第五十八章  明治・大正期の宝厳寺学僧 橘恵勝について
一、橘恵勝 略年譜
西 暦 元 号 年齢      事  項
1875 明治8 大阪市東区東伏見町5丁目にて出生。父母不祥。
1887 20 14 この頃、宝泉寺で得度(大阪府三島郡磐手村別所)。
神戸・真光寺 河野往阿について仏教学一般について研尋。
1899 32 26 宝泉寺 寺住(高槻)。
1907 40 34 宗学林学頭道後宝厳寺橘恵勝僧正任命(4月20日付) 宗学林学頭星徹定権大僧都任命(8月18日)
1908 41 35 宝厳寺(松山市道後奥谷)住職着任。
この頃、寝食を忘れて仏教学の研究に打ち込み、多数の著書を発刊する。『新仏教』にも投稿多く、上京する機会も多かった由。
檀家では「寺務を疎かにした学僧」の逸話が伝えられているが、橘恵勝師が「寺務を疎かにした学僧」かもしれない。
橘師は著書の中で「訳あって東京に出た」と記述している。離任の翌年東京で死去した。
1909 42 36 『浄土教発達史論』(金尾文淵堂)
1910 43 37 藤沢山内時宗宗学林教師拝命。
1916 大正5 43 『仏教心理の研究』(丙午出版社)
1918 7 45 『印度佛教思想史』(大同館)
1921 10 48 『支那佛教思想歴史』(大同館)  『日本古代思想史』(丸木書店)
1922 11 49 『生きんとする心理』(丸木書店) 『史学とは何ぞや』(丸木書店) 
宝厳寺住職離任、上京(東京都巣鴨宮下)する。
1923 12 50 『東洋思想史概説』(丸木書店) 『日本上世思想史』(丸木書店)
死去(年月日不祥 墓地不祥) 東京都巣鴨宮下ヵ
(注)図書・雑誌の掲載論文は未掲載。
【参考】
宝泉寺(ほうせんじ) 擁龍山竹林院宝泉寺といい、大阪府高槻市別所本町にある。元応二年(1320)遊行三祖智得上人開創。元禄八年(1695)五月遊行四十四代尊通上人中興す。
真光寺(しんこうじ) 神戸市兵庫区松原通、西月山真光寺。もと和田岬の光明福寺の観音堂。(略)
橘恵勝(たちばな えけい) 「橘恵勝 略年譜」に記載。基本資料は以下の3書籍である。
@『時宗辞典』(時宗教学研究所編 1989)
A『遊行・藤沢上人歴代上人史』(禰宜田修然・高野修著 1989) 
B『時宗の寺々』(禰宜田修然著 1980)
【特記】岩田真美 論文「近代日本における知識人宗教運動の言説空間―『新仏教』の思想史・文化史的研究」(龍谷大学文学部真宗学科 講師)  
【メモ@】
橘恵勝(御風)は2-2に「内観主義を排す」を投稿して以来、寄稿74回(私信欄32回)を重ねた愛媛県道後の時宗僧侶である41。橘も同志会幹部と直接の面識はなく、純粋に仏教学的関心からの参加者であったようである。
寄稿論文の題目には「大毘婆沙と起信論」「支那仏教史上の大小乗論」「大乗仏教逆体史観」「大般若経概論」「大宝積経概論」といったいかめしいものが並ぶが、実際問題として、『新佛教』はこのような教学的関心に応えて知的応酬が交わされるような場であったとは言いがたく、稀に小さなやりとりが見られる以外には、誌上での橘は孤独に見える。
もっとも、時宗学頭になって以来42、上京して幹部達と会食する機会が増えており、橘にとって『新佛教』は宗門外の人々との交流の場として有意義であったように見える43。
41. 6-3の広告によると伊予道後湯之町の寶厳寺内に白雲居学問所を設け、仏教専攻生を募集している。月刊の『時衆』主筆という肩書きも見える。同誌の寄贈報告が6-4、283頁にある。
【メモA】
松山市道後で活動している「一遍会」の第310回例会で三好恭治が「『一遍会史』の試みA誕生期 ―浅山圓祥師と門弟の時代―足助威男、古川雅山、越智通敏&新田兼市(一遍堂)―」で宝厳寺歴代住職を発表した。この中で宝厳寺第四六世小林覚住師が大正十四年に着任しているので、橘恵勝師が第四五世であったと推定できる。

第四五世  橘  恵勝  (明治四〇年〜大正十一年)

第四六世  小林 覚住  (大正一四年〜 
第四七世  滝口 恵光
第四八世  松本 澄眼   
第四九世  松本 義定 
  
 (注)第四六世から第五〇世までは、時宗霊山派の名刹兵庫「薬仙寺」(元・大輪田道場)の出身である。霊山派の本山「無量寿院正法寺」は国阿が(永徳三年1383)に創設。遊行七代託何の弟子。末寺に丸山安養寺、東山長楽寺、塩小路白蓮寺、兵庫薬仙寺など。「伊勢熊野参詣輩許永代汚穢」を賦る。奥谷派「宝厳寺」は、仙阿(一遍・聖戒の兄弟?)の法嗣で尼僧「珍一房」が遊行七代託何に帰依、康永三年(1344)遊行派に帰属。

第五〇世  永浜 秀道 (昭和三五年入山〜昭和四四年〜四六年三月入寂 茨城県出身)
第五一世  渋谷 英之 (昭和四〇年入山〜昭和四四年〜昭和四七年六月離山 宮城県出身)
第五二世  浅岡 圓祥 (昭和四七年九月入山〜五一年九月入寂) 
○兼住   福島邦祥師 (富山 浄禅寺) 福島邦祥師は故浅山圓祥師法弟
○兼住   長岡恵真師 (内子 願成寺) 愛媛県下の時宗寺院は二寺(願成寺と宝厳寺)。
第五三世  長岡 隆祥 (昭和五八年五月〜平成二六年一〇月一一日逝去)
○兼住   川崎玄倫師 (尾道 海徳寺) 時宗第二四教区 区長
【メモB】
宝厳寺住持が15年余になるので、時宗の碩学橘恵勝師を顕彰したいと考えている。檀信徒の方から、明治・大正期の宝厳寺の情報をご提供いただきたい。特に「白雲居学問所」の所在、建物などはまったく未知である。 
【資料】
一遍上人の思想と哲学        宝厳寺第四十五世  橘恵勝師
 字佐八幡宮の習合神道が、本地阿弥陀佛であるといひ、不動明王であるといふが如く、雑駁なる付会説となり、両部神道、一実神道といふが如き思想が成立する迄の過程には、思想の原理を要求せずして、異種の文化を同化せんとする複雑なる構想が現れてあつたのである。
この神道思想の発達は、日本の思想史にて重要なる事実なれども、思想の原理が要求されてないから、異種の文化を同化せんとしても、排斥せんとしても、哲学されてないのである。
其れ故に神道思想が如何に発達しても、出発点に於て哲学されてないから、民族生活を合理的に基礎づけ、民族思想に実在、若しくは実在に近きものを、認めしむることは出来ないのである。民族思想に実在、若しくは実在に近きものを認むる哲学が成立されてなければ、現実に幻滅して、文化を開展する生活なきことは、世界の思想史にて確められたる事実であるから、聖徳太子の哲学と、神道思想の発達と如何なる関係にて進行しあるかといふことは、民族思想の歴史的生命を無窮ならしめ、或は断滅せしむる現れとなってあるのである。
真理の要求を象徴したる篤敬三寶の合理的意義は、密教流行のために理解されなくなりて、最澄の天台宗にありて、学問の意義なき口伝法門が現れ、注釈の方法にて三大部を究めんとしたる證眞の思想は、自から出発せんとする問題さへ不明になつて、眞理の理解は失ふてあったのである。されば天台宗ばかりではない一般の風潮であつたから、伊勢太神宮の本地を盧舎那佛であるといひ、熊野證誠殿の本地を阿弥陀佛であるといふが如く、本地垂迹の説は、汎神論的道理を内面的に理解したる、日本浄土教にてさへ認められてあったのである。本地垂迹説は見様によると普遍紳と民族紳との関係を接合する混淆説であるから、内面的に汎神論的道理を理解せざるものは、普遍神と民族神とを、外部的に分別せんとするものが現れた。高倉天皇の寿永元年(西紀一一八二)に園城寺の長吏となれる公顕は、崇廟紳と、社稷神と、樺者神と、実者神と、邪冥神とに分別して、田頭野外の邪冥神は拝すべからされど、民族神と普遍神とは共に礼拝すべきものにして、佛より出でゝ佛より貴きは吾国の神冥なりといふてゐる。吾国の神冥が何故に佛より出でゝ佛より貴きかといふことは説明されてなけ れど、公顕は神祇伯顕康王の子であるから、国粋観念の発露と見なければなるまい。この神道観念が偏狭なるものとならば、異種の文化を排斤する支那の道教が支那民族の自治を失はしめたるが如き、亡国思想となるべきものであったのである。
日本佛数は、民族思想を合理的に基礎づけたるものにして、固有の神道を合理化したるものであるけれども、異種の文化が同化されてあるがために、全く異種の文化を移入したるものと誤解されて、吾国の紳冥は佛より出でゝ佛より貴きものであると見るものが現れたのである、そして日本佛数は、民族思想の歴史的生命に現れたるのであることを理解せざるものは、民族神を軽蔑して、日蓮は釋尊の御使なれば、天照太紳、正八幡宮も頭をかたむけ、手を合せて地に伏し給ふ事也といふが如く、自から民族思想の中心に立ちて、伝統思想を認めざる独尊思想が現れたのである。日蓮は、源信が南無平等大慧一乗妙法蓮華経生生世世値遇頂戴我等法華経にあり奉らざりせば、両界の諸専、我が身の中にましせすを知らざらましといひたる思想に暗示されて、唱題成佛を高揚したのであるから、信仰の人にして思想史に位置を得べき人ではないのである。日蓮は自から釈尊の御使であると信じたることは日蓮の信仰であって、僅の天照太紳、正八幡なんど申すは、此国には重けれども、梵釋日月四天に対すれば小神ぞかしといふが如き神観は、民族的意識に現るべきものではなかったのである。念 仏無間、禅天魔、真言亡国の此三つの大悪法、鼻を並ペて一国に出現せしが故に、此国すでに梵釋二天日月四王に捨られ奉り、守護の善紳も還つて大怨敵とならせ給ふ、然れば相伝の所従に責従へられて、主上上皇共に夷嶋に放たれ給ひ、御返りなくてむなしく島の塵となり給ふといひて、北條氏の樺力意志に圧制されたる時代の輿論を是認したは、立正安国論を建白したる愛国思想が、民族思想の歴史的生命に現れたとは認められないのである。民族思想の中心にあるペき皇統が、権力意志の所在なる政府のために、あるかなきかの取扱ひをうけて、君民同冶の民族運動が、自覚されざる暗黒時代となれるは、上下無自覚なる時代の輿論を是認したる、日蓮の思想に代表されたる、時代思想のためであったのである。.日蓮は関東と関西との全く融和せざる時代の民族思想にて、関東の時代思想を代表したる人であったとも見ることが出来るけれども、思想の人ではなかつたのである。
源空の懐疑は、純粋信仰にまで徹底して、哲学されたけれども、自から愚癡の身となして、願力に乗じて念佛することを教へ、信仰の規範となるべきものを、信仰の心理にて示さなかったのである。一遍は源空の法孫より浄土教を学び、信仰の心理に純雑の別あることを知り、熊野證誠権現の照鑑を仰ぎたる領解により、信仰の規範を信仰の心理に立てたるは、民族神と普遍神とを同一神格と認めたる思想に出発したるものであったのである。そしてその普遍神を信仰の対象となせる信仰主観を発見して、純粋信仰の規範となせるものであったのである。
一遍の信仰主観は、印度佛教にて龍樹の本住心といへる、認識主観に於けるが如く、普遍性あるものなれど、寵樹の如く原始仏教の根本義を理解したるものでないかち、思索の精錬を経ざる直覚的見解にて、信仰の心理に穿入して、純粋なる信仰主観を規定したのである。
源空の浄土教は、法爾の道理を基礎として建設され、佛願に順するが故に往生を得るといふは、法爾の道理によることにして、炎は空にのぼり、水はくだりざまに流るゝは法爾の道理なりといへるが如く、一遍もまた法爾の道理に立ちて、信仰の帰趣を認めたのである。
一遍は「他力不思議の名号は自受用の智なり、故に佛の自説といへり、随自意といふ心なり、自受用といふは水が水をのみ、火が火をやき、松は松竹は竹、其体をのれなりにして生死なし」といひて、汎神論的法爾道理に立ってゐる。
「然るに衆生我執の一念にまよひしより以来、常没の凡失たり、こゝに弥陀の本願他力の名号に帰しぬれば、生死なき本分に帰るなり、是れを努力翻迷還本家といふなり、名号に帰せざるより外は、争でか我と本分本家に帰るべき」といひて、浄土に生るゝことは新生でない還生であるのである。西方浄土の指方立相によるけれども、汎神論的なる心の外に浄土があるのではないから、凡そ大乗の佛法は心外に別の法なきなり、たゞし「聖道は万法一心と習ひ、浄土は万法南無阿弥陀佛と成するなり、万法は無始本有の心徳なり、然るに我執の妄法におほはれて、其体あらはれがたし、彼一切衆生の心徳を、願力を以て南無阿弥陀佛と成する時、衆生の心地は開くなり、然れば名号は即心の本分なり、是を去此不遠ともいひ、莫謂西方遠唯須十念心ともいふなり」といひて、無始本有の心徳を願力を以て、南無阿弥陀佛と成する時に信仰が成立するのである。そして「我執を拾てゝ南無阿爾陀佛と、独一なるを一心不乱といふ、されば念々の称名は、念佛を申すなり、然るをわがよく心得、わがよく念佛申て住生せんとおもふは、自力我執が失せざるなり」、往生すべからずといふてあるから、 念佛が念佛を申す位になるを、他力の信仰状態と認めたのである。要するに信仰の対象に思慮分別を加ふることを自力といひ、自の思慮なく佛願に順ずるを他力といひて、源空の所説と他力の意義に相異あることなけれども、一遍は佛願に順する心を批判したのである。一遍は「世人おもへらく自力他力を分別して、我体をあらせて、われ他力にすがりて往生すべしといふは、此義しからず、自力他力は初門の事なり、自他の位を打捨て唯一念佛になるを、他カとはいふなり」といふてゐる。この唯一念佛になりたる状態が、純粋信仰にして、これが規範を信仰の心理に求むれば、
心(個人主観)をば、心(普遍主観)の仇と、心得(認識〕て
 心(自の思慮)のなきを、心(信仰主観〕とはせよ。
普遍主観を信仰主観の規範とすることになるから、一遍は直覚的に普遍主観を認めたのであるけれども、この規範を明確にせんとすれば、哲学せなければならなかったのである。哲学することを欲せざる時代思想に、哲学せなければ明確にすることを得ざる、信仰の規範を立てたのであるから、一遍の思想は、日本佛数の宗教哲学が、理解されなくなれる時代思想に埋没せんとしたのである。されど聖徳太子の思想は、日本民族が民族的生活をなせる合理的基礎であるから、哲学せんとする民族的自覚が洞開さるゝときには、一遍の信仰規範は、認識規範にまで思索さるゝ純正哲学が、認識論的解脱の教案を要求すペき筈であるのである。
(注)橘恵勝著『東洋思想史概説』(大正十二年 丸木書店刊)「第三篇 日本 第四章 中世の思想」(六)一遍(P369〜375)に拠る。
一遍会第五一九回例会「卓話」にて配布した。