第五十二章 明治二十五年八月のMATSU〜子規・漱石・ホーキンス〜
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はじめに | ||
明治二五年八月下旬、ひとりのアメリカ人青年が松山で旅装を解いた。ボストンYMCAから派遣されたこの青年は、同年九月から愛媛県尋常中学校(以後県尋常中学校という)で英語の教鞭を取ることになる。 たまたまこの時期に、正岡常規(一八六七〜一九〇二 以後子規という)は帰省し、夏目金之助(一八六七〜一九一六 以後漱石という)は子規を訪ねて松山に来ていた。漱石は三年後に子規が学んだ北予変則中学校の後身である県尋常中学校(愛媛県立松山中学校の前身)で一年間教師を勤め、小説『坊っちゃん』に松山の情景を描いた。同様に、アメリカ人青年教師は二年間の契約を終えて帰米するが、日記を中心にして『日本の二十ヶ月』(「Twenty Months in Japan」)を著す。青年の名はホーキンス(Hawkins, Henry Gabriel 一八六六〜一九三九)という。 |
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子規・漱石・ホーキンスの邂逅した明治二五、六年当時の松山を、ホーキンスの著作を通して新たにMATSUYAMAとして描いてみたい。 | ||
一、 明治二五年の夏休み | ||
明治二五年八月は、子規、漱石にとっては、帝国大学の年度末の長期休暇にあたる。七月七日、二人は午後九時五〇分、新橋停車場発で京都に向かうところから話を進めていきたい。以後の記述は、和田克司編『子規の一生』と荒正人・小田切秀雄編『増補改訂 漱石研究年表』に拠る。 | ||
翌八日、午後三時三〇分七条駅(京都)に着く(推定)。柊屋(中京区麩屋町)に宿泊。清水堂、円山公園、旧大内裏を歩き、夜に入っては遊郭街を歩く。子規はセル、漱石はフランネルの制服を着用していた。九日は、『子規の一生』では堺に漱石と訪ねた可能性を示唆しているが、『漱石研究年表』では比叡山に出掛け、川魚料理屋平八茶屋に立ち寄り、柊屋に連泊したとしている。十日、二人は神戸に向かう。漱石は汽車で岡山へ向かい、子規は下車して三津浜行き「盛行丸」にて松山(船便)に出立する。 | ||
子規は十一日に実家(松山市湊町四丁目十六番戸)に帰宅、郷里での生活を楽しむことになるのだが、学年末試験が不合格となり落第した。一方漱石は、翌十一日岡山に着き、亡くなった次兄(栄之助)の妻(小勝)の実家である片岡家を訪ね一ヶ月近く滞在する。子規宛に「近日当主人(片岡機)の案内にて金比羅へ参る都合故、其節一寸都合よくば御立寄可申」(八月四日付け)が届く。金比羅参詣については不明であるが、八月十日に三津浜港から伊予鉄道で外側停車場(現・松山市駅)に着き「城戸屋」(市内三番町)宿泊する。日時は明確ではないが、子規宅を訪問し、子規の母親八重(一八四五〜一九二七)から「松山鮨とよばれているところの五目鮓」を馳走されたことが偶々同席していた高浜虚子(一八七四〜一九五九)が『漱石氏と私』の中で記述している。「漱石氏は洋服の膝を正しく折って静座して、松山鮓の皿を取上げて一粒もこぼさぬように行儀正しくそれを食べ」たが、一方子規は「和服姿にあぐらをかいてぞんざいな様子で箸をと」っていた。 | ||
漱石は八月十日から八月二六日までの二週間あまり松山で過ごしている勘定になるのだが、江藤淳著『漱石とその時代』(新潮社1970)では正岡家には泊らず旅館に投宿して子規を見舞ったとし、『松山市史』では中の川の家に来泊したことになっているが、子規、漱石の松山での交流記録が二人の記述にないのは奇異な感じがする。 虚子もまた「その頃漱石氏がどうして松山に来たのであったろうか。それをその後しばしば氏に会しながらも終に尋ねてみる機会がなかった。」と『漱石氏と私』の中で記している。 | ||
八月二六日、三津浜港から東京に向かう。子規、新海非風(一八七〇〜一九〇一)、大原尚恒が同行となる。高浜虚子、河東碧梧桐(一八七三〜一九三七)が港まで見送る。神戸では布引の滝を見て、二十九日は京都、三十日は静岡に泊まり、東京・新橋停車場には月末の三一日午後三時五〇分に到着した(推定)。 | ||
松山では、子規は松山中学の後輩である景浦直孝(一八七五〜一九六二(号稚桃 大正三年「伊予史談会」創設者メンバー)や喜安?太郎(一八七六〜一九五五 「英語青年」編集人)らが企画した「逞文学会」夏季講習会(八月一日発会)に講師として出席している。初回の講義では村上浪六(一八六五〜一九四四)の出世小説『三日月』を使っている。(虚子『子規居士と余』)また、七月某日高浜の延齢園、二四日、三一日虚子宅、八月五日、十三日、十六日三津の溌々園(生簀)で新海非風(一八七〇〜一九〇一)、勝田明庵(一八六九〜一九四八)、河東可全(一八七〇〜一九四七)、碧梧桐、虚子らと競吟しているが、松山に居る筈の漱石の名前はない。 | ||
一方、YMCA英語教師(メソジスト派)ホーキンスは、カナダのバンクーバーから「上海航路」に乗船している。船客はロンドンとニューヨークの客が多かったと記述しているので、アメリカ東部からは一八六九年に開通した大陸横断鉄道を利用したと推定する。当時の欧米の船会社では北ドイツ・ロイド汽船(Nord Deutscher Lloyd)のブレーメンー横浜線や、ペニンシュラ・オリエンタル汽船(Peninsular & Oriental)のロンドン?横浜線、カナダ太平洋汽船(Canadian Pacific)のバンクーバー?香港線などがあった。七月十日に横浜港に着き、翌十一日横浜港を出航し十二日に神戸に着き、W.Rランバス邸(関西学院創設者、宇和島中町教会創設)で旅装を解く。同月二十六日頃有馬に向かい、メソジスト派のシナ・日本合同会議で県尋常中学校の前任教諭であるW.P.ターナーに会う。県尋常中学校の引継ぎは有馬で済ませ、八月二十日頃、神戸から松山に向かい、松山番町教会(メソジスト派)に一旦落ち着き、その後「愛松亭」で寄宿することになった。 | ||
子規・漱石・ホーキンスの長い夏休みが終わり、子規は帝国大学文化大学国文科を退学して一二月には日本新聞社に就職、漱石は帝国大学文化大学英文学科特待生として学業に励み、ホーキンスは県尋常中学校の英語教師としてそれぞれの途を歩むことになる。子規と漱石は、三年後の明治二十八年夏に「愚陀仏庵」で五二日間共同生活をするが、ホーキンスは二十七年春に松山を去ったので三人が会うことは永遠になかった。 | ||
二、 ホーキンスについて | ||
松山中学校の英語教師としては、ノイス(一八六二〜一九二八)、ターナー(一八六四〜一九一二)、ホーキンス(一八六六〜一九三九)、ジョンソン(?〜?)と続き、ジョンソンの後任には帝国大学文化大学英文科卒業の漱石(一八六七〜一九一六)、玉蟲一郎一(一八六八〜一九四二 後に第二高等学校学校長)が続く。すでに『子規会誌』第一二七号「松山中学校の外人英語教師の来歴」でノイス、ターナー、ジョンソンについては触れたので、ここではホーキンスの経歴のみ記す。 | ||
ホーキンスは慶応二(一八六六)年十月五日、米国アラバマ州チョクトー郡に生まれた。一八八四年アラバマ大学を卒業したが、翌年父が死去したので一家でミシシッピー州クラーク郡エンタープライズに移住する。其処で二年間神学を学び、聖職の途を決意する。明治二五年夏から二七年春まで、ターナーと同様に、アメリカYMCA教師として県尋常中学校の英語教師として勤務した。 | ||
松山中学校の同窓会誌である『保恵会誌特別号』によれば、松山時代は独身で謹厳寡黙温厚な紳士であり、授業はノイス、ターナー前任教師と違い、「徹頭徹尾講演式で一時間の初めから終りまで英語のスピーチをせられるのでいつも煙に捲かれて五里霧中で彷徨してゐるやうな気がした。」 また、明治二八年三月の卒業試験では、ちょうど日清戦争が終結して馬関(下関)で講和談判の最中だったので、口頭試験は講和談判(ネゴシエーション)についてであった。外国人教師は英会話担当と理解されがちであるが、英会話レベルは今日考えられている以上に高かった。県尋常中学校の上級クラスの英語を週三時間担当した。学校での宗教活動は禁止されていたので、放課後には「愛松亭」でバイブルクラスを開き、学生のほかに城下の学校教員も多数参加し、アメリカ文化に直接触れている。休日は松山近郊の港町三津浜の夜学校での教鞭と伝道をおこなった。 | ||
ホーキンスの所属するメソジスト派の松山番町教会(松山市三番町)の実用英語学校ではモズレー、ターナー、ホーキンスらが英学を担当した。明治二四年四月から二六年四月まで在学した城哲三(一八七五〜一九〇五)は、同年十六才で家塾北予英学校を創設、三三年には私立北予中学校を設置して初代校長に就任する。現在の県立松山北高等学校の前身である。創立期の英語教師に小野圭次郎(「受験の小野圭」として著名)も居た。明治三七年校長を白川福儀に委譲、翌三八年三〇歳で病没した | ||
ホーキンスの松山での教師生活は二六歳から二八歳であり、学校を去るに当たって生徒と白猪滝まで遠足に出掛けている。白猪滝は当時松山近郊の名勝の一つであり、子規も漱石も訪ねている。 | ||
明治二七年四月に日本を出発し、中国を経由して帰米、牧師となる。母国では、ウイットワース カレッジ学長(一九〇二〜一九〇五)、ポート ギブソン女子カレッジ学長(一九〇六〜一九一二)、メンフィス コンファレンス 女子インスチチュート学長(一九一二〜一九一九)などの要職を歴任する。一九二八年にはミシシッピー会議歴史学会の理事長に就任し一九三六年退任する。その後郷里ミシシッピー州カントンに隠棲し、昭和十四年十月十三日七三歳で死去。ホーキンスの松山での記録は、彼が一九〇一年に出版した『Twenty Months in Japan』に克明に記録されている。 | ||
三、ホーキンスの描くMATSUYAMA | ||
ホーキンス著『Twenty Months in Japan』は二九節からなり、殆んど松山に関する記述である。頁数の制約もあるので、興味深い文章に絞って掲載する。翻訳はないので興味、関心のある方は原書をお読みになることをお薦めしたい。 | ||
(一)松山の地図と温泉について | ||
いま松山の地図を眺めている。四五の仏教寺院と九つの神社を数えた。これらはすべてご城下内であり、小さな神社や郊外の寺院・神社は含んでいない。二二五ケ所の大小のブロック(区画)があり約4万人が居住している。 | ||
一マイルちょっと外れに、松山の藩主に利用され、いにしえの昔 帝も訪問された有名な温泉がある。 先月二八七二枚の入浴券が発売され、中には「月受券」もある。入浴料金は〇・五セントから一〇セントである。(注:明治初期は一セント=一銭で、一銭が現在の八〇円〜一〇〇円に相当する。厘が通用しており、一厘を一〇円とすると入浴料金は五〇円から一〇〇〇円である。)街には二六ヶ所の公衆浴場(銭湯)があり毎日約五〇〇〇人に人工の温泉を提供していた。入湯料金は平均して〇・五セント(五〇円)である。 | ||
その上に、多くの家庭に専用の浴室がある。家庭の一般的な木製の浴槽は全身を浸すに十分な大きさであり、適温に調節できる水は、浴槽の上か下に設置された小さなパイプかストーブで温められる。このパイプの中で、木炭の火は燃やされ、水が適温に達すると、最初に父、次に母、そのあと子供たちがひとりづつ入浴し、最後に使用人が入浴する。 | ||
(二)松山城について | ||
半ブロック歩き、右に折れて二ブロック歩き、左に折れると、松山での主要な往来である大街道に出る。好奇心のかたまりなので角々で立ち止まる。朝夕二六時中大変騒々し場所である劇場(*新栄座ヵ)を過ぎると、街路は城山の麓を周っている。城山は別名勝山(Mountain of Victory)である。 | ||
われわれ外国人のガイド(*実態は警護ヵ)で派遣された軍人が城山への急勾配の道を案内する。市民病院(*東雲学園は市民病院の跡地に建った)や東雲神社は左下に在る。三〇年前には二本差しで時には重い甲冑に身を固めて同じ道を行き来したのかと考えながら上へ上へと歩いていく。城は四〇〇年前の武士の本営(headquater)であった。城郭は戦闘用であり、長い平和な時代にも実践に備えた。 | ||
巨大は石垣に着く。石垣は高く、外から梯子で登ることはできない。城壁は最初の城の中庭となっている巨大なひな壇式の土地を防御している。がっちりした城門を通り抜け、第二の城壁を通り二番目のひな壇式の中庭に出てくる。そこから幾つかの建物を観察できる。 随分老いぼれた管理人(が鍵を持って現れ奥に案内してくれた。管理人は大きな深い井戸から水を汲み上げ、この井戸は掘り井戸ではなく二つの峰の間の谷に充満した水であると説明した。城山は元来二つの峯を持っていたことを了解する。このひな壇式の中庭は、管理人の小農園として今日貸与されている。隅の建物は、管理人の備品の保管用であろう。二つの城門、一番奥に本丸が城郭に囲まれた中庭が現れる。 |
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地階の上の大広間は、家中の武士が出掛け、敗北の時は自決する場所で、大広間の上から粗雑な昇降機で降りる。そのほかの広間には、別の場所から階段で上がる。最上階からは街全体、海、島嶼、田畑、遠くの村落や山々を眺めることができる。海に向かう七つに曲がった道は、敵勢来襲の際、道の処々で充満する人数を把握することができるのだろう。 | ||
加藤嘉明は、日本のナポレオンである(羽柴)秀吉配下の武将で、三〇〇年前の松山城を築城した。城は四九年前に再建された。木造の最初の城門(*筒井門ヵ)は原型のままで残っている。構造は雄大ではないが、花崗岩の巨石が使用されており、百万ドルの費用が要したに相違あるまい。今日はまったく活用されていない。この地に配置された連隊(*松山歩兵第二二連隊)は、荒廃して松山城の山麓に近代的な兵舎を設営している。 | ||
数多くの古物商の店頭で通行人に大量の鋭利な刀剣や槍が売り込んでいる光景は、世界はイザヤの予言書が成就に向かっていることを信じさせる。 「かくして剣は鋤に、槍は鎌となり、国と国は干戈を交えず、もはや軍備は競わない。」(*旧約聖書「イザヤ書」) |
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(三)石手川について | ||
郊外に二マイル歩いてみよう。私と一緒に住んでいる少年と東京の大学生も仲間である。二人とも英語が話せて歩くのは苦にしていない。そんなこんなで役に立つ友人である。石手川の左の堤防に上がり、堤防の道を歩く。石手川は松山市の南を貫通する清浄な流れの速い川である。 午後三時、道に沿って城下に薪を運ぶ少年少女を見かける。彼らにとっての一日の最後の仕事である。幾人かは木炭、他の者は山裾から切り取った細枝を大きく束ねて短棒にくくりつけている。牛や馬や荷馬車が重量物を運んでいる。 |
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本街道と田畑の間は、蝋燭用の油となる櫨の並木が続いている。この時期は米の耕作時期でなく、雪が堤防の斜面を覆い、一面が銀世界である。百姓は一年を通して米づくりの肥料の集積に熱心であり、山腹に灌漑用の溜池を用意し、田が乾燥する炎暑に対応すべく川から水を取り込む方策を年中実行している。石手川の水量の三分の一を川より高い郊外を通り海に流すという水路プロジェクトを実行した人物の顕彰碑を通り過ぎる。この水域に最新の小さな水車小屋がある。 二千年にわたる人間の営みは小さな川の美しさを汚さなかった。川の水はどこでも美味しく清浄であった。時には渦巻き、時には激流になり滝となった。相当に深いところでは、釣り人がニジマス釣りをしている。その源流の滝(湧ヶ淵ヵ)まで行きたかったが、三マイル先であり、日暮れでもあり諦めた。 |
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山麓の寺院まで引き返し山門で休憩する。巨大な瘤の多い松が境内を覆っていた。小川が足元を流れている。巨大な聖なる古石が小川を跨いでいる。この上を歩くな。歩くと汝の足はびっこになる。 | ||
寺の名称は石手寺で「石の手」を意味している。寺の創建者が手の中に石を握って生まれたという謂れがある。川の名は寺からとった。 惜しみなく与える愛は空しく 神の贈りものはばらまかれる 異教徒は盲目ゆえに 木と石に頭を垂れる |
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(四) 松山の秋祭りについて | ||
一〇月七日―松山と近郊の例年の祭日は私にとって興味をそそる。朝五時に道後で神社(伊佐爾波神社と湯神社)からの神輿の宮出しは古式日本と異教徒の最良の実例を示してくれた。道後は松山から一マイルである。神輿とはモデファイされた「ジャガー車」(*山車に轢き殺されれば極楽に行ける)祭事である。 | ||
両神社の神輿は午前四時に出立することになっていた。しかし神輿に込められている対抗気分が両者間で競争を引き起こした。嗚呼、血迷った群集、そして百本の手で、あちらへこちらへと持ち上げられる。更に、他の神輿に出会ったら血迷って抗争になる。(*神輿の鉢合わせヵ)後方へ、どちらか一方の側へ。そして神輿の付添い人(である神官は、学のない参加者の熱狂から神輿を守るには全くの無力であり、遅れて歩いた。担ぎ手はすべて下層クラスの青年であり、半被と白衣を纏っていた。鉢巻は額に巻かれていた。多くの少年も衣装を着けて、この儀式を見守り、恐怖感がわが身から去ってから一緒に祭りに参加していく。 | ||
道後と三津浜は、松山と比べて、祭日のこの催事にずっと熱心である。この二つの町は、「酒と女」(遊郭ヵ)が充満する腐った町である。しかるに道後神輿は松山に持ち運ばれ、神輿の中の神霊はすべての街頭を巡り、人々は神輿に上に米を投げ上げ、街々に神の恩寵がもたらされる様に願う。もちろん、個人や家によっては、神輿が道で持ち上げられた時に屋根にぶつかるなどの被害を受ける。 | ||
午後には、二本差の侍や、古代の君主などの仮面をかぶった子供らを見かけた。商人の中には、ショーウインドーにすばらしい人形や人物彫像を展示してお祭りをお祝いしている。朝鮮征伐(三韓征伐)に船出する神功皇后や女装して魔物を退治したTaratoda(*俵藤太)などである。 | ||
(五)課業について | ||
私の勤務する学校(県尋常中学校)には四三〇人の学生がいて、主に古い且つ高慢な士族出身者である。私は毎週およそ三時間、上級の各クラスを担当していた。彼らは大変丁重であった。契約では学校内で宗教の授業をすることは禁止されていた。しかし生徒たちはこの問題についての教ア師の立場を理解し、学生の要求で毎週一回私の家(*愛松亭ヵ)で「アメリカのしきたり」(American
Customs)と聖書について話すことになった。 そして日本での収穫は熟しており、無駄にすべきではない。ここの学生の内、四人のキリスト教信者と、多分仏教か神道に緩やかにすがっている学生(*僧侶や神主の息子ヵ)が二五名と四〇〇人以上の無信仰者がいる。 |
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私の日曜日の課業は人口五〇〇〇人の罪深い町である三津浜でおこなう。一〇年間福音を宣教してきたが目立った成果はなかった。 われわれは青年たちが経営している貧しい児童のために夜学校を持っていた。児童は安息日の奉仕に参加し、扱いやすかった。しかし時々どうしようもない群集との対応が先駆者としての宣教師の仕事であった。聴講者を得るために礼拝堂は大勢の通行人がいる通りで確保せざるをえない。寒くなければ通りに面する家のすべての戸口は開かれ、始末に負えない群集が立ち止まって見聞きする。 そのうち興味をもって入室することになる。私はこの日の午後、三津浜に住んでいる教え子の何人かと毎週日曜日に礼拝堂で一緒に聖書を読むことに同意した。 |
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先週の日曜日に、五マイル離れた三津浜港に出掛け布教した。私立の実業学校(城南中学校ヵ)の青年教師が私に通訳として近づいてきた。道中では、松明や明るい火で照明されている山を見た。幾つかの松明が山裾に沿って非常に早く動くのが見えた。その日、八月四日に死者が(この世に)戻ってくると信じている学のない信者の慣習があった。そして今、天国(冥土)へ戻る道が照らされているのだった。(*お盆の送り火行事ヵ) | ||
四、愛松亭の記憶 | ||
ホーキンスの松山での宿舎は「愛松亭」であった。『愛媛県百科大事典』によれば松山藩筆頭家老菅氏の屋敷内の山腹に中間小屋が二棟あった。明治初期に骨董商を営む津田安五郎が所有し、一棟を二階建に増改築した。建物は、漱石が下宿した「愚陀仏庵」に酷似しており、松山城下での「離れ」建築の一類型と想定される。建築年代は不明である。虚子の「漱石氏と私」では、二階は下宿部屋(漱石も三ヶ月寄宿)で一階は津田家居住としているが、漱石の下宿時には同僚の図画担当の高島半哉が同宿(一階ヵ)していた。小料理屋説もあるが資料が見当たらない。 | ||
ホーキンスの記述では一階、二階とも占有している。外国人教師(ノイス、ターナー、ホーキンス、ジョンソン)の松山在住期間は明治二二年春から明治二八年春までの六年間である。推測の域を出ないが、外国人教師や高級官僚の寓居を予定し、津田家が手配したのではあるまいか。「愛松亭付近の平面図」(愛媛新聞社『正岡子規と漱石―その交遊と足跡』)により、明治二〇年代の愛松亭を想像していただきたい。 | ||
(六)ホーキンスの寄寓した愛松亭 | ||
わが住まいは現在 市内の東半分が眺望できる山側にある。家屋はそれほど大きくはないし立派でもない。しかし環境は抜群であり裁判所の上の公園みたいである。 ここ松山では住居は二階建てで、二階には二室あり、一室は寝室、他の一室は書斎である。一階は幾部屋にも区切られており、そのうち二室は居間と食堂、他の部屋には二人の快活な少年が住み込んでいる。少年たちはいつでも私の欲することを喜んでやってくれる。その上に、立派な浴室施設、二つの日本庭園、そのうちの一つは居住者のために金魚がいる小さな池があり、もう一つは必要な設備がきちんと都合よく整えられている。 しかし多くの訪問客があり、応接する時間を明示する必要があることが分かった。訪問客は主に当地の教師や四五〇名の生徒たちであり、訪問者の過半は英語を話した。 |
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耳を澄ましてみると、劇場(新栄座ヵ)の建物では奇妙な音がする。二ブロック離れて、貧しい少女が道を歩き廻りながら叫ぶ「お願い 買って」。教会の鐘が鳴る。遍路(pilgrim)が奇妙な服装(注:遍路の衣装)をして悲しげな「ちりんちりん鈴」を持って一軒一軒怪しげな歌(般若心経ヵ)を歌っていく。そして今は夜。松山の夜警が火災の防止に街路を巡回していく、拍子木を叩きながら、ごろつき(rogues)を追っ払う音を立てながら。山の下の街路で拍子木の音が聞こえる。そろそろ就寝の時間である。 | ||
おわりに | ||
子規、漱石とホーキンスは一歳違いのまさに同世代である。子規、漱石は、日本の文学史上輝かしい足跡を残したが、明治二五年当時は大学生に過ぎなかった。一方ホーキンスは、大学を卒業し神学校を経て使命感(ミッション)を以って愛媛県尋常中学校で教鞭をとり、学校で、教会で、愛松亭で、アメリカの文化とキリスト教を伝えていった。 明治二〇年代の松山文化は漱石の「坊っちゃん」文化に収斂されているが、英学徒である城哲三(哲蔵)が明治二六年に一六歳で、県立松山中学校に対峙する私立北予中学校(のち県立移管)の母胎である「北予英学校」を創設した歴史的な事実を忘れてはなるまい。昭和五六年に愛松亭跡に「漱石旧居記念碑」が建てられたが、外国人教師と子弟の足跡は忘れられている。松山における英学文化の発信地の一つが愛松亭であったと断言しても過言ではあるまい。ノイス・ターナー・ホーキンス・ジョンソンらのお雇い外国人と教え子の軌跡を正当に評価して顕彰すべきではあるまいか。 |
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主要参考文献 | ||
(基本) Hawkins, Henry Gabriel「Twenty Months in Japan」(1901) 和田克(司編『子規の一生』(増進会出版社2003) 荒正人・小田切秀雄編『増補改訂 漱石研究年表』(集英社1984) 『愛媛県史 学問・宗教』(愛媛県1985) 『松山市史』第三巻近代(松山市役所2005) 『愛媛県百科大事典 上・下』(愛媛新聞社1985) |
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(正岡子規・漱石) 高浜虚子『子規居士と余』(岩波書店「」回想 子規。漱石』2002) 高浜虚子『漱石氏と私』(岩波書店「」回想 子規。漱石』2002) |
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(ホーキンス) 『保恵会誌特別号』(愛媛県立松山中学校1938.12) |
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(城哲三) 『松山北高等学校創立百周年記念誌』(愛媛県立松山北高等学校2001) 『川内町新誌』(川内町2002) |
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(愛松亭) 愛媛新聞社編集『正岡子規と漱石―その交遊と足跡』(一〇七六) |
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(拙論) 「松山中学校の外人英語教師の来歴」 『子規会誌』一二七号(2010) 「漱石に先行する松山中学校外国人教師の来歴」『伊予史談』三六四号(2000) 「漱石の月俸八十円の「真実」」『子規会誌』一三四号(2012) |
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