第五十四章  「一遍会史」の試み@ 〜黎明期〜  平成26年(2014)2月8日一遍会第五〇四回例会講演 
一、 はじめに
一遍会(一遍上人奉賛会)は昭和四五年(1970)一月二三日、第一回例会を「一遍堂」にて開催した。平成二五年(2013)一〇月十二日、第五〇〇回例会を「道後公民館(視聴覚教室)にて開催することができた。
平成二七年(2015)には一遍会創立四五周年を迎えるに当り「一遍会(略)史」を取りまとめて創立五〇周年への足固めをし、先達への心からの謝意を表するとともに、次世代の会員への橋渡しをしたいと願う。半世紀にわたり、縁あって一遍会に集い、事情あって離れていかれた数多くの会員の方々の有縁無縁のご支援に心から感謝申し上げる次第である。
一、黎明期
一遍会誕生の萌芽を、昭和初期の日本の政治・社会の動きから洞察する。
 時宗開祖一遍に対する「証誠大師」号宣下が、時宗の現代への「再生」の契機であり、この動きに点火したのが『都新聞』(現・東京新聞)事業部長・相原熊太郎であった。彼は愛媛県出身で松山中学に学び東京帝国大学を卒業後ジャーナリストとして活躍した。相原は、一遍上人奉賛会創設に直接には関与していないが「種を播く人」として足跡を残していただいた大恩人である。
@ 昭和初期の時宗の動き
 一遍会誕生の萌芽を、昭和初期の日本の政治・社会の動きから洞察する。
 時宗開祖一遍に対する「証誠大師」号宣下が、時宗の現代への「再生」の契機であり、この動きに点火したのが『都新聞』(現・東京新聞)事業部長・相原熊太郎であった。彼は愛媛県出身で松山中学に学び東京帝国大学を卒業後ジャーナリストとして活躍した。相原は、一遍上人奉賛会創設に直接には関与していないが「種を播く人」として足跡を残していただいた大恩人である。
遊行六十八代「一教」上人(明治三年1870―昭和一九年1944)から記述する。
上人在位は七年。[昭和十一年(1936)七月〜昭和十九年(1944)一月] 
 
○昭和一一年 七月  時宗管長就任(藤沢上人五二世・遊行上人六九代兼帯・七月一〇日)
○昭和一二年     本堂再建慶讃式(大正十二年1923九月一日関東大震災で全壊)
○昭和一四年 四月  「宗教団体法」成立(一管長一教義  一向派の阻害)
○昭和一五年 三月  宗祖「証誠大師」諡号宣下(公報三月二三日付)
○昭和一五年 四月  宗祖一遍上人六百五十年御遠忌
○昭和一七年 三月  一向派五七寺浄土宗移転、残留二九寺。末寺約四四〇寺。
○昭和一八年一一月  仙台第一陸軍病院 脳溢血入院 
一二月  東北帝大附属病院入院  
○昭和一九年 一月  遷化(東北帝大附属病院、陸軍病院の二説あり。一月二一日 )
(参考資料)昭和一五年四月「宗祖一遍上人六百五十年御遠忌」当時の寺院数
総本山  1    清浄光寺(遊行寺)
大本山  4    無量光寺(相州当麻) 蓮華寺(江州番場)金蓮寺(京都四条)
正法寺(京清閑寺町)
別格本山 1    新善光寺(京都五条)    
檀 林  3    一連寺(甲州甲府) 日輪寺(東京浅草) 真光寺(摂州兵庫)
准檀林  2    称名寺(三州大浜) 来迎寺(越後十日町)
末 寺 約490  宝厳寺(予州道後)ほか
(注 昭和一七年三月 一向派五七寺が浄土宗移転(本山 蓮華寺)、時宗残留は二九寺。
末寺約四四〇寺となる)。

別表資料1 大師号 一覧表
別表資料2 時宗寺院数 推移 「時宗末寺帳」 最近の寺院数
A国民総動員法施行と時宗の対応
 国家総動員法は第二次世界大戦(大東亜戦争)の日本の総力戦体制の根幹になった法律であるが、人・物・金のすべての分野にわたり、さらに文化・教育・宗教にも及んでいる・
昭和一五年に宗祖一遍上人六百五十年御遠忌を迎えて、時宗教団も他の教団と同様に積極的に参加していくことになる。 (注)●印は時宗関係事項
昭和一二年
@八月、宗教局長が「国家精神総動員」について宗教家に奮起を促す。同月、近衛内閣は「国家精神総動員実施要綱」を決定する。
A一〇月、「国民精神総動員中央連盟」が結成される。会長は有馬良橘海軍大将就任。同月、「仏教護国団」が日比谷で報告大会開催。マスコミも軍部の行動を支持する。
●上人、一月、熊野本宮、伊勢神宮参拝、四月、新田義貞公墓前祭参列、
昭和一三年
@ 三月、文部省は神道・儒教・仏教の代表と「国民精神総動員」につき協議。
●二月、満州国開教師(秋山文善僧都)任命。
昭和一四年
@ 四月、「宗教団体法」成立(一管長一教義)
●一〇月、総本山防空訓練実施。
昭和一五年
@ 七月、近衛内閣は「基本国策要綱」を決定し国防国家体制樹立に向かう。
A 一〇月、「大政翼賛会」が結成され、大成翼賛運動が展開する。
●宗祖一遍上人「証誠大師」諡号宣下

昭和一六年
 @大東亜戦争勃発。真珠湾攻撃開始。
 ●三月、「時宗宗制」制定。准檀林に京都府長楽寺、滋賀県浄信寺追加、別格本山 1    新善光寺(京都五条)削除。
 ●一二月、時宗報国団結成。
昭和一七年
 ●三月、一向派五七寺浄土宗に転出。
 ●一一月、上人、天皇陛下に拝謁。
昭和一八年
 ●上人、仙台第一陸軍病院慰問、脳溢血で倒れ、翌一九年一月遷化。七五歳。
B 著述家・相原熊太郎の一遍顕彰の提言
【略歴】
 相原熊太郎は、明治一六年(1883)愛媛県にて出生(旧・温泉郡坂本村 現・松山市久谷町)。松山中学校で学び、東京帝国大学哲学科を卒業後都新聞(現・東京新聞)入社、記者として活躍、整理部長・公益部長を歴任する。都新聞を退社後、「生活改善中央会」主事を勤め、昭和一四年(1939)「宗祖智真(一遍上人)洪業箚記」を発表する。
翌一五年、一遍上人に「証誠大師」号が宣下される。昭和二二年坂本村に帰郷、同村の戦死者の「鎮魂の皿」を制作し浄瑠璃寺に寄託し帰郷するが、爾来たびたび松山に来訪し、郷土史家や後年の一遍会創設時のメンバー(北川淳一郎、佐々木安隆、河野角太郎、一遍堂・新田兼市)と親交を深める。最晩年は盲目となり昭和五四年東京にて逝去(九七才 七月二五日)。彼が一遍を顕彰した契機は、「郷土の生んだ宗祖一遍」ということもあるが、現役を引退して強まってきた郷土愛も無視できない。郷土愛の最大の贈り物が「鎮魂の皿」であった。
詳細は「相原熊太郎略年譜」に記載。
【「宗祖智真(一遍上人)洪業箚記」(昭和一四年)解説】
 相原熊太郎の提言は昭和一四年二月一一日(紀元節)付で脱稿しているので構想はそれ以前に纏まっていた筈である。時代背景は「国民精神総動員」である。一〇章からなる。即ち
一、 宗祖自ら天下を周遊して伝道せること
二、 宗祖私を滅し衆生利益につとめしこと
三、 宗祖の衣食住を超越せること(簡易生活)
四、 忠君愛国のこと
五、 敬神崇祖のこと
六、 国語を尊重せること
七、 民衆娯楽を建設せること
八、 勤労奉仕につとめしこと
九、 保険信仰行脚の創設者たること
十、 結語
時流に沿った用語を使えば「滅私奉公」、「質素倹約」(贅沢は敵)、「忠君愛国」「敬神崇祖」「国文尊重」(和歌・和賛・道場誓文)、「大衆娯楽(踊念仏)」、「勤労奉仕(気比神社参道修築)」。「健康増進(時衆遊行)であり、まさに国策に合致した宗祖であり、一遍を顕彰すべきである。結語は「我等法孫は檀家信徒と共に、宗祖の私を滅して躬行せられたる典例に則り、現代所要の規綱にそひ以て聖代に生を享けたるを感謝しつゝ精進して、ひたすら皇猷に翼賛し奉らんことを期す。」である。
 翌昭和一五年三月、昭和天皇から宗祖一遍に「証誠大師」諡号宣下され、相原熊太郎は本山(遊行寺)での祝典に列席している。但し、この一文と大師号宣下との関係は不明であり不問である。
C大政翼賛会による北川淳一郎著『一遍上人伝』出版
 大政翼賛会による『一遍上人伝』は昭和一七年(1941)に出版された。著者は、旧制松山高等学校教授であった北川淳一郎である。北川は昭和四五年一遍奉賛会設立時に理事となり第一回例会で「別府の史蹟」のテーマで講演している。
【略歴】
北川淳一郎は、明治二四年(1891)温泉郡三内村(現・東予市川内)にて出生。松山中学校に学び、第三高等学校を経て東京帝国大学法学部を卒業、内務省に入省(北海道庁 土木部河川課)。大正八年(1919)松山高等学校の新設に伴い教授となり、昭和二二年「公職追放」により退職。弁護士会業。松山商科大学(現・松山大学)教授、晩年は石手寺総代、一遍奉賛会理事就任。昭和四七年逝去。(八二才 三月七日)
公職追放の事由は、昭和一七年から、松山高等学校教授の侭で大政翼賛会傘下の「道後湯之町翼壮団」団長を勤めたことによる。
詳細は「北川淳一郎略年譜」に記載。
【北川淳一郎著『一遍上人伝』(昭和一七年)解説】
北川が宗教的神秘に触れたのは、昭和三年一月二二日皿ヶ峰登山のときである{三三歳}。北川の言に拠れば「風穴の手前まで来た時に、雪の中で小さな潅木が既に来たるべき春を待つべく芽ぐんでいるのを見た。私はその時、こんな山奥でしかもこんな潅木でも生かされているのだと思うと同時に、そのあたりが真紅の雲につつまれ、自分の体がその雲の中に浮いているみたいな実感を覚えた。これ然し、数秒間の短い間の出来事だった。私の生まれて初めての経験(法悦)であった。」これ以降、密教と登山に関心が強くなっていく。
昭和三年、松山仏教青年会を設立、宗教関連書を執筆している。昭和一五年、宗祖一遍上人六百五十年御遠忌の宝厳寺での講演で一遍を知り、『一遍上人語録』を読み一遍に傾倒し『一遍上人伝』を執筆した。愛媛県下の文化人にとっては初めて一遍の啓蒙書であり解説書であった。もっとも、岩波文庫では『一遍聖絵』や『一遍上人語録』は出版されていた。
 内容は(1)一遍成道(2)一遍涅槃の構成である。末尾の一節を載せておく。
「日本仏教よ、先ず須らく捨聖一遍の芳躅を学べ。全国幾萬幾十万の寺院よ、僧侶よ、檀信徒よ、もう一度一遍の昔にかへって、すべてを新しく出発しなほさうではないか。そして、相ともに大法を宣揚し、先づ大東亜に。果ては全世界二十億の群生をして本地の風光を光被せしめやうではないか。南無一遍證誠大師」
D一遍会初代会長 佐々木安隆の人間教育
 一遍会初代会長になる佐々木安隆は、時系列では、相原熊太郎、北川淳一郎についで三番目に登場するが、三人が同じ席に揃ったのは、昭和三五年、一遍堂の新田兼市が設営した懇親会で会っている。この席には、宝厳寺住職 長浜秀道師も同席している。懇談の内容は記録に残っていない。尚、相原と北川は昭和二九年、坂本公民館で開催された伊予史談会で講師として参画している。
相原と佐々木の「出会い」は不明であるが、昭和三五年の佐々木の著書『証誠大師 一遍上人』(昭和三五年十一月三日刊)の序は相原熊太郎が書き(昭和三五年八月二三日付)、付録に相原熊太郎「宗祖智真(一遍上人)洪業剳記(昭和一四年二月一一日稿)」が掲載している。また佐々木の自序で相原熊太郎へ謝辞を寄せている。「一遍」を通して二人の交流は深まってと考えられる
「・・・・小著の刊行に当り、多数先輩の文献を参考にさせていただいたり、助言や指導を受けたことに対し、ここに厚く謝意を表します。特に相原熊太郎先生の校閲をいただいたことは本書に千鈞を加えたものであり、謹んで御礼申し上げます。」
 昭和三五年の相原・北川・佐々木・長浜師の懇談は、一遍会(一遍奉賛会)誕生を運命づけた一夕であった(と、云えるのではなかろうか。)
【略歴】
 佐々木安隆は明治三三年(1900)、伊予郡砥部町川登(現・伊予市)にて出生。圧山中学校に学び、旧制第五高等学校を経て京都帝国大学英法律科卒業。東京都電気局に採用され、昭和一八年七月から一九年六月まで東京都向島区長(現・墨田区)。同年一〇月に松山に帰住し愛媛県経済会戦力部(次長)勤務。二〇年三月には、一年前までの勤務先である東京で大空襲があり死亡八万人、被災者一〇〇万人に達する。
 心の傷も深く、昭和二二年に拓川学園(幼稚園)を創設、昭和三三年には全日本教育父母会設立と共に県支部長として偏向教育の是正に参画する。四八年には自主憲法制定愛媛県民会議議長に就任する。拓川学園(幼稚園)は聖カタリナ学園が吸収して「ロザリオ幼稚園」となったが、和気・大山寺幼稚園の園長として情熱を注ぐ。
一方、昭和四五年(1970)には一遍上人奉賛会を創設し会長に就任し、五三年には文化団体「一遍会」に改組する。五五年二月一遍会例会直後に急逝する。戒名は「瑞嶺院超脱玄隆居士」で、宝厳寺の墓地で眠る。(八一才 二月九日) 著書に『証誠大師 一遍上人』(昭和三五年刊)がある。
 詳細は「佐々木安隆略年譜」に記載。
[参考資料]

(宗門関係)
高野修『時宗教団史』(岩田書店 2003) 
禰宜田修然・高野修『遊行・藤沢上人歴代上人史』―時宗七百年史―』(松秀寺 1989) 
大橋俊雄『時宗史料第二 時宗末寺帳』(時宗教学研究所 1965)
長島尚通外編『清浄光寺』(遊行寺 2007)
大橋戒俊『趣味と研究に基ける名僧の戸籍調べ』(二松堂書店 1921)
遠山茂樹外『昭和史』(岩波新書223)
大内力「ファシズムへの道」(『日本の歴史』24 中央公論社1967)
林茂「太平洋戦争」(『日本の歴史』25 中央公論社1967)
『仏教年鑑』平成二三年版(法蔵館)
(相原熊太郎関係)
相原熊太郎『宗祖智真(一遍上人)洪業箚記』(昭和一四年1939) 
土方正巳『都新聞史』(日本図書センター 1991)
東京都総務局「歴代区長一覧」(明治一一年〜昭和二二年)
一遍会講話「一遍上人と相原熊太郎」相原秋一(「一遍会報」十二号)
(北川淳一郎関係)
北川淳一郎『一遍上人伝』(昭和一七年1942)
北川淳一郎『読書彷徨』(昭和四八年1973)
北川淳一郎「捨聖一遍(上)」(『「伊予史談」一〇五号)
川内町編『川内町新誌』(1992)
(佐々木安隆関係)
佐々木安隆『証誠大師一遍上人』(昭和三五年1960)
「学校法人 聖カタリナ学園 平成二四年事業報告書」
『愛媛県史  教育』(愛媛県 1986)
(共通)
『愛媛県百科大事典』(愛媛新聞社 1985)
「一遍会報」(自 昭和五三年三月第1号〜至 平成二六年二月第359号)