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「念ずれば花ひらく」 坂村 真民 | 「あかあかと一本の・・・」 斉藤茂吉 歌碑 | |
「金剛の滝」 一遍堂 新田兼市・房子建立 | 「色里や十歩はなれて秋の風」 子規 | |
「子規忌過ぎ一遍忌過ぎ月は秋」 黙禅 | 「あとやさき百寿も露のいのち哉」 静雲 | |
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木造 一遍上人 立像 重要文化財(彫刻) 明治三四年三月ニ七日指定 松山市・松山市教育委員会 |
一遍は、鎌倉時代の僧で遊行上人といわれ、時宗を開祖した高僧である。「南無阿弥陀仏」を専らとして、宗教的感興にまかせて念仏踊りを勧め、農漁民など各層に広く支持を受けて、革新仏教を確立した。正応二(一二八九)年に兵庫和田岬の観音堂で五一歳の生涯を閉じるまで衆生済度の旅を続けたのである。 上人立像は、寄木造で像高一一三.九センチメートル。太く秀でた眉、意思の強さを示す口元、慎ましい合掌、裾短い法衣からあらわれた素足、これらは遊行する上人の崇高な姿を表現し、室町時代中期の優れた肖像彫刻である。銘文に文明七(一四七五)年作とある。 |
縁起 |
湯月町にある古刹で、寺伝には天智天皇の四年(六六五)国司 乎智宿弥守興(おちのすくねもりおき)が天皇の詔によりて建立、のち伏見天皇正応五年(一二九二)再建され天台宗を時宗に改めた。
時宗の開祖一遍上人(昭和十五年澄誠大師(しようじようだいし)号宣下)誕生の地として名高い。 河野四郎通信の孫に当り別府七郎左衛門通広の三男。 十才で母を失いすぐ仏門に入り随縁と称し、太宰府の聖達上人の下で修業し智真と改名、のち紀州熊野権現に参籠して成道、これより一遍と名のり、南無阿弥陀仏を唱名しながら全国を遊行し世に遊行上人と専称された。 寺は昔十二坊あり広大荘厳であつた。一遍上人木像は重要文化財で室町期の傑作。懸仏及び残欠一体は市指定文化財。 寺境は一遍上人誕生地として県指定の史跡。 明治二十八年子規は漱石と共に道後に遊び散策集に、『松が枝町を過ぎて宝厳寺に謁づ。ここは一遍上人御誕生の霊地とかや。古往今来当地出身の第一の豪傑なり。 妓廓門前の楊柳往来の人をも招かでむなしく「一遍上人御誕生地」の古碑はしだれかかりたるもあはれに覚えてーーー』 と次の句を残した。 |
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出典 昭和40年 編著者 松山市教育委員会 「伊予路の文化」 | ||||||||||||||||||||||
道後温泉本館横のだらだら坂をのぼりきったところで、急にネオン坂が視界に飛びこむ。ここは一八七七(明治一○)年以来昭和三三年の売春防止法施行にいたるまで道後松ヶ枝町遊廓があったところだ。 漱石が『左に大きな門があって、門の突き当りが御寺で、左右が妓楼である。山門のなかに遊廓があるなんて、前代未聞の現象だ。』と「坊っちゃん」で描写している花街は、いまは旅館と飲み屋に変貌している。そのつきあたりの寺が宝厳寺だ。 この寺は時宗の開祖一遍の誕生地といわれる。一遍は、一二三九(延応元)年に伊予の豪族河野氏一門の子として生まれ、一五歳のとき出家して、大宰府の念仏上人聖造のもとで行をおさめた。その後、伊予にかえり、久万菅生(すごう)山岩屋などにこもって苦行をつづけ、一二七四(文永十一)年熊野権現に参籠してさとりをひらき、時宗をおこした。そして一二八九(正応二)年兵庫の観音堂で五一歳の生涯を終えるまで、賦算(札くばり)と踊り念仏による念仏勧進の遊行をつづけた。 宝厳寺は六六五(天智天皇四)年に創建され、一二九二(正応五)年の再建時に天台宗を時宗に改めたという。この寺に安置されている寄木造の一遍上人立像(重文)は、銘文に一四七五(文明七)年の作とあり、上人の崇高な、いのりの姿を表現した室町時代の肖像彫刻である。 | ||||||||||||||||||||||
出典 1974年 愛媛県高等学校教育研究会社会部 「愛媛県の歴史散歩」 | ||||||||||||||||||||||
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一遍上人 平成元年が生誕七五○年、没後七〇〇年に当るのを記念して、平成二年三月一五日一遍会と地元有志の建立。正応ニ年淡路て病悩をおかし巡行した時の作て、念仏をすすめてまわるくるしみなどものの数ではないとの意。 | ||||||||||||||||||||||
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年中行事 | |||||||||||||||||||
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時宗について・・・ | |||||||||||
時宗総本山 「遊行寺」 平成十五年 「時宗宝暦」 より | |||||||||||
〒251−0001 神奈川県藤沢市西富一丁目八番一号 電話 (0466) 22−2063 | |||||||||||
時宗は700年の昔一遍上人がお開きになった念仏宗であります。中国の唐の時代に善導大師という方が念仏の教えをさかんにされました。鎌倉時代になって法然上人がこの善導大師の教えを深く信じられて浄土宗を開かれたのです。一遍上人は浄土宗の一流、西山派の開祖証空上人の孫弟子に当ります。 一遍上人のはじめられた宗派をなぜ今日「時宗」と呼ぶかというと、次のようなわけがあります。 善導大師はその弟子たちを「時衆」と呼びました。法然上人も証空上人も一遍上人もそれにしたがいました。一日を6時(4時間づっ)に分けて、仏前でお念仏と六時礼讃というお勤めをいたしました。これは時間ごとに交代いたします。また別時念仏といって、日を限って念仏三昧を行いました。これも時間ごとに交代します。その人々を時の衆、つまり「時衆」と呼んだのです。この言葉は他の宗派では次第に使われなくなりましたが、一遍上人の流れをくむ教団では今日まで使われていて、「時衆」がこの教団の呼び名になりました。徳川時代に「時宗」と改められて宗派の名になったわけであります。 時宗で信仰する仏は阿弥陀如来で、とくに「南無阿弥陀仏」の名号を本尊といたします。この名号をつねに口にとなえて仏と一 体になり、阿弥陀如来のはかり知れない智恵と、限りない生命をこの身にいただき、安らかで喜びにみちた毎日を送り、やがてはきよらかな仏の国(極楽浄土)へ生れることを願う教えであります。 時宗の教えは、『大無量寿経』・『観無量寿経』 『阿弥陀経』に拠っています。これを浄土三部経と申します。歴代の上人がこれらの経典に説かれている念仏の教えをひろめるために、広く全国をまわるのを遊行(旅をしなから教えを説くこと)といいます。遊行上人や遊行寺の名はそれからおきています。遊行上人が念仏の札をくばることを賦算といい、念仏によって救われることのあかしとされるのです。 宗祖一遍上人 一遍上人は700余年の昔、四国は愛媛県の道後の豪族河野家に生れました。幼くして出家、法然主人の孫弟子に当る九州の聖達上人から浄土の教えを学ぶこと12年。のちに善光寺に参り、念仏一筋のほかに自分の道がないことを悟ります。それから故郷の窪寺や岩屋寺にこもって念仏三昧の生活を送り、ゆるぎない信仰を確立いたします。それからこの教えをすべての人々に広めようという念願をおこし、全国遊行の旅に出るのです。信州・佐久では踊り念仏をはじめました。16年間に、ほとんど日本国中を歩かれました。 上人は正応2年(1289)8月23日、神戸の観音堂(現・真光寺)で亡くなり、今もそこにお墓があります。その伝記は国宝『一遍聖絵』(藤沢清浄光寺・京都歓喜光寺)にくわしく、またその教えは『一遍上人語録』としてまとめられております。
遊行上人が巡り歩かれるところ、必ず御賦算なさいます。わかりやすく言えば、「お札くばり」のことです。賦は「くぼる」、算は「念仏ふだ」であります。 このお念仏のお札は遊行上人が、集まった人びとに一枚づつ手ずから配られます。宗祖一遍上人は、生涯に25万1千余人にくばられたと記録されています。 お念仏を称えれば、阿弥陀仏の本願の舟に乗じて極楽浄土に往生できるとの安心のお礼であります。「南無阿弥陀仏 決定往生60万人」と刷り込まれていますが、「決定往生60万人」とは、60万人の人々にお札をくぼることを願われ、また次の60万人の人たちに、ついにはすべての人々(一切衆生)に配ることを念願されたのであります。 遊行・賦算・踊り念仏は、今日では時宗独特の行儀であります。 遊行上人と遊行寺 遊行寺は「時宗」の総本山であり、一遍上人を宗祖と仰ぎます。 一遍上人は、寺院を建立することなく、その生涯を日本全国、一 人でも多くの人々に念仏をすすめて歩かれました。その志をつぎ、遊行を代々、相続していく方を遊行上人とお呼びします。 その遊行上人が、遊行をやめられて定住されることを「独住」といいます。遊行四代呑海上人は正中2年(1325)に、もと極楽寺の旧跡に寺を建てて独住されました。それが、遊行寺のはじまりです。遊行の法燈をつがれて、念仏をすすめて歩かれる方を遊行上人といい、遊行の世代を次の方にゆずられて、遊行をやめて「藤沢山・遊行寺」に独住された上人を藤沢上人といいます。そして、現在では一人の上人が“遊行上人"と“藤沢上人"の両方を兼ねておられます。 歳末別時念仏会と一ッ火 この念仏会は、一遍上人以来今日まで、700年も続けられている厳しい修行であります。明治のころまでは、12月24日から30日までの7日7夜にわたる行事でありましたが、近年では、11月18日から30日まで執り行われ、27日夜には“御滅灯"の式、つまり”一ッ火"の儀式が行われます。 この行事は、1年間の罪業を懺悔して心身ともに清浄になって新しい年を迎えることと、さらに重要なことは、極楽浄土への往生を体得することであります。 この修行の中で最も厳粛なのは”一ッ火"の式であります。27日の夜は、堂内の一切の灯火が消されて、シーンと静まりかえった暗闇の中で式がはじまります。遊行上人の底力のある念仏が静かな堂内に満ちてくると、末法のこの世の中に念仏のみがただ一つの救いであること、胸の奥ふかく沁みとおるようであります。しばらくの間は、身じろぐものもありません。そして新しい火が打ち出されて、つぎつぎに仏前の灯火が点じられてゆきます。堂内が次第に明るくなって、居ならぶ修行僧の顔が見えはじめるころには、念仏の声も一 段と高く、ひびきわたってゆきます。闇黒と光と念仏と・・・。 人々はこの三つが織りなす雰囲気に感激し、念仏のありがたさを体得するのであります。ここに700年の伝統の火が念仏とともに輝き出すのであります。 |
念ずれば花ひらく 坂村 真民 |
一遍堂 新田兼市・房子建立 「金剛の滝」 |
一遍上人・宝厳寺と遊行寺 |
宝厳寺といえば一遍上人(一二三九〜一二八九)の生誕寺として有名であり、一方では参道筋(上人通り)には旧遊郭「松ヶ枝町」があったことを戦前派の方はとくとご存知のことだろう。
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明治二五年、正岡子規が喀血後の療養で帰郷し、当時松山中学で英語の教鞭をとっていた夏目金之助(漱石)の寓居「愚陀仏庵」で五十余日を共に過ごした。十月六日、漱石と共に道後界隈を散策し宝厳寺にも立ち寄り、『散策記』に次の一文を残している。 |
「松枝町を過ぎて宝厳寺に謁づ こゝは一遍上人御誕生の霊地とかや 古往今来当地出身の第一の豪傑なり
妓廓門前の楊柳往来の人をも招かでむなしく一遍上人御誕生地の古碑にしだれかゝりたるもあわれに覚えて 古塚や 恋のさめたる 柳散る 宝厳寺の山門に腰うちかけて 色里や 十歩はなれて 秋の風」 境内には、子規の「色里や十歩者なれて秋の風」のほかに、一遍上人、酒井黙禅、斎藤茂吉、川田順、河野清雲の詩・句碑が建っている。 |
さて宝厳寺の歴史は古く、天智四年(六六五)斉名天皇の勅願により越智守興が創建した法相宗寺院で、開山は法興律師である。斉明七年(六六一)天皇が百済救援の為、中大兄皇子(天智天皇)・大海人皇子(天武天皇)らとともに「熟田津来湯」され、越智守興が「白村江の戦」に伊予水軍を率いて出陣した史実と深く結びついている。万葉歌人額田王の「熟田津に船乗りせむと月待てば 潮もかなひぬ今は漕ぎ出でな」の一首もこの時この地で詠まれた。奥之院が天皇一行の行在所であったとの伝承がある。 |
風早(旧北条市)出身の天台宗別当でもある光定(七七九〜八五八)の影響もあり天長七年(八三〇)天台宗に改宗しているが、松山市の東部には天台宗別院弥勒寺(食場)、河野院円福寺(藤野)、西法寺(伊台)、常信寺(祝谷)、佛性寺(菅沢)、正観寺(小野)など天台宗寺院が散在している。宝厳寺の寺名は「豊国山遍照院宝厳寺」であるが、鎌倉・室町期には総門、地蔵堂、毘沙門堂、庫裏、鎮守社、楼門、本堂、開山堂、奥の院と塔頭十二房(法雲・善成・興安・医王・光明・東昭・歓喜・林鐘・正伝・来迎・浄福・弘願)を持つ大寺であった。 |
鎌倉時代に入り河野氏が急速に力をつけるが承久の変(一二二一)で当主河野通信一統は後鳥羽上皇側に加担して北条方に敗北し殆どの所領を没収される。一遍の父通広は奥谷の一塔頭に隠棲し、そこで一遍(幼名松壽丸)が誕生した。一遍(智真)は寺域内の塔頭や大宰府で浄土教典を学び、信濃の善光寺、伊予の窪寺や岩屋寺で修業し、熊野本宮で神託を得て、薩摩の大隅(鹿児島県姶良郡)から陸奥の江刺(岩手県北上市)まで念仏勧進を始める。踊念仏・賦算・遊行により一遍が教化した時衆は大衆の支持を受けて急速に拡大する。近世の「道後八景」では「宝厳寺黄鳥(鶯)」を挙げ「道後十六谷」では「奥谷」があり法師谷と尼谷に分けられている。 |
建治元年(一二七五)一遍により宝厳寺は時衆寺院となり正応五年(一二九二)時衆寺院(奥谷派)として一遍の実弟仙阿が中興開山となる。河野氏や小早川氏の支援、松山藩を治めた加藤、蒲生、松平(久松)家の庇護を得て幕末を迎えた。山門脇に在る「一遍上人御誕生旧跡」碑は元弘四年(一三三四)得能通綱が建立し、道後公園北口にある「湯釜薬師」の宝珠部に彫られている「南無阿弥陀仏」は従弟に当る河野道有の求めにより一遍が揮毫したものと伝承されている。 |
時宗の本山は「藤澤山無量光院清浄光寺」であるが、法主が「遊行上人」と呼ばれるので「遊行寺」が一般名となった。遊行寺の門前町が山号藤澤山から藤沢と呼ばれ、やがて東海道の宿場町として発展し今日の藤沢市となった。時宗の聖地としては@生誕地「道後奥谷・宝厳寺」ほかにA発心の地「信濃・善光寺」B成道の地「那智・熊野大社」C終焉地「神戸・真光寺」がある。時衆である善光寺聖、高野聖、熊野修験者が嘗ては全国津々浦々で南無阿弥陀仏の世界を広めていき、室町期には少なくとも全国に八六〇寺院、四国に二十寺院、伊予に六寺院存在した。現在は四国に三寺院で、伊予には宝厳寺と願成寺(内子)の二寺院を残すのみである。 |
夕暮れ時、本堂の廊下に座して西を眺めると城山や瀬戸内の島々・海原が広がり正に西方浄土を連想させ、本堂階段に座して南の御仮屋山と対峙すると道後十六谷の一つ奥谷が迫り、早暁や深夜には幽谷の感すらする。「豊かな社会の崩壊」が囁かれる今日、一遍が希求した「捨ててこそ」を求めて宝厳寺を訪ねる参詣者が多くなってきている。尚、文化団体「一遍会」では月例会とあわせて一遍生誕会(松寿丸湯浴み式)一遍忌(窪寺まんじゅしゃげ祭り)などを市民対象に企画実施している。 |
(注)本編は松山東高校同窓会の依頼で平成21年度版『明教』誌に寄稿したエッセイである。 |