第五十六章  「一遍会史」の試みA 誕生期  浅山圓祥師と門弟の時代
一、 はじめに
 「一遍会史の試み」は昭和四五年(1970)に創設され平成二七年(2015)に四五年周年を迎える一遍会のあゆみを記述するものである。第一回は「黎明期〜〜相原熊太郎・北川淳一郎・佐々木安隆〜」と題して平成二六年二月例会で発表した。概要は『一遍会報』第三六一号に掲載した。詳細はHP一遍会「熟田津今昔」第五四章「『一遍会史』の試み@」を参照されたい。
誕生期
 昭和五三年(1978)三月十一日開催の第七三回例会で「一遍上人奉賛会規約」(昭和四五年八月二三日成立、昭和五〇年八月三〇日改正)を「一遍会」と改称し、会則を全面的に改正した。一遍会の母胎である「一遍上人奉賛会」の歴史から論述する。
一遍上人奉賛会創立総会
 一遍上人奉賛会は、昭和四五年(1970)三月二一日、道後湯之町一遍堂で第一回創立準備委員会を開催、爾来五回開催して、八月二三日宝厳寺にて創立総会を開催した。
宝厳寺住職永浜秀道師読経、渋谷英之師鐘により奉賛式が執行され、富田狸通司会により協議、趣意書ならびに規約の決定、役員の選定、事業計画の承認がなされた。閉会後、一遍上人に関する座談会を行う。
役員は左記の通りである。(敬称略)
会長 佐々木安隆、副会長 西山刻薫・住田諫二・三好幾次郎・桧垣正之・宮崎清治、常任理事 佐川通義・吉田弘・河野角太郎・後藤幸慶・清水兵次郎・富田狸通・田延元・森かね・中野とみ子・新田兼市・、監事 和田茂樹・伊藤義一、理事 北川淳一郎・烏谷定義・重見辰馬・野本昇・西山栄一郎・林敬亮・星加宗一・山本富次郎・柳原多美雄・渡辺始・二神一清・石田義之介。
一遍上人奉賛会例会
 例会は毎月一回開催された。主な講話(講師)を列挙する。出席は毎回一〇名程度であった。
(昭和四五年)
第一回例会 一遍堂 (出席者九名)
佐々木安隆「証誠大師の由来」
北川淳一郎「別府の史蹟」
(昭和四六年
第五回例会 宝厳寺(出席六名)
勝田直忠「空也上人について」ほか
第一一回例会  宝厳寺(出席一一名)
佐々木安隆「遊行上人縁起絵について」
(昭和四七年)
第一三回例会 宝厳寺(出席一三名)
坂村真民「詩人としての一遍」  
第一五回月例法話会 宝厳寺(出席一一名)
坂村真民「賦算者としての一遍」  
第一六回月例法話会 宝厳寺(出席一〇名)
坂村真民「捨聖としての一遍」
第二〇回月例法話会 宝厳寺(出席一二名)
佐々木安隆「北陸・奥羽地方旅行報告」
宝厳寺の住持
一遍上人奉賛会(一遍会の母胎)の誕生期はまさに生みの苦しみ、陣痛の苦しみであった。出席者が一〇名以上は増えず、講話・講師の人選も不定であった。一方、宝厳寺の第五〇世永浜秀道住職が昭和四六年三月に遷化され、後任の第五一世渋谷英之住職が翌昭和四七年宝厳寺を去るという異常事態になった。
この最大危機に、時宗教学研究所長の浅山圓祥師が昭和四七年八月十日第五二世住職として着任され、一遍会は浅山圓祥師から直接指導を受ける機会に恵まれた。会長である佐々木安隆、会員の足助威男、越智通敏、古川雅山らによる一遍上人並びに時衆・時宗研究が進展・深化していった。
(注)第五一世渋谷英之師は、現在時宗藤勢寺(一関市藤沢町藤沢字道場))住職、子息真之師も長徳寺(一関市藤沢町保呂羽)の住職である。
浅山圓祥師と門弟の時代
 一遍会は浅山圓祥師から直接指導を受けることになったが、出席者は一〇名以下で事態は急変しなかった。昭和五一年九月に逝去されるまでの四年間に師の下に集まった熱意ある会員たちが、自立して、一遍会の講師はもとより、著作、伊予史談会などの発表、セミナー講演で「捨聖一遍と宝厳寺」を広めたのは、師の没後からである。浅岡圓祥師の人格的、学術的な影響がいかに偉大であったかを物語っている。
師の長女で、宝厳寺第五三世住職・長岡隆祥師夫人でご自身も僧籍にある長岡佳子さんは「夜ふらっと来て酒を飲み交わすのが足助(威男)さん、しつっこく質問攻めにするのが(古川)雅山さん、宗教哲学が話題の越智(通敏)さん」と述懐している。代表的な門弟の三者三様の個性が簡潔に表現されている。もっとも、浅山師が楽しみにしていたのは、酒を酌み交わしながら深更まで一遍さんを語り合った足助さんとの懇親だったようだ。浅山圓祥師の一遍会例会での講話は十二回に及ぶ。
第二一回月例法話会 宝厳寺(出席一三名)
「百利口語」解説   
第二二回月例法話会 宝厳寺(出席一一名)
「百利口語」解説  
第二三回月例法話会 宝厳寺(出席七名)
「百利口語」解説  
第二四回月例法話会 宝厳寺(出席一〇名)
「百利口語」解説  
第二五回月例法話会 宝厳寺(出席五名)
「別願和讃」解説  
第二六回月例法話会 宝厳寺(出席者不明)
「別願和讃」解説  
第二七回月例法話会 宝厳寺(出席七名)
「六十万人・十一不二頌」解説  
第二八回月例法話会 宝厳寺(出席五名)
「興願僧都に示し賜ふ返書」
第二九回月例法話会 宝厳寺(出席六名)
『一遍』第一号解説 
第三〇回月例法話会 宝厳寺(出席者六名)
『一遍』第二号解説 
(昭和四九年)
第三一回月例法話会 宝厳寺(出席七名)
「誓願偈文」『一遍』第三号解説 
第三二回から三七回例会までは浅山師が欠席で講話内容が不祥である。
第三八回月例法話会 宝厳寺(出席七名)
「六条縁起」解説
師の例会欠席が続く中、講師は古川雅山、越智通敏らが担当することとなる。
第四〇回月例法話会 宝厳寺(出席六名)
「上人の和歌」解説 古川雅山
第四一回月例法話会 宝厳寺(出席七名)
「上人の和歌」解説 古川雅山 
第四二回月例法話会 宝厳寺(出席八名)
「上人の和歌」解説 古川雅山 
第四三回月例法話会 宝厳寺(出席一〇名)
「上人の和歌」解説 古川雅山
第四四回月例法話会 宝厳寺(出席一三名)
「法師光定」     越智通敏 
昭和五〇年に入っても浅山師の療養が続くが、例会最後の出席は七月一二日開催の第四六回月例法話会 宝厳寺(出席一四名)であった。ここで「一遍上人七百年祭記念行事について」の講話で、即時実行を要望され、八月三〇日に理事会を開催し記念行事に向けての活動が開始されることとなった。
理事会で「一遍上人奉賛会」を「一遍上人会」に改称することとし、会長 佐々木安隆、副会長 古川雅山・勝田直忠、常任理事 松友昭繁・佐川通義、理事 二一名、監事 和田茂樹・伊藤義一、顧問 桧垣正之・三好幾次郎を選出した。
 十月八日 師が念願とされた「一遍上人窪寺御修行之旧蹟」碑の除幕式が現地(丹波)で開催され、それを見届けて、愛媛県立病院に入院され喉頭がんの治療に集中された。
昭和五一年九月八日 浅山円祥師が逝去され、一〇月一〇日宝厳寺本堂にて本葬が営まれた。(桂光院其阿円祥和尚)
文化団体一遍会への改組
第五九回月例会から第六二回月例会は道後旅館組合で会員相互で『時宗あゆみ』の輪読を続けたが。第六三回以降越智通敏を中心に例会が運営された・
第六三回月例会 道後旅館組合(出席八名)
 一遍遺跡探訪報告(大隈八幡・浄光明寺)第六四回月例会 同旅館組合(出席九名)
 一遍遺跡探訪報告(別府・大宰府)
第六五回月例会 同旅館組合(出席九名)
 湯釜薬師・芭蕉句碑見学
第六六回月例会 同旅館組合(出席一四名)
 一遍遺跡探訪報告(善光寺・佐久・小野寺・白河関・北上・通信墓)
第六七回月例会 同旅館組合(出席九名)
 一遍遺跡探訪報告(摂津、河内、大和、高野、熊野) 
第六八回月例会 同旅館組合(出席九名)
 一遍遺跡探訪報告(相模、伊豆、尾張、近江)
第六九回月例会 同旅館組合(出席一四名)
 一遍遺跡探訪報告(山城・因幡・備中・
備後)
第七〇回月例会 同旅館組合(出席一三名)
 一遍遺跡探訪報告(讃岐・阿波・淡路・摂津・播磨・備前)
昭和五三年
第七一回月例会 同旅館組合(出席一三名)
 一遍遺跡探訪報告総括
第七二回月例会 同旅館組合(出席八名)
 越智通敏「一遍遺遊行の跡を訪ねて」
第七三回月例会 同旅館組合(出席一六名)
 「一遍上人会」を「一遍会」と改称、「一遍会会則」を定める。事務所を「宝厳寺内」に置き、「一遍上人の偉業を顕彰し併せて遺徳を学ぶこと」を会の目的とした。佐々木安隆会長を補佐する事務局として村上春次・浦屋徹・越智通敏を選出、『一遍会報』(タイプ石田武担当)を昭和五三年三月二五日付で創刊。
以降、事務局が中心となって事業計画を立てて推進することとなり、やがて越智通敏・浦屋徹を中核に一遍会は急速に拡充、発展することになる。
浅岡圓祥師略年譜
明治四四年 明石法音寺浅山成圓師長男「成雄」として誕生。(三月)成圓師の生家は高垣氏(尾道)。
大正六年 小学校入学
大正八年 この頃父母をコレラで喪う。
真光寺執事越智義祥師の弟子早川叡祥師(室は圓祥師実姉)が法音寺住職となり三人で暮らす。早川叡祥師が遷化し、越智義祥師の弟子として師籍兵庫普照院に引き取られる。法兄に山崎義天師が居り厳しい生活であった。
大正一二年 神戸第三中学校入学
昭和二年 時宗宗学林
昭和四年 旧制第六高等学校(岡山)入学
昭和七年 東京帝国大学文学部印度哲学梵文学科入学。
昭和一〇年 東京帝国大学文学部印度哲学梵文学科卒業(三月)。卒業論文「部派仏教における時間論」。指導教官は宇井伯寿博士。大学院在籍のまま、時宗宗学林講師(四月)。
昭和一五年 『一遍聖絵・六条縁起 付 一遍上人絵詞伝(序 柳宗悦)』(山喜房仏書林)
昭和二六年 『印度哲学と仏教の諸問題―宇井伯寿博士還暦記念論文集』巻頭論文「一遍上人の名号思想と其の性格 : その浄土教に於ける地位」(岩波書店)
昭和二七年 『一遍聖絵・六条縁起 付一遍上人絵詞伝』再版(山喜房仏書林)
昭和三〇年〜四〇年代、時宗宗学林で子弟を育成するとともに、宗門付属の高校で教鞭をとる。時宗教学研究所長、神奈川県藤沢商業高校長、大正大学講師を歴任。
昭和四六年 この頃舌癌を患い手術受ける。
昭和四七年 宝厳寺第五二世(九月晋山)
昭和五〇年 時宗立宗七百年記念遠忌行事旧久谷村窪野「窪寺一遍上人修行地記念碑」除幕式(一〇月八日)。愛媛県立中央病院入院。
昭和五一年 『一遍聖絵・六条縁起 付 一遍上人絵詞伝)』第三版(山喜房仏書林)を、九月七日午前二時病院で山喜房主浅地康平氏手渡し。
【序文】「六条縁起の出版は私の生涯ではこれが最後となろう。思へば本書は私の分身でもあった。」
愛媛県立中央病院で遷化(九月七日一〇時三〇分 享年六五歳)
本葬(宝厳寺本堂 一〇月一〇日 桂光院其阿圓祥和尚) 宝厳寺内墓地埋葬。
昭和五五年 故浅山圓祥著『一遍と時衆』(「青葉図書)発刊。
浅山圓祥師の門弟
(1)古川雅山
【略歴】
古川栄一(号雅山)大正四年(1915)佐賀県唐津市に生まれる。昭和一〇年 愛媛県師範卒業。教員を勤めながら、永年の英語教師として詩人シェリーの研究と訳詩、英語創作教育を提唱した。退職後は、古美術雅山洞を経営する傍ら、普化尺八明暗教会愛媛県支部長、「弘法大師の会」会長など幅広く活動した。
【著作】
『一遍上人語録新講』(昭和五二年 雅山洞)
『解説 一遍聖絵』(昭和五三年 青葉図書)
『一遍ヨーロッパを行く』(昭和五五年 雅山洞)
「一遍シリーズ」(一号〜四号)
『一遍と空海』(昭和五七年 青葉図書)
【師への想い】
○昭和四十七年九月、神奈川県藤沢商業高校長だった浅山(圓祥)先生が宝厳寺の住職として就任せられた。私にとっては神秘とも思える不思議なご縁であった。私は先生と一対一で語録の徹底的な研究にとりかかった。先生は東大の印度哲学科で宇井伯寿先生の門下として、一遍に対するその哲学的、思想的研究は断然、水際立ったものであった。「最も進んだ、最も正しい一遍像だ。」「余生ではない。私の本生はこれから始まるんだ。」先生は若々しい青年のような自負と情熱に燃えておられた。時宗聖典の編集や六条縁起の改訂、論文の執筆、その上、大正大学講師、時宗教学研究所長とし松山と東京の間を八反返しの目のまわるような忙しい毎日がつづいた。(『一遍上人語録新講』あとがき)
○私が浅山先生に六条縁起の講義を受けたのは先生の死の数か月前であった。お元気なときは充分お会いすることもできず、やっと私だけの先生になったときは、喉頭ガンのためにもはや「ものの言えない」先生だった。二人の勉強は無言か筆談で行われ、わずかなことばのあとは互いに推察するばかり。それがこの世での最後の研究であった。私が帰るとき、いつもに似合わず、先生は私に合掌せられた。どんな意味だったかわからない。それがお別れだった。 『解説 一遍聖絵』あとがき」
(2)足助威男
【略歴】
足助家は三河国足助の住人で鎌倉時代末に足助重範がいた。西国に下り周防国吉川藩の家老職を勤めた。祖父の代に東京に移住、父・直次郎は『広辞林』編纂者の一人。三南四女の末弟。
大正九年(1920)東京に生まれる。拓殖大学を卒業し昭和一八年中国に渡り「合作社」運動に参加。二一年引揚げ、『歴史評論』編集者となる。
法務省宇都宮鑑別所教官を経て、二五年友人(拓殖大学同期の西予出身の本多盛雄氏ヵ)の紹介で愛媛県の小・中学校教員となる。四〇年から五年間、知恵遅れ児童を対象にした八幡浜学園に勤務。退職後は一遍上人の遺跡を訪ねる旅に出る。
昭和四七年、角川源義(角川書店社主)の知遇を得て『捨聖 一遍さん〜一遍入門 〜』(角川書店)が発刊され、一遍生誕地道後に居を構え、新田兼市(一遍堂)の援助もあり、一遍研究、一遍会活動、掌上仏制作と精力的に活動する。
生涯独身を通し、平成一五年六月五日松山で死去。遺族の意向により墓所等は公表しない。
【著作】
『捨聖一遍さん〜一遍入門〜』 (昭和四七年角川書店)
『若き日の一遍』(昭和五〇年 緑地社)
『狗奴国は伊予にあった』(昭和五六年 青葉図書)
『絵本 一遍さん』(平成三年 緑地社)
「ふるさとの一遍聖 ―誕生と窪寺」(『伊予史談』第230〜233号) 
(3)新田兼市(一遍堂主人)  
【建立碑他】
湯築城案内板
(昭和三四年一二月設置)
「金剛の滝」碑
(昭和三四年一二月建立)
「色里や十歩はなれて秋の風 子規」
(昭和四九年一〇月建立)
「子規忌過ぎ一遍忌過ぎ月は秋 黙禅」
(昭和四九年一月建立)
「窪寺一遍上人修行地記念碑」
(昭和五一年建立)
「南無阿弥陀仏」一遍名号碑
(昭和五四年建立) 
「捨聖一遍上人伝」映画制作
(昭和五四年五月公開)
(4)越智通敏  
 「『一遍会史』の試みB 成長期 越智通敏と同志たちの時代」に掲載(予定)。
【お断り】一遍会で尽力された先人・先輩に失礼ではありますが「一遍会史」の性格上、敬称は省略しました。