第三十三章  一遍成道の地・伊予国窪寺再考 〜「一遍聖絵」に描かれた二人の僧は一遍と聖戒か〜
1 一遍会の主要行事
月例会は毎月第二火曜日午後一時から三時まで道後公民館で開催している。年間の主要催事は
@春三月第二土曜日に奥谷・宝厳寺で「一遍生誕会」を主催し法要と「松寿丸(一遍聖幼名)湯浴み式」を執り行っている。平成七年(一九九五)三月一五日が初回である。
A秋九月第三土曜日には窪野・北谷の念仏堂で「一遍忌法要」を行い、続いて窪寺遺跡と閑室を見学。見事に咲いた曼珠沙華を眺めて散策する。近年は地元との共催で正八幡神社でのお神楽奉納と窪野の新米とコンニャクの接待がある。昭和五九年(一九八四)九月が初回である。
B昭和五五年(一九七〇)から一遍・時宗遺跡見学の「遊行会」が発足し一〇回余にわたり全国各地を巡察したが中断。近年「例会」の中で地方開催を企画し、内子(願成寺・まちなみ)、宇和(歴史文化博物館明石寺)を巡察した。大三島、岩屋寺などを企画中である。
U 窪寺遺跡特定の経緯
@昭和五〇年(一九七五)一〇月八日「時宗立宗七百年記念遠忌行事」の一環として旧久谷村窪野に「窪寺一遍上人修行地記念碑」建立。宝厳寺第五二世、浅山圓祥師が主導した。
A昭和五七年(一九八二)九月二四日松山市窪野町北谷に「一遍上人窪寺遺跡」碑建立。平成元年(一九八九)「一遍上人生誕七五〇年没後七〇〇年記念事業」として「窪寺閑室跡碑」建立。一遍会が主導した。
B本山と地元(一遍会ほか)で「窪寺遺跡」を巡っての歴史的な評価のずれがある。本山(時宗教学研究所)は公認に消極的で、浅山圓祥師→橘俊道師→高野修師ら歴代研究所長並びに梅谷繁樹師も著書で疑問を呈している。
 現在は@熊野権現(成道地)A神戸市真光寺(示寂地)B長野市善光寺(機縁地)C藤沢市清浄光寺(時宗本山)が「聖地」となっている。一遍智真生誕地(宝厳寺か河野氏別府か不明)は「聖地」として特定できない。窪寺遺跡も当初の久谷・丹波から窪野・北谷へ移動したが、窪寺遺跡再現ならびにその後の一遍忌(窪寺遺跡見学&曼珠沙華祭り)行事について「一遍会」の果たした役割は大であるが、地元窪野(北谷)の関係者の物心両面の支援がなければ今日はあり得ない。特に現在も一遍会理事である中川重美氏の存在なくしては「一遍会の窪寺神話」は生まれるべくもなかった。
【主要参考著作】
@越智通敏著「一遍上人窪寺遺跡について」―『瀬戸内社会の形成と展開―海と生活』―(雄山閣一九八三年刊)
A『いまこそ一遍を 記念事業を終わって』(青葉図書一九九〇年刊)
B『一遍会報』特集号(一九九七年九月号)
C パンフ『一遍上人成道窪寺遺跡』『一遍上人成道窪寺閑室跡』『一遍上人窪寺念仏堂』
V 「窪寺といふところ」
 史資料に書かれている主な窪寺の記述を下記する。
@『温泉郡誌』(明治四二年三月刊):「昔は窪と称したれども、後、野字を加ふ。蓋此地方凹陥せる平野と云ふ義なり。」
A『空性法親王四国霊場御巡行記 寛永一八年(一六三八)』(『国文東方仏教叢書』)「桜の並木、窪の寺、浄瑠璃、八坂、八塚の西山王党由並の城鉢・・・」
B『一遍聖絵』巻一・第四段「同年秋のころ、予州窪寺といふところに、青苔緑薙の幽地をうちはらひ、松門柴戸の閑室をかまへ、」
C『一遍聖絵』第九・第二段「丹波国の山内入道と申もの、(中略)最後のたび四国までつきたてまつりて、伊予の窪寺と申所にてつゐに往生をとげはむべりぬ。」
D内子時宗願成寺縁起(足助威男『若き日の一遍』引用)「八幡浜市矢野畑と東宇和郡宇和町河内にまたがる大窪山があり、ここに大久保寺があった。この大窪山の山麓あたりに一遍は庵を結んだのではなかろうか。(中略)窪寺は一つだけあったのではないだろう。顧成寺、大窪山、窪野等々、この時期に修行した寺を総称して」窪寺といったのではなかろうか。
 『一遍聖絵』では「窪寺」が二回記述されており、年代は弘長八年(一二七一)と正応元年(一二八八)、場所は予州窪(寺)と特定出来る。丹波国の山内入道が窪寺住持となり、同地は今日入道に因んで丹波と呼称されている。早くから一遍、聖戒の影響で時宗(時衆)寺院化したのではないか。江戸時代には窪寺の寺格は失せ「窪の寺」なる小寺になったのではあるまいか。
 論者の大胆な推論では、伊予に残った聖戒は「窪寺」の住持となり、一遍・時衆一行が在国時は拝志郡別府での長逗留は考えられず、河野氏の支配下にある窪野の窪寺が生活拠点として河野氏(河野通有は一遍の従弟)や聖戒が積極的に支援したと推量する。時衆集団を迎え入れる場所・食料・風土・文化が窪寺にはあり、時衆の疲弊した体力を回復させ、経済的援助を与えた。当時の時衆にあっては『一遍聖絵』に列挙された著名な社寺仏閣に匹敵する寺であったに相違ない。残念ながら現地に史資料は一切残っていない。
 越智通敏は上記論文で「窪寺一遍上人修行地記念碑」近くに「丹波庵」があり「山内入道墓」の伝承と江戸期の時宗の尼の墓を紹介している。但し「山内入道墓」の存在は否定しているが反証は挙げていない。この地に時宗の寺(庵)があったことは墓石から明らかである。江戸期まで時宗寺院として存続しているので、夥しい「遍路記録」等から確認できるのではないか、必ずや史料を「発見」できると確信している。
(参考)
 越智通敏論文「一遍上人窪寺遺跡について」<『瀬戸内社会の形成と展開ー海と生活』地方史研究協議会編 雄山閣(1983)p279〜283>
○別府河野の地
 →一遍父:河野別府七郎左衛門通広(出家して如仏)
 →別府:@河野郷別府 河野支族「別府氏」
     A拝志郷別府<旧重信町下林>
 →別府⇒佐川⇒北谷(荏原郡窪野村)<山道=生活道=通婚>⇒桜⇒三坂峠
  (別コース 八坂寺⇒浄瑠璃寺⇒桜⇒三坂峠) 
 (注)別コースは「土佐街道」に対応している。名前の通り伊予国から隣土佐国へ向う街道である。
    山内譲著『伊予の地域史を歩く』(青葉図書平成12年刊)所載「第一章土佐街道を歩く」を参照されたい。
○窪寺というところ
 →一遍:文永八年予州窪寺で閑室を構える<成道の地> 
 →丹波の国の山内入道:伊予の窪寺で往生す <丹波・窪寺>
 →空性法親王:『四国霊場御巡行記』(寛文15年1638)<桜の並木、窪の寺>
 →行き倒れ遍路の墓:桜部落上〜山手〜古社(古道)<行き倒れ場所と弔い場所>
○一遍上人窪寺御修行乃旧跡
 伊予鉄バス丹波停留所崖上(公民館横草堂前)
 昭和五十年十月「一遍上人成道七百年記念」宝厳寺浅山圓祥師中心
 歴史的遺跡碑ではなく信仰の対象(塔婆型・梵字・名号・十一不二頌)
 「丹波庵」=山内入道墓?  時宗尼僧墓(江戸期)<尼僧系多し 宝厳寺・円満寺・願成寺>
 「閑室跡」(草堂南250米)特定 <相原熊太郎翁(浄瑠璃村)> →地籍・字名に「丹波」なし
○窪野村北谷
W 『一遍聖絵』巻一「窪寺閑室」画像分析〜描かれた二人の僧は一遍と聖戒か〜
『一遍聖絵』巻一 「窪寺閑室」
       「一遍聖絵」本文                   コメント
同年秋のころ、 文永八年(1271)秋 文永八年(1271)秋
予州窪寺といふとことに、 伊予国(愛媛県)松山市窪野にある寺
@丹波説<宗門> A北谷説<一遍会>
青苔緑蘿の幽地をうちはらひ、 開墾された田畑が西に広がる<寺僧、百姓>
谷川を隔てて民家<寺僧、百姓> 標石(石地蔵)あり<必要性?>
松門柴戸の閑室をかまへ、 松の門柴の戸なし、
閑室と云えるか <3間×4間=12坪>
板屋根・板壁・板床<縦引き大鋸?>
東壁にこの二河の本尊をかけ、 東壁に二河本尊図なし
交衆をとヾめて、ひとり経行し、
<人との交わりを絶つ><キンヒン 坐禅中眠気防止の行>
応対の人物は?
万事をなげすてゝ、もはら称名す。 .
四儀の勤行さはりなく
<行住坐臥の勤行>
.
三とせの春秋をおくりむかへ給ふ。 二年弱<文永八年(1271)秋〜文永十年(1273)七月>
かの時、己心領解の法門とて、七言の頌をつくりて、
<自己の心><会得><衆生の仏法に入る門>
.
本尊のかたはらのかきにかけたまへり。 本尊(東壁前?)、七言の頌、なし
其(の)詞(に)云(く)
   十劫正覚衆生界 一念往生弥陀国
   十一不二証無生 国界平等坐大会
<一劫=梵天の一日。人間の4億3200万年。人類200万年前、地球46億年前=十劫>
【閑室の人物】
左の人物:痩身、正座
右の人物:丸顔、肩幅広い、安座 
⇒修正発見<京都国立博物館(若杉準治)指摘>
左の人物:修正なし
右の人物:数珠ナシ 両手を挙げている
【閑室の人物】
一遍(?)聖戒(?)北川淳一郎<左右未特定>
一遍(右)聖戒(左)黒田日出男 砂川博<画像分析>
一遍(右)旅僧(左)『中公版一遍上人絵伝』
一遍(左)旅僧(右)『日本常民生活絵図』
一遍( 一遍(左)地僧(右)京都国立博物館(若杉準治) 
@【同年秋のころ、】 文永八年(1271)春、信濃の善光寺に参詣し、三国伝来の「一光三尊」を拝し、「二河白道図」を写して伊予国に帰る。
A【予州窪寺といふとことに、】 上記「窪寺といふところ」に詳細記述。
B【青苔緑蘿の幽地をうちはらひ、】 画面左に 開墾された田畑が西に広がっている。昔から窪寺の寺僧や百姓が営々として耕したものであろうし豊かな稔りを感じさせてくれる。画面右隅には谷川を隔てて寺院(庵)か民家があり、畦道には屋敷までの標石(石地蔵)が建っている。一遍の住まいには標石は全必要性はない。寺(庵)への道標であろうか。
C【松門柴戸の閑室をかまへ、】 松の門柴の戸は描かれていない。家屋は3間×2間の板間と奥には同規模の部屋か土間があると推察される。12坪24畳の家屋と川屋(厠)と風呂は独立した建物とすると「閑室」ではあるまい。「閑居」と呼ぶべきであろう。この「閑室」は板屋根・板壁・板床であるが、都や鎌倉の社寺、貴族。武家の棟梁の建築なたともかく伊予国の石鎚山系の麓の山村の一時的に住まいする「閑室」で板を使うことがあったのだろうか。縦引きの鋸が普及するのは室町時代であり、しかも明から大鋸が輸入されて以降である。河野氏も「承久の乱」以降疲弊しており、まして一遍にそれほどまでの経済力があったとは考えられない。鴨長明の「方丈記」に描かれる「方一丈」(四畳半)の庵規模でないとすると、絵巻の描かれた「閑室」は元々あった寺(庵)の一室か独立した建物といえる。
D【東壁にこの二河の本尊をかけ、交衆をとヾめて、ひとり経行し、万事をなげすてゝ、もはら称名す。 . 四儀の勤行さはりなく】 この件の主題である「二河本尊図」は画面の東壁には掛けられていない。人との交わりを絶つて、ひたすら称名を唱え、四儀の勤行を行う一遍が応対する人物とは? 文章とはかけ離れた画面である。
E【三とせの春秋をおくりむかへ給ふ。】 正確には 二年弱<文永八年(1271)秋から文永十年(1273)七月>までであり、秋冬は二度しか迎えていない。「石の上にも三年」というが、長いという印象を与えることが狙いではなかったか。
F【かの時、己心領解の法門とて、七言の頌をつくりて、本尊のかたはらのかきにかけたまへり。其(の)詞(に)云( 十劫正覚衆生界 一念往生弥陀国 十一不二証無生 国界平等坐大会】 一遍成道の証でもある「十劫正覚頌」は 東壁前(?)に安置された本尊の傍らの柱の鉤に掛けられて当然である、「二河本尊図」も、「十劫正覚頌」も描かれていない。
G【閑室の人物】 
 平成六年から六年をかけて京都国立博物館で「一遍聖絵」の修復作業が実施され平成十四年十月に同博物館で修理完成記念の特別陳列が公開され、引き続き奈良・東京の国立博物館でも公開された。修復を担当した京都国立博物館の若杉準治氏論文「国宝・一遍聖絵について」にもあるが、窪寺の図においても右の僧が大幅に書き換えられたことが判明した。この発表以前は左側の僧が聖戒、右側の僧が一遍の説が有力であったが、右側の僧が一遍ではないことが確認された。
左僧の座っている場所の近くに脱い草履があり、右僧の草履がないことから右僧はこの屋形の者(地元の僧=地僧)と推察される。地僧から重要な話を聞いている一遍という取り合わせである。画像と文章が完全に遊離しているので話の内容は不明であるが、窪寺にて修行することを決意した一遍が地僧にその旨を申し出たとも考えられる。先行研究では聖戒の名前も挙げられているが、聖戒が介在する余地はなさそうである。
論者としては、左の僧が一遍、右の僧が窪寺の住持で、窪寺内の「閑室」にて修行する旨の話し合いと考える。窪寺は河野氏の治める領地にあり修験道の宿坊を兼ねているかもしれない。ここで二年弱修行し、更に岩屋寺で参籠することになる。
(参考)
【閑室のイメージ】『広辞苑 第六版<岩波書店>』
@【方丈記】鎌倉初期の随筆。鴨長明著。1巻。1212年(建暦2)成る。仏教的無常観を基調に種々実例を挙げて人生の無常を述べ、ついに隠遁して日野山の方丈の庵に閑居するさまを記す。簡潔・清新な和漢混淆文の先駆。略本がある。【鴨長明】<かものながあきら>(1155?〜1216)
鎌倉前期の歌人。菊大夫と称。下鴨神社の祢宜の家に生まれ、管弦の道にも通じた。和歌を俊恵に学び、1201年(建仁1)和歌所寄人に補任、04年出家、法名、蓮胤。大原山に隠れ、のち日野の外山に方丈の庵を結び著作に従った。著「方丈記」「発心集」「無名抄」など。
 <ゆく河の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず。淀みに浮ぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたる例(ためし)なし。世中にある人と栖(すみか)と、またかくのごとし。たましきの都のうちに、棟を並べ、甍を争へる、高き、いやしき、人の住ひは、世々を経て尽きせぬものなれど、これをまことかと尋ぬれば、昔ありし家は稀なり。或は去年(こぞ)焼けて今年作れり。或は大家(おおいえ)亡びて小家となる。住む人もこれに同じ。所も変らず、人も多かれど、いにしへ見し人は、二三十人が中に、わづかにひとりふたりなり。朝(あした)に死に、夕(ゆうべ)に生るるならひ、ただ水の泡にぞ似たりける。>
○【方丈】1丈四方。畳四畳半の部屋。方丈記「広さはわづかに方丈」『広辞苑 第六版<岩波書店>』
A【徒然草】鎌倉時代の随筆。2巻。作者は兼好法師。出家前の1310年(延慶3)頃から31年(元弘1)にかけて断続的に書いたものか。「つれづれなるままに」と筆を起こす序段のほか、種々の思索的随想や見聞など243段より成る。名文の誉れ高く、枕草子と共に日本の随筆文学の双璧
◎【吉田兼好】(1283頃〜1352以後)鎌倉末期の歌人。俗名、卜部兼好。先祖が京都吉田神社の社家であったから、後世、吉田兼好ともいう。初め堀川家の家司、のち後二条天皇に仕えて左兵衛佐に至る。天皇崩後、出家・遁世。歌道に志して二条為世の門に入り、その四天王の一人とされた。「徒然草」のほか自撰家集がある。
<つれづれなるままに、日暮らし、硯にむかひて、心にうつりゆくよしなし事を、そこはかとなく書きつくれば、あやしうこそものぐるほしけれ。>
【閑室の検証】『図説 歴史散歩事典<山川出版社>』 
【屋根】
○草葺・・・茅葺 藁葺 麦藁葺
○板葺・・・大和葺(法隆寺金堂裳階<もこし>)栩<とち>葺 木賊<とくさ>葺 柿<こけら>葺
(注)【栩板】屋根を葺ふくのに用いる板で、厚さ1〜3センチメ-トル、幅9〜15センチメ-トル、長さ63センチメ-トル以下のもの。古来、能舞台や堂社の屋根に用いる。
   【木賊】トクサ科の常緑シダ植物。根茎は横走し、地上茎は高さ約50センチメ-トル、円筒形で分枝しない。
   【柿】木材を削るときできる木の細片。また、木材を細長く削りとった板。
○樹皮葺・・・桧皮<ひわだ>葺 杉皮葺
【屋根の形式】
○切妻造
○寄棟造
○入母屋造
○宝(方)形造(六注造・八注造)
【壁の種類】
○土壁
○漆喰壁
○板壁・・・<縦挽鋸は室町中期から普及>
○石壁
○その他 煉瓦壁 コンクリート壁 石膏ボード(壁) 断熱材壁
【閑室の広さ】
○丈・・・長さの単位。尺の10倍。約3メ-トル。「丈六仏」「方丈記」。<1丈四方。畳四畳半の部屋>
○間・・・日本建築で、柱と柱とのあいだ。普通1間は6尺(約1.818メ-トル)。<窪寺閑室は2間×3間×2>
【縦挽鋸の歴史】『竹中大工道具館 1996年企画展「鋸の小宇宙」図録解説 大幅加筆』
鋸の出現は古く、旧石器時代に原始的なものは使われ始めていたようだ。けれども木工具として実際に用いられ始めたのは、金属製の鋸が登場してからであろう。紀元前のエジプト、中国の殿・周時代は、すでに青銅製の鋸が使用されており、特にエジプトでは、紀元前14世紀頃には、現在のものとほとんど変わりのないものが出揃っていたという。鉄製鋸は、ヨーロッパではローマ時代、中国では秦・漢時代に使用され始めている。これには青銅製鋸には見られなかった鋸歯の傾斜やアサリが付与されており、加工能力は大きく向上していたようだ。
 わが国では原始には石斧が加工の主要な道具であった。弥生時代になると鉄の技術がもたらされ、鉄斧が使用され始めるが、鉄製鋸の出現は、かなり遅れて古墳時代前期と考えられている。ただし古墳時代前期の鋸は、短冊型鉄板に素歯を刻んだ簡素なもので、建築生産に実用されていたかというと疑問符が付く。古墳時代も後期になると、木柄を装着するための茎(なかご)を持つものが多くなり、鋸歯にガガリ目やアサリ・ナゲシを持つものなど、木工具としての進歩が見られる。
 古墳時代には古墳に副葬されていた鋸も、古墳築造が減少するにつれ出土数も減り、飛鳥・奈良時代から鎌倉時代にかけて現存するものは多くない。現存する鋸も特異な形状をしたものが多く、不明な点も多いが、前時代にくらべて大型化し木工具としてほぼ完成した形態を持っていたと考えられる。中でも法隆寺献納宝物鋸は伝世品としては、最古の鋸であり、鋸身を一部破損しているが、木柄を完全に残している貴重なものである。また現存する木造建築で鋸の痕跡を残している最古例も法隆寺の建物である。修理時の調査によれば、大斗の切断面に鋸痕(横挽き)が確認されている。
中世に入ると、鋸歯を湾曲させて先端部が尖らせた「木の葉型鋸」が用いられたことが絵巻などからわかる。この形式の鋸は江戸時代中頃まで使用されたと思われるが出土例は少ない。
(注)『春日権現験記』1309年(延慶2)『松崎天神縁起絵巻』1311年(応長1)に「木の葉型鋸」が描かれている。製材に視点を向けると、室町時代中頃までわが国に縦挽鋸はなく、鑿(のみ)による打ち割り法で製材が行われていたが、中世に入り2人挽きの縦挽鋸「大鋸(おが)」が大陸からもたらされると製材能力は飛躍的に向上し、建築生産に大きな影響を与えるようになった。この大鋸はわが国では短期間で姿を消していくが、それは1人挽きの「前挽大鋸」と小割用の「ガガリ」に形を変えて伝えられ、明治中頃に機械製材に取って代わられるまで製材の主流であった。特に幅広の鋸身をもつ前挽大鋸は日本独特の鋸である。
 江戸時代に入ると、道具生産力の向上と職能の分化により、鋸は用途別に細分化が進み、今日見られる伝統的な鋸の多くの形式が出揃ったと考えられている。また会津や三木などの鋸の産地が発生したのもこの頃である。明治になると今日見るような両刃鋸が発生し広く普及するようになった。
一方で明治から始まった製材の機械化は徐々に手道具に取って代わり、戦後になると飛躍的に発達した電動工具によって大工仕事も機械化され、今日、手道具としての鋸はその発達の歩みを終えてしまったように見える。しかしながら手道具がもたらす肌触りや精度を求めて、よい鋸を求める大工がすくなからずいることもまた事実である。
 
       
X 「窪寺新伝説」の提唱
 今回「窪寺再考」として通説を検証したが、通説を以って正鵠であるという結論にはならなかった。むしろ多くの疑問が生じた。
 事実と真実の狭間で一遍成道の地・窪寺並びに窪寺閑室を考えたが、現地検証が改めて必要であることを痛感した。新・窪寺伝説への取り組みとして窪野修験道の研究、河野別府の研究、窪寺の発掘、地元伝承の発掘が急務であろう。そのためには@文献調査(資史料収拾、資史料分析 A考古学(発掘、年代測定、非破壊的調査) B民俗学・伝承の援用 C歴史認識、歴史観の共通理解を進める必要がある。
 現在疑問に感じている通説がある。既に一遍学者や宗門でも確定している「通説」であるが、納得がいかないので下記に掲載する。是非ご教示を頂きたい。
1)「一遍聖絵」の成立〜 「一人のすゝめ」とは誰を指すのか
 ビジネス感覚では当たり前の5W2H (W・・・「いつ」「どこで」「誰が」「何を」「なぜ」とH・・・「どのように」「いくらで」)で考えてみる。
「いつ」  「一遍聖絵は「正安元年<己亥)1299年8月23日完成」
「どこで」  「京・歓喜光寺?」
「誰が」  「西方行人聖戒<一遍の義弟とも息子とも?>」
「何を」  「一遍聖の行状 絵四十八段=弥陀四十八願 巻数十二軸=十二光仏」
「なぜ」  「一遍聖没後10年」とも「聖戒が一遍の正統の後継者であることを示すため」とも 
「どのように」  「一の人の勧め」とも「一人=聖戒の発願」とも
「いくらで」  「一の人=摂政関白九条忠教の支援」とも「一人=聖戒への発願」とも
「一遍聖絵」では「一人のすゝめによりて此の画図をうつし、一念の信をもよほさむがために彼の行状をあらわせり」と書かれているが、漢語に置き換えると次のように表記される。   
『勧於一人 写此画図  <一人のすゝめによりて此の画図をうつし、
催一念信 顕彼行状』 <一念の信をもよほさむがために彼の行状をあらわせり>
 論者としては次のように考えている。この一文は対語であり「一人」は「聖戒」であり、京での一遍聖追憶の発願により『一遍聖絵』は絹布の絵巻物として誕生する。南無阿弥陀仏信仰の普及と強力な貴族〜民衆の結集力の証左ではなかったか。「高僧伝」ではあるが、同時に『一遍聖絵』の特徴は自然、社寺仏閣の紹介が画面の特徴であり、庶民にとってはまだ見ぬ「現世の極楽」の見世物絵巻でもあった。
(参考)「一人」の解釈について「いちのひと」として「摂政関白九条忠教」説が有力であるが、一念(いちねん)との対比で「いちにん」と読むのが正しい。『広辞苑 第六版<岩波書店>』によれば「一人」は四通りの意味がある。
いち‐の‐ひと 【一の人】  (第一の席につくからいう)摂政・関白、また太政大臣の異称。いちのところ。一の家。枕草子88「―の御ありき」
いち‐じん 【一人】  [書経太甲、疏]天子。天下にただ一人の御方という意から、天子への尊称。また、民の中の一人に過ぎぬという意から、天子の謙辞。
いち‐にん 【一人】  右大臣の異称。
いち‐にん 【一人】  ひとりの人。
 ○一人虚を伝うれば万人実を伝ういちにんきょをつたうればばんにんじつをつたう[朝野群載]一人がうそを言いふらせば、これを聞いた多くの人は、真実の事として言いひろげるものである。一犬虚に吠ほゆれば万犬実を伝う。
2)絹布は高級漉き紙に比し高価か
 「一遍聖絵」は絹布に描かれているが、「摂政関白九条忠教」の如き位人臣を極めた権力者でなければ手に入らない高価な画材であったかどうか、検証してみたい。
若杉準治の先述の論文によれば絹本の絵巻は「春日権現記絵」(宮内庁三の丸尚蔵館蔵)と「誉田宗廣縁起」(大阪・誉田八幡宮蔵)が知られるのみで、絵画制作に当たって円伊が絹本に慣れていた画家であったことが可能性の一つと推定されている。決して高価であることが第一義的事由ではない。
 鎌倉期の絹の供給量は計量することが困難であるが、宮中、貴族集団や上級武士層の衣料の使用量を想定すれば相当の量であったと考えてよい。教科書的には年貢は米であるが西国(九州並びに瀬戸内海経済圏)は別として東国即ち美濃、尾張以東は米年貢は例外的で、殆どが絹、綿、布、糸のような繊維製品であった。米を遠国から牛馬で運搬することは費用と労力の負担が重すぎ軽量の繊維製品に置き換えられたのは当然である。尾張、伊勢、三河、遠江、甲斐、下総、武蔵、下野、常陸のほかに西国でも丹後には絹或いは糸を年貢にした荘園がかなりあった。北陸の越前、越中、越後は綿年貢の事例が見られる。(網野善彦『日本中世の民衆像〜平民と職人」岩波書店)
 年貢は米を基準にして算出されたから鎌倉期に於ける絹布の価格を資料が検証できないが、米価との比較で以下の通り概算することが可能となる。
『一遍聖絵』の全長は135mは絹帛2匹(一匹は布帛2反)に相当する。鎌倉時代の絹帛と米の換算比率は【絹帛1匹=米6石】であるから単純計算では絹帛1匹は米12石(30俵)に相当する。(12石=120斗(30俵)=1,200升=12,000合) 『一遍聖絵』制作を発願した一人(聖戒)への布施としても貴賎さまざまに一俵から一合までの布施で実現可能といえる。一方『一遍聖絵』に使用した和紙の原産地等の詳細報告が不明である。
 論者としては、絵巻物の絹布使用は資料的には少ないが、衣装としての絹布の多彩な色彩表現は平安時代に確立しており何ら特異な描写ではない。併せて高級漉き紙に比し、絹布は米と同じく貨幣基準として流通しており入手は困難とはいえないと考察する。
3)聖戒と円伊(又は画家)は窪寺(現地)に立ち寄り、実景として絵巻物に描いたか。
 『一遍聖絵』では「窪寺閑室」に続いて「岩屋寺参詣」の画像となるが、この画像については伊予史談会理事山内譲氏は自然景観と「聖絵」の絵図との「印象はよく似ているが部分部分の形状は違っている」ことを指摘し「絵師が現地に出かけた」ことには疑問を呈した。(平成13年2月伊予史談会報告「『一遍聖絵』と伊予国岩屋寺」/上横手雅敬編【中世の社寺と信仰』掲載吉川弘文館2001刊)    
 「窪寺閑室」図は、聖戒の執筆した文章とは全く異なる情景を描き、描かれている二人の僧について説明はなく「意味不明」である。明らかに伊予国には訪れていないと断定しても差し支えあるまい。