第四十章  ジャーナリストに徹した松山中学3代目校長 西河通徹 〜小林小太郎周辺の伊予人C
西河通徹(にしかわ みちあき [みちつら・つうてつ]) 号は鬼城。注@ 

安政三年(一八五六)十一月十八日(新暦十二月五日)伊予宇和島鬼城山下(現愛媛県宇和島市)に宇和島藩士西河謙一の次男として生れる。 祖父 西河通尚は緑苔と号した俳人である。 実父 西河謙一(諱 通安 梅庵 明治十七年三月没)は宇和島藩の藩校明倫館の教授職にあったが配偶者に恵まれず三度死別している。通徹は最初の妻の次男で、一旦養子に出たが、兄黄吉の夭折後に西河家の嫡男として復縁した。幼名は敬次郎、篤之助、直一。
藩校明倫館に学び、八幡浜の謹教堂の上甲振洋の門下となる。振洋は宇和島藩儒、上甲順治の子で昌平黌に学び、藩主伊達春山に仕えたのち、私塾「謹教堂」を開き塾生は三千余名に達しという。師により「通徹」の命名された。明治十年(一八七七)西郷隆盛を盟主にして起こった西南戦争では、師である上甲振洋は西郷側に加担し刑に服している。

明治七年(一八七五)三月大阪慶応義塾に入社、翌八年二月には上京して三田の慶応義塾で英学を学び、福沢諭吉の啓蒙思想に啓発され、在学中から「朝野新聞」(編集長は宇和島出身の末広鉄腸)などに反政府的な投書を繰り返した。結果、明治九年三月「新聞条例第十二条」に抵触し禁獄三ヶ月、罰金五十円の処刑を受ける。
反政府的な愛媛県に県令として岩村高俊が赴任し、福沢諭吉や末広鉄腸の人脈で松山英学所の所長に草間時福を招聘、「海南新聞」の初代編集長にも起用し民衆の啓蒙に勤めた。明治十年刑期を終えた通徹は、帰郷し「海南新聞」の主筆となり「公共社」に参加した。草間も西河も「朝野新聞」(編集長末広鉄腸)の投稿メンバーで、草間も筆禍にあったが岩村県令により免職は避けられており、岩村県政を強力に支えていくことになる。
通徹の能弁は「島田三郎流の立て板に水といったような流暢な快弁の持ち主だった。大街道で今教会がある辺に小学校があったかと思う。彼はそこで市民を集め、盛んに民権自由を説き、雄弁を振るっていた」。(三並良{旧制第一高等学校教授)談 『愛媛新聞社八十年史』)
明治十一年、郷里宇和島佐伯町の山口慈吉の次女フサ子と結婚、嫡男健吉を儲ける。英学校の後身である松山中学校の初代校長草間時福、中井恒介二代校長の後継として、三代目校長に就任した。人事を預かる学務課長は内藤素行(鳴雪)である。同校の校長は慶応義塾出身者で占められている。
草間時福 初代校長 (明治十一年六月〜十二年七月)
酒井良明 赴任せず  この間西河通徹が校長代理を務める
中井恒介 二代校長 (明治十二年十一月〜十三年三月)
西河通徹 三代校長 (明治十三年四月〜十三年六月)
菱田中行 校長心得  二等司教兼事務係
村松賢一 四代校長 (明治十三年十二月〜十六年六月)
岡本則録 五代校長 (明治十六年六月〜十七年三月)

岩村高俊の後任として着任した関新平の保守的強権政治に「自由ヲ論ズ」(「海南新聞」明治十三年(一八八〇)年八月一一日号)を残して松山を去り、以後ジャーナリストとしての名前の通り信念を「通徹」する。記者や主筆としての経歴を記録に留める。
明治 九年 『評論新聞』<海老原穆>
明治一〇年『海南新聞』(主筆)<愛媛県>
明治一二年 愛媛県松山中学校教頭・校長(明治十三年四月〜六月)
明治一三年『信濃毎日新報』(論説)
明治一四年『総房共立新聞』(主筆)
明治一五年『自由新聞』(自由党機関紙)
明治一六年『山形毎日新聞』
明治一六年『秋田魁新報』(『秋田日報』とも)(犬養毅後任・論説)
明治一六年 秋田県湯沢市英学塾「麗沢舎」教師(凡そ二年)
(注)麗沢舎は地元の資産家山脇文太郎氏が創設した英学塾(明治一五年〜明治二一年)。民権運動の影響を受け、英国式の憲法、法律、議会政治等を講義し東北の片田舎の青年を啓発した。西河通徹のほか門田友太郎(高知)、下野弁三(東京)が招聘された。
明治一八年『中外電報』(記者)
明治一八年『絵入朝野新聞』(論説)
明治二一年 私塾「戊子英学塾」<芝区愛宕町二丁目>を設ける
明治二二年『大阪公論』(国会開設要求の言論活動)
明治二三年『関西日報』(『政論』とも)(末広鉄腸主宰後継)
明治二四年『門司新報』(主筆)
明治二七年『福陵新聞』(主筆)
明治二八年『東京朝日』『大阪朝日』(初代京城特派員 閔妃殺害事件や第二次日韓協約締結など)
明治三九年十二月 朝日新聞(京城特派員)退任し公(マスコミ)からは引退する。京城(現ソウル)で合資会社盛文堂を設立し内地新聞の取次ぎと文房具・書籍の販売を共同事業で行う。大正初めに郷里宇和島に帰郷する。
昭和四年(一九二九)九月二九日逝去。享年七二歳。墓地は仏海寺(臨済宗妙心寺派 宇和島市妙典寺前乙560)にある。著作に『魯国虚無党事情』。西河謙吉編『鬼城自叙伝』 「在日十数年」(原稿)

子規は明治十三年春松山中学校に入学し十六年六月に中退し上京するが、この時期は西川、村松両校長の在職期間に合致している。西川について「子規五友の一人」である三並良に松山中学校に在学している子規が書き送った書簡が残っている。
「演説は実に万々浦山敷て魂飛び魄散ずるに至れり。又聞く旧松山中学校長西河氏も亦益演説に巧なるに至れりと」( 明治十五年十月十六日付『三並良宛書簡』)
子規も新聞「日本」でジャーナリストの道を歩む。不思議な縁があって、西河通徹の大阪朝日新聞特派員時代に、子規が従軍記者として清国に渡った往復の航路(「海城丸」「佐渡国丸」)で西河と子規は同船した。子規は当時四十歳であった西河通徹「松山中学校校長」を知っていた筈だが、西河にとっては、子規を新進の文筆記者としてしか認識はなかったと思われる。子規は『戦雲日録』(『子規全集』随筆二K)を残したが西河の従軍日録は大阪朝日新聞に掲載されたと推察されるが未調査である。残念ながら、西河通徹と子規との通信や交流の記録はない。

注@「西河通徹」が正式であるが「西川通徹」も散見する。『慶応義塾入社帳』は「西川通徹」、『大阪慶応義塾入社帳』は「西河通徹」である。「通徹」には「ミチアキ」の振り仮名が付けられている。『日本人名大事典』は「ツウテツ」、『愛媛県史』は「ミチツラ」である。

【参考文献】 ご照会下さい。