第三十一章  トポスとしての道後・熟田津古道
 本論は平成19年2月17日開催された「伊予山の辺のみちを歩こう会」(代表 森亮一氏)が主催したギャラリートークの要旨である。会場は松山城ロープウエイ東雲口駅舎交流ホールで午後2時から約1時間、参加者は50数名であった。
1 はじめに
 「トポスとしての道後・熟田津古道」の話を進めるきっかけとして道後奥谷にある宝厳寺から始めたい。この寺は、時宗の開祖である一遍智真が誕生したとされる由緒ある寺である。一遍は1239に生まれ1289年51歳で亡くなった。遊行上人(遊行聖)として大隈国(鹿児島県)から陸奥(岩手県)まで賦算して歩いた鎌倉時代の仏教者である。元弘の役で活躍した武将河野道有とは従兄弟である。現在道後公園北口にある「湯釜薬師」は道有が発願し一遍が認めた「南無阿弥陀仏」が刻まれている。
 又明治にはいって正岡子規と夏目漱石が道後を散策した折に「色里や十歩はなれて秋の風  子規」と詠んだ。山門から十歩離れたところにあった元遊郭松が枝町の「朝日楼夢乃屋」が最近解体された。底地は宝厳寺で上物(建物)は石手寺の所有であった。
 宝厳寺は時宗十二派の中の奥谷派に分類されており、鎌倉時代からこの地は奥谷と呼ばれていたことが分かる。かつて奥の院があった場所に「金剛の滝」があり、日本書紀にある斉明天皇率いる大和朝廷の半島進攻の軍団の集結地の「石湯行宮」があったとされる。    
 昨年暮れに亡くなった詩人坂村真民翁が生前に建てられた「念ずれば花ひらく」碑は「念ずれば」碑の第三番目である。戒名は「詩国院朴阿真民居士」である。真民さんが会合で話された言葉に「聞法因縁五百生 同席対面五百生」がある。「一期一会」よりも尚厳しい言葉といえよう。仮に人生80歳とすると80年×500×500=20,000,000年(2千万年)である。本日のギャラリートークも2千万年に一回の因縁と考えてお話申し上げたい。
2、定義
 耳にはいる言葉は受け取り方次第でいろいろと解釈できる。今回の話の表題についてのみ「定義」して共通認識していただきたい。
@トポス  「位相」と訳される学術用語であるが、「時(縦軸・歴史)と場(横軸・地理)の記憶」の意味で使用している。
A 熟田津は「にぎたつ」「にきたつ」の読み方があるが「広辞苑」では「にきたつ」である。
原文: 熟田津尓 船乗世武登 月待者 潮毛可奈比沼 今者許藝乞菜 
よみ: 熟田津に、船(ふな)乗りせむと、月待てば、潮もかなひぬ、今は漕ぎ出いでな
作者: 額田王又は斉明天皇
 古代、北陸は「越国」であるが以北は「蝦夷」と呼ばれた。朝廷に同化した蝦夷は「熟蝦夷(にきえみし)で、北に移るに従い「麁蝦夷(あらえみし)」「都加留(つがる=津軽)」と区分された。又、和魂は「にきたま」と読むが「熟魂」であろう。従って論者は「にきたつ」と読む。
 日本書記、万葉集では「熟田津」「飽田津」「就田津」の3通りの表記があるが「一津三名説」を採用する。具体的な場所は@御幸寺山説A三津浜説A吉田浜説C城北地域の運河説D和気・堀江説など百人百説であるが、今回は道後温泉から一日の徒歩距離の場と設定しておきたい。
B道後は道前に対する言葉であり、道とは「南海道」である。伊予国における南海道の中軸は国府があった桜井(現在の今治市の東部)であり、道前平野、道後平野の区分は残っている。但し今日の道後は、道後温泉を中心にした狭い地域しか道後と呼ばない。歴史的な呼称の変遷は不明である。
C古道とは、公の道以外は、尾根道であり山野辺道であり、其処には山人(天狗・鬼・稀人・修験者・聖・乞食)が住んでいた。柳田国男の名著「山の人生」に描かれた世界と云えよう。
 古代中世はもとより近世に於いても日本人の歩きは右手・右足、左手・左足が同時に出る日本古来の歩き方(通称「ナンバ」)であり、一日数十キロを連日歩く飛脚、鍬持ちの農夫、駕篭かき、歌舞伎の六方、絵巻物などに歩き方は残っている。近年映画化された藤沢周平原作、山田洋次監督作品「隠し剣 鬼の爪」の洋式砲術訓練のシーンは「ナンバ」の記録としても秀作であると評価したい。
(注)歌舞伎の「六方」 @「飛び六方」(『勧進帳』の弁慶) A「狐六方」(『義経千本桜』の源九郎狐) B「傾城六方」(『宮島のだんまり』の袈裟太郎) C「泳ぎ六方」(『天竺徳兵衛韓噺』の天竺徳兵衛) 但しB、Cの芝居は鑑賞していない。
3、中・近世の道後の光景
視覚的な世界で古代・中世・近世の光景をイメージするには、山・谷・川・道・ムラ・マチで類推するのが一番妥当ではないかと思う。
@「道後山」であるが、松山中心部から北に広がる里山(京都の東山三十六峰を連想して頂きたい)には特定する山名はない。勝山(松山城)と対になる御幸山はあるが、山麓に「御幸寺」があるから御幸山であってその逆ではない。唯一例外は文献では「鳥越山」が記載されている。山それ自体は特定できないが(未調査)鷺谷の北方の山と考えられる。京都・東山と同様に、鷺谷の地が古代、中世の鳥葬、空葬の場でなかったと推察している。16世紀には湯築城下の道後の町は1万人近くの住民がいたと研究者は報告している。是非、道後里山連峰に識別できる里山名を付けていただき、行政で追認してほしいと願っている。
A「道後谷(道後十六谷)」は小論「熟田津今昔 第十五章 道後八景十六谷」で発表したが、@法雲寺谷A柿之木谷B立石谷C本谷D湯月谷E柳谷F奥谷G細見谷H大谷I桜谷J石切場谷K円満寺谷L大堂谷M鴉谷N鷺谷O義安寺谷の16谷である。現在確認できない谷も多いが、戒能谷(義安寺谷)・烏谷(烏渓)・柿木谷・桜谷・湯月谷・奥谷・円満寺谷・鷺谷などは地名や紀行文にも残されている。道後を取り巻く里山は低山ではあるが多くの谷が残っているのが特色である。江戸時代、温泉郡道後村に近接した和気郡祝谷村は、岩井谷とも湯湧谷とも解釈される。論者は平成13年3月24日に発生した芸予地震では、祝谷(岩井谷、湯湧谷)→伊台(湯ノ台)→湯山(湯ノ山)→杉立山の里山ラインが大被害を受けたことから、古代からの自噴の温泉ラインであったと考えている。
B「道後川」なる川名はない。石手川の分流である 51番札所石手寺前を流れる川が「寺井内川」であり、義安寺から烏谷(ホテルふなや庭園辺り)を経て、伊佐爾波神社参道で「御手洗川」に変わり、町中を横断して西行し「樋又川」になり「清水川」「宮川」・・・海へと流れ込む。烏谷を越えたところで分水され「今市川」として道後村を潤すことになる。
C「道後道(道後往還)」であるが、道後を通過する東西道はなく、南北道は一本のみである。日本最古の温泉場を自負する道後であるが、旅人にとり最終目的地であり、後方が安全であることから奥谷に行在所が設けられたとも考えられる。南北道は県民文化会館東県道(元農事試験場)から右折して今市通りに入り、道後村庄屋西の道を左折し(セキ美術館前)を通過し、松山神社、常信寺、瀬戸風峠を経て伊台(湯の台)に抜ける道である。この道は河野の居城である高縄山の登山コースに通じている。道後から石手(寺)を抜けるには山道(遍路道)か湯築城正門(東門)から「内代(うちだい)」を経て石手に向かうことになる。現在では県道端に奇妙な遍路筋を示す石柱が2基建っている。
D「道後ムラ・マチ」については稿を改めるが、鎌倉・室町期の河野氏の時代に湯築城下町が形成され、江戸期に入ってからは松山藩は代官を置き、道後村には庄屋、温泉場には鍵屋・明王院を任命し統治した。明王院跡は道後温泉本館脇の旧道後ホテル(現在は駐車場)、庄屋跡は、萱葺きから瓦葺き屋根に変わったが長屋門、母屋は江戸時代の古建築の侭残っている。屋敷内には道後村の目印であった大楠があり、静かに道後村の「トポス」を語ってくれている。  
4、熟田津古道=「伊予山の辺のみち」の文化
 「伊予山の辺のみち」は「伊予山の辺のみちを歩こう会」編集のガイドブックに地図と説明付で詳細に記述されている。観光客は勿論市民の方にとっても、春夏秋冬に必携のハイキング案内書である。 比翼塚(軽野神社)→還熊八幡神社→寺社道→風土記の丘→石寺手のコースは、平成16年12月に「日本ウォーキング協会(国交省後援)」の「美しい日本の歩きたくなるみち500選」に登録された。
 さて「熟田津古道」であるが、
@ 山の辺道(比翼塚(軽野神社)→還熊八幡神社→湯湧谷→鷺谷→石湯行宮所・伊佐庭岡<湯岡碑文が建っていたとの伝承がある>)がメインであるが、「石鎚修験道」と「一遍遊行の道」の古道を加えたい。
A熟田津→湯湧谷→伊台(湯ノ台)→湯山(食場)を経て、久米官衙や桜井(国府)に抜ける山道である。
 湯山の湧ヶ淵(現在は奥道後温泉内)近くの「食場」は古代の道後文明の十字路であり、水ヶ峠越え蒼社川下りで国府(桜井)、福見川沿い、福見山(福見寺)越えで久米官衙、或いは石手川を下り松山平野から瀬戸内へ、伊台(湯の台)経由で熟田津と、半日から一日あればハイカーは目的地に辿ることが充分に可能である。食場部落には承和7年(840)に天台宗の「定額寺」(天台別院)が設けられ、伊予における天台宗文化の発信地でもあった。伝教大師最澄没後、東大寺に次ぐ戒壇院の勅許を受け爾後の比叡山延暦寺を不動の地位に育て上げた別当大師光定(779〜858)は食場近くの山村で生を受けた。
B時宗の開祖一遍の伊予における足跡は「国宝 一遍聖絵」に色鮮やかに描かれている。船便を除く歩行の道程は「桜井国府→(徒歩)←道後・別府→(徒歩)←窪野北谷→(徒歩)←久万(岩屋寺)」であり、中世の修験道であり、近世以降の遍路道でもある。
C修験道は久万の大宝寺(44番札所)岩屋寺(45番札所)から石鎚山への道であり、遍路道は讃岐・土佐・讃岐にいたる中間地点に当たる。今日でも宇和・明石寺(43番札所)から久万・大宝寺(44番札所)までの道程は「遍路ころがしの道」でもあり、道中一泊が前提である。江戸の藩体制では大洲藩(加藤家)には藩内に金山出石寺など名刹が多いが、四国霊場札所が皆無である。これは藩の施策によりものではなく、地勢的な事由ではなかろうか。簡潔に云うと肱川と大洲平野で山脈が分断されていることが要因だろう。尾根伝いを山歩きの前提とすれば、宇和から久万へ抜ける修験道があったと推定できる。
 尚、久万・大宝寺(44番札所)からは一遍の修行地窪野に一気に下り、浄瑠璃寺(46番札所)を経て47番札所で石鎚修験根本道場である八坂寺まで半日の道程であろうが、今日の県道経由では丸一日を要する。尾根道+山野辺道こそが「熟田津古道」であったし「山野辺の道」でもあった。
(注1)熟田津(堀江)⇒徒歩1時間⇒権現温泉⇒徒歩1時間⇒伊台・祝谷(現・白水台、道後平)⇒徒歩1時間⇒湯ノ山(現・食場奥道後温泉)であり、道後平から瀬戸風峠経由道後温泉は僅か半時間である。略半日の里山歩きの行程であり、平地での「山の辺の道」の行程より楽でかつ早く目的地に達することができる。尚、伊台(湯の台)の白水台からは石鎚連山を眺望することができる。大宮人も湯煙を通して霊山石鎚を遠望したに違いあるまい。
(注2)シーボルトの娘「おいね」が宇和島に「通学」したのは「法華津峠」越えの山道であったと記録されている。
5,おわりに
 伊能忠敬(1745〜1818年)が測量を開始したのは1800年56歳の高齢になってからである。伊予にも測量で来訪しているが、彼の歩幅は69センチで変わることがなかったという。個人的な体験であるが、現在の歩行では上り坂、下り坂、平地で歩幅が大幅に違ってくる。これが日本古来の歩行「ナンバ」では顕著な差異が見られない。尾根歩き、山道歩きが中心の古道にもっとも適合するのは「ナンバ」歩きであり、男女老若の差も少なく歩幅は69〜71センチといったところであろう。「伊予山の辺をみちを歩こう会」のみなさんには「ナンバ」歩行を一度お試しいただきたい。
 おわりに、「四国遍路(道)を世界遺産登録へ」の動きが市民運動として展開されている。四国四県で纏まるのは至難に近い運動と思う。熟田津古道=「伊予山の辺のみち」の復元・整備、体験を通して、道後を中心にしたこの地域こそ「世界遺産」「日本遺産」登録に相応しい「トポス」(時と場の記憶)であると信じています。大いに頑張っていただきたい。
 ご静聴感謝します。