第五十一章 湧ヶ淵蛇骨伝承と伊予史談会と・・・
 戦前のことである。元湯山村の三好宗家(断絶)から托された蛇骨は家の神棚に祭ってあった。一度だけ父が箱を開けて奇妙な骨を見せてくれた。箱を振るとかたことと音をたてた。その後この蛇骨は奥道後温泉の守護神として園内の高台に在る「龍姫殿」に安置され、毎年八月に法要が営まれている。蛇骨のほかに系図や刀剣、古文書も托され、現在は湯山町食場の宗家跡で縁者が大切に保管している。
 大正十一年に西園寺源透氏が「旧里正三好源之進」から借り受け「之ヲ謄写」したものが、「伊予史談会文庫」に所蔵されている。『松山領里正鑑』には、旧里正として食場村(観次郎)、道後村(文平)、持田村(豊保)の名がある。源之進は観次郎の長子で、観次郎、豊保は道後村三好家からの養子である。『三好家文書』の写しは東京大学史料編纂所に河野家ゆかりの『光林寺文書』に合本されており、「源姓三好家系図」はデータベース化され常時ウエッブで閲覧可能である。
 一〇数年前に帰省し、県立図書館で『三好家文書』を閲読、『愛媛県史』『松山叢談』『伊予古蹟志』『湯山誌稿』などで理解を深め、同館で保存されている系図や古文書を自分の目で確かめた。また『伊予史談』誌掲載の「伊予墳墓録」から墓地探索に取り組み、墓守をしている縁者とも会うことができた。
 伊予三好氏の来歴は明白ではないが、三好姓の多くは、道後平野と宇和平野に集中しており、その多くは湯山村食場に在る菊ヶ森城主「三好長門守秀吉(為勝)」を祖としている。その子「秀勝(秀保、長勝)」が湧ヶ淵で大蛇を銃殺したという伝承がある。伊予史談会の初期の会員であった三好湧川が「奥道後伝説と民話」を書き残している。
 平成二三年春、阿波・讃岐・堺の三好会と伊予三好会が合同で勉強会を三好長門守ゆかりの奥道後で開催した。これもひとえに伊予史談会百年の歴史の集積の導きがあってのことと深く感謝している。願わくは、伊予の歴史を照らす不滅の灯台として、伊予史談会の更なるご発展を祈り続けたい。
(注)本小論は、『伊予史談』370号(平成25年7月号)創立100周年記念特集号(3)に寄稿した一文である。