第四十三章 松山中学校外人英語教師の来歴 〜ノイス、ターナー、ホーキンス、ジョンソン〜
 
 平成二二年(2010)七月、萬翠荘(県美術館分館)の山手にある「愚陀仏庵」が土砂崩れで崩壊した。愚陀仏庵は明治二八年夏目金之助(漱石)が松山中学校の英語教師として赴任時の下宿先であり、正岡子規とに七五日間の共同生活したことでも著名である。もう一つ、萬翠荘から「坂の上の雲ミュージアム」に下る道筋に「愛松亭」跡があり、漱石が松山に着任直後に「木戸屋旅館」から移った最初の下宿先である。愛松亭には漱石の前任カメロン・ジョンソン氏(アメリカンボード派遣宣教師)が住んでいた。松山中学校(正確には愛媛県尋常中学校)にはジョンソンを含めて四名の外人教師がいたが、今日では完全に忘れられた存在であるので一文を草した次第である。
漱石赴任前に松山中学校で教鞭をとった外人英語教師四名とは、ノイス(Noyes)、ターナー(Turner)、ホーキンス(Hawkins)、ジョンソン(Johnson)である。明治二六年に松山中学校を卒業し、松山方言二五〇〇個を収録した『伊予松山方言集』を著述した岡野久胤が「回想記」に次のように書き残してくれている。
初代ノイス(Noyes,)は偉丈夫で、いつもハンチングをかぶって授業をしていた。二人目ターナー(Turner)は長身で、絹のハンカチを胸からとり出すたびに、いいにおいが教室内にただよった。三人目ホーキンス(Hawkins)は謹厳寡黙の紳士で、最初から仕舞いまで流暢な英語でペラペラペラ。四人目ジョンソン(Johnson)は生徒のため「バイブルクラス」を組織し、生徒の語学力はにわかに進んだ。云々
ノイスのフルネイムは「Noyes, William H.」である。高浜虚子の『自伝』にノイスの授業風景の記述がある。虚子は明治二五年卒業である。
「その頃ノイスといふアメリカの教師が来まして、会話を教へました。ホワット・イズ・ジスと指を示す。ザット・イズ・エ・フィンガーと答へるやうなことから始めまして、会話を進めて行きました。そのノイスもマイ・ボーイ・カム・ヒヤと私を呼んで教壇に立たせまして、ノイスの代わりにホワット・イズ・ジスと指を示して、他の生徒にザット・イズ・エ・フィンガーと答へさせたりしました。」
ノイスは文久二年(1862)宣教師の父の赴任地クルドで出生、米国アーマスト大学を卒業後ユニオン神学校で学び、アメリカンボードとして来日する。明治二二年から二四年初めまで松山に在住、松山女学校(現・東雲学園)、松山夜学校(現・城南高等学校)と伊予尋常中学校(現・松山東高等学校)で教鞭をとっている。その後前橋の共愛女学校に移り、明治三〇年に帰米している。アメリカではニューヨーク州教育局の重要な地位に着いている。昭和四年(1928)永眠。
二代目のターナー(Turner, William Patillo)はエモリー大学出身でYMCA英語教師として明治二三(一八九〇)年に来日し、初任地が伊予尋常中学校であった。松山中学校から同志社中学校に移り、のちメソジスト教会宣教師として宇和島に来る。J・B・ランバスが明治二〇年(1887)宇和島の本町一丁目に開設した「宇和島美以教会」にターナーが一時保育所を開設し、大正六(1917)には正式にターナー記念鶴城保育園として設立認可を受けている。第六回卒園児二〇名の一人として西山都留子(映画女優 轟夕起子)が記されている。懐かしい女優である。神戸市再度山修法ケ原外人墓地に墓があり明治四五年(1912)死去している。宇和島や松山における宣教師としての活動は割愛する。
三代目のホーキンス(Hawkins)はメソジスト教会系の伝道師でデュークス伝道師とともに、明治二二年以降松山番町教会を拠点として活動した。『来日メソジスト宣教師事典』に同氏の記載がないのでフルネイムを特定できない。松山は、同じプロテスタントのアメリカンボード(組合教会)が明治一八(1885)松山教会を設立、今治・西条・小松・古町・郡中教会を併せ一大勢力であったので、メソジスト教会は南予(宇和島・八幡浜・卯之町)の布教に精力的に取り組んでいる。ホーキンスの松山での活動は目下調査中である。
 四人目のカメロン・ジョンソン(Johnson,Cameron)はアメリカ・ミシシッピー州出身でユニオン神学校を出て「アメリカン・ボード」宣教師となり、明治二六年三月から翌二七年六月まで同志社普通高校(中学校)で教鞭をとり、その後愛媛県尋常中学校に転任し一年間就職している。退職した後、アフリカを訪遊し、アメリカに帰った。同志社の教え子に漱石と共に英語教師として赴任した弘中又一がいる。彼は小説『坊っちやん』の主人公「坊っちやん」のモデルとされている。カメロン・ジョンソンの松山での住所(寄宿先)は、後任の漱石も一時下宿した小料理屋「愛松亭」の二階である。建物は松山藩の家老であった菅家の中間部屋を増改築したもので、独身か妻帯か不明であるが、食事は小料理屋で手配したのであろう。所有者は津田安五郎(「津田安」という骨董屋)である。『愛媛県百科事典』によれば、愛松亭は「万翠荘」(元松山藩主久松家別邸)建設時に取り壊された。正岡子規宛漱石書簡に「小生宿所は裁判所の裏の山の中腹にて眺望絶佳の別天地」と大いに気に入っているが、家賃が高いので、松山市二番町にあった上野義方邸の離れ「愚陀仏庵」に引っ越した 。
ところで漱石の給料が米人教師C・ジョンソンの給与を同額との通説があるが、C・ジョンソンの給与は一五〇円(一説では一二〇円)で漱石は半額強の八〇円である。ちなみに校長・住田昇は六〇円(東京高師)、首席教諭・西川忠太郎は四〇円(札幌農学校)、教頭・横地石太郎は八〇円(東京帝大)であり、給与は出身大学ランク(帝大・高等師範・私大・検定など)が厳格に適用されていた。漱石は帝大出身であるから八〇円であって、外人教師枠の査定ではあるまい。小学教員初任給は一〇〜一三円、巡査初任給は九円の時代だから、「嫁にやるなら学士様」で松山ご城下で漱石先生の嫁探しが話題になったのは当然といえば当然であったろう。
 漱石先生以降、外人英語教師が途切れたが、明治三九年にはブランド(Brand)、大正十二年にはアレキサンダー(Alexander)が一年間英語の教鞭をとっている。外人英語教師は松山中学の学生に自由を尊重するアメリカ文化を伝えてくれたのか、それとも仇花だったのか、昭和二桁生まれの後期高齢者新入りの老生には判りかねる次第である。 以上
(注) 詳論については、『子規会誌』第128号に掲載予定である。ノイス(Noyes)、ターナー(Turner)、ホーキンス(Hawkins)、ジョンソン(Johnson)に関する先行論文は管見では閲読していない。明治期の外人教師についてご関心のある方は、ぜひご教示いただきたい。