一 遍 会
一遍会 宝厳寺 史料集 一遍会講演記録 例会35年の歩み(資料集) 三好恭治のエッセイ 「鐘紡春秋」
寶厳寺 月例会のお知らせ ホットニュース 一遍会双書(全16巻) 三好恭治の『一遍徒然草紙』 一遍会アルバム
一遍上人と寶厳寺 写真集『掌上仏』再刊(十七年振り) 故 足助威男著 三好恭治の歴史エッセイ 『熟田津今昔』
一 遍 会
2003ホットニュース
01〜24
ホットでないかも ? 今までのホットニュース
25〜39
2005ホットニュース
40〜
 
78 20230114 宝厳寺一遍上人堂の新「一遍立像」がNHKBSで全国放映
昨年(2022)12月14日、NHKBS放映された「英雄たちの選択 踊って踊って大ブーム 一遍上人『鎌倉武士』を捨てた男」で取り上げられた鋳造の「一遍立像」は、新たに造られた宝厳寺蔵の「一遍立像」です。
本年(2023に出版される青山淳平(作家 一遍会会員)著『一遍はいずこへ』は御再興されるまでの経緯が書かれています。
一遍フアンのみなさん、ぜひご覧になってください。あわせて、再放送があれば是非TVもご覧になってください。
英雄たちの選択  日本の運命を決めた「選択」に迫る!

踊って踊って大ブーム 一遍上人「鎌倉武士」を捨てた男」(初回放送日: 2022年12月14日)

蒙古襲来の時代、踊り念仏で大ブームを引き起こした一遍上人。もとは武士だった一遍が、なぜすべてを捨てて全国を放浪したのか?鎌倉武士の生き方を拒んだ男の生きざまとは

蒙古襲来で全国が極度の緊張状態にあった鎌倉時代後期、念仏を唱えながら踊り狂う「踊り念仏」が大ブームとなった。いったいどのような踊りだったのか?。仕掛け人の一遍上人は有力御家人の一族に生まれたが所領争いで親戚に命を奪われそうになり「鎌倉武士」の生きざまに絶望、すべてを捨てて無一物で全国を放浪、念仏札を配り歩いた。そんな一遍上人が目指したのが武家の都・鎌倉での踊り念仏。果たして鎌倉入りはかなうか?
72 20160515 宝厳寺本堂・一遍上人堂・庫裏新築落慶法要
宝厳寺本堂・一遍上人堂・庫裏新築落慶法要は本日(平成28年5月14日)午前10時)開式となった。法要に先立って9時45分頃一遍上人堂で「一遍上人立像」の開眼供養がなされた。
開会までの間、鐘、読経が響き、緊張感が続く。長澤昌幸師(時宗宗学林学頭)の司会で宗門関係者も席に着き、やがて七四代遊行上人他阿真円師が着座される。師は「時宗法主・遊行七四代・総本山遊行寺五七世」である。
○開式(宝厳寺総代会長 烏谷康夫氏)
○法要(七四代遊行上人ほか本山並びに各地区代表の宗門関係者ほか)
   代表焼香愛媛銀行頭取(本田元広氏)  「時宗過去帳」記載者(省略) ほか
○祝辞(遊行寺執事長)
○感謝状贈呈(愛媛銀行 本田元広氏、汎座古典建築様式研究所 古川禎一氏、菅野建設株式会社 菅野隆次氏、檀家総代 烏谷康夫氏・島崎有三氏・蜂須賀俊一氏)
○経過報告 (宝厳寺建設委員長 島崎有三氏)
○謝辞 (宝厳寺住職 川崎玄倫師 、宝厳寺建設副委員長 三好隆氏)
○閉式 (宝厳寺建設副委員長 蜂須賀俊一氏)
この間で遊行上人他阿真円師の説教があった。97歳の上人には、今春一時人事不省になられたがお元気に回復された体験から一遍の教えを説かれ、宝厳寺の浅山圓祥師、先代の長岡隆祥師、また隆祥師の次女陽子さんが得度され祖父、父の後を継ぐことになった経緯など慈愛こもるお話が続いた。参列者一同、笑いに誘われたり、目頭が熱くなったり、そしていつの間にか南無阿弥陀仏を口に唱えた。
71 20141019 宝厳寺造営 鍬入れ式が現地で挙行
12月22日(月)10:30から宝厳寺造営 鍬入れ式が現地で挙行された。建設関係者や檀家ら約40人が出席した。一遍会からは、小沼大八代表が列席した。10月に亡くなった長岡隆祥前住職の後継として、川崎玄倫新住職(63)=広島県尾道市の海徳寺住職と兼務=が紹介され、焼香の後、関係者が鍬入れをした。新住職 川崎玄倫師(昭和26年生まれ)は、時宗第二十四区区長で尾道の海徳寺の住職で、宝厳寺の兼務住職となった。
当初、本堂と庫裏の再建であったが、新たに上人堂が新設されることになった。上人堂は愛媛銀行創業100周年記念事業の一環で、同行から約4000万円の寄進を受けて整備する。木造一遍上人立像を復元した像を中心に据え、国宝「一遍聖絵」のレプリカやパネルを展示。生涯や功績を発信する。
70 20141019 愛媛県人権対策協議会主催の「第4回人権啓発土曜講座」 講師 武智利博氏
昨日(10月18日)愛媛県人権対策協議会主催の「第4回人権啓発土曜講座」が伊予市の「ウエルピア伊予」で開催され、島崎・蜂須賀宝厳寺両総代と一緒に参加しました。講演は武智利博氏(伊予史談会前会長)、テーマは「『捨聖一遍に学ぶ』―一遍上人と人権―」でした。
講師から「一遍聖と時衆に関する細部質問に講師に代わって回答して欲しい」というご依頼があり、伊予史談会の大先輩でもあり、約90分の講演、質疑応答が約60分という長時間でしたが、なんとか大役を果たせたかと思っています。質問は一遍さんに対する現代的な期待、仏教界に対する不信、昨夏の宝厳寺本堂や「一遍上人立像」の焼失という「捨て切った」後の宝厳寺と一遍上人立像の再建・再現への期待と多岐にわたりましたが、一遍さんの平等思想と信念こそ日本的人権思想の嚆矢であることを参会者一同で確認しました。有難いことでした。
この会場に宝厳寺の故・長岡隆祥師夫人と次女陽子さんも出席されました。主催者側の米田孝弘氏(全国人権教育研究協議会副理事長・愛媛県人権教育協議会代表幹事)が湯築小学校校長をされていた当時、陽子さんは4年生でした。米田氏に促されて立ち上がった陽子さんは、はっきりと、「私が宝厳寺を継ぎます」と決意表明し、万雷の拍手となりました。関係者としては「やれやれ。よかった。」と安堵致しました。
尚、愛媛県人権対策協議会のご配慮で、宝厳寺檀家総代島崎雄三氏が再建計画の概要を報告し、併せて宝厳寺再建資金の寄付をお願いいたしました。改めて愛媛県人権対策協議会の役員の皆様、講師の武智利博先生のご高配に深謝申し上げます。会場で一遍会初代会長・佐々木安隆氏のご縁戚(磯田氏)にお会いしました。不思議なご縁を感じました。南無阿弥陀仏。
69 20141015 宝厳寺第五三世 長岡隆祥師の告別式
宝厳寺第五三世 長岡隆祥師の告別式のご報告をします。
平成二六年(2014)10月15日午後13時、宝厳寺第五三世・長岡隆祥和尚の葬儀並びに告別式に参列すしました。式場は湯山溝辺の「高須賀想苑」です。
導師は時宗第二十四教区区長 海徳寺住職(尾道市)川崎玄倫師、脇僧は4名、内子・願成寺住職長岡義尚師の姿もありました。近くの浄土宗円満寺の住職も前方の席に座っておられました。一遍会は、今村威、中川重美、田中弘道理事と岩田克之監事と蜂須賀俊一理事(檀家総代)と愚生の6名が列席、小沼大八代表は県立医療技術大学の講義のため欠席しました。
野志克仁(のしかつひと)松山市長、武智・高須賀前・現伊予史談会会長はじめ道後湯之町のお歴々、信徒の有力者も顔を見せており、列席者は250人位か、盛大でした。
法要の後、島崎檀家総代の弔辞では宝厳寺発展の「戦友」として、俳人黒田杏子氏(代理 俳人夏井いつき氏)の弔辞では「文化人」としての師の面影を伝えました。特に弔句五句にこめられた哀悼は列席者の涙を誘いました。「お別れ」では参列者一同がご遺体に花を添えた。竜胆(りんどう)の花を特に求められた御仁もいらっしゃった。花言葉は「あなたの悲しみに寄りそう」「誠実」「正義」であり、その人なりの想いを伝えたかったのであろうか。14時半頃お見送りをする。
お見送りの際、宝厳寺再建の施工を担当される汎座古典建築様式研究所代表の古川禎一氏(松山市文化財専門委員)と立ち話する。八五歳の由、ご壮健である。最後の作品として後生に残る本堂を造りたいと強調された。有難いかなである。
俳人黒田杏子氏の弔句を記します。
銀杏の落ち尽くしたる宝厳寺
月蝕や伊予の青石露に濡れ
御僧の安らかに発つ秋の虹
上人坂銀河ながるる訣れかな
雁の声長岡隆祥師長逝 
蛇足ですが、宝厳寺を参詣されていない遠隔地の方に情景を付記します。愚生の独断の鑑賞です。お許し願います。
宝厳寺の境内には銀杏の樹が2本立っています。昨夏の本堂の火災では、瑞瑞しい銀杏の葉が、国重要文化財・伊佐爾波神社への類焼を止めてくれました。今年は、そのうち1本が弱弱しく葉をつけていましたが、来年はおそらく枯死しているでしょう。
秋になると住職夫妻が早朝の掃除の際に銀杏を拾って、参詣者や知人に配っておられました。この銀杏に寄せる俳人の気持ちが伝わってきます。杏子氏も口にされたことでしょう。
月蝕は10月8日の夜19時から20時の一時間、赤銅色の月でした。和尚も病臥で眺められたことでしょう。伊予の青石は、境内にある杏子氏の句碑「稲光一遍上人徒跣  杏子」でしょうか。師を見送って今宵も露に濡れていることでしょう。
秋の虹は儚く、銀河は無量寿・無量光でもあります。雁は浄土も目指して飛び立ったのでしょうか。長岡隆祥師の長逝を、人も鳥も、生きとし生けるすべてが哀悼を捧げます。南無阿弥陀仏。
ご遺族は、佳子夫人、ご長女 まどかさん、次女 陽子さんです。参列者への挨拶で、次女陽子さんが語る厳格でやさしい亡き父への想いが印象的でした。
68 20141012 宝厳寺第53世住職 長岡隆祥師、10月11日ご逝去
訃報です。 宝厳寺第53世住職 長岡隆祥師には昨日(10月11日)逝去されました。
昨年8月本堂並びに庫裏が全焼し、再建に尽力されておられましたが、ご心労も重なり、お元気な姿を見せることなくご他界されました。謹んでご冥福をお祈り申し上げます。告別式は15日(水)13時から松山市溝辺町の「高須賀想苑」で執り行われます。尚、香典や供花は一切お断りするとの連絡がありました。
昨年の宝厳寺の出火時刻には一遍会8月例会「一遍聖絵」講話中、また昨日(10月13日)も10月度例会で「宝厳寺の再建計画」と「一遍上人の木像」についての卓話中でした。不思議なめぐり合わせを感じております。
67 20140922 読売新聞に「一遍生誕の寺再建へ」の記事
本日9月22日付読売新聞に「一遍生誕の寺再建へ」の記事が掲載されました。
ご支援をお願いしました再建へのご寄付は、現在1億2000万円集まりました。明日の総会で、本堂、庫裏などの再建についての計画案が提案・審議され、具体的な再建に入る予定になっております。会員の皆さんのご支援に感謝申し上げます。当初30万円の目標で開始しましたが、現在50万円超の募金額になりました。有難うございました。新聞記事を添付しました。ご覧ください。
(注)ホームページでは、新聞記事は削除します。
66 20130924 宝厳寺の大施餓鬼会と再建に関する檀家総会開催
9月23日(月)午後、宝厳寺の大施餓鬼会と再建に関する檀家総会に出席しました。小沼代表と今村理事もご一緒です。本堂の焼け跡にテントを張って執行されました。中央に安置していたのは、薬師三尊ではなく、現遊行上人の「南無阿弥陀仏」のご親筆が見事に表装されて飾られていました。例年より僧侶の方も多く、宝厳寺ご住職も火災直後とは違って、いつもと変わりなく朗々とお経を読まれ、檀家名を一軒一軒読まれて、出席の檀家の皆さんも安心をされました。
大施餓鬼会終了後、檀家総会に切り換えて、宝厳寺再建案が提案、審議されました。再建自体は了承されましたが、マスタープランが来年の秋彼岸に提示し承認後建設に着工し、ほぼ3年後に完了の予定です。とは申せ、募金の進展や日本経済の実態もありましょうが、何とか3年内に再建した本堂をとの願いを出席者で誓い合いました。
一遍会会員の皆さんにも改めて宝厳寺再建の募金をお願いすることになりましょうが、その節にはご協力、ご支援をお願い申し上げます。
ご住職も本堂焼失の苦境を乗り切られて、再建に

向かって頑張っておられます。
仮設のテント内の大施餓鬼会・・・・・例年通り定刻には

100名以上の檀家の方が参集されました。
大施餓鬼会を背面から    3年後には、再建された

本堂で大施餓鬼会が執り行われることを願って・・・・・
65 20130911 一遍会が宝厳寺にお納めした経本100冊は焼失を免れる
本日(9月11日)宝厳寺に参上し、住職ご夫妻や檀家総代と2時間ほど懇談しました。ご住職の健康状態もまずまず心配しなくともいい状態に回復されました、本堂や庫裏の再建計画も煮詰まってきています。近日中にイラストで示していただくようにお願いしました。
ところで、嬉しいホットニュースです。宝厳寺のお宝はすべて焼失、焼損したとお知らせしたのですが、一遍会が宝厳寺にお納めした経本100冊は無事でした。法要に持参されるので車に持ち込んでいた由です。9月23日の大施餓鬼会は本堂跡の仮設テントで執行されますが、ご参加の檀家の皆さんは一遍会寄贈の経本でお経を唱えられることになります。有難いことです。南無阿弥陀仏。
本日の読売新聞(地方版)に宝厳寺関連記事が掲載されましたのでご紹介します。
一遍フアンの俳人黒田杏子氏の「灰燼に帰したる安堵一遍忌  杏子」が載っています。「安堵」に込められた「捨ててこそ」の一遍のすべてを表現した名句と感じ入りました。宝厳寺境内には杏子の句碑「稲光一遍上人徒跣  杏子」(徒跣:かちはだし)が建立されています。これも一遍立像を詠んだ名句と思っています。
稲光一遍上人徒跣          杏子
灰燼に帰したる安堵一遍忌    杏子
64 20130829 宝厳寺火災で焼損の2文化財公開 松山市教委  
宝厳寺火災で焼損した文化財について、8月27日松山市教育委員会が発表しました。愛媛新聞オンラインを貼り付けました。ご参考にしてください
焼失したとされる@一遍立像 A宝厳寺蔵「河野系図」 B宝厳寺蔵「一遍聖絵」 C宝厳寺蔵「大位牌」についてのご質問、ご照会は、直接メールにてお問い合わせください。
恐縮ですが、お問い合わせの方の住所氏名・連絡先、職業(公共団体名、マスコミ名、寺院名、研究機関・大学名、一遍会会員、その他<一遍フアン 道後町民>を明記してください。
宝厳寺火災で焼損の2文化財公開 松山市教委   (愛媛新聞ONLINE 8月28日(水)8時43分配信)


松山市教育委員会は27日、
愛媛県松山市道後湯月町の宝厳寺(ほうごんじ)火災で焼損した市有形文化財の工芸品「懸仏(かけぼとけ)」「残欠(ざんけつ)」を火災後、初めて公開した。


懸仏は直径18センチの円板裏面の木製部分が失われ、5体の仏が焼け残った銅製部分も原形が分からないほど熱で変形。
水ですすなどを洗い流す応急処置を担当した市埋蔵文化財センターの山本健一さん(54)は「元の状態に戻すのは難しい。
さびないようにする処理などは可能」と話した。
銅製の残欠は高さ14センチの仏像と光背が外れ、茶色くすすけていた。


センターで修復の手掛かりになり得る破片や付着物も保管。
市文化財保護審議会委員らが今後、状態確認する。


【写真】

激しく損傷した「懸仏」=27日午後、松山市南斎院
63 20130825 第1回目の宝厳寺総代会を境内のプレハブで開催
昨日(8月24日)第1回目の宝厳寺総代会を境内のプレハブ(わずか4・5畳、エアコン、電話設置)で開きました。とりあえず跡かたずけ、その跡に仮り住まいと事務所を建設。9月23日までに発表出来る善後策を作成することになりました。檀家信徒はもとより幅広い方々のご支援を頂くよう呼びかける予定です。何卒宜しくご協力をお願いします。(蜂須賀総代からのメールの骨子です。)

9月23日は宝厳寺の大施餓鬼会で檀家の皆さんが例年なら本堂に参集します。今年はおそらく天幕になるのでしょうが再建案、募金額などが公表されると思います。それぞれに応分の醵金をお願いしますということになるのでしょう。一遍会としては、醵金はもとより、この機会に「一遍さん」の勉強をお願いしたいと思っています。
62 20130824 「上人坂再生整備協議会(仮称)を設立することを決議
プレスによれば、昨8月23日(金)に「道後温泉誇れるまちづくり協議会」(宮崎光彦会長)が椿湯2階の会議室で臨時会合を開催した。約25名出席。ここで、10月上旬までに「上人坂再生整備協議会(仮称)を設立することを決議した。
「仏作って魂入れず」にならないためにも、檀家や商店街・旅館の関係者も、この機会に「一遍会」に入会して一遍さんの事績や思想を学んでほしい。「知ることは愛することである」とする哲学の根源的な考え方は、一遍を知ることからスタートするべきことを暗示している。一遍会としては、すでに「一遍入門講座」の開設を予告しているが、実現するか否かは、檀信徒・町民の動きにかかっている。4年前、県文化振興財団で「道後学コース」を開設したが、受講者名簿に宮崎光彦氏の名前があったことを思い出した。
24日(土)は宝厳寺長岡隆祥師と檀家総代(烏谷・島崎・三好・蜂須賀氏ら)で総代会を実施して、本堂再建などの骨子をまとめる予定。場所は仮設の寺務所(予定)。詳しい内容は、後日報告としたい。
61 20130821 40年前の道後小学校時代に横山君(?)という住職の息子
作家・青山淳平氏から宝厳寺出火のお見舞の電話あり。併せて「えひめふるさと塾」新年会での講演「一遍と宝厳寺」は支障なきかの確認である。一遍会は宝厳寺の檀信徒でないので講師として支障ない旨伝える。この機会に、新聞には報道されなかった長岡隆祥師の類を見ない僧侶としての魅力を語りたいのである。政財界のメンバーも多いので、宝厳寺再建の「勧進元」の一人として奉加帳をまわすか。同氏には、本年3月の一遍会宝厳寺セミナーで「一遍に生きる〜足助威男」のテーマで講演を頂いた。力強い一遍フアンである。

しげまつ理容店で散髪したらマスターに開口一番「宝厳寺、大変ですね。ご苦労様です。」といわれた。今まで正体不明の爺で通していたのだが先様は先刻ご存知だったらしい。さらに40年前の道後小学校時代に横山君(?)という住職の息子と同級生だったと語る。横山(?)なるご住職について早速調査してみたい。ご存知の翁や媼がいらっしゃれば、ご一報願いたい。
60 20130820 宝厳寺 仮説事務所設置  出火時の松山城天守閣からの写真
仮設の寺務所が8月22日〜23日に設置されます。今週末から本堂再建や大施餓鬼会(9月23日)の実行計画が、この寺務所で関係者により検討されることになります。(蜂須賀・三好総代からの連絡)

常盤同郷会本部(宇都宮孝治事務局長)から、同会のメンバーが宝厳寺の出火時に偶然松山城天守閣の上っており時系列的に撮影した写真の寄贈を受けました。貴重な写真ですので、ご住職並びに関係者に披露します。撮影者の了承をいただければ「ホットニュース」に掲示します。

一遍会インターネット会員の第1号会員である「窪寺隆」様からお見舞いを頂きました。信濃国の窪寺氏流の末裔の方で、10年前にご夫婦で拙宅に立ち寄られ宝厳寺にご案内しました。
59 20130817 窪寺のお堂に在った具足類を宝厳寺にお返しする
宝厳寺の出火による本堂・庫裏焼失の報道に驚かれたことと思います。その節にはお見舞いや激励、アドバイスを頂き有難うございました。
長岡宝厳寺住職には、盆中は檀家を一軒一軒回って出火のお詫びと再建の決意を述べられました。例年の9月23日(秋分の日)には予定通り大施餓鬼会を本堂跡地(天幕)で執行されることが内定しました。

兄弟寺である内子・願成寺から仏具一式が用意されますが、一遍会の関係では窪寺のお堂に在った具足類を宝厳寺にお返しすることにしました。
例年一遍生誕会で「一遍幼像」の湯浴み式を実施していますが、数体の「一遍幼像」が現存していますので、個人でご所蔵の方にご寄贈していただくよう交渉を進めていきます。

ご本尊の釈迦三尊や「 一遍立像 」(ミニチュア)については、ご住職が精力的に関係寺院にあたっておられます。原点に戻れば、時宗寺院の本尊は「南無阿弥陀仏」であり、二年先には具現化するのではと考えられます。

具体的には、ご住職と檀家総代を中心に素案が検討され、早ければ9月23日の大施餓鬼会で檀家の方に発表されるのではないかと期待しております。
本日お寺に参上し、ご住職、奥様、お嬢さんにもお会いしました。お元気そうでしたので安心しました。ささやかですが一遍会名で「出火お見舞い」をお納めしました。

たまたま本山遊行寺の新堀教務部長も激励に来ておられ懇談することができました。宗門のご関係者を含めて、時宗寺院、道後周辺の他宗派の寺院関係者の支援もあり、早期再建への機運が早々に沸き起こっております。
今後、道路整備を含めて、県・市・文化庁などの理解、支援が得られるかが重要になってきましょう。
58 20130817 宝厳寺焼失写真

8月10日の宝厳寺火災から数日が経過しました。

田中理事と江刺理事が当日のなまなましい火災現場の撮影をしました。

後日、例会で公開の予定です。
 

県外の会員の方にはご心配だろうと思いますので、立ち入り禁止が解かれた後の写真をご披露します。

本堂、庫裏、一遍立像は焼失しましたが、一遍生誕寺としての時宗奥谷派宝厳寺は、ご覧のように外観は「健在」ですからご休心ください。

上人坂からの全景。右は山門と観音堂です。左は焼失した本堂の残骸です。

本堂の焼失した建物です。右手に山門が見えます。

本堂の残骸です。河野氏の紋章が印象的です。

57 2013.08.13 宝厳寺の火災で本堂・庫裏、重要文化財「一遍立像」などの寺宝が焼失しました、

810日(土)午後210分頃、宝厳寺の本堂から出火、棟続きの住職住居の庫裏にも延焼し、木造平屋計270平方メートルを全焼した。

本堂内に安置されていた木造の「弥陀三尊」や国重要文化財「木造一遍上人立像」、一遍の祖父(通信)・父(通広)・伯父(得能通俊)夫妻の「大位牌」のほか庫裏の保管されていた「宝厳寺蔵河野家系図」等の寺宝がことごとく焼失した。新聞報道によれば、銅と木材で作られた懸仏は木製部分が焼け、残欠は銅製ですすが付いているものが発見されている。

当日は、一遍会8月例会を道後公民館で開催中で、講話は杉野祥一理事の「『一遍聖絵』を絵解きする」の最終回であった。

56 2008,11,3 宝厳寺で遊行上人の御親教と「いっぺんの欠片」が披露されました。
11月3日、時宗本山遊行寺から遊行上人ご一行を迎え、南海放送の記念事業として企画された『いっぺんの欠片』舞台成功祈願イベントの法要が営まれました。 式次第は下記の通りです。
13時〜   読経 時宗総本山遊行寺 遊行七十四世 他阿上人
13時20分〜 代表焼香 (檀家総代、南海放送・『いっぺんの欠片』関係者、一遍会代表)
13時30分〜 法話 遊行上人
13時40分〜 賦算
14時〜 「いっぺんの欠片」舞台ダイジェスト披露
遊行上人の法話の要旨
 90歳を超えたが息災である。今夏、北海道から東北地方を回国し、一遍上人入寂の神戸・真光寺にも御参りした。
今日は一遍上人生誕の宝厳寺で法要を営むことに無常の歓びを感じる。
 本年、南海放送では「一遍イヤー」の総合キャンペーンを展開されたことを感謝したい。締めくくりとして『いっぺんの欠片』が11月中旬に公演されるが成功を心からお祈りする。
 個人的体験になるが、青春時代に二つの死に直面した経験がある。
一つは戦時下、乗船して軍艦が沈没し多くの戦友とともに洋上に投げ出され、戦友の水没を眼前にしながらひたすら「南無阿弥陀仏」を祈った。気がついたら助けられていた。
二つには復員したが極度の栄養失調で明日とも知れぬ命の灯火がかすかに点っている状態であった。気がつくと母が病床でつきっきりで「なんまいだ」を唱え、汚物の処理を淡々とやってくれている。母が阿弥陀如来に見え、自分自身もただひたすらお念仏を唱えた。お念仏に救われた命が、今日九十歳の長寿を保っている。有難いことである。
 この地に坂村真民さんが眠っておられる。「信ずれば花開く」は、「南無阿弥陀仏」の世界である。宝厳寺檀信徒の皆さん、一遍会の皆さん、ご参加の皆さん、ご縁のある皆さんに「南無阿弥陀仏」をお伝えできて嬉しく思う。
遊行上人法話と演劇『いっぺんの欠片』で披露される踊念仏のシーン
@御親教法要看板
A遊行七十四世他阿上人
B踊り念仏
C一遍と時衆
D乱舞
E観覧の参会者
inari
55 2007.6.9 宝厳寺入り口に新「一遍上人御誕生旧跡」碑が建立されました。
6月17日、宝厳寺入り口に新たに門柱が建立されました。場所は現在は山門前に在る「一遍上人御誕生旧跡碑」が元々建っていた(昔日当山惣門があった現上人通りの入り口右手)である。
門柱正面には「宗祖一遍上人 御誕生旧跡 時宗宝厳寺」、裏面は「宝厳寺略縁起」(文面は下記に記載)、右面には「平成十八年十二月吉日 宝厳寺五十三世真阿隆祥建之」と刻まれている。
尚、かつて遊郭「松が枝町」からトルコ街、遊興街に変身していた「上人坂」も今は寂れているが、門前通りとして盛況になるよう期待する声が大きくなってきている。
宝厳寺略縁起

 宝厳寺は寺伝によると天智天皇七(六六八)年斎明天皇の勅願で国司乎智宿袮守興が創建当初は法相宗、その後天台宗に転じたあと時宗が隆盛し、弟子の仙阿がここに住むようになって正応五(一二九二)年寺が再建され時宗に改めたとある。
 時宗の開祖一遍は河野通広の第二子として延応元(一二三九)年に生まれた。幼くして僧門に入り文永十一(一二七四)年時宗を開き翌年熊野の地で神勅を受けて「南無阿弥陀佛」と記した念佛札の賦算を始めた。弘安二年には信濃国佐久郡で念仏踊りを始めた。その後正応二(一二八九)年神戸真光寺で死すまで全国各地を念仏遊行し一所不住捨聖遊行上人と尊崇された。
 宝厳寺は一遍誕生の地といわれ門前にある「一遍上人御誕生旧跡」の碑は河野一族の得能通綱が建立したものである。
54 2006.12.11 詩人 坂村真民さん(一遍会 OB会員)が12月11日ご逝去されました。
愛媛県を代表する詩人「坂村真民」さんが12月11日逝去されました。14日に公表され、新聞、TVなどで報道されました。
「真民」さんは一遍さんに深い想いを寄せて、一遍さんが「南無阿弥陀仏」のお札を賦算したことに倣い、個人雑誌「詩国」の毎月無料配布を続けられました。特に「念ずれば花ひらく」のフレーズは多くの人を惹きつけ、励まし、国内外で七百基以上の詩碑が建てられているとのことです。
あまり知られていませんが「真民」さんは一遍会の創成期からの会員で、例会で講演もされ、また宝厳寺で開催されます一遍生誕会(松壽丸湯浴み式)や一遍忌には顔をお見せになりました。お話は決してお上手ではありませんでしたが、お話になる一言一言が胸にじ〜んと響いてくる説教でもありました。
生前にお墓は宝厳寺墓地と決められ、格別の気持ちを込めて「念ずれば花ひらく」の詩を刻まれました。恐らく御霊は宝厳寺の墓苑で休んでおられることと信じています。
一遍会には「真民」さんをご存知の長老の方やお世話された方も多くいらっしゃいますので例会の卓話で語っていただこうと考えております。「真民」さん、有難うございました。安らかにお休み下さい。南無阿弥陀仏。合掌。
(注)故坂村真民さんの宝厳寺のお墓は分りにくいので下記をクリックしていただくと、真民さんの略歴と墓碑と墓地への案内図が出ます。ご覧頂いて、お参りいただきたいと思います。
「南無阿弥陀仏 決定往生60万人」 「念っずれば花ひらく」坂村真民 氏 逝く (老衰) 享年 97歳
追記】(2006.12.19)
故坂村真民翁が『鳩壽』第一号で触れておられた「遺言メッセージ」を追記し生前のお姿を偲ぶことにします。
一つ・・・葬式はしない
 宝厳寺に第5番目の碑があり、その下に遺骨を入れるように設計してあるので、時宗のお経を唱え入れてもらいますが、葬式という形はとりません。骨は骨つぼにはいるだけで、あとの骨は、わたしの好きな海に散じてください。
二つ・・・香典・供物など一切頂かない
 これはわたしが尊敬する伊豆蔵福次郎さまにならいます。(わたしがうっかりしてお送りしましたら、御遺族が返されました。)そんあことのないよう、妻の場合もわたしと同じくと、決して送ってくださらないよう、かたくかたくお願いします。
三つ・・・お別れの会などしない
お別れの会など有形のものはしないでいただきたい。「(ぶな)になる」「飛天となり」という詩にも書いたように、わたしは天にいるのではなく、花咲けばそこに私が、鳥飛べばそこに私が、いつも皆様のそばにいるのです。
追記】(2006.12.23)
故坂村真民翁のご葬儀は「遺言メッセージ」の通り、お身内だけで宝厳寺で執り行われました。導師は住持の長岡隆祥師です。
尚戒名は「詩国院朴阿真民居士」である。真民さんにピッタリの「人と為り」を表したものと共感されるに違いないでしょう。ご住持も気に入っておられました。
真民さんを知っていただくために、或いは真民さんを追憶していただくために、紀伊国屋書店出版のDVD「祈りの詩人 坂村真民<詩魂>」(4,300円)をお奨めします。詩の朗読は新劇俳優の加藤剛さんです。
『詩魂の源流』 41分
『すべての川は海に向って流れる』 52分
『光の森の祈り〜真民さんと山の子どもたち』 15分
『詩国』発刊第500号記念
第8回全国の朴大会 第172回朴庵例会
22分
53 2006.7.20 東京大学史料編纂所図書室で『一遍上人絵伝』(清浄光寺蔵)高精細デジタルデータの閲覧が出来ます。
東京大学史料編纂所の図書室において上記システムの公開が2005.09.22から始まりました。このシステムは、国宝『一 遍上人絵伝』の絵画部分を高精細デジタルデータ化し、詞書部分とともにパーソナルコンピュータの画面上で閲覧できるようにしたものです。清浄光寺の全面的なご協力により、本所画像史料解析センターの『一遍聖絵』デジタル画像化プロジェクト(2002年度〜04年度)によって作成されました。
 このシステムは、図書室の閲覧専用端末で閲覧することができます。利用をご希望の方は、図書閲覧の手続きを済ませてからカウンターに申し出てください。氏名・住所・所属を記入し、注意書きをよく読み同意された上でご利用いただきます。利用は閲覧に限られ、データの印刷・複製は一切できません。
52 2006.6.9 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』の【一遍】に【一遍会】がリンクされました。
最近HP「一遍会」の検索が多くなりましたが、『ウィキペディア(Wikipedia)』経由でお訪ねの方が増えたのでしょうか。有難い事です。一遍会へのお便りやご感想を「みんなの掲示板」にお送り下さい。
『ウィキペディア(Wikipedia)』は引用がフリーですから「一遍」の解説を複写させて頂きます。
一遍(いっぺん、延応元年2月15日(1239年3月21日) - 正応2年8月23日(1289年9月9日))は鎌倉中期の僧。時宗の開祖。一遍は房号で、法諱は智真。遊行上人、捨聖(すてひじり)とよばれる。私諡号は円照大師、1940年に国家より証誠大師号を贈られた。俗名は河野時氏とも通秀ともいうが、定かではない
伊予国の豪族、河野通広(出家して如仏)の第二子として生まれる。幼名は松寿丸。生まれたのは道後温泉の奥谷である宝厳寺の一角といわれ、同寺には一遍上人生誕地の碑が建つ(同市内や北条市の字別府とする異説がある)。有力氏族であった河野氏も、承久の乱で京方について没落(祖父通信が奥州に配流)、一遍が生まれた頃にはかつての勢いを失っていた。 10才のとき母が死ぬと父の勧めで天台宗継教寺で出家、法名は随縁。 13歳になると大宰府に移り、法然の孫弟子に当たる聖達の下で10年以上にわたり浄土宗西山義を学ぶ。この時の法名は智真。 25歳の時に父の死をきっかけに還俗して伊予に帰るが、一族の所領争いなどが原因で32歳で再び出家、信濃の善光寺や伊予国の窪寺、同国の岩屋、四天王寺(摂津国)、高野山(紀伊国)など各地を転々としながら修行に励み、六字名号を記した念仏札を配り始める。紀伊である僧から己の不信心を理由に念仏札の受け取りを拒否され、大いに悩むが、参籠した熊野本宮で、阿弥陀如来の垂迹身とされる熊野権現から、衆生済度のため「信不信をえらばず、浄不浄をきらはず、その札をくばるべし」との夢告を受ける。この時から一遍と称し、念仏札の文字に「決定(けつじょう)往生/六十万人」と追加した。これをのちに神勅相承として、時宗開宗のときとする。 さらに、各地を行脚するうち、信濃国で踊り念仏を始めた。
踊り念仏は尊敬してやまない市聖空也に倣ったものといい、教信沙弥にも傾倒していた。死地を求めてその播磨印南野(兵庫県加古川市)教信寺を再訪する途中、51歳で摂津兵庫津の観音堂(のちの真光寺)で没した。過酷な遊行による栄養失調と考えられる。その生涯は国宝『一遍聖絵(一遍上人絵伝)』があますところなく伝える。『一遍上人語録』は江戸期の編纂になるもの。宝厳寺や当麻無量光寺(神奈川県相模原市)、東山長楽寺(京都市東山区)に木造立像がある。廟所は真光寺にあり、巨大な五輪塔である(阪神大震災により倒壊し、中から骨灰が現れたことで、実際の埋納が確認された)。
一遍は時衆を率いて遊行(ゆぎょう)を続け、民衆を賦算(ふさん)と踊念仏(おどりねんぶつ)で極楽浄土へと導いた。その教理は絶対他力による「十一不二」に代表される。浄土教の深奥をきわめたと柳宗悦に高く評せられるが、当人は形而上的な思惟よりも、ひたすら六字の念仏を称えることに価値を置いた。一所不住の諸国遊行や、入寂に際して「一代聖教皆尽きて南無阿弥陀仏に成り果てぬ」と自らの著作を燃やしたという伝記から、その高潔さに惹かれる現代人は多い。また信不信・浄不浄を問わない念仏勧進は、仏教を庶民のものとする大いなる契機となった。いわゆる鎌倉新仏教の祖師の中で、唯一比叡山で修学した経験のない人物であり(『一遍上人年譜略』の記述は後世のものと考えられる。「西の叡山」書写山には登っている)、官僧ではなく私度僧→聖(ひじり)の系統に属することが指摘できる。
門弟には、『一遍聖絵』を遺した異母弟ともいう聖戒や二歳年上の他阿(真教)らがいる。現在の時宗教団は一遍を宗祖とするが、宗として正式に成立したのは江戸幕府の政策による。一遍には開宗の意図はなかったし、八宗体制下でそれが認められるはずもなかった。近世期には、本来は別系統であったと考えられる一向俊聖や国阿らの法系が吸収されており、空也を仰ぐ寺院が時宗とみなされていた例もある。制度的な面からみれば、時宗の実質的開祖は他阿真教ということもできる。
編集
外部リンク
一遍上人絵伝
一遍上人絵伝巻7(東京国立博物館蔵)
一遍会
51 2006.4.29 一遍会会員・佐藤辰生著「戯曲 一遍伝〜白道のかなたに〜」が出版されました。
この度佐藤辰生著「戯曲 一遍伝〜白道のかなたに〜」が北の杜編集工房から出版されました。「一遍聖絵」をベースに著者がイマジネーションを脹らませて見事に戯曲で再構成して一遍、聖戒、仙阿、他阿はじめ一遍に連なる時衆僧の生き様を「語り」を通して描いた力作です。男女の情こそありませんが、青春時代に読んだ倉田百三の「出家とその弟子」の読了後の感動と同じ心の躍動を感じました。一遍さんにご関心のある方に是非お奨めしたい作品です。
著者と私との個人的な関係は数年前から続いております。著者と同年ということもあり、秋田と松山という距離の隔たりとは関係なく著者の博識と真摯な探究心に敬服して参りました。既にこの著書の元になった「六字遊行 私訳本 一遍聖絵(草稿)」と「戯曲 最後の一遍  一遍聖絵」を拝読しております。
「戯曲 一遍伝〜白道のかなたに〜」の最も感動的な、極めて重要なドラマは、著者の独自の視座による終幕かと思います。仙台の出版社ですから入手に手間が掛かるかと思いますが、紀伊国屋書店(仙台)で取り扱っていますので大都市では紀伊国屋書店を通じてお申し込み下さい。松山の方は例会時に事務局が持参しますので現金引換えでお手渡しいたします。一冊700円です。
50 2006.3.15 「文化協会 えひめ」に「一遍会 歩み続けて三十五年」が掲載されました。
愛媛県文化協会機関誌「文化協会 えひめ (2006年2月号NO35)」の文化往来の頁に「一遍会 歩み続けて三十五年」が掲載されました。
師走に県文化協会から依頼があり正直云って驚いた次第です。愛媛県外の方には意外でしょうが、温暖な伊予も「宗教活動症候群」の「文化人」や「活動家」が多く、行政が旗を振ると大騒ぎになります。多忙でしたが快く執筆をお引き受けしました。
「一遍会の活動」と「一遍と宝厳寺」に分けて、宗教にあまり関心のない「文化人」向けに「一遍会」のPRをすることにしました。県文化協会からの依頼を機に松山市の文化協会からも声を掛けてくれないかなと願っています。過去松山市の文化協会は一遍会を文化団体と認めなかった経緯があります。一遍さんの鎌倉幕府と対峙した凛とした行動を見習って、独自路線を歩んでいます。正々堂々と市の文化協会に参加できるまで、行政の支援を一切受けずにやって参ります。
掲載内容全文はHP「一遍徒然草紙」に掲載しますのでご覧頂きたいと思います。併せて複写していただいて知人友人にお手渡し頂ければ有難いのですが・・・
(追記)「一遍会報」311号(平成18年4月30日発行)に転載しました。
49 2006.2.26 小田原 時宗寺院「蓮台寺」で二祖坐像が公開になりました。
毎日新聞(横浜版)によれば小田原市国府津の時宗寺院「蓮台寺」で宗祖の一遍と二祖他阿真教の坐像の修復が終わり、帰山式で檀信徒に公開された。
この二つの仏像は関東大震災での破損以来痛んだままであったが2003年から修復の運びとなり解体修理された。前頭部裏側から「南無阿弥陀仏 文保二年二月十三日  于時御歳八十二」と墨書が現れ、二祖の亡くなる前年(1318年)制作された「壽像」と判明した。
国の重要文化財でもあり神奈川県立歴史博物館に寄託され一般に公開される予定である。尚二祖の像は全国に6〜7体あるが室町時代以降の制作が殆どである。
一遍誕生寺である道後奥谷に在る宝厳寺にも重要文化財「一遍上人立像」が本堂に安置されている。自由拝観ではないが寺務所に申し出れば拝観することができる。遠路お越しの方は遠慮なさらずにお申し頂きたいと思う。これも又ご縁であろう。
46 2006.2.7 幻の「謡曲 一遍上人」をご披露します。
一遍を主人公にした謡曲では「謡曲 誓願寺」「謡曲 遊行柳」は著名で、「一遍上人生誕七五〇年没後七〇〇年記念」として当地松山でも平成元年10月29日に記念能として「誓願寺」が披露されました。
一方「謡曲 一遍上人」は幻の謡曲らしく越智通敏氏ほか一遍研究の諸先輩の文献にも記載されていません。この謡曲の名前は知っていましたが残念ながら国会図書館の蔵書目録にも記載がなく半ば諦めておりました。
このたび「成田山仏教図書館」の蔵書リストから「謡曲 一遍上人」の所在を確認し、同図書館の飛田氏のご高配で全文を入手できました。
【粗筋】
一遍上人が津の国難波の浦に着き阿弥陀が池の畔の御堂で休み夜もすがら念仏を申そうとする。姥が信濃の善光寺の御仏(一光三尊の阿弥陀如来)が此池より上がった因縁を長々と語る。一遍は重ねてお参りすることを約して御堂を去る。
一遍と善光寺との因縁深さを知ることができました。今秋の窪寺にて開催する一遍忌(まんじゅしゃげ祭り)でご紹介したいと考えています。
【参考】
善光寺如来縁起によれば、一光三尊仏はインドと百済において衆生済度された後、西暦552年欽明天皇の下に奉送、蘇我稲目が尊像を受けて向原寺を建立し、日本における仏教普及の第一歩となった。
570年熱病流行を理由に廃仏派の物部遠許志大連の指図によって一光三尊仏は難波の堀江へ投げ捨てられてしまった
602年本多善光と息子の善佐が堀江から尊像をひきあげ信濃の自家で安置後、善光寺を建立して遷座し今に到っている。
ただしご本尊は654年秘仏となり、代わりに分身仏「前立本尊仏」が造成され七年に一度(現在は丑と未の年)ご開帳される。至近では平成15年4月6日〜5月31日にご開帳された。
45 2005.8.29 「踊念仏」(重要無形民俗文化財)が子規記念博物館で公開されます。
9月19日(月・祝日)松山市道後の「子規記念博物館」で「子規と踊り」のテーマで「のぼさんとあそぼ2005」が開催されます。
長野県佐久市からはるばる来松して「跡部の踊り念仏(重要無形民俗文化財)」を市民に見せていただくことになりました。
入場は無料ですが、整理券が必要です。「子規と踊り」は14:00〜15:30に4階講堂で開催されます。詳しくは同博物館(089−931−5566)までお問い合わせ下さい。 メール会員の方はパンフレットを添付してお知らせ致しました。
当日は「へちまコンテスト表彰式」{10:00〜10:30) 「夏井いつきの俳句の授業」(10:30〜11:30) 子規博マスコットキャラクター展示(9:00〜18:00)などもあり、一日楽しめそうですね。お帰りには一遍さん生誕寺「宝厳寺」へのお参りをお忘れなく。
文化団体の連携が悪くて、当日正宗寺(子規庵)では子規忌法要並びに記念講演が開催されます。申し訳ありませんが「踊念仏」を拝見しながら子規を偲んでいただけないでしょうか。
子規も下記の句を残しています。「俺の法事はマア良いがな。踊念仏を見て来いや。面白いぞ。」と言っているようです。
               「親負うて念仏踊り見に行ん  子規」
44 2005.6.10 一遍会400回例会で「幻の映画」を上映します。
 一遍会は昭和45年(1970)11月23日第一回例会を開催してから35年を経過し、今年6月11日に第400回例会を迎えることになりました。ご同慶の至りであります。記念例会では映画「捨聖一遍上人伝」を上映致します。2時間の大作です。
 
 この映画「捨聖一遍上人伝」は昭和54年(1979)に「一遍上人伝映画制作委員会」(新田兼市氏ほか)が制作し同年5月14日に東京銀座山葉ホールで試写会があった。3ヶ月後の同年8月一遍会例会にて上映し極めて好評であった。尚 一般上映は同年11月25日新宿「紀伊国屋ホール」で公開された。
 
 昭和55年(1980)12月27日新田兼市・房子夫妻がガス事故で逝去され、その後は上映されていない模様である。いつしか「幻の映画」といわれるようになった。今回400回例会に当たり、ご遺族からフィルムをお借りして上映できることになったのは幸運であった。ご期待下さい。
43 2005.5.24 梅谷繁樹師(NHK「一遍の語録を読む」講師)の公開講座をお知らせします。
時宗・西蓮寺ご住職でNHK「宗教の時間」で昨年一遍さんの講義をされた梅谷繁樹師から「遠隔地ですが如何ですか」と公開講座の案内パンフレットが届きました。関西にお住まいの方はご参加されませんか。
松山からは「行きたしと思えども浪速は遠し」の心境です。
講  師: 梅谷 繁樹(西蓮寺住職、元園田学園女子大学教授)
日  時: 2005年7月19日(火)13:30〜15:00 (受付 13:00〜)
会  場: リーガロイヤルホテル 桐の間 (タワーウイング2F)
料  金: 一 般 \2,000(税金含む)
中高年層の会員組織「リーガクラブ」メンバーは無料
申し込み・問い合わせは 「リーガクラブ」 
TEL 06−6441−1727 直通
42 2005.5.4 一遍の新しい像が熊本県玉名市で「発見」されました。
 熊本日日新聞(2005年5月2日)からの抜粋です。時宗関係ではビッグニュースです。
 玉名市教委は二日、修復を進めていた同市高瀬の願行寺(近江仙州住職)に伝わる僧形倚(い)像が、踊り念仏で知られる一遍が開いた時宗の高僧像としては国内最古級のものだと分かったと発表した。
 ヒノキ製の像はいすに座った姿で高さ一二一センチ、座高八二センチ。寺伝では時宗三世・其阿(ごあ)上人像とされていたが同市教委は、「一遍上人絵伝」などにある大きな頭頂部、特異な眼光・ほほ骨から一遍自身ではないかと期待を寄せている。
 時宗の高僧像は、銘のついたものでは滋賀・高宮寺の伝切阿(せつあ)上人座像(国重文、一三二七年作)が最古級とされ、願行寺の像も姿、構造が似ていたことから同年代の作とみられるという。同寺には座像がもう一体残っているが、こちらは倚像より新しいとみられる。
 一遍は一二七六年の九州遊行で、玉名を訪れたことが分かっている。願行寺は県内にある時宗唯一の寺。像は同寺庫裏の屋根裏に残され、一九八四(昭和五十九)年の市史編さんに伴う調査存在が確認された。
 しかし、像自体がバラバラで、左右の玉眼が欠けるなど破損が激しく、住友財団の助成を受け昨年から修復作業が続けられていた。もう一体も本年度修復される予定。
 熊本県立美術館では七月八日から、県内仏教美術を一堂に集めた「親子でみる不思議な世界展〜お寺探検」でこの倚像を公開する。
41 2005.4.12 焼酎「一遍」の次回発売は8月です。
 今春「梅錦山川」から発売した「小麦焼酎 一遍」は好評に付きメーカーでは売り切れました。次回の発売は8月ですが、リカー店に早めに予約なさって下さい。真夏の晩酌には最高の味覚とお勧めします。
 表皮部分のふすまを含めた小麦を原料とする焼酎は国内では初めて。この原料の小麦は、愛媛大学の遠藤弥重太郎教授が蛋白質の合成の研究で使用した胚芽を取り除いたものが原料となる。小麦の香りが強く飲みごたえのあるしっかりした味である。
 3月14日道後の「ふなや」で開催された「小麦焼酎【一遍】を嗜む集い」には加戸愛媛県知事、中村松山市長も出席し盛大でした。宝厳寺の長岡隆祥住職や檀信徒総代、小沼大八一遍会代表も明るい顔で勢揃いしました。
●小麦焼酎「一遍」試飲会 「梅錦山川」 ニュース(2005.03.15) 
梅錦が製造した小麦焼酎の試飲会が昨日(3月14日)夕刻に、松山の「ふなや旅館」でありました。 
愛媛大学遠藤教授発見の無細胞タンパクの合成過程でできた脱胚芽小麦を原料にしています。
名前は、松山商工会議所大亀会頭により道後出身の一遍上人から決まりました。 
会の途中、中村松山市長、加戸愛媛県知事と、顔を見せて下さいました。 
産官学で稔ったこととして、地域のこれからのキッカケになると喜んでいただきました。
40 2005.4.4 手作り青空市 「道後いっぺんさん」が軌道にのりました。
宝厳寺下の旧遊廓の「道後ネオン坂」の再開発に取り組んでいるNPO法人「アジア・フィルム・ネットワーク」が主導する青空市は4月3日第4回を迎えました。副代表の原口さんは一遍会にもよく出席されています。
会場は新装成った宝厳寺駐車場で、自然素材の菓子や手打ち蕎麦、ペルー料理、古布を利用した手芸作品、湯豆腐など十二店が出店しました。
第1回〜30回の様子
1回目の「 2回目の「
宝厳寺のお参りと併せて、道後の新お楽しみスポットにお出掛けになりませんか。