第四十五章 漱石に先行する松山中学校外国人教師の来歴
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〜ノイス、ターナー、ホーキンス、ジョンソン〜 |
「伊予史談」364号(平成24年1月号)掲載分より抜粋 |
一、松山における英学の嚆矢 | ||||||||||||||
伊予松山の近代教育(具体的には英学教育)は、通説では明治八年創設の愛媛県英学校から始まるとされるが、そこに至るまでには前史があった。 | ||||||||||||||
松山藩校明教館の改革 | ||||||||||||||
明治元年一〇月六日松山藩は藩政改革を断行し、「職制」は、執政局(監察・寺社・民生)、会計局(出納・郡政)、文武並軍務局、刑法局、広聞所、内政所の四局二所となった。文武並軍務局の下部機構には、習文場・国学場・洋学場・医学場・操練場・主船場・兵器場・厩司等の諸課を設け、教育近代化に踏み出した。 | ||||||||||||||
翌二年二月再度改革があり、為政局・総教局・会計局・軍務局・広聞所・内家局・公儀局の六局一所を設置、教育については総教局が所管しその下に皇学所・漢学所・洋学所・医学所などの教育機関が配置され、教育と軍務が完全に分離された。洋学所には洋学司教(四等官一二〇石、中士の下)として小林小太郎が任命された。(『松山叢談』第三巻) | ||||||||||||||
小林小太郎は弘化五(一八四八)年出生〜明治三七年死去。諱は儀秀。松山藩士で高島流砲術師範である小林小四郎(諱は儀行)の長男。文久三年春、福沢の塾に入門、翌年幕府開成所に転じ、慶応三年教授方手伝並出役。明治元年松山藩洋学司教を勤め、二年九月大学に少助教として出仕、翌年大阪洋学所に転じる。明治四年より二年間、学事調査のため欧州視察する。一三年文部少書記官となり、一四年報告局長。のち文部権大書記官となった。この間、『馬耳蘇氏記簿法』〔C.C.Marsh「The science of double-entry book-keeping〕(一八七五〜七六)、『政体論』(一八七五)、『日本教育史略』(一七八八)、『教育辞林』(一八七九)などを出版、また翻訳論文も多数あり、わが国教育制度の近代化に貢献した。 | ||||||||||||||
松山藩洋学場(所)で学んだ押川方義(キリスト教信者で東北学院創始、後年普選派代議士となる)は、教化を受けた教授として武知愛山、河東清渓(河東碧梧桐実父)、小林小太郎の三教授の名を挙げている。 押川は松山藩給費生として大学南校へ進学するが、佐伯敦崇、宮原直堯、薬丸幹二郎、吉田達三郎、穂積陳重らも同時期大学南校に進学している。 | ||||||||||||||
小太郎と 内藤素行(鳴雪)とは一歳違いであり、上京後は共に文部官僚であったので、後年も友誼が続き、管見では小太郎の消息を書き残しているのは素行のみである。 | ||||||||||||||
二 松山における英学教育 | ||||||||||||||
松山藩の学制改革 | ||||||||||||||
明治三年、明治新政府の示達により、全国統一の施政を実施することとなり、松山藩の学制改革は権少参事内藤素行(二三歳)が当たる。当事者の回想録である『鳴雪自叙伝』(大正一一年刊)では、次のように述べている。 | ||||||||||||||
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愛媛県松山英学所長 草間時福 | ||||||||||||||
草間時福が権令岩村高俊の要請で明治八年愛媛県松山英学所所長として着任、英学とあわせ慶応義塾の演説(スピーチ)・討論(ディベイト)を採り入れた教育を進める。草間は学制改革に伴い、松山変則中学校、北予中学校、松山中学校の校長を歴任、明治一二年帰京する。その後、ジャーナリストを経て逓信省に入省、のちに郵便電信学校長、航路標識管理所長になる。C 俳号天葩、兄は子明、令息は時光(鎌倉市長)、令孫は時彦(俳人協会会長)の俳人の系譜である。 | ||||||||||||||
松山における旧制中学校・女学校 | ||||||||||||||
明治一二年「教育令」が公布され、一四年には「中学校教則大綱」、一七年には「中学校通則」が示達される。更に一九年には「中学校令」、二四年には「中学校令」改正により、戦前の中学校の骨格が固まった。愛媛県松山英学所も愛媛県変則中学校、愛媛県北予中学校、愛媛県松山中学校、愛媛県第一中学校、伊予尋常中学校、愛媛県尋常中学校と変貌しながら愛媛県立松山中学校に至る。 | ||||||||||||||
女子教育は明治一九年四国最初の私立松山女学校(私立松山東雲高等学校の前身)が同志社・アメリカンボードの支援の下に創設され、同系の勤労青少年を対象にした普通夜学会(私立松山城南高等学校前身)が明治二四年に設立された。 | ||||||||||||||
明治二十年代の中等教育では、大学・(旧制)高等学校・中学校の英語(英学)教育推進にあたって「御雇外人教師」を全国的に招聘したが、松山においても同様であった。明治二八年四月に夏目金之助(漱石)が愛媛県尋常中学校に赴任するが、二二年春から二八年三月までの六年間に少なくとも四名の外国人教師が同校で英語を教授した。(松山藩洋学司教・小林小太郎から夏目漱石までの英学教師一五名中慶応義塾出身者は八名を占める。別表(1)「松山中学校英学・英語教師一覧」を参照されたい。) | ||||||||||||||
三 松山中学校の外国人英語教師 | ||||||||||||||
『愛媛県立松山東高等学校百年史』(昭和五三年刊)の「歴代教職員」名簿では、明治二十年代の外国人教師として[Jonson 明二七〜 英語 イギリス]のみが記載されているが、正しくは[Cameron Johnson 明二七〜二八 英語 アメリカ]である。 | ||||||||||||||
ロシア兵俘虜『松山収容所』(中公新書)で知られる才神時雄は、「翌二十五年、中学は、県立に復活。外人教師もノイスからターナーに替り、一年後にホーキンスが代わって教鞭をとった。その翌年の二十七年春、ホーキンスが更迭して、ジョンソンが嘱託となった。D」と記述しているが、事実誤認である。 | ||||||||||||||
信頼に足る資料としては、県立松山中学校同窓会誌『保恵會誌特別號』(昭和一三年十二月号)が挙げられる。第一期(明治二六年卒業)の岡野久胤、第三期の山本信博らがノイス、ターナー、ホーキンス、ジョンソン四教師の授業振りを詳細に記録している。本論では、ノイス、ターナー、ホーキンス、ジョンソンの来歴を中心に、青い目の『坊っちやん』教師像を描いていきたい。 | ||||||||||||||
ノイス Noyes, William Horace | ||||||||||||||
ノイスは、文久二(一八五二)年、アメリカンボード宣教師の子としてクルドで出生。一八八四年米国アーマストカレッジ卒義後アンドヴァー神学校、ユニオン神学校を経て明治二二年アメリカンボード宣教師として夫人と共に来日した。 | ||||||||||||||
同年五月松山に着任し、伊予尋常中学校(伊予教育義会設立)並びに私立松山女学校・松山夜学校で教鞭をとった。二四年春に前橋市の共愛女学校に赴任し、前橋アメリカンボード宣教師館(栃木県指定重要文化財)に居住した。 正式にアメリカンボード前橋メンバーとなり、金子尚雄らの協力支援で前橋・清心幼稚園を創設している。明治二八年帰国した。米国では社会的、教育的事業に従事し、ニューヨーク州教育局の重要な地位についた。昭和四年七月五日永眠。 | ||||||||||||||
ノイスの松山尋常中学校着任は、明治二二年五月一〇日頃である。「北米合衆国人ノイス氏ハ今回伊予尋常中学校ノ聘ニ応ジ同校ノ教務ヲ担当セラルル筈ニテ昨今ノ中来松セル趣ナリ」(『愛媛教育協会雑誌』二三号)、 同年一〇月一日には自宅に知事・部長を招待し、二二日には町田即文県師範学校長、山崎忠興伊予中学校長はじめ主だった中学校教員夫妻を招いて懇親の宴を開催している。(『愛媛教育協会雑誌』三〇号) | ||||||||||||||
ノイスの教え子の一人である高浜清(虚子)は、「ノイスといふアメリカの教師が来まして、会話を教へました。ホワット・イズ・ジスと指を示す。ザット・イズ・エ・フィンガーと答へるやうなことから始めまして、会話を進めて行きました。そのノイスもマイ・ボーイ・カム・ヒヤと私を呼んで教壇に立たせまして、ノイスの代わりにホワット・イズ・ジスと指を示して、他の生徒にザット・イズ・エ・フィンガーと答へさせたりしました。」と授業ぶりを書き残している。(『虚子自伝』) | ||||||||||||||
岡野久胤は、「一年間「ノイス」先生に毎週一時間会話を教った。手と指との実物教授であって毎度之ればかりであったが、発音の矯正も、英文の組立も、聞取も初歩ながら会得することが出来て、脳裏に浸潤し、今でも一々繰返すことができるやうに思ふ。このやうな英語教育の堪能な教師は以来一度もお目にかゝらない、加茂正雄博士もいつかその異才を賞揚されていた。」と賛辞を記している。(『保恵會誌特別號』) | ||||||||||||||
松山基督教会『回顧四十年』(大正一四年刊)には「明治廿二年以後アメリカン、ボールド宣教師ノイス氏、ウーマンス(ノイス氏夫人を指す)、ボールド宣教師ガニソン(Gunnison, Effie B)、ジャジソン(Judson, Cornelia)、ハウード(Harwood, Alice E.)の諸嬢が來松して伊予中学校の教師になったり、松山女学校の教師になったりして生徒教授の余暇大に地方の布教に声援を与へられた。」と報告されている。 | ||||||||||||||
平成一三年二月同志社キリスト教社会問題研究会で、松山東雲女子大学教授(当時)高尾哲氏が「松山定住宣教師(E.B.Gunnison,C.Judson,W.Noyes夫妻)のアメリカン・ボードEとの往復書簡(一八八七〜一八九五)」を発表している。本記録は、同志社大学図書館蔵「Papers of the American Board of Commissioners for Foreign Mission」の報告書(マイクロフィルム)に拠っている。 | ||||||||||||||
ターナー Turner, William Patillo | ||||||||||||||
ターナーは、『資料御雇外国人』(ユネスコ東アジア文化研究所編)に「ターナー Turner, William Patillo 1864-1912 アメリカ人 キリスト教(アメリカ南部メソジスト監督教会宣教師)」と記載された人物である。 元治元(一八六四)年四月六日、米国ジョージア州トループ郡で出生、一八八九年エモリーカレッジ卒義後、アメリカ南部メソジスト監督教会に所属した。 | ||||||||||||||
明治二四年から二六年までアメリカYMCA教師として伊予尋常中学校で勤務した。YMCA派遣教師とは、明治二〇年日本の諸学校で生きた英語を教えるため、米国改革・組合・バプテスト・長老四派のミッション・ボードと北米YMCA同盟との合同委員会によって派遣された英語教師のことである。第一期〈一八九〇〜九三年〉に一二名、第二期(一九〇〇〜一二年)に九九名来日し、日本YMCAの斡旋で三九都市の中学・高校に派遣された。正規の英語の授業のほか、課外には聖書を教え、宣教師の役割を果たした。明治二六年以降、神戸に居を構え、神戸の青年夜学校(パルモア学園)と関西学院で教えており、ボストン出身のアリス嬢と結婚し三人の子供をもうけた。 | ||||||||||||||
明治二〇年アメリカ南メソジスト監督教会宣教師J.W.ランバス夫妻と息子W.R.ランバス(関西学院創立者)が愛媛県宇和島を拠点に布教し、宇和島以美教会(日本基督教団教会)を開く。明治三〇年以降、ターナーは宇和島美以教会、松山番町教会の宣教師として活動する。宇和島美以教会(宇和島中町教会)に附属の保育所を設立(大正六年「ターナー記念鶴城保育園」認可)、その後松山および広島教区の主管者として働き、フレーザー英語学校校長ならびに広島女学校牧師として奉仕。名誉神学博士号を受ける。同保育園第六回卒園児二〇名の一人に「西山都留子」(映画女優 轟夕起子)が居る。明治四五年三月十日広島で死去し、神戸市再度山修法ヶ原外国人墓地に眠っている。 | ||||||||||||||
ターナーの松山尋常中学校着任は、明治二三年春(赴任月は不明)である。『来日メソジスト宣教師事典1873―1993』(教文館)では「一八九〇年から一八九二年まで官立中学校でYMCA派遣英語教師をつとめる」とあり、『愛媛県伊予尋常中学校盛衰表』(自明治二二年九月十一日至同二三年九月十日)に「雇教師 W,P. Turner」と記載されている。 | ||||||||||||||
教え子である岡野久胤のターナー先生像は「痩躯長身であって教室に見えると香水の匂が馥郁として漂うた。殊に絹ハンケチを胸間から取り出されると、一層えもいわれぬ香気が鼻を衝いた」と記し、これに負けない日本人教師は舟木文二郎先生で、しかも赤シャツであったと指摘している。夏目漱石の描く『坊っちやん』の赤シャツのモデルを髣髴とさせる人物である。おしゃれなターナーであるが、夏季の終業式では赤い渋団扇を持参して平然として扇いでいたので、式場ではすこぶる奇観であったという。英会話の授業で「プリンクリー」の会話書を携帯し「What is the Japanese for dog?」と生徒に質問すると、生意気な生徒は「ケン(犬)」とか「ク(狗)」など漢音や古語で応答して立ち往生させたこともあった。 | ||||||||||||||
松山尋常中学校の離任の公式記録は不明であるが、後任となるホーキンスとは明治二五年七月に兵庫県有馬で会っているので、離任は二四年度学年末と考えられる。 | ||||||||||||||
ホーキンス Hawkins ,Henry Gabriel | ||||||||||||||
『愛媛県史 学問・宗教』(昭和六〇年刊)に、松山番町教会では「明治二二年の当初より三津浜へは衣山を越えて伝道、講義所を設けた。力を入れたのは、デュークス、ホーキンス宣教師の両伝道師と西村清一郎であった」との記述があるが、外人英語教師H.G.ホーキンスがホーキンス宣教師に該当する。 | ||||||||||||||
ホーキンスは慶応二(一八六六)年一〇月五日、米国アラバマ州チョクトー郡に生まれた。一八八四年アラバマ大学を卒業したが、翌年父が死去したので一家でミシシッピー州クラーク郡エンタープライズに移住する。其処で二年間神学を学び、聖職の途を決意する。 | ||||||||||||||
明治二五年六月十日横浜に着き、七月二六日神戸、二八日にはアジア地域メソジスト派宣教師が有馬に集結したので合流し、前任教諭のターナーとも会う。八月、松山に着き、一旦松山教会関連施設(牧師館ヵ)に寄宿するが、その後「愛松亭」に落ち着く。愛松亭には後任のジョンソン、漱石も寄宿するので詳細は後述する。二五年夏から二七年春まで、ターナーと同様に、アメリカYMCA教師として伊予尋常中学校の英語教師として勤務した。 | ||||||||||||||
明治二七年四月に日本を出発し、中国を経由して帰米、牧師となる。一八九四年に結婚するが三年後に妻メリーと死別、九九年にアニーと再婚する。母国では、ウイットワース カレッジ学長(一九〇二〜一九〇五)、ポート ギブソン女子カレッジ学長(一九〇六〜一九一二)、メンフィス コンファレンス 女子インスチチュート学長(一九一二〜一九一九)などの要職を歴任する。一九二八年にはミシシッピー会議歴史学会の理事長に就任し一九三六年退任する。その後自動車事故に遭い、郷里ミシシッピー州カントンに隠棲し、昭和十四年十月十三日七三歳で死去。ホーキンスの松山での記録は、彼が一九〇一年に出版した『Twenty Months in Japan』に克明に記録されている。 | ||||||||||||||
ホーキンスは、独身で謹厳寡黙温厚な紳士であり、授業はノイス、ターナー前教師と違い、「徹頭徹尾講演式で一時間の初めから終りまで英語のスピーチをせられるのでいつも煙に捲かれて五里霧中で彷徨してゐるやうな気がした。」 また、明治二八年三月の卒業試験では、ちょうど日清戦争が終結して馬関(下関)で講和談判の最中だったので、口頭試験は講和談判(ネゴシエーション)についてであった。外人教師は英会話担当と理解されがちであるが、英会話レベルは今日考えられている以上に高かった。(『保恵会誌特別号』) | ||||||||||||||
宿舎である「愛松亭」は、松山城中腹の日本庭園に囲まれた眺望絶佳の二階家屋(寝室・書斎・客間・食堂・浴室)で生活には満足している。愛松亭は現在愛媛県美術館別館「萬翠荘」(元松山藩主久松家別邸)建設時に取り壊された。明治二八年五月二八日付正岡子規宛書簡に「小生宿所は裁判所の裏の山の半腹にて眺望絶佳の別天地」としている。昭和五六年愛松亭跡に「漱石旧居記念碑」が立てられたF。 | ||||||||||||||
ホーキンスは、尋常中学校の上級クラスの英語を週三時間担当した。学校での宗教活動は禁止されていたので、放課後には「愛松亭」でバイブルクラスを開き、学生のほかに城下の学校教員も多数参加し、アメリカ文化に直接触れている。休日は松山近郊の港町三津浜の夜学校での教鞭と伝道をおこなった。食事は、愛松亭と尋常中学校の中間にある宣教師宅(モスレー師)で供せられている。ホーキンスの松山での教師生活は二六歳から二八歳であり、学校を去るに当たって生徒と白猪滝まで遠足に出掛けている。白猪滝は当時松山近郊の名勝の一つであり、正岡常規(子規)も夏目金之助(漱石)も訪ねている。(彼の著書から原文を抜粋して別表(2)に記載した。) | ||||||||||||||
ジョンソン Johnson,Cameron | ||||||||||||||
夏目金之助の前任者で、同志社普通学校並びに松山中学の「職員録」にも記載されており、漱石研究論文でもカメロン ジョンソンに触れているが、細部では事実と異なっている。 荒正人は、「アメリカのミシシッピーの人。同志社大学教師を経て愛媛県尋常中学校に転任し、一年間就職している。カメロン・ジョンスンは、退職した後、アフリカを訪遊し、アメリカに帰ったという。愛媛県尋常中学校では、以後外人教師を雇っていない。(『漱石研究年表』)」としているが、その後松山中学校ではブランド(明治三九年〜)、アレキサンダー(大正十二年〜)が教鞭をとっている。(『松山東高等学校百年史』) | ||||||||||||||
江藤淳は、「前任者の米人教師カメロン・ジョンソンの給与の枠をそのままひきついでいた」(『漱石とその時代)』)としているが、ジョンソンの月額給与は一五〇円、あるいは一二〇円(川島幸希『英語教師 夏目漱石』)で漱石は八〇円である。 | ||||||||||||||
ジョンソンは明治二六年九月同志社普通学校に着任し、翌二七年六月に同校を離任し(『同志社職員録』)引き続き愛媛県尋常中学校へ赴任した。当時の同志社は「同志社・アメリカンボード」により運営されていたので、ジョンソンもアメリカンボードの一員の可能性もある。明治二八年四月に夏目金之助と同時期に同校に赴任した小説『坊っちやん』のモデルと自認する弘中又一は同志社普通学校でジョンソンから英語を教わっている。 宿舎はホーキンスが寄宿した「愛松亭」で、バイブルクラスを設置した。同年九月にはジョンソンが引率し、清国の捕虜八二名を収容していた山越の長建寺を訪問している。 | ||||||||||||||
明治二八年春、愛媛県尋常中学校離任後は神戸、小笠原島、アフリカ歴遊の記録が文献上確かめられるが、詳細は不明である。その後、母国米国に帰国したと考えられる。 (荒正人『漱石研究年表』、 Thomas, Joseph Llewelyn著『Japan -- Description and travel;』(1940) 、M.L.Gordon著『Thirty eventful years; the story of the American Board mission in Japan,1869-1899』)) ジョンソンの後任は夏目金之助で採用辞令は「「愛媛県尋常中学校教員ヲ嘱托ス 愛媛県」(明治二八年四月一〇日付)であり、離任は明治二九年四月八日付である。 | ||||||||||||||
おわりに | ||||||||||||||
以上四名の外国人英語教師の来歴を、日・米の資料を中心に取りまとめた。先行研究がなく、しかも語学力に欠けるので、外国語文献の文脈理解が正確かどうか不安ではある。国際交流の視座から次世代の方が「明治期の青い目の『坊っちやん』教師」の実像をさらに詳細正確に解明することを期待したい。これら外人教師四名以外に近藤英雄は『坊っちゃん秘話』(一九八三年刊)でスコット(明治二七年)について記述しているが、今後の調査にまちたい。 | ||||||||||||||
【補辞】本論文の資料調査に当たり、外国語文献について貴重な情報を教示いただいた日本英学史会並びに日本ボストン会会員である三好彰氏に感謝します。 | ||||||||||||||
【注】 | ||||||||||||||
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