第五十五章  道後村の庄屋に暮らす  『道後で暮らす語り部の記憶』(伊佐爾波如矢顕彰実行委員会 編集) 
一、 道後村の頃の、周辺の雰囲気はどのようなものでしたか。
  この家は江戸時代の道後村の庄屋なんです。道後湯之町とここ道後と樋又と清水町の方、それから一万町、持田、岩崎町、そのあたりがいわゆる昔でいう温泉郡道後村なんです。ですからイメージとしますと、ご城下との境が砂土手で、東雲神社から下がって、測候所東を通って松山商業の裏を通っていくという、つきあたりが石手川の堤防で、あとは石手だけが河野の時代から特別の庇護を受けて、別格になっていました。そこから西の一帯が道後村で、それから西の方の境界は味酒村のイメージですね。
 江戸時代には、ご城下のすぐそばが洪水になった時は、村は水に浸かってもいいけど、ご城下は浸かってはいかんという義務があるわけですよね。殿の立場ですよ。砂土手からご城下に洪水を入れたらいかんのですね。砂土手はそういう役割も果たしていました。
 この家は江戸時代の道後村の庄屋なんです。道後湯之町とここ道後と樋又と清水町の方、それから一万町、持田、岩崎町、そのあたりがいわゆる昔でいう温泉郡道後村なんです。ですからイメージとしますと、ご城下との境が砂土手で、東雲神社から下がって、測候所東を通って松山商業の裏を通っていくという、つきあたりが石手川の堤防で、あとは石手だけが河野の時代から特別の庇護を受けて、別格になっていました。そこから西の一帯が道後村で、それから西の方の境界は味酒村のイメージですね。
 江戸時代には、ご城下のすぐそばが洪水になった時は、村は水に浸かってもいいけど、ご城下は浸かってはいかんという義務があるわけですよね。殿の立場ですよ。砂土手からご城下に洪水を入れたらいかんのですね。砂土手はそういう役割も果たしていました。
 この界隈、私の家、この庄屋の屋敷があって、そこから西は全部田んぼなんです。この西はほとんど農事試験場という用地になっていましたから、農地解放を免れまして、ずうっと田んぼのままで昭和40年ぐらいまであった。したがって全部農村地帯で、私の記憶では、田んぼと農事試験場の農場というかたちで、私の家の2階から見ると、練兵場、現在の愛媛大学あたりが見えて、そしてそこで12連隊の訓練なども見えたという記憶です。戦前の風景はこんな情景なんです。
そこに川が流れています。今は細い川ですけど、これが今市川なんです。この今市川の南が今市南で、反対が今市北、道後はここで分かれまして、その田園の向こうにあるのが今日でいう南町で、北にあるのが字が喜ぶ多いになっているんですけれども、要するに南町、北町(喜多町)。したがってちっぽけな川ですけどね歴史があります。子どもの時はどじょうとかなまずとか、蛍狩りなどもしましたんです。戦前の道後はこんなもんなんですよ。
道後のお話は、要するに湯治場ですからね。そこで私どもの家というのが、道後村の庄屋ですが、温泉郡の大庄屋格、大庄屋格というのは温泉郡の代表で、これは湯山の食場にある三好家、そこから松山藩に命ぜられて、松平(久松)が来てからここの開墾が進められた。加藤嘉明が松山城を築城した時の商人町には今市町だとか道後町〉というのが城北の方に名前としては残っている。したがって恐らく河野の城下町として繁栄した道後がさびれてしまったあとに、ここを純農村地帯にしていくというかたちの中で、庄屋として呼ばれたんだと思うんです。恐らく350年か400年ほど前にこちらに呼ばれて、ここで道後の村づくりを任命されたんだろうと思うんです。
 江戸の末期にできた道後村の地図というのは現在愛媛県歴史文化博物館のほうにあります。温泉場を中心に道後公園、湯築城、伊佐爾波神社。少し下って湯築城址がありまして、これはもう貧弱になりましたけれども、市穏軒。御出町の通りと続きます。すでにこの家は、庄屋宅として載っています。楠とありますがこの楠はまだ生きています。
 したがって、今環状線ができているところにある神社もあって、小さな八幡様の宇佐八幡宮。宇佐八幡宮から招いてきたといいます。伊佐爾波さんも八幡系ですけども、あんなふうに立派になったのは江戸も中期以降です。
二、三好家は、代々道後村の庄屋とお聞きしましたが。
 こういう古い家と近代化遺産が一緒に雑居している民家というのは非常に少ないのだそうですね。ちょうどこの母屋が250年ぐらいですか。250年の家屋と、近代的な家屋とが一緒に雑居しているということで、珍しいですね。
 250年前の建物の中に、一部屋だけ洋風を入れたというのは昭和初期の流行なんでしょうね。お客さん用の応接室ですが、しやれた設計を当時の棟梁がしたんだろうと思いますけども庄屋というのはあまり教科書にもでてきません。言葉としては、関東では名主ですけれども。
 三好系図によれば、湯山に菊ケ森という山がありまして、河野の時代には城がありした。その時代の伝説が湧ケ淵の大蛇退治。三好秀勝が大蛇を退治をするんですけども、その蛇骨は、私が子どもの時は神棚に飾っていました。奥道後ができるということで、坪内さんという方が非常に信心深い方で、奥道後のホテルと湧ヶ淵の安泰のためにその蛇骨をお祀りしたいということで、お譲りしまして今も奥道後の中に竜姫殿というお堂の中で祀っていただいております。毎年1回は会いに行っていますけど。そんなかたちで、これは松山の伝承です。この蛇は雌ですから、雌雄がどうしてわかったか知りませんけど、雄にあたる、兄にあたる蛇骨は石手寺の宝物館の中にありますので、恐らくそういう伝承があったんだろうと思っております。
 私どもの系図は、写しは東京大学の史料編纂所にありますが、それを筆写したのが現在、県立図書館の伊予史談文庫の中に「三好家伝来雑記下調」というかたちであります。
 江戸時代、久松家は松平ですから親藩です。外様の殿様が道後温泉に遊びに来た時は泊まりにくいんです。お茶屋に。それでどうするかということで、加藤公とか伊達公は私どもの家に泊まっています。伊達公はまじめだったんだろうと思うんですけども、加藤泰広公、新谷藩の加藤公は結構長逗留して、結構遊んだらしいですね。やっぱりお殿様でも公用金で遊ぶのは昔でも難しかったんですね。したがってそれを立て替えろというかたちで立て替えて、なかなか払ってもらえないというか、借用証が残つています。私のほうに現物がありますけど、写しは愛媛県歴史文化博物館のほうにあります。
 戦前は玄関周辺は全部土間だったんです。伊佐爾波神社に入る最後の御旅所だったです。戦前は、道後神輿も、ここで一晩か二晩おりました。誰もいない時に一人神輿で遊べたわけです。
三、戦前から戦後にかけてはどのように利用していたんでしょうか。
 昭和20年7月の空襲で松山が焼けまして、皆さんお困りになって、とりあえずはそのあとすぐに四国電力、当時の四国配電の本社事務部門が来ました。ここが社長室でした。それから当時ですから防空壕がこの庭に。そのあと、日本通運が入りました。そのあと、配給制度が厳しい頃、松商の野球部が甲子園に出ない地方大会の時は、私どものここで合宿してました。部屋は結構あるもんですから、こんなところで合宿をしておりました。
 たまたま家が古い庄屋で世間的な信用もあったと思いますけど、私邸でもありますけれども、同時に公的にも利用されたきらいがあるというかたちで、外様大名の宿所になったり、これは亡くなった宝巌寺の住職ともお話してたんですが、遊行上人が来られるんですけれども、宝巌寺もほとんど無人寺で荒れていましてね、遊行上人自身は石手寺に泊まられたと思うんですけれども、残りの方は恐らく私方でもお引受けしたのでしょう。遊行上人がお越しになると出迎えとか全部せんといかんもんですからその時には道後の代官と庄屋のほかにもう一人は金子さんといって明王院さんがされていました。もう金子さんはおばあさんが隠居されたから、ほとんど知った方はいらっしやらないと思います。円満寺さんにお墓があります。代官さんと明王院さんとそれから庄屋が責任者で、これは何か不出来があった時に切腹要員ですからね。
 そのほかに戦時中は、緊急の事務所として使われたり、松山連隊とか、飛行場建時の官舎ですね。今でいう社宅です。県庁や市役所というのはあるんでしょうけど、必ずしもそうではなくて、特に子どもさんと一緒に来た軍人さんなどは、やっぱり道後温泉はいいんでしょうかね。その頃はまだ幼稚園から小学校ですから、そこの子どもさんを通してしか知りませんが。そんなかたちで海軍、吉田浜ですか、要するに予科練です。海軍系は主計大尉でしたが、あの当時ですけど、木炭車じやなしにいるガソリン車で送り迎えしてました。それから陸軍の方は中尉でしたけれど、これは馬です。二等兵が来て、朝夕送り迎えでした。
 意外と利用価値があるようですが、私どもにとっては不便なんですよ。ご来客様にはいいんですけど。私どもが住む部屋はこちらの表側(南側)は使えませんからね。したがって裏側というか北側になって、どのような方がお越しになっても表では対応できるような造りになっています。今では旧庄屋で住んでいる入ってのは、渡部さんとこも無くなったし、もうないんですよ。不便だからね。
四、幼少期の道後温泉の雰囲気はどのような感じでしたか。
 道後村ではみんなお風呂はなかったんです。道後村でお風呂、要するに五右衛門風呂の設置がなかった。ここは私も詳しくはわからないのですが、道後に水道ができたのが昭和11年なんですよ。したがってそれより前というのは、皆さん井戸なんですよ。今の道後中学のあたりが貯水池でした。
 それから伊佐爾波神社の上に配水管がありまして、そこから水道を落としていたんですけれども、それが昭和11年、ちょうど私が生まれた頃。したがって、長老たちに聞いても、村の人はみんな道後温泉しかないんです。
 それと南町なんかに行くと、持田町もそうですが、銭湯が至るところというかありました。明治26,27年頃に道後温泉が近代化されましたけど、それ以前の段階というのはもっと誰でも入れる温泉だった。道後というのは不思議だけど薪を取る里山がないんですよ。炊事用の薪はあっても風呂まで回す薪まで手配するのは大変だったんだろうと。ご城下の人たちは薪がどうしても必要ですから、これは石手、湯山そのあたりから恐らく大量に運ばれた。また瀬戸風峠を通って五明からも運んできたようです。だから温泉にみんな行くしかなかったから行ったんだけど、生活必需の場所なんですよね。
湯治場と、もう一つ村人とか町の人の情報交換の場なんですよね。私の中学校、高校時代の話題に、財界のほうで南海放送の社長をしていた山中義貞さんの時代には、道後温泉本館の2階で朝湯会というのを開いて、情報交換で、インターネットはなくてもその日の皆さんのスケジュールとか、夜のミーティングとか、それが本館の2階の朝湯会で決まった。しやれていて健康的ですよ。
 西湯というのが道後村の温泉という意識なんです。本館というのはどちらかというとハレの日に行く温泉場でしたね。当時はそういう意味で地元の人が西湯と。ご接待として道後温泉というのはご城下の人とか、外から来られる方をお招きするお湯という意識があったんではないかと思います。
 今は椿湯に週4〜5回出掛けております。したがって会う人が大体決まっていまして、それが一種のサミットになって、あらゆるものの情報がお風呂場で聞けます。昨日あたりは、私が主役で宝厳寺さんの新しい住職はどういう人かとか、そういう質問攻めです。私が道後温泉で学んだのは、入浴マナーというか、これはやっぱり道後温泉が教えてくれた。とにかく老若男女がいるわけですから。騒いだらいかんとか。あの当時は子どもは親父さんの背中を流すとか、それは親孝行ではないですよ。そういうもんだという、そういうものが、あらゆるものが温泉場の中にあったわけだよね。それともう一つ、これは男尊女卑とかと関係なしに、男と女を意識した。一緒に入れませんからね。母親と行っても一人で小さくとも入浴するという意味で、恰好良く言うと自立意識、そんな大げさじやないですよ、やっぱり一つの社会的なルールを教えてもらったし、腰湯の仕方も教えてもらったし、あるいは当時は湯滝のころ並んでいたんです。ずっと肩打たせるのに。そうすると大体10人ぐらい並んでいますから、かなりうだるわけですけど、そういう順番でせんといかんとかいうようなものは確 実に教わる。しかもそれを違反する大人もいるということもわかりましたし、そんな中で、社会勉強というか、学校の授業以外の授業というのを教わったなあという感じがします。
五、道後駅前の風景はどんな感じでしたか。
夏場は、子どもの時は庭にたらいを置いて、夕方には熱くなっていますから。それに2、3回入ってお風呂がわりにしていたので、あんまり温泉には行かないですよね。親が行くって時には行きますけど。つてのは、出店が出た時に買ってもらわないといかんので。夜店ね。 縄張りっちゅうのが小学校でもありまして、怖いんですよ。岩崎町、南町の界隈、石手のほう、祝谷とか、それぞれ悪ガキがおるわけですよ。したがって、その当時はかなり警戒して歩いたもんです。親と一緒だとかは別に心配はいらんのです。湯之町も私どもの縄張りじやないもんですから、一人で行くということはあまりありませんでした。
 放生池の周辺は、道後駅のすぐ前のところが人力車の溜まり場で、あそこから人力車でみんな乗っていました。大体人力車夫とあとは将棋を打っている人とか、そういうイメージがあります。それから昭和20年頃に、あそこでアイスキャンディーが出た。その界隈に夜店もあったわけです。あの当時はアイスキャンディーなんですね。それでアイスクリームを食べるためには、大街道のロンドン屋まで行かんといかなかったですよ。
 あのあたりにパンチというお米を膨らませたお菓子などあらゆるものを売っていました。物心がついたらそこが原商店だということがわかりました。それから配給は、若原商店と言いまして、道後駅の真正面のところが若原さんのお店で、そこが道後のいろんな配給店です。当時はね。いろんな物資があったでしょう。味噌、醤油からお米が全部ここに並びました。ずらっと並ぶもんですから、私らもみんなそこに並ばされるわけですよ。だから母親が来る前に順番が来たら困るんですよ。何で並んでいるかわからんけど、順番を取らないといけませんから。
 古い方に聞かれればわかると思いますが、雀荘に「桃源」つてのがありました。1階が喫茶店で、2階が「桃源」という雀荘、そこで親父たちが麻雀をやったりしてました。呼びに行きました。それから路地にあったおいしかった「寿司一」ですね。
六、その他、記憶にある道後の風景や話題になった出来事はありますか。
 伊予鉄さんがやっていた大きな道後グランドには、野球場があったり競技場があったり、関西一の飛び込み台があったり、いうようなものがありました。昭和20年か21年頃だと思うんですけど、かってのプロ野球の伊賀上さんとか、千葉茂さんとか、これ巨人軍ですよね。それから道後で尾茂田さん、これはセネタースだったと思います。この方はセンターでフライをグローブで取ってそのままでグローブでぽっとセカンドへ投げて。名人芸とか、そんな選手が来た思い出があります。
 それから秋祭りは今と変わりませんが、お旅所の最後は私どもの家だったものですから、そこでにきたつの酒樽を据えて、随分大勢の村の人が来て、騒いでいるのはよう知っているんです。最初にできた神輿は道後湯之町のベタ金です。ベタ金ができまして、道後村のほうが是非作ってもらいたいということもあって、それで次に道後神輿ができるんです。したがって、当然ですけども、ベタ金よりは大きいという要望で、湯之町よりは大きいのを作ったわけです。それ2つ作った時に溝辺からあれより大きいというかたちで、したがって湯之町神輿、道後神輿、溝辺神輿の順番に大きくなっていっているのはそういう理由です。
 それと今時ほとんど話題にならんですけど、ちんちん電車は男が徴兵されていましたから、運転手も車掌も女性でした。
 それから、おなぐさみはこのあたりは道後公園中心です。後に動物園とかプールができましたけど。正月はご存知の獅子舞だとかいろいろ来ていましたけど。道後でああいうのがなくなっちやつたんですよね。楽しめた動物園がね。湯築城址もいいですよ。それはいいんだけども、本当の意味で将来子どもを増やそうとしたら、子どもが楽しめる場所を道後に作らないとね。