第三十七章 松山英学所初代校長 草間時福 〜小林小太郎周辺の伊予人@
草間時福 (くさま ときよし)(注1)
嘉永六(一八五三)年五月十五日京都御所南門衛士下田好文の四男に生まれ草間列五郎の養子となる。(注2)幼名は六蔵。明治三年上京して安井息軒(一七九九〜一八七六)[森鴎外『安井夫人』]に漢学を学び、中村敬宇(一八三二~一八九一)[明六社 『西国立志篇』]に洋学を学ぶ。明治七年四月、慶応義塾に入社、翌八年(一八七五)七月卒業。明治八年愛媛英学所を設立してその指導者を求めていた愛媛県権令岩村高俊が、宇和島出身で慶応義塾創立者である福沢諭吉(一八三五〜一九〇一)と親しい『曙新聞』主筆の末広鉄膓(一八四九?一八九六)「本名:重恭 小説『雪中梅』」の仲介で二三歳の草間青年と面接、同年九月「愛媛県英学所」初代校長(月俸四〇円のちに五〇円)となる。
草間時福の松山時代は、松山英学所初代校長に引き続き、明治九年九月愛媛県変則北予中学校長、明治十一年六月愛媛県立松山中学校長を歴任、明治十二(一八七九)年七月まで校長の任にあった。松山英学所・松山中学校の教育内容と「演説」については直弟子永江為政(当時、雑誌『乃木宗』主筆)が『四十年前之恩師草間先生』に書き残している。
英学所ではスマイルの『自助論(西国立志篇)』などを洋書でもって論じるかたわら、「月に二回又は三回、明教館の講堂の中央を議場の如く大円形に造り「テーブル」を置き直して正面に演壇を据へ、定期の演説会、若しくは討論会が開かれる。其時は必らず県庁から岩村権令が臨席される」。この文明開化を思わせる自由な学風が優れた生徒を集め多くの人材を輩出し、中でも岡崎高厚・門田正経・永江為政・森肇・矢野可宗ら言論人を志す者が多かった。
一方、教育のみならず愛媛県下の自由民権運動やマスコミに少なからず影響を与え、自治社、松山公共社の社員となり『海南新聞』(現『愛媛新聞』の前身の一紙。明治十年「本県御用 愛媛新聞」が「海南新聞」と改題)の編集にも当り、民権運動にも積極的に関わった。明治九年三月には末広鉄膓の依頼で「朝野新聞」に投稿した『改革論』が「新聞条例」に抵触し禁錮三ヶ月、罰金刑五十円の罰を受けたが、岩村県令の庇護の下に手腕を発揮した。松山地方裁判所の判事は佐久間象山の息子の佐久間格である。
明治十二年(一八七九)松山を去り、福沢諭吉の交詢社創設事務を経て新聞界で活躍する。(「興亜公報」「北越新聞」「日本立憲政党新聞」ほか)
明治十七年、桜鳴社の同志であった河津宏之逓信次官の推挙で官界に転じて、逓信省灯台局次長、同省東京郵便電信学校長、同省航路標識管理所長などを歴任し、同省管船局長まで昇進し、大正十二年(一九一三)退官、錦鶏間伺候に遇せられる。大正十年六月、門下生の招きで松山に訪れ、朝野を挙げての歓待を受ける。門下生永江為政が編纂した『四十年前之恩師草間先生』に詳細かつ感動的に記述されている。草間着任時の県学務課長内藤鳴雪も歓迎句「春風や昔ながらの師を迎ふ」「若葉して演説もせよ角力も取れ」を残している。(『子規の素顔』記載)一方時福は「波こえてたづねてぞゆくまつ山の人のまことのなつかしくして」ほか数句を読んでいる。
昭和七年(一九三二)一月五日八十歳で没した。尚、草間家の系譜は「時福―時光(鎌倉市長(昭和二六年〜昭和三十年在任))―時彦(大正九年(一九二〇)?平成十五年(二〇〇三) 俳人協会会長)―文彦[現当主]と続いている。時光以下の草間家の墓所は逗子の法性寺(日蓮宗)内にあり、時福のみ個人墓が青山墓地内にある。尚、時福の実兄である俳人中川四明(紫明)は好文(耕作)の次男で中川重興の養子となった。時福も俳句に嗜み俳誌『ホトトギス』に俳号天葩で投句している。大正十五年には『天葩詠草』に漢詩・和歌・俳句を取り纏めて開明堂から出版した。尚、長兄好照の息子好次郎は時福と共に松山で過ごし、後年松山で没した。
子規の松山中学入学は明治十三年であり草間校長の謦咳に接していないが、明治十六年六月同校を退学して上京するに当たっての後輩への檄文の中で草間校長の偉大さを強調している。「余ノ上京ヲ決スルヤ事、至急ニ出デ朋友諸君ニ告ク(中略)何トナレバ草間先生ノ此校ニ来リ演説ヲナスヤ伊予全国之ガ為ニ始メテ演説ノ有益ナルコトヲ知リタルナリ 故ニ伊予全国ノ人民ハ常ニ眼ヲ中学校ノ演説会ニ注ケリ 是レ其本源ナレバナリ(略)」(『東海紀行』)草間時福と子規が出会った記録はないが、子規の死去にあたり翌九月二十日付で「子規宅気付、碧梧桐・虚子」宛に追悼の書状を認めている。(『子規の素顔』記載)
(注1)@「くさま ときよし」(『愛媛県人名大事典』ほか)A[くさま ときふく](『慶應義塾草創期の門下生たち』)B「くさま じふく」(『慶應義塾入社帳」))通説に従い「くさま ときよし」とした。曾孫 文彦氏[現当主]に確認するも正確な呼称は不詳。
(注2)郷土史家景浦稚桃は嘉永六年九月十九日(『伊予史談』一四〇号)。『愛媛県百科大事典』は五月十九日、『草間時福君小伝』は五月十五日である。
【参考文献】  ご照会下さい。