第三十六章 一遍時衆を陸奥国江刺(祖父通信墳墓)に道案内した男 〜河野通次〜

(注)『一遍会報』第335号からの転載
一、 はじめに

@一遍・時衆の三〇〜四〇名の教団が丸3年に及ぶ猛暑・厳寒の遊行を可能にした経済的、政治的背景を如何にとらえるか。また、時衆の生命と通行(安全・安心)を保証した人的背景を如何にとらえるか。担保は「賦算」(南無阿弥陀仏による救済)だけか。

A『聖絵』に描かれた宗教的奇蹟(紫雲、踊念仏、係累同行(超一・(超二)・念仏房・聖戒)を如何に絵解き(解釈)するか。

B時衆の僧と尼僧は略同数(20名前後)で構成されるが、遊行時の宗教的運命共同体において尼僧が重要な役割(遊行に不可欠な役割)を担ったと考えられないか。

C3年に及ぶ東北遊行を支えた背景に東北・関東鎌倉武士団があり、その中心に通信の長子通俊(得能祖)の次男通重(一遍の従兄)が居た。京都から陸奥まで一遍・時衆を道案内したのは通重の二男通次(宿阿)であった。

二、一遍時衆の遊行を支えた奥州河野家

文治五年(1189)源頼朝による奥州藤原氏(平泉)討伐時、河野通信は長子通俊とともに従軍する。戦功により伊予国久米郡と陸奥国栗原郡三迫(サンノハザマ)を与えられる。【河野通信、奥州三の迫を給ふ(予章記)】

承久の乱(1221)で上皇側に加担した河野通信の所領はすべて没収され、通信は陸奥国江刺(極楽寺)に流刑となる。この乱中に通俊は戦死するが、その子通重は鎌倉方であったので、葛岡村地頭として所領は安堵される。のち、六波羅探題出仕となるが、老齢の為、次男の通次が六波羅探題大番役として出仕する。

奥州河野家は通俊の子通重から始まる。通秀と通重は、異母兄弟であり、一遍の従兄に当たる。

【予州・得能家】

   通俊―通秀―通純―通村(通純実弟)― 通綱

[奥州・河野家】栗原郡三迫郷(のち葛岡村)地頭

   通俊―通重【珠阿]―(長男)敏行(稗貫家)[長阿]

               ―(次男)通次〔宿阿〕

               ―(三男)通綱

後年、予州得能家の通綱は、疲弊した一遍生誕寺である宝厳寺の再興を果たした。

三、一遍との出会い

 鎌倉武士である河野通次(〜1309「時宗過去帳」)は六波羅探題大番役出仕中、弘安二年(1279)、烏丸五条の因幡堂で一遍の布教に出会い、入道して「宿阿弥陀仏順道」の法名を授与される。縁あって一行の先導で奥州へ出立することになる。信濃から江刺までの道程は鎌倉武士団の諸領地であり、城主、武士、寺院の支援の中で炎暑・厳寒を通して無事に陸奥国までたどることになる。『聖絵』の中にこの間での時衆の死去や疲弊の記述が一切見当たらないことがその証左でもある。

一遍聖絵』によれば、一遍は祖霊巡礼の思いが強く、時衆と共に弘安二年(1279)八月に京都から信濃国(善光寺)に向かう。同年歳末に同国佐久郡伴野(在家)、小田切の里(武士の館)、野沢城(城主:大井太郎・伴野太郎時信)を経て下野国(栃木県)小野寺に着く。翌弘安三年(1280)陸奥国(現岩手県)江刺で祖父通信の墓(現・北上市稲瀬町水越)に詣で、松島・平泉(源義経終焉地)を経て、常陸、武蔵国石浜(現・東京都浅草)に着く。翌々年、弘安四年(1281)、相州(神奈川県)高座郡当麻に「無量光寺」を開き、実母(大江氏)の持領地で過ごす。弘安五年(1282)3月鎌倉入りを果さず、片瀬の地蔵堂で数ヶ月を過ごし、7月に伊豆国(静岡県)三島に向けて出立し京都に向かう。

江刺での一年は概ね次のような事績が残っている。

弘安三年 秋・冬 ○河野通信墓回向(すすき念仏)○極楽寺参拝○河野通重館(通信孫)○通重(珠阿弥陀仏)、通重妻(聞一房)、長兄・稗貫敏行(長阿弥陀仏)入信

弘安四年 春・夏 ○林長山光林寺落慶(落慶導師は一遍)○鎮守社、十王堂などを爾後建立する。別時念仏、踊躍念仏で勧化しながら南下していく。

(注)司東真雄(元奥州大学教授・住職)「岩手県 時宗 略史」に拠る。

五、おわりに

論者は一遍時衆の遊行にあたっては、街道筋、社寺、市場での賦算は別として、移動に当たっては全国に点在する河野系武士団や有力鎌倉武士団の暗黙の了解や支援があって初めて実行できたと考えている。
1、はじめに(鎌倉幕府から見た河野通信)
@ 源平の戦いで源氏を決定的な勝利に導いた伊予国の武将・河野通信は奥州藤原泰衡を征伐に当たり、関東武者とともに出陣し戦功を挙げた。北条時政の娘婿として「第三席」で鎌倉幕府に迎えられた。
A 承久の乱(1221)で後鳥羽上皇の側に就き、北条方に徹底抗戦して捕らえられ、陸奥国江刺に流刑され、その地で亡くなった。
文治五年7月19日 丁丑    【頼朝奥州進発】  1189
巳の刻、二品奥州の泰衡を征伐せんが為発向し給う。御進発の儀、先陣は畠山の次郎重忠なり。先ず疋夫八 十人馬前に在り。五十人は人別に征箭三腰(雨衣を以てこれを裹む)を荷なう。三十 人は鋤鍬を持たしむ。次いで引馬三疋、次いで重忠、次いで従軍五騎、所謂長野の三 郎重清・大串の小次郎・本田の次郎・榛澤の六郎・柏原の太郎等これなり。凡そ鎌倉 出御の勢一千騎なり。次いで御駕(御弓袋差し・御旗差し・御甲冑等、御馬前に在り)。
鎌倉出御より御共の輩、武蔵の守義信 遠江の守義定 参河の守範頼 信濃の守遠光 相模の守惟義 駿河の守廣綱 上総の介義兼 伊豆の守義範 越後の守義資 豊後の守季光・・・河野の四郎通信・・・ 
文治五年10月1日 丁亥    【奥州郡郷荘園所務】  1189
凡そ奥州御下向の間、鎌倉を御出の日より御還向の今に至るまで、毎日の御羞膳・盃 酒・御湯殿各々三度、更に御懈怠の儀無しと雖も、遂に以て民庶の費えを成さしめざる所なり。上野・下野両国の乃貢を運送すと。人以て欽仰せざると云うこと莫し。また河野の四郎通信土器を持たしめ、食事毎度これを用ゆ。榛谷の四郎重朝乗馬を洗う 事日々怠らず。これ等則ち今度御旅館の間、珍事の由人口在りと。
建仁三年4月6日 甲辰   【河野通信給御教書】  1203
伊豫の国の御家人河野の四郎通信、幕下将軍御時より以降、殊に奉公の忠節を抽んず るの間、当国守護人佐々木三郎兵衛の尉盛綱法師の奉行に懸けず、別の勤厚を致すべ し。・・・通信年来鎌倉に在るの処、適々身の暇を賜り、明旦帰国
すべきの間、御前に召しこの御教書を給うと。
元久二年閏7月29日 甲寅   【河野通信伊予国沙汰】  1205
河野の四郎通信勲功他に異なるに依って、伊豫の国の御家人三十二人守護の沙汰を止め、通信が沙汰と為す。御家人役を勤仕せしむべきの由、御書(将軍御判を載す)を下さる。件の三十二人の名字、御書の端に載せらるる所なり。善信これを奉行す。
承久三年6月28日 辛巳     <河野通信鎌倉方叛旗>  1221
伊豫の国住人河野入道、当国の勇士等を相従え戦うの間、一方の張本たり。仍って討罰すべきの由、武州国中の河野に與せざるの輩等に下知すと。
(注)『吾妻鏡』からの抜粋。
⇒何故、流刑地が陸奥国(現岩手県)江刺だったのか。
2、一遍時衆の陸奥国江刺までの経路
弘安2年(1279)8月から弘安7年閏4月までの4年8ヶ月余りの遊行が実行された。弘安4年5月には蒙古襲来(弘安の役)が勃発し、西国と鎌倉幕府は戦時体制であったが陸奥には国難の危機意識はなかった。『一遍聖絵』には蒙古襲来の「国難」は一切触れられていない。
年 代
場 所
一遍聖絵
他文献ほか  
弘安二年(1279)
京都
京都
信濃(長野)
佐久郡伴野
小田切の里
野沢城
葉広<上伊那郡>
因幡堂
因幡堂
善光寺
市庭在家<伴野時信>(歳末別時念仏)
武士の館(踊り念仏)(通末墓回向)超一?
大井太郎朝光 (踊り念仏)
近江遊行(多賀大社)
熊野(卒塔婆建立)
父:小笠原信濃守長清
(承久3年阿波国守護)
通政墓回向?
弘安三年(1280)
下野国
白河関
陸奥国江刺
小野寺(化益)
祖父河野通信 墓回向(すすき念仏)
御家人小野寺道綱・康綱
河野通重宅(通信孫)
極楽寺・上台坊隠岐院
弘安四年(1281)
松島 平泉
常陸 武州(石浜)
林長山光林寺】落慶
塩釜明神(念仏法楽)
平泉・源義経墓回向
相州当麻・無量光寺創設
大江氏所領地で越年か?
弘安五年(1282)
鎌倉 片瀬
伊豆(三島)
駿河(井田)
片瀬地蔵堂
三嶋大社(法楽)
あじさかの入道
北城時宗 一遍招請
相模滝口で遊行化益
(注)橘俊道・梅谷繁樹「一遍上人全集」(「一遍略年譜」)に準拠。
⇒一遍・時衆の30〜40名の教団の丸3年に及ぶ猛暑・厳寒の遊行を可能にした経済的、政治的背景を如何にとらえるか。また、時衆の生命と通行(安全・安心)を保証した人的背景を如何にとらえるか。担保は「賦算」(南無阿弥陀仏による救済)だけか。
⇒『聖絵』に描かれた宗教的奇蹟(紫雲、踊念仏、係累同行<超一・(超二)・念仏房・聖戒・(仙阿)ら>を如何に絵解き(解釈)するか。
⇒時衆の僧と尼僧は略同数(20名前後)で構成されるが、遊行時の宗教的運命共同体において尼僧が重要な役割(遊行に不可欠な役割)を担ったと考えられないか。
3、一遍時衆の遊行を支えた奥州河野家
3年に及ぶ東北遊行を支えた背景に東北・関東鎌倉武士団があり、その中心に通信の長子通俊(得能祖)の次男通重<一遍の従兄>が居た。京都から陸奥まで一遍・時衆を道案内したのは通重の二男通次<宿阿>である。以下、本論を述べるが、「卓話」のため骨子のみに止める。
1)奥州河野家系譜
【伊予国・得能家】 得能郷地頭
河野通信 通俊 (得能)通秀 通村 通綱<宝厳寺再建
(河野)通重[珠阿] (長男)敏行<庶子・稗貫家>[長阿]
(次男)通次〔宿阿〕
(三男)通綱
【奥州・河野家】 栗原郡三迫郷(のち葛岡村)地頭)
河野通信 通政 (河野)通秀
通広 (長男)通真 通朝
(次男)通秀(一遍)
(仙阿・伊豆坊)
通定(聖戒・伊予坊)
通末
通久
通継
(注)橘俊道・梅谷繁樹「一遍上人全集」(「一遍系図」)、「岩手県 時宗略史」に準拠
(注)人名の下線は上皇側(反北条)加担。
文治五年(1189)源頼朝 奥州藤原氏(平泉)討伐時、祖父通信とともに従軍。戦功により伊予国久米郡と陸奥国栗原郡三迫(サンノハザマ)を与えられ、のち承久元年(1219)新補地頭として葛岡村に替地。伊予国喜多郡から久米郡に替地。
文治五年 【河野通信、奥州三の迫を給ふ(予章記)】     1189
古人専指して三迫といへるは、黒岩口、津久毛橋と見て大差なからん。文治五年八月、「泰衡郎従、於栗原、三迫、黒岩、一野等要害、雖蠣鏃攻戦、強盛間、奉防失利、為宗之者、若次郎者、為三浦助被誅」といへるにて悟らる。其後、三迫は、三浦一門の和田義盛の知行地なりしに似たり。建久元年、「和田義盛滅亡之後、勲功賞、賜陸奥国三迫、藤民部大夫」云々。藤民部とは、二階堂行政なり。又、台記に見ゆる高倉庄も、三迫の地なり。
吾妻鏡の三迫合戦に、若(ワカ)次郎と云ひ、延喜式、栗原郡に和我神社あり。今、若柳の辺なる有賀村に、御賀八幡宮あり、若氏、并びに和我神社に参考せらる。予章記、河野通信、文治五年、奥入合戦の時、阿津賀志山の先陣懸たりし軍功により、奥州三の迫を給り、亦喜多郡替として、久米郡を賜る、云々。
承久の乱(1221)で河野家所領はすべて没収され、通信は陸奥国江刺(極楽寺)に流刑。通重は葛岡村地頭として所領は安堵される。のち、六波羅探題出仕となるが、老齢の為、次男の通次が六波羅探題大番役として出仕する。
2)一遍との出会い
河野通次(六波羅探題大番役出仕)が弘安二年(1279)烏丸五条の因幡堂で一遍の布教に出会い、入道して、宿阿弥陀仏順道の法名を授与される。一遍の祖霊巡礼の思いが強く、鎌倉武士である河野通次(〜1309「時宗過去帳」)の先導で奥州へ出立する。
途中、一遍の叔父に当る通信二男通政(信濃国広葉)、四男通末(信濃国小田切)の墓地に詣で「踊念仏」で鎮魂、陸奥国江刺では祖父通信の墓地にて転経念仏の勤行をする。
この記念すべき念仏は「すすき念仏」として後年時宗最高の念仏行事となった。京都への帰途、相模国では母(大江氏女)の墓地を詣でたものと推定される。
3)奥州江刺での一年
年 代
場 所
事   項
貞応二年(1223)
陸奥国江刺
河野通信は極楽寺上台坊の庵を隠岐院と名付け、後鳥羽上皇御持仏(観音像)を礼拝。流謫後2年で死去。
「東禅寺殿西念観光」。上円下方塚(貴人塚)四方堀。
弘安三年(1280)
陸奥国江刺
<越年>
○河野通信墓回向(すすき念仏)
○極楽寺参拝
○河野通重館(通信孫)
○通重(珠阿弥陀仏)、通重妻(聞一房)、長兄・稗貫敏行(長阿弥陀仏) 入信
弘安四年(1281)
陸奥国江刺
○林長山光林寺落慶 (落慶導師は一遍
○鎮守社、十王堂などを爾後建立する。
南下(別時念仏、踊躍念仏で勧化遊行)
(注)司東真雄著(元奥州大学教授・安楽寺<北上市稲瀬町上台205>住職) 「岩手県 時宗 略史」参照
4、承久の変後の河野家、道後と一遍生誕寺宝厳寺
 平成22年3月度例会講話「宝厳寺の大位牌 〜河野通信・河野通弘・得能通俊夫妻〜」に詳述しました。