、ホーキンス、ジョンソンの来歴を中心に、青い目の『坊っちやん』教師像を描いていきたい。
第四十六章 伊予三好氏の来歴  〜三好長門守秀吉を軸にして〜  三好文書(湯山村公用書)添付
 2014年4月14日、三好長門守秀吉の居城が在り、長子・蔵人秀勝の大蛇銃殺の伝承が残る奥道後観光ホテルで「第1回 伊予三好会」が開催された。記念講演は@阿波三好長慶会代表の出水康生氏とA長門守秀吉の17代目に当たる老生(三好恭治)が担当した。今後も続けられるかどうか・・・
第四十七章 遊行上人の伊予回国〜聖と俗の狭間で〜  
 一遍時衆を特徴づける行動様式は「遊行」であり、遊行を通して「賦算」(「南無阿弥陀仏」札)と「踊念仏」による念仏布教をおこなった。遊行は「旅衣木乃祢可やのねい徒具に閑身能すてら禮ぬところあるべ幾」(宝厳寺 一遍上人歌碑)の苦難の日々であり、一遍と後継者たちを「遊行上人」と呼び、時宗本山「藤沢山無量光院 清浄光寺」を「遊行寺」、時宗は別名「遊行宗」とも呼ばれている。
第四十八章 漱石の月俸八十円の「真実」 〜外国人英語教師並みの待遇か〜
 漱石は、明治二八年四月十日付で「愛媛県尋常中学校教員ヲ嘱託ス 月俸金八拾円給与」を発令された。校長の月俸が六〇円であり新任教員としては破格の待遇と地元では受け取られた。『海南新聞』明治二八年四月一一日付)では「本県尋常中英語教師には文学士を聘する筈にて過般来適当の人を捜索したるに同校既定の給与にては適当の人を得難きがため、他の項より流用してなりとも八〇円を出さば英語を専修せし文学士にして且つ教育の経験もある人を得らるゝよしにて終に雇入れに定まりしなりと聞く」と報じている。尚、漱石は翌明治二八年四月一〇日付で解職となり第五高等学校教授となった。
第四十九章 道後学序説 〜景観と文化 (道後八景十六谷) 
 平成24年7月26日、松山観光ボランティアガイドの会に招かれて「景観と文化〜道後八景十六谷〜」のテーマで講演した。67年前の昭和20年(1935)7月26日の夜、松山大空襲で市内は灰燼に帰した。松山のご城下から明治の名残(景観)は一晩で消滅してしまった。幸い道後は戦災からは免れたが、高度成長期までは残っていた農村風景(景観)は消えうせ都市化が進んだ。
第五十章 当麻山無量光寺と「麻山集」〜もうひとつの一遍・遊行上人物語〜
 時宗教団の歴史は、「遊行派」の歴史である。敗者である「当麻派」(当麻山無量光寺)や奥谷派(豊国山宝厳寺)に伝来する文書・系譜には事実・真実が描かれていないのか。
創始者   一遍(非定住) 「一遍聖絵」(聖戒)・・・・一遍と聖戒の「正当性」
後継者   真教(無量光寺)「一遍上人絵伝」(真教)・・一遍と真教の「正当性」
中興の祖  呑海(清浄光寺)「遊行上人 他阿」・・・二祖真教と呑海の「正当性」 
第五十一章 湧ヶ淵蛇骨伝承と伊予史談会と・・・
 戦前のことである。元湯山村の三好宗家(断絶)から托された蛇骨は家の神棚に祭ってあった。一度だけ父が箱を開けて奇妙な骨を見せてくれた。箱を振るとかたことと音をたてた。その後この蛇骨は奥道後温泉の守護神として園内の高台に在る「龍姫殿」に安置され、毎年八月に法要が営まれている。蛇骨のほかに系図や刀剣、古文書も托され、現在は湯山町食場の宗家跡で縁者が大切に保管している。
第五十二章 明治二十五年八月のMATSU〜子規・漱石・ホーキンス〜
 明治二五年八月下旬、ひとりのアメリカ人青年が松山で旅装を解いた。ボストンYMCAから派遣されたこの青年は、同年九月から愛媛県尋常中学校(以後県尋常中学校という)で英語の教鞭を取ることになる。たまたまこの時期に、正岡常規(一八六七〜一九〇二 以後子規という)は帰省し、夏目金之助(一八六七〜一九一六 以後漱石という)は子規を訪ねて松山に来ていた。青年の名はホーキンスという。
第五十三章 宝厳寺本堂炎上す  〜在りし寺の記憶の継承の試み〜
平成二五(二〇一三)年八月十日午後二時一〇分頃、江戸時代建立の時宗の古刹である護国山宝厳寺の本堂から出火、棟続きの住職住居の庫裏にも延焼し、木造平屋計二七〇平方メートルを全焼した。 本堂内に安置されていた江戸期の「木造弥陀三尊」や鎌倉時代制作の国重要文化財「木造一遍上人立像」、一遍の祖父(通信)・父(通広)・伯父(得能通俊)夫妻の「大位牌」のほか、庫裏に保管されていた貴重な「河野家系図」等の寺宝がことごとく焼失した。
第五十四章  「一遍会史」の試み@ 〜黎明期〜 相原熊太郎・北川淳一郎・佐々木安隆の時代
一遍会(一遍上人奉賛会)は昭和四五年(1970)一月二三日、第一回例会を「一遍堂」にて開催した。平成二五年(2013)一〇月十二日、第五〇〇回例会を「道後公民館(視聴覚教室)にて開催することができた。平成二七年(2015)には一遍会創立四五周年を迎えるに当り「一遍会(略)史」を取りまとめて創立五〇周年への足固めをし、先達への心からの謝意を表するとともに、次世代の会員への橋渡しをしたいと願う。半世紀にわたり、縁あって一遍会に集い、事情あって離れていかれた数多くの会員の方々の有縁無縁のご支援に心から感謝申し上げる次第である。
第五十五章 道後村の庄屋に暮らす  『道後で暮らす語り部の記憶』(伊佐爾波如矢顕彰実行委員会 編集) 
昭和10年(1935)生まれだから、今年「傘寿」(数え年八十才)を迎える。知友の二神将さん(伊予史談会監事)から、松山市が古老から昔話を聞いてとりまとめたいということなので三好さんを推薦した。よろしくお願いしたいということだった。おおよそ昭和の時代(戦前)の道後というイメージになろうか。後日、冊子として公刊される予定である。
第五十六章 『一遍会史』の試みA 〜誕生期〜  浅山圓祥師と門弟の時代 ― 足助威男、古川雅山、越智通敏 &新田兼市(一遍堂)       
昭和五三年(1978)三月十一日開催の第七三回例会で「一遍上人奉賛会規約」(昭和四五年八月二三日成立、昭和五〇年八月三〇日改正)を「一遍会」と改称し、会則を全面的に改正した。一遍会の母胎である「一遍上人奉賛会」の歴史から論述する。
第五十七章  『一遍会史』の試みB 〜発展期〜   越智通敏と同志と町衆の時代 
一遍上人会の精神的指導者でありカリスマでもあった浅山圓祥師遷化(昭和51年9月7日)は、一遍会並びに一遍会会員にとって大ショックであった。幸い、佐々木安隆会長が健在で、浅山圓祥師の教え子であった足助威男、古川雅山、越智通敏と新田兼市(一遍堂)が一遍会運営の重責が引き継いだ。
直後の混乱はあったが、昭和52年5月の第63回例会から53年2月の第72回例会まで10回にわたる越智通敏の「一遍遺跡探訪報告」シリーズにより一遍会の方向付けが決まった。
第五十八章 明治・大正期の宝厳寺学僧 橘恵勝について 
第五十九章 伊予三好家 諸系譜 調査&研究
第六十章 一遍上人の法歌  ―捨 ・ 遊 ・ 念 ―   付 「歌のひじり 一遍  全百首」
一遍(以下一遍と表記する)の遺した法歌は、九八首(または百首)あり、うち二首(または四首)勅撰和歌集「玉葉集」に撰ばれている。一遍の後継者(二祖)である他阿真教は「読み人知らず」として、法弟である聖戒は「聖戒法師」として各一首選ばれている。聖戒が編した『一遍聖絵』には六十首の和歌がり、うち五二首は一遍の歌である。他阿真教が『一遍聖絵』制作に当たり聖戒に協力したとも云われている。