第四十六章 伊予三好氏の来歴  〜三好長門守秀吉を軸にして〜
はじめに
   伊予の「みよし」さん
【雑録】 『愛媛の苗字』河田重政著 (平成13年)
◎愛媛県下の苗字ベスト20
@高橋 A村上 B山本 C越智 D渡部 E渡辺 F松本 E田中 H伊藤 I井上 
J矢野 K近藤 L石川 M白石 N大西 O藤田 P河野 Q三好 R二宮 S岡田
◎愛媛県下「みよし」さん分布状況
三 由 松山 1地区
三 吉 宇摩 新居浜 松山 3地区
三 好 宇摩 新居浜 今治 松山 伊予 上浮穴 大洲 八幡浜 東宇和 宇和島 南宇和 11地区
三 善 八幡浜 宇和島 2地区
◎市町村別苗字ベスト5中の三好さん
  松前町 148A 三瓶町 154B 宇和町 164B    松山市 約600
【史料】『伊予の姓氏』(愛媛文化双書33) 村上順市編
  三善 ミヨシ
    宇和郡吉田八幡宮の徳治二年九月寄進状に「右馬助三善朝臣散位」と載せている。
   トポス(時と場の記憶)としての「食場(じきば)」
   (略)
1、 三好長門守秀吉の事績
資料@ 三好氏祖霊碑    食場三好氏墓地建立
資料A 源姓三好氏系図  東京大学史料編纂所蔵
資料B 三好秀吉の記憶 『湯山誌稿』(1959)
資料C 湯山 三好家 『松山叢談第四 天鏡院殿定長公』
2、 湧ヶ淵の大蛇
資料D 湧ヶ淵大蛇伝承 『松山叢談第四 天鏡院殿定長公』
資料E 湧ヶ淵 美女に化身の大蛇伝説 朝日新聞(2011.8.23)
3、 伊予・温泉郡の三好氏
資料F 湯山(食場)三好氏 略年表 miyoshik作成
資料G 松山藩庄屋名簿   『松山領里正鑑』(1904)
資料H 湯山村歴史地図 miyoshik作成
おわりに
与えるというものではないが、人にぜひ話しておかねばならぬ大切な預かりものが自分の内にある。   シモーム・ヴェイユ(1909〜1943)
(注)資料はすべて愛媛県立図書館所蔵。
資料@ 三好氏祖霊碑  
三 好 氏 祖 霊 碑
              正四位勲三等 巌谷修書
食場三好氏出於小笠原信濃守義長姓源氏食阿波三好荘同氏
焉後裔長門守秀吉仕伊豫河野通直食湯山地千二百六十石居
菊森城援東都神途城有功加賜右手地五百石又夷新居凶徒賜
功状其子蔵人助秀勝驍勇絶倫神途新居之役輿有力焉天正中
父子従河野氏奔安芸既而秀吉卒秀勝帰伊豫遊事于某氏食大
洲地三百五十石後隠食墳湧淵有大蛇秀勝銃斃之遺骨在家元
和八年壬戌七月廿六日卒佛諡月窓休西由秀吉而上墳墓不詳
十二世孫保正建石欲合祭祖霊不果而没子秀保始能継遺志言
明治廿七年五月            近藤元脩撰
             先考七回忌 辰男観次郎秀保建
三 好 氏 祖 霊 碑
           正四位勲三等 巌谷修書
 食場三好氏ハ小笠原信濃守義長ニ於イテ出ズ。姓ハ源氏阿波三好荘ヲ食ム。同氏焉ンデ後裔長門守秀吉(為勝)ハ伊豫河野通直(牛福丸)ニ仕へ湯山地壱千弐百六拾石ヲ食ム。菊森城ニ居シ東郡神途城ヲ援ケテ功有リ。石手地五百石ノ加賜アリ。又新居ノ凶徒ヲ夷シ功状賜フ。
 其子蔵人助秀勝ハ驍勇絶倫ニテ神途新居之役輿ニ有力ナリ焉。天正中ニ父子河野氏ニ従ヒ安芸ニ奔ス。既ニ而テ秀吉卒シ秀勝伊豫ニ帰リ事ニ遊ブ于。某氏大洲地三百五十石ヲ食ム。後、食場湧淵ニ隠ス。大蛇有り秀勝銃ニテ之ヲ斃ス.遺骨家ニ在リ。元和八年壬戌七月二六日卒ス。佛諡月窓休西由秀吉。
而上ニ墳墓不詳。十二世子孫保正石ヲ建テ祖霊ノ合祭ヲ欲スモ果サズ而シテ没ス。秀保始メテ能ク遺志言ヲ継グ。
    明治廿七年五月                             近藤元脩撰ス。
     先考(亡父)七回忌 辰男観次郎秀保建ツ。
(注)巌谷一六1834〜1905(天保5〜明治38)
明治時代の書家。生/滋賀県 名 修 字は誠郷、別号に舌梅,金索道人。家は代々藩医。父の死後京都に出て,医術,書,漢学を学び,21歳の時帰郷し家業を継ぐ。明治初年,新政府の官僚となり,明治24年(1891)貴族院議員。書ははじめ中澤雪城に魔なんだが、のち楊守敬の来日に際しその影響を受け日下部鳴我らとともに魏・晋・唐の書法を究めた。その書は精緻をきわめ,一派をなした。
(注)近藤南洋1839〜1901(天保10〜明治34)
松山の藩士、近藤名州の長男。名は元脩(もとなが)松山に生れ、少壮のとき江戸に出でて昌平黌に学び、帰って藩学明教館の教授となり、廃藩後は戦前の大街道二丁目新栄座の所に私塾を開いて青年子弟を教育した。令名高く、来り学ぶものが多かった。明治34年4月没す。次弟近藤元弘は父名州を継いで「六行舎」に教授し晩年は松山中学に教鞭を執った。末弟元粋と共に「近藤三兄弟」と称された。
資料A「源姓三好氏系図」 「三好文書」(東京大学史料編纂書蔵) 原本は三好某氏所蔵
清和天皇―貞純親王―経基―満仲―頼信―頼義―義光―義清―長清―長輝―長基―長慶―義継―政勝―之勝―秀吉(為勝)
(注)松山藩公式記録である「松山叢談」では秀吉(為勝)を長慶孫としている。
長 清
小笠原左京太夫従四位下相模守又信濃守字承久乱後阿波守護賜
長 慶
三好修理太夫 始者筑前守 四国畿内南海之近国執兵権二十五年河州居飯森城
義 継
三好左京太夫 四国畿内南海之近国執兵権五ヶ年永禄八年丑五月十九日将軍義輝ヲ計●鬱憤是ヨリ以後執兵権四ヶ年都合九ヶ年執兵家老中多羅尾常陸守嫡子玄蕃守生田丹後守野間佐吉依逆心河州於若江城天承元年酉十一月十六日自害
政 勝
三好下野守 始者右衛門太夫春之 清翁京渭大居士 生年未也  永禄八年丑五月十九日将軍義輝ヲ討而執兵権 其後同十二年巳正月十三日率軍勢入洛 改義
之 勝
三好若狭守 ― 生年卯也 ― 始メ者下野守  範岳宗模居士
秀 吉
三好長門守(為勝) ― 秀勝蔵人之助 ― 法名月窓休西居士
此時豫州牢落河野道直公仕而為恩地湯之山千二百六十石領 東郡神途之城責落シ有武功為其賞石手郷五百石賜 天正年中河野没落之時共々牢浪ス時ニ蔵人秀勝喜多郡於大洲三百五十石領後有克又湯之山江帰住 元和八壬戌年文月二十六日卒
資料B 三好長門守秀吉の記憶
○三好長門守:御足軽大将十五人御足軽一組二十五人宛(「河野家分限録」) 
○菊ヶ森城跡:字食場。三好長門守秀吉居城跡<千二百六十石+五百石 湯山+石手>(「伊予温故録」)
○湯築城包囲:「垣生加賀守・三好長門守は追手を守り」(「河野家譜」)
○通直、竹原移住:譜代の将五〇余人中に「三好長門守秀吉・同蔵人助秀勝」(「河野家譜」)
○東郡神途の城責落:神途城(十二台城)<北條・猿川>は河野氏配下武士団の集結地点「伊予温故録」)
○八幡若宮神社:字玉谷。永禄年中(1558〜1570)、三好長門守、社殿を修補。
○円福寺:字藤野々。(天台宗常信寺末寺)新田義宗・義治此地で卒。永禄八年(1565)三好長門守寄進。
資料C 湯山 三好家  
長門守秀吉は三好修理太夫長慶の孫にて代々阿州居住の処、長宗我部元親に打負、豫州へ流浪し、河野通直に仕へ為恩地湯の山千二百六十石を領す。東郡神途の城責落とし武功あるに付、其賞として石手郷五百石賜り、天正年中河野家没落の時共に流浪す。時に蔵人之助秀勝喜多郡大洲において三百五十石領す。後有故又湯の山に帰住、子孫平民となり、同食場村に住す。
識者云 今三好源内と云伊豫志料にいへる半蔵の家なり。庭前に古城の山あり。古長門守守りし砦の跡なりとぞ。食場半蔵といへるは蔵人之助秀勝の孫新之丞といへるもの、加藤嘉明松山の城築かる時少年にて夫役に出相働、嘉明目に留り普請奉行足立半蔵(足立重信の通称は半助)の名を譲り養育可致との沙汰にて、夫より代々半蔵を名乗、半蔵の名高き故、蛇を打留しも世に半蔵と云へど、実は蔵人之助の打しなりとぞ。(『松山叢談第四 天鏡院殿定長公』)
修理太夫長慶――政勝――三好長門守秀吉(為勝・長勝)―蔵人之助秀勝(秀保)―春勝(四郎右衛門尉)―新之丞(半蔵)―以後「半蔵」を名乗る
(注)湧ケ淵三好秀保大蛇を斬るところ   蛇を斬った岩と聞けば淵寒し  漱石

(注)漱石の俳句前書きに記載された「三好秀保」は史資料では未確認。
資料D 湧ヶ淵大蛇伝承  
湧ヶ淵の妖怪先祖三好長門守秀吉長男蔵人之助秀勝元和年中打取申候、其節の次第、湧ヶ淵より夜毎容貌美麗の女姿にて湯の山往来へ出て通路不相成候処、蔵人之助儀剛毅の者にて殊に鉄砲の達人にて右聞及び湧ヶ淵に蛇住み候由に候へば决而是等の妖怪にも可有之何卒打留度存、夜々右場所へ出相待居候得共一向に出不申不審に存居候内、七夜目に彼女顕れ出候に付、如何なる者に候哉、此所へ出、諸人を悩し候に付覚悟可致と鉄砲を向候処、身は湧ヶ淵の住者なり。早々帰るべしと申に付、其侭鉄砲打掛候処俄に震動雷電し天も崩るゝ程の儀にて中々其場に罷在事難成其侭帰宅。翌朝湧ヶ淵へ罷越見届候へば大蛇を打留居候に付、家来共召連蛇躰取帰候由申伝候。尤今以右蛇骨家に相残居候。(『松山叢談第四 天鏡院殿定長公』)
資料E 湧ヶ淵 美女に化身の大蛇伝説 
  省略
資料F 湯山(食場)三好氏 略年表   
年号  西暦   三好氏の動向   周辺の動向
(阿波三好、備後三吉、京・鎌倉三善)
三好氏は南北朝時代(1336〜1392)からこの
地方にいた豪族で代々河野氏の家臣?
○長門守秀吉は三好長慶の孫にて代々阿州居住の処、長宗我部元親に打負、
豫州へ流浪
天正3年 1575 長宗我部元親、土佐統一し、阿波・伊予侵攻
長宗我部勢力圏(新居・宇摩郡/石川・金子両氏)
○長門守秀吉、伊豫河野通直に仕える(湯山地1,260石 菊森城)
○石手郷地頭職
○東郡神途城支援功有り石手地500石加賜
○新居の凶徒を夷し功状を賜う
天正13年 1585 小早川隆景、伊予侵攻。河野通直、湯築城を開いて降伏。
(伊予支配約2年)
天正15年 1587 ○父子河野通直に従い安芸に奔す
○三好長門守秀勝伊豫に帰る
○秀勝、喜多郡於大洲350石
福島正則が伊予国拝領、湯築城廃城
河野通直、安芸国竹原に移り、死去
小早川隆景、筑前・筑後37万石転封
○湯之山食場に帰住、隠棲(庄屋)
○「大蛇有り、蔵人秀勝銃ニテ之ヲ斃ス」(蛇骨は三好家に伝来するも現在は奥道後竜姫宮安置)
慶長7年 1602 ○湯山川(石手川)改修の功で秀勝孫新之丞、加藤嘉明から賞賛、
以後代々「半蔵」を名乗る。 加藤嘉明、松山城建設
元和8年 1622 ○三好蔵人秀勝没
寛永4年
〜11年
1627〜34 ○温泉郡大庄屋(温泉郡大庄屋「久左衛門」)
○「蒲生忠知分限帳」
延宝3年 1675 ○道後村(含持田・本村)分家(改庄屋)初代九郎衛門秀重による復旧 ○ 城下(松平氏)大洪水。高瀬舟で移動「松山叢談」
明治元年 1868 ○松山藩内38庄屋中三好氏庄屋7家湯山・高野・道後・持田・松末(居村辻村)沢村・辻村
資料G 松山藩庄屋名簿
区 分
石  高
村  名
氏 名
墓  所
1,261石2斗6升7合 食場村 里正 三好 観次郎 食場
304石0斗9升3合 高野村 里正 三好 為次郎 高野
1,021石8斗5升0合 道後村 里正 三好 文平 道後・義安寺
811石1斗6升4合 持田村 里正 三好 豊保 道後・義安寺
169石2斗0升0合 松末村 里正 三好 類五郎 不詳
399石2斗7升5合 沢村 里正 三好 禎次郎 不詳
370石2斗7升6合 辻村 里正 三好 馭之亮 不詳
7庄屋分 4,337石0斗6升5合
温泉郡
38ヵ村
21,795石9斗2升2合 郡比率
19.9%2.89%
松山藩比率
(注)旧食場・高野・道後・持田村庄屋の末裔の現住所は分かっています。旧松末・沢・辻村庄屋のご子孫は「愛媛県史」に記載されていますが現住所は不明です。「伊予三好会」発足にあたり、ご連絡をお待ちしています。
資料H 湯山村歴史地図  
  省略
【追記】20170812 森雅志手渡し資料
「道後三好家と食場三好家の関係」
1)食場三好家は「阿波の三好」の係累で、系図では確かめることができますが、歴史的な検証は目下出来ず。
(注)東京大学史料編纂所「源姓三好家系図」デジタル検索可能

2)食場三好家の祖は「三好長門守為勝(秀吉)」で、河野家文書にも記載があり、食場菊ヶ森城主として実在した。

3)松山藩主である加藤、松平に重用され、温泉郡(のちの久米郡は除く)では、江戸期を通して湯山(高野を含む)、道後(持田を含む)の庄屋として継承された。

4)江戸末期、食場三好家の「不祥事」により、道後三好家が「改庄屋」として食場村に入る。幕末には道後三好家の3兄弟により、湯山(長男 三好源内)、道後(次男 三好大平)、持田(三男 三好豊保)の庄屋職の任を果たす。 

5)食場三好家の庄屋を解かれた三好伴蔵は「隠居三好家」として庄屋屋敷(大きな杉の木があり、長い土塀が続く)に住む。この屋敷跡に「隠居三好家」が現在居住している。(伊予鉄バス「BS食場」前)。当主は「そごう」(大阪或は神戸)に勤務していた。現在は芦屋在住と思う。娘が食場に居住しており、食場「庄屋屋敷」の近所で確認されると娘さんの住居が分かると思う。墓は、「庄屋三好」と「隠居三好」ともう一つの「三好(章夫)」が並んでいる。信江氏の祖母は「隠居三好家」の出身かもしれない。

6)食場三好家と道後三好家の関係
@河野家の家臣で食場にある菊ヶ森城主「三好長門守為勝(秀吉)」が、河野家の消滅とともに食場に帰農。松山藩主である加藤公、松平(久松)公により温泉郡の庄屋の任を受ける。
A江戸期に入り、道後の再開発により、湯山に隠居中の「三好九郎右衛門秀重」が道後村の庄屋に任ぜられる。300年間両家の交流があり、江戸末期からは、藩命により「道後三好家」が改庄屋として「食場三好家」に入る。
B「食場三好家」は消滅したが、「隠居三好家」は存続し、庄屋屋敷に家屋がある。「隠居三好家」と「道後三好家」との交流(親戚付き合い)はない。
C個人的には「三好長門守為勝(秀吉)」を発祥とする「松山三好会」を結成したいものである。

7)徳島ご勤務となれば、系図では三好長門守為勝(秀吉)は阿波の三好長慶の孫(極めて疑問多く、不自然)にあたり、伊予三好氏は阿波三好氏の別れであるから、更にロマンが広がると愚考します。
『松山領里正鑑』手引き
◎「松山市史料集』第七巻近世編6
   リスト 502〜515頁
   解題 1260〜1268頁
 村 名  里 正 名   現 主 名   現 住 所                    備考                                                 
 食 場 三好 観次郎 天野 キセ 新居郡多喜浜村大字黒島3番戸 天野安 古文書は旧湯山村に寄贈。現在湯山支所所蔵。
 高 野 三好 為次郎 消息不明。
 道 後 三好 文平 道後町2丁目11−3 年貢取立帳が一冊ある。
 持 田 三好 豊保 岩崎町2丁目2−16 消息不明。
三好文書 紹介  県立図書館 古文書講座 テクスト
下し読文 湯山村公用書二十
左之通御沙汰有之候間、此段御承知可被成候、以上
一、御領分中罷在候、京都東本願寺末寺並
 門徒共改宗派捍之儀、毎年申来居候儀、
 今般右当宗分流四国東山従
 朝廷御沙汰之儀有之、御和親ニ相成候ニ付
 同末寺門徒共帰国改派等相応ニ候ニ付
 無之而既ニ宏右之門末共分其本山有之候分
 觸達ニおよひ候間、向後(筆写した部分を消去)
 子孫改流并改宗捍等之儀不申越候間右
 御上分申来候事、
     十二月十九日

天朝金札通用被、仰出候ニ付、正金同様取扱方之
御趣意、先達而相触候處、御領内分銭札通用も当
時迄之通被、成置、銀札場所御立置、時之相場
之算当ヲ以、御融通ニ随イ、出入引替可被仰付候間、
向後旅行通行宿件請拂ヲ始、賣事ニ而取引
致候向高、正金金札同様ニ相心得正路大切ニ取扱候様
被仰出候、
     十二月廿六日       三好孫四郎
現代文訳
左の通りお達しがあったので、この事をよく承知しておく事
1、ご領内にある京都東本願寺末寺並びに門徒共改宗
 改派の事、毎年要求してきたが、この度、当流分流の
 四国東山に従う。
 朝廷からご沙汰のあった和親になった同末寺、門徒共
 帰国して改宗改派の事、相応に引き受ける。
 宏右之門の末裔共は既に許されていない。
 それは、山を持っている事を知っているから。今後
 (筆写の部分 を抹消)
 子孫まで改宗改派は許されない。
 由来を申しあげる。
     12月19日
付属
天朝の金札を使うように仰せがあったので、金と同様に
通用させること。ご趣旨を先達てつたえたところ、領内の
銭札も通用する。銀札の続けることも、時の価値をもって
同じ様に計算して通用する。藩に貸した分も出し入れ
可能と仰せられた。今後、旅行や通行や宿賃の支払い
も、売買取引も金同様に使用して差し支えない。
藩札や天朝札を金と同様に、大切の取り扱う様にお命じ
になった。
     12月26日   三好孫四郎
下し読文 湯山村公用書十九
 相                郷夫差配方 壱人
 ?                郷 夫    弐百八拾六人
 御                浦水主    九人
 留主                〆 五百拾三人
 御警備御用相勤候奇特之至ニ付毟
 肴御酒被下置
右之通十二月廿二日、於御代官所御呼被仰渡、寅歳
御出勢御用ニ付御酒被下ハ人別御呼無之事、
 十二月十五日左之通被仰出
 元                三好平次兵衛
 揃方用掛差免
 宗                内藤友之進
 門下役差免
 元揃方用掛申付
 宗門               仙波政之丞
 下役申付
    〆
現代文訳 
18と同じ様に下し読文と同様

 業務に精出して年貢米を手っ取り早く納めたので、
 褒美としてお金を五百文下さる。
  中村の百姓 清左衛門
 業務に精出して、お年貢米を手取り早く納めた旨
 あい聞こえたので、ご褒美としてお金五百文下さる。
 下さる人々の役職と人数は下し読文と同じですので、
 参照してください。
                    以上
下し読文 湯山村公用書十八
     同 村
                無給
農                  九左衛門
業出精家内御敷、御年貢米手早相納
実意之趣相聞候ニ付、為御褒美鳥目五百文
被下
               生 村
                百姓
農                  清左衛門
業出精致、御年貢米手早相納実意之趣
相聞候ニ付、為褒美鳥目五百文被下
去々            大庄屋    三人
寅              改庄屋    弐人
歳             村々庄屋   三拾二人
御             社人      七人
出             新足軽     七拾六人
勢             郷足軽    拾三人
御             郷筒打    八拾人
用             鎌組      弐人
現代文訳
               同 村
               無給
農業                 九左衛門
業務に精出し家内むつまじく、年貢を手っ取り
早く納めたので、その趣がお上聞こえ、ご不備
としてお金五百文句下される。
               中 村
                百姓
農業                 清左衛門
業務に精出し、年貢米を手っ取り早く納めたので、
ご褒美としてお金五百文下さる
以下 下し文読の通り
下し読み文 湯山村公用書十七
湯之山村之内
                食場村
                先組頭
年                 源 七
来骨折相勤候ニ付、為御褒美鳥目壱メ文
被下
              同
               東川村
                五人組頭
農                友右衛門
業山機心掛宜家内睦敷御年貢米手早
相納実意之趣相聞候ニ付、為褒美鳥目
五百文被下、
             同
              青波村
                百姓
農                半兵衛
業山戒心掛宜家内睦敷、御年貢米手早
相納実意之趣相聞候ニ付、為御褒美鳥目
五百文被下、
             南 吉田村
              百姓又右衛門倅
孝                 米右衛門
養厚農業出精、御年貢米手早相納、実意
之趣相聞候ニ付、為御褒美鳥目壱メ文被下
現代文訳
 湯之山村之内
                   食場村
                   先組頭
年                   源 七
骨おり勤めたので、ご褒美としてお金を壱モン目
下さる。
                 同
                  東川村
                    五人組頭
農業                   友右衛門
山仕事の事をよく心がけ、家族あいむつましく
年貢米を手っ取りはやく納めたので、ご褒美と
してお金五百文を下さる。
                 同
                  青波村
百姓
農業                  半兵衛
山仕事によくはげみ、家族むつまじく
年貢米を手っ取り早く納めたので、ご褒美と
して、お金五百モン下さる。
                南吉田村
                 百姓又右衛門倅
孝                    米右衛門
農業によく精出して、お年貢米を手っ取り早く
納めたので、ご褒美としてお金壱モンメ下さる。
下し読み文  湯山村公用書十六
温泉郡
                      大庄屋
                       湯之山村
山                       三好源之進                       
分取締才許向行届揃候趣相聞候ニ付、為御褒美
格外ヲ以米五俵被下置
                    改庄屋格
                     中村庄屋
郡                     永木信左衛門
用才許出精相勤、養水増之儀不一方骨折井美
付養水廻宣十損之患無之様相成候段
全心掛厚故之儀ニ付、格外ヲ以帯刀御免御免
被仰付
                    同格
                     樽味村庄屋
郡                     野本武作
用材才許出精相勤候ニ付、為御褒美米
三俵被下              同格
右                    辻 村庄屋
同断御称美被成下             三好節次郎 
現代文訳 
温泉郡
                   大庄屋格
                    湯之山村
山                    三好源之進
取り締まりを許した行き届いた事がお上に
解かったのご褒美として、特別に米を5俵下さる。
                   改庄屋格
                    中村庄屋
郡                    永木信左衛門
才能を認め、精出して勤め、出水の折は一方ならず
骨をおり、水周りの損害を防いだ事はまったく心がけ
の厚い事故、例外として帯刀をお許しくださる。
                   同格
                    樽味村庄屋
郡                    野本武作
用材を願いでて使用し、精出して働いた故
語褒美t¥として、米3俵を下さる。  
                     同格
右                    辻 村庄屋
同じ様におほめ下さる。         三好節次郎
下し読み文  湯山村公用書十
當九月十二日於京都今般(明治元年)
御即位御大禮被為済、改元被仰出候ニ付而 者
天下大赦之儀従
太政官別紙之通被仰出候處、當正月
御元服之儀大禮被為済、目朝政御一新之
折柄大赦之儀も御布告有之、其砌御恭順
中ニ付、郷町之儀者土州藩ら赦免取斗有之候得共
猶手残之向も有之儀ニ付、御家中を始郷町共
當正月迄之内御咎相蒙り居候向大赦之儀
先達而 被仰出有之、尤春来之御場合、別而
御取斗之向も無之候得共、御限も有之儀ニ付、其
心得ヲ以、郡方之者共取閲申達候様、
  明治元年九月十二日
現代文訳
当9月12日(明治元年)京都において、御即位の
ご大礼が無事済み、改元もなされたので、
天下の大赦免の件が太政官から別紙の如く
通達されました。
当正月天皇陛下には御元服の大礼もお済み
なり、また朝政も一新された折から、さらに大
赦免もご布告がありました。
松山藩はそのみぎり、恭順中につき郡や町へ
土佐藩のご赦免の取り扱いがあるかも、なお
手残りがあるかもしれないが、ご家中を始め
郡や町共、当正月の内にお咎めがあるか否か
判明すると思われる。
もし、どうしても語赦免をお願いしたいのなら
期限も有る事なので、申し出る様に、その
心得を郡の者共へ申し聞きかす様に。
   明治元年9月12日
下し読み文  湯山村公用書十四
今般(明治元年)
御即位大禮被為済、改元被仰出候ニ付而 者
天下之罪人當九月八日迄ニ犯罪逆罪
放赦併犯状難差免者ヲ除之外ニ総而
減一等被赦候事。
   但、犯状難差免者者 府藩縣ヨリ
    口書ヲ以刑法官江 可何出事、
 九月
、が十二月廿日  御f触出ル
現代語訳
今度(明治元年)
御即位の大礼が御すみのゆえ、改元する
天下の罪人は今年の9月八日までに、
犯罪、逆罪(放免するのが難しい犯罪を
持つ者を除く)の罪1等を下げられる。
 但し、犯罪の酷い者は除く
 思い当たる者は口書を刑法官へ伺い
 でる事。
  9月
下し読み文  湯山村公用書十三
左之通被仰出候間、此段承知可被成候、以上、
 一、御家御紋梅輪内御絞ニ御復被遊候ニ付、諸番所併
 寺社江御寄付之御幕府桃灯共、早々為、
 引置可申候、尤委細之儀者追而御沙汰可相成候間
 ケ処品数御修復寺社鐘之分、取間早々
 可申達候、御修復御手当向等有之候ニ付、極早々
 申達可届
 此度               池内七左衛門
 神祇職              佐久九太夫
 取閲之儀被仰出候ニ付、右閲方御用被仰付
                   田内肥後守
 右        道後社    玉之井因幡守
 同断               鳥谷大和
 被仰出候ニ付右閲方     い余与郡西古泉
 御用引受被仰付        武智加賀守
      十二月六灯
          廻状七灯到来  三好孫四郎
現代文訳
左の如くお知らせがあったので、この事を知って置く事迥
 1.家紋(梅輪の絞り)は元に戻してよいから、諸番所
  寺社、幕府へ届ける桃提灯の紋
  寺の鐘の紋を元に回復する費用等は急なお知らせの
  為、その費用になどについては、早々に届ける様に
  この度            池内肥後守
  神祇職              佐久九太夫
 取閲之儀被仰出候ニ付、右閲方御用被仰付
                   田内肥後守
 右        道後社    玉之井因幡守
 同断               鳥谷大和
 被仰出候ニ付右閲方     い余与郡西古泉
 御用引受被仰付        武智加賀守
      十二月六灯
          廻状七灯到来  三好孫四郎
下し読み文  湯山村公用書十二
左之通御沙汰ニ付、入念御取閲今刻名前付
御差出可被成候、以上
 一、今般行政館分被仰出之儀有之、孝子義僕
 職業出精之者七十歳以上之者、旦火災水
 難ニ罷リ候者共、御?恤之御含有之候間
 郡方之者共、人別吟味いたし、早々可申達候
    但、人別年根方江能々引合差出候様、
 一、當春御国難ニ付、諸郡之者共御祈祷之御
 札守差出御受納ニ相成候處、向後者右
 以前之通由緒無之向者御受納無之候間
 其段兼而相心得可申克、
    十一月廿三日       白石傳之進
         廿四日夜到来
現代文訳
左の様に通知があったので、入念に調べて
 名前を書いて差し出す事。以上
 1.この度行政官から通達がり、
   孝行な下男
   70歳以上で仕事に精出している者
   火災や水難に合った者
   で、人別帳に有る者
 1.この春の国難につき、諸郡の者共で、
   ご祈祷やお守り札を受けたた者は
   以前の様に心がける事
     11月23日      白石傳之進
        24日夜回覧が着いた
下し文読み   湯山村公用書十一
左之通被仰出候間、此段御承知可被成候、以上
 先達而
 御寛典ヲ以蟄居被仰付、前主人定昭儀山
 陰荘江蟄居謹慎罷在候處、平生風疾之
 持病有之候上、此節脚気之疵相煩、右山陰湿
 地ニ罷在候而平癒之譯無覚束趣、医師供
 申出候得供、御償費中譬至死候共場所替
 等仕間敷旨、本人より申聞候處、家来共ニ仕候而
 何分難相安、殊ニ
 朝廷格別之 御仁恵ヲ以 御寛典
 被仰出候儀ニ付、為療養場所替候儀一應
 克訴仕度旨、国元重臣共々分申超候、尤場所之
 儀廓外ニ而相撰可申處處、何分相應之住所無御
 座候ニ付、廓内江転住蟄居厚謹慎候儀相成
 申間敷哉、此段奉伺候、以上、
                    御名内
   十月廿五日             遠山九郎
       弁事
         御役所
  御付紙
    願之趣承置?
 十一月十六日       白石傳之進
現代文訳
 左の様におっしゃられたので、この事を承知おいて下さい。以上
  せんだった
 ご寛容の心をもって蟄居をもうしつかった前の主人定昭へ山荘
 で住んでいたところ、前から通風の病が有ったが、今度さらに
 脚気も患った。山荘が湿気が多く、病気が平癒しそうにないので
 医師どもが申し出て、まだ借金が残っているといえでも、住所の
 住み替えをお願いした。殿様ご本人も困りのようだ。家来たちも
 気が気でない。
 ところが、朝廷より格別の思し召しがあり、病気療養の為、
 国許の重臣らの言う通り廓外に住所を探したが、適当な処がない
 ので、廓内に転住して蟄居謹慎をつづけことを許された。
 このことを報告する。  内緒に
 10月25日   遠山九郎
    弁事
  書付
    願いの事を承知した
 11月16日             白石傳之進
下し読み文  湯山村公用書十
明後十一日八十歳以上之者社。御酒御料理
被下、御代官様分御会釈有之候ニ付、左之通
 早朝相揃候侯様、尤倅孫等付添出候而も不苦、尚又
 當人得罷出不申候ハヽ、倅孫縁類之者供名代
 罷出取帰、頭載為致候様、御沙汰有之候間、此段
 御承知御申聞可被成候、以上、   松岡勘吾宅
                         湯ノ山村
                           拾壱人
  
 十一月八日           白石傳之進
一、従京都飛脚到来之儀、依御伺
殿様近々二之ノ御丸江 御転住御謹慎被遊候旨申
来候旨被仰出候、尤日合後分可被仰出旨
  十一月八日  白石傳之進
左之通被仰出候間、此段御承知可被成候、以上
一、殿様今十日七ツ時御供揃ニ 而二ノ而御丸江御
 転住御謹慎被遊候旨被仰出候、
   十一月十日        白石傳之進
           十三日村々組頭へ申遣ス             
現代文訳
 あさって11日で80歳以上の者には酒、料理
 を下さる。お代官さまからご挨拶があるので、
 左の通り早朝よりあいそろい孫もかまわないので
 揃えて届けるように。なお本人が出られない場合は
 孫や親類縁者の者供の代理でもよいから出かけて
 頂く様に。

 この様な通知があったので、この事をよく承知して、
 納得するように、 以上      松岡勘吾
                       湯野山村
                       11人
                以上
 11月8日    白石傳之進

1、京都より飛脚が来て知らせたところによると
 殿様は近々二の丸へお移りなり、ご謹慎なされる。
     11月8日  白石傳之進
 左の通りおおせいだされましたので、この事を承知
 しておく様に、以上

1、お殿様は10日7ツ刻に供揃して二の丸へ移住なされ
 ご謹慎なされる様おっしゃれた。

 11月10日   白石傳之進
   13日 村々組頭へ通達する   
下し読み文  湯山村公用書九
左之通被仰出候間、不洩様御申触可被成候以上。
 一今般厚キ 思召ヲ以世上為融通、金札通用被仰出候処
 諸藩之内未タ通用不被向も有之趣相聞、以之事ニ候、
 皇国一円圓圓通用の儀ニ付、藩ニおゐても追々相当之拝借
 仕なから、不通用向有之儀而者全く 朝命ヲ拒候筋ニ
 相当候ニ付、向後右様不心得之向於有之ハ、吃度御沙汰之次第
 モ可有之候条、兼而被出候通、正金同様様令通用候様、僻邑遊
 隊ニ至る迄、速ニ可相達旨被仰出候事、
    十月                    行政官

今般厚き  思召ヲ以、世下通用のため金札通用被仰出
 候処、間々不心得ニて彼是と申難し通用を妨ケ奸局曲之処行
 セしめ候もの有之哉ニ相聞以之外事ニ付、府県おゐて
 厳重可遂詮議、右様不心得之ものニおゐてハ早速召捕
 可遂吟味候事、
    十月
    〆
  十一月七日          白石傳之進
      八日夜廻状到来
現代文訳
 次の様にお知らせがあったので、漏れのないに伝言する様に。
 ひとつ、このたびとく別の思し召しをもって、藩内で使われている
 金札について、他の藩ではまだ通用していないところもあるというが、
 驚くべき事である。皇国において広く通用する事、当藩においても
 過去において相当は借金があったが、通用しないという事はない。
 新しく出来た国の命令を拒否する様な不心得のある者は、調べて
 お叱りがあると思われるので、かねて通知している通り、金も藩札も
 同様に使えるので、通知があるまで安心して使用する様に。
    10月  行政官 

 今度厚き思し召しをもって、世間に通用させるたに金札をつくったが
 不心得の者があれこれと言って、通用を妨げいるているという事だが、
 府県においても厳重に調査のうえ、そのような不心者は直ぐに逮捕し
 取調べをする。
    10月         行政官
                              以上
 11月7日    白石傳之進
            8日夜廻状到来