第五十章 当麻山無量光寺と「麻山集」〜もうひとつの一遍・遊行上人物語〜 一遍会例会(2013・2・9)報告 |
一、はじめに | ||||
時宗教団の歴史は、「遊行派」(藤沢山清浄光寺)の歴史であり、「当麻派」(当麻山無量光寺)や奥谷派(豊国山宝厳寺)に伝来する文書・系譜には事実、真実が描かれていないのだろうか。 宝厳寺は一遍生誕の地であり、無量光寺は二祖真教の隠棲入寂の地であり、清浄光寺は中興の祖である遊行四代呑海が創始して名刹である。 | ||||
平成二〇年(二〇〇八)一一月三日に宝厳寺にて真圓上人から御親教と賦算を頂いたが、現上人は「第七四代遊行上人 第五七世藤沢上人」である。『遊行・藤沢歴代上人史』に拠ると遊行上人で藤沢上人でない上人は二五人(一遍・真教・智得・托阿を含む)、藤沢上人で遊行上人ではない上人が八人である。宗門関係の絵巻や文献を通して、聖戒、真教、呑海の開祖一遍をめぐっての正当性の軋轢を見ることができる。 | ||||
一遍の実母についても諸説がある。 @北条重時女(「極楽寺多宝塔供養願文」) A大江季光女(「北条系図」浅羽本) B葛西殿(「金澤文庫古文書」) C大江季光女で北条重時養女 A.Cの系譜では、大江季光の女の一人が北条時頼に嫁しており、その子が時宗であるおから一遍と時宗は母方の従兄弟に当たる。(川添昭二『北条時宗』) 更に、一遍が父・通広から相続した別府の所領は、一遍祖父・通信の弟通経の曾孫(武藤)通平に贈与され、のちに越後に移住している。別府の所領の一部は得能通綱により宝厳寺に寄進されている。(「宝厳寺系図」、浅山圓祥『一遍と時衆』) | ||||
二、一遍智真と呼ばれた男 | ||||
一遍の生涯については、一遍の弟とも実子とも云われる聖戒によって『一遍聖絵』が編纂され、多くの研究、解説が宗門でも学会でも発表されてきた。(聖戒が住持であった伊予国願成寺縁起では「聖戒ハ一遍上人ノ従弟ニシ河野道慶ノ子」とある。) | ||||
ここで記述した「もうひとつの一遍・遊行上人物語〜一遍智真と呼ばれた男〜」は、歴史研究ではなく、宗門では正史と認めていない『麻山集』『一遍上人年譜略』をベースに一遍生誕寺である宝厳寺蔵『河野系図』と浅山圓祥師(宝厳寺住持、時宗教学研究所長)、一遍会会員(越智通敏氏、足助威男氏)の諸著作(『浅山著『一遍と時衆』、足助著『若き日の一遍』『捨聖 一遍さん』、越智著『一遍―遊行の跡を訪ねて』から取り纏めたものである。一遍の弟とも実子とも云われる聖戒が完成させた『一遍聖絵』(六条縁起)に拠っていない物語りである。内容については論者の独断的な取捨選択があることをご寛恕いただきたい。 | ||||
一遍智真は、延応元年(一二三九)二月一五日卯刻道後(奥谷・宝厳寺一二支院のひとつヵ)に生れた。一遍の父は伊予の豪族河野通信の三男である河野七郎通広、母は鎌倉幕府政所の初代別当であった大江広元の四男季光(毛利を名乗る)の娘である。 | ||||
承久の乱(一二二一)で、河野通信は長男通俊(母は新居太夫玉氏娘)、次男通政(母は新居太夫玉氏娘または二階堂信濃民部入道娘)、四男道末(母は二階堂信濃民部入道娘)とともに後鳥羽上皇方につき、五男通久、六男道継(母はともに北条時政の娘「谷」)は鎌倉方についた。三男の通広(母は新居太夫玉氏娘または二階堂信濃民部入道娘)は、仏門にあり(一説では病気)承久の乱に巻き込まれなかった。 | ||||
後鳥羽上皇方の河野一族の所領五三ヵ所、公田六千余町、一族一四九人の所領が没収された。一方、鎌倉方の通久には阿波国富田荘(徳島県徳島市の一部)が与えられ、のちに伊予国石井郷(愛媛県松山市の一部)と交換された。併せて、長男(得能)通俊は承久の乱で戦死したが、息子の通秀は一時千葉介成胤(千葉氏第五代当主ヵ)の預かりになったが伊予国桑村郡の得能庄ほか五邑を与えられた。三男通広の長男通真には浮穴郡別府の所領(「拝志郷別府庄を領す 以て氏となす」宝厳寺系図)が認められた。 | ||||
一遍の実母(大江女 恵)の父大江(毛利)季光は、息子四人(広光、光正、経光、師雄と娘二人を儲けた。姉が一遍の実父通広に嫁ぎ、妹は北条時宗の実父北条時頼に嫁した。異説はあるが、一遍の母と北条時宗の母は姉妹であるので、二人は従兄弟の関係にある。季光の姉妹が時宗の曽祖父泰時に嫁している。北条氏と三浦氏の姻戚関係は密接である。 | ||||
北条氏と有力御家人の覇権争いで、宝治元年(一二四七)には宝治合戦(三浦氏の乱)が起こった。大江(毛利)季光の妻は三浦義村の娘であり、季光は最終的には妻の実家三浦氏に加担し、三男経光を除いて親子共々自決した。三男経光は越後国の吉田荘の国人領主であったので咎はなかったが、安芸国に移された。毛利元就の祖である。 | ||||
一遍は寛文三年(1245)七歳の一月一五日、伊予国の天台寺院得智山継教寺に登り縁教律師に就いた。建長五年(一二五三)一五歳で薙髪出家。師の名前を一字授けられ隋縁と名乗る。(注)一遍が学んだ継教寺の山号得智山の「得」は得能、「智」は越智の智でもあるから越智得能氏の学問所ではなかったか。当時、道後奥谷は得能氏が支配しており、足助威男氏は「宝厳寺内学問所」を想定した。一遍の母(毛利季光娘 恵)は宝治二年(一二四八)に死去した。宝治合戦で一族が壊滅したのが一因であったかもしれない。一遍一〇歳の年である。(注)戒名 大智院殿恵性大姉[宝厳寺位牌] | ||||
妻の死もあり、建長二年(一二五〇)父通広入道は出家して如佛と号し、翌建長三年に、僧善入を連れ立って西山派証空上人同門の大宰府に住む聖達上人(恐らく肥前国清水寺華台上人も)を訪ねる。(注)『一遍聖絵』では、十三歳の一遍が九州に修行に出かけ、父の死(弘長三年(一二六三))の二五歳まで修行した。約一二〜一三年間の消息が不明である。聖人譚では一三歳が転機になる。(釈迦(悉多太子))出家。石堂丸(『苅萱』)旅出立。梅若(『隅田川』東国流浪。一寸法師住吉出立)。厨子王(『さんせう太夫』)旅立ちなど)。物語りヵ) | ||||
この空白時代、一遍は伊予国を離れ、比叡山に登り慈眼僧正について台宗(三大部及び密潅)を受ける。(比叡山延暦寺では一遍の比叡山修行を公知している。) 文応元年(一二六〇)兄道真(通貞)が死去、一族の間で相続をめぐって争いになるが、一遍相続には家臣の福良三郎通孝らが反対し、一旦京に戻るが、更に通孝は郎党を京に派遣し一遍智真の殺害を謀る。 | ||||
これを逃れて、奥州(得能氏所領地)に逃れ、弘長元年(一二六一)に相模国の大江(毛利)季光の旧所領地当麻(実母の生地ヵ)に落ち着き庵を結ぶ。伊予国から福良通孝を刺殺した河野家家臣(河野氏の縁者ヵ)の関山通真、通継が相模国に来て一遍に随従給仕する。 | ||||
弘長三年(一二六三)父如佛が死去し、浮穴郡別府庄(現在の下林地区)の所領地は亡兄通真(通貞)の長子通朝が家督を継ぐ。一遍(隋縁)も伊予国に帰国する。 | ||||
文永七年(一二七〇)秋に再び相模国に戻り、一〇年前の弘長元年(一二六一)に相模川畔に結んだ庵を金光院と称して修行する。現在の無量光寺の母体となる当麻道場を設ける。これ以降、『一遍聖絵』とは時期が前後するが、紀州熊野、豊後国府、備中吉備神宮、信州佐久、奥州を回国する。弘安四年(一二八一)は蒙古襲来の年に当たるが、相模国に戻り「行儀法則」や「道具」など制作し、時衆集団の統制を図る。翌弘安五年に鎌倉に入ることになる。((『一遍聖絵』『麻山集』『年譜略』とも一致。) | ||||
同年三月一日、鎌倉山内の出入りは北条時宗の巡視とかち合い拒否されるが、翌二日には時宗は一遍を滝口の往生院に招聘し、三日には同院で供養する。時宗と一遍は「従兄弟」であるから共通の縁戚を供養することになる。七日以降片瀬の地蔵堂に移り「累日供養、勤行時々」で布教し、七月一六日片瀬を離れることになる。 | ||||
北条時宗は禅宗に深く帰依し、弘安五年(一二八二)には円覚寺を建立し弘安の役での「敵味方戦没者供養」をおこなっている。現在の時宗大本山藤沢山清浄光寺(遊行寺)に在る「敵味方供養碑」(応永二五年(一四一八))に先立つこと凡そ一四〇年前のことである。一遍の全国にわたる布教(遊行、賦算。踊躍念仏)を可能にしたのは鎌倉幕府(北条執権)下の黙認があったと考えざるを得ない。特に「陣僧」として幕府、御家人に従属した背景は無視できない。 | ||||
時宗は禅宗の蘭渓通隆、兀庵普寧、大休正念、無学祖元に深く帰依しており、仏教には寛容であった。日蓮上人に対する弾圧は、日蓮が執権に上呈した「立正安国論」に起因する。日蓮の主張は、蒙古来襲と国土の災害は法然(浄土宗)念仏が元凶であり念仏の排斥が主眼であり、信仰の弾圧とは異質である。浄土宗にも寛容であった。浄土時宗の開祖一向上人(一二三九〜一二八七)は、鎌倉で浄土宗第二祖である鎮西上人(聖光房弁長一一六二〜一二三八)の婿弟で浄土宗第三祖である記主良忠(然阿弥陀仏 浄土宗教学大成者 一一九九〜一二八七)の下で一五年間(正元元年(一二五九)〜文永十年(一二七三))修行している。(『宝樹山称名院仏向寺縁起』) | ||||
建治二年(一二七六)以降、他阿弥陀仏(真教・時宗二祖)が一遍に同行しているので、『遊行上人縁起絵』と『一遍聖絵』を比較してご覧になることを薦めたい。 | ||||
三、一遍・遊行上人と当麻山無量光寺 | ||||
現存する『当麻集』によれば、一遍は三回相模原の当麻を訪ねている。 初回(弘長三年)は相続をめぐって一族の争いがあり、これを逃れて奥州の得能氏を頼り、のち実母の生地(大江季光所領)に落ち着き庵を結ぶ。 二回目(文永七年)は相模川畔に庵(金光院)を結び修行。 三回目(弘安四年)は、奥州江刺の祖父通信の墓を詣で鎌倉入りの前に時衆一行が落ち着く。この時の道場が現在の無量光寺となる。(『相模原市史』、座間美都治著『当麻山の歴史』) | ||||
一遍の後を継承した二祖真教は、遊行を続け、高齢と病患のために遊行上人を智得に譲り、当麻山に伽藍を建立し、入寂までの一七年間独住する。遊行三代智得は、真教の一番弟子の一人で、弘安四年以来当麻道場にあって教学と組織固めに努める。遊行四代目をめぐって、真教の命で七条道場を拠点に京都で賦算をしていた呑海と、三代智得の遺言として側近であった真光との衝突があり、呑海は実兄の鎌倉武将の俣野景平を開基の檀那として、藤沢山清浄光院(現在の清浄光寺)を建立する。呑海上人をめぐっては幕府隠密説など諸説あるが、結果としては時衆内で覇権を確立し今日に至っている。 | ||||
四 おわりに | ||||
森閑とした当麻山に佇むと、墓苑には一遍と並んで二祖真教の墓が並んでいる。「当山建立之記」には「当庵は是先師初発心幽居の地なり。是を以て当寺を再興す。号するに無量光を以てす。是れ先師初開の義を標するなり。他阿弥陀仏 嘉元二年(一三〇四)甲辰二月二十三日」と記載されている。一遍と真教の結びつきの強さを改めて痛感する。 | ||||
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一、 はじめに | ||||
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二、このテーマを取り上げた理由 | ||||
時宗教団の歴史は、「遊行派」の歴史である。敗者である「当麻派」(当麻山無量光寺)や奥谷派(豊国山宝厳寺)に伝来する文書・系譜には事実・真実が描かれていないのか。 | ||||
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「遊行上人」⇒「藤沢上人」(独住)の確立・・・「遊行派」 当麻派の「無量光寺」は、一遍と真教の「正当性」を「清浄光寺」に奪われた。そこで、一遍が当麻山で庵を結び修行したことで「一遍と当麻(無量光寺)の正当性」を主張することとなった。この物語の背景には「一遍の実母は大江(毛利)季光(すえみつ)娘であり、大江氏の所領は相模国である」とする史実(伝承)である。 | ||||
(注)一遍の実母 | ||||
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(注)川添昭二『北条時宗』吉川弘文館(人物叢書) | ||||
◎遊行上人と藤沢上人の関係 | ||||
○真圓上人 第七四代遊行上人 第五七世藤沢上人 | ||||
*遊行上人で藤沢上人でない上人(25人) | ||||
@一遍A真教B智得F託阿 H白木K尊観N尊恵P揮幽(21)知蓮(22)意楽(23)称愚(24)不外(25)佛天(26)空達(27)真寂(28)遍円(29)体光(30)有三(31)同念(33)満悟(35)法爾(38)卜本(43)尊真(44)尊通(46)尊証 | ||||
* 藤沢上人で遊行上人でない上人(8人) | ||||
(二四)転真(二七)如意(三十)呑快(三一)任称(三三)諦如(三六)弘海(三八)一道(三九)一如 | ||||
○遊行上人 宗祖一遍・二祖真教・三祖智得 当麻道場(現・当麻山無量光寺) 藤沢上人 呑海(遊行4代) 清浄光院(現・藤沢山無量光院清浄光寺) | ||||
◎「一遍聖絵」の空白部分を埋める | ||||
○聖戒も知らない、聖戒しか知らない時期 | ||||
一遍の誕生から豊後の守護大友頼泰を通して真教(二祖阿弥陀仏)が帰依する迄 [延応元年(1239)〜建治二年(1276)] | ||||
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◎一遍智真と河野氏、北条氏、鎌倉御家人との係累 | ||||
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◎「当麻寺縁起」とは | ||||
麻山集 当麻山無量光寺第三五代慈眼上人(〜承応二年(1653)4月4日寂)筆 | ||||
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当麻山無量光寺第三八代是名上人(〜元禄十年(1697)3月10日寂)筆 | ||||
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一遍上人年譜略 著者不明。慶長五年(1605)頃。 兵庫真光寺版。本書はおおむね「聖絵」によって書かれているが、年次のくい違いや行実の相違がある。 | ||||
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参考文献 ○『清浄光寺史』長島尚道編 藤沢山無量光院清浄光寺刊 2007.9.23 ○『遊行・藤沢歴代上人史』禰%c修然・高野修著 秀寺刊 1989.10.27 ○『相模原市史』第一巻 相模原市役所刊 1964.11.20 ○『当麻山の歴史』 座間美都治 当麻山無量光寺刊 1986.8.31 ○『麻山集』是名撰 『定本時宗宗典』下巻 時宗宗務所刊 1979.12.25 ○『一遍上人年譜略』作者不明 『定本時宗宗典』下巻 時宗宗務所刊 1979.12.25 ○『一遍上人全集』橘俊道・梅谷繁樹訳 春秋社刊 1989.11.30 ○『一遍と時衆』浅山圓祥著 一遍会発行 1980.6.25 ○『法然・一遍』大橋俊雄校注 岩波書店(日本思想体系)1971.1.25 ○『一遍』大橋俊雄著 吉川弘文館(人物叢書)1983.2.10 ○『北条時宗』川添昭二著 吉川弘文館(人物叢書)2001.10.1 | ||||
三、もうひとつの一遍・遊行上人物語 〜一遍智真と呼ばれた男〜 | ||||
この物語りは、別紙の「一遍智真年譜略」(『一遍聖絵』、『麻山集』、『一遍上人年譜略』「国内外の動き」)を文章化したものである。 | ||||
一遍智真は、延応元年(1239)2月15日卯刻、道後(詳細不詳 奥谷・宝厳寺12坊のひとつヵ)に生れた。一遍の父は伊予の豪族河野通信の三男である河野七郎通広、母は鎌倉幕府政所の初代別当であった大江広元の四男季光(毛利を名乗る)の娘である。 | ||||
承久の乱(1221)で、河野通信は長男通俊(母は新居太夫玉氏娘)、次男通政(母は新居太夫玉氏娘または二階堂信濃民部入道娘)、四男道末(母は二階堂信濃民部入道娘)とともに後鳥羽上皇方につき、五男通久、六男道継(母はともに北条時政の娘「谷」)は鎌倉方についた。 三男の通広(母は新居太夫玉氏娘または二階堂信濃民部入道娘)は、仏門にあり(一説では病気)承久の乱に巻き込まれなかった。 | ||||
後鳥羽上皇方の河野一族の所領53ヵ所、公田6千余町、一族149人の所領が没収された。一方、鎌倉方の通久には阿波国富田荘(徳島県徳島市の一部)が与えられ、のちに伊予国石井郷(愛媛県松山市の一部)と交換された。併せて、長男(得能)通俊は承久の乱で戦死したが、息子の通秀は一時千葉介成胤(千葉氏第五代当主ヵ)の預かりになったが伊予国桑村郡の得能庄ほか5邑を与えられた。三男通広の長男通真には浮穴郡別府の所領(「拝志郷別府庄を領す 以て氏となす」宝厳寺系図)が認められた。 | ||||
(私見では、通秀、通真とも若年であり、父と共に伊予国に帰国せず、鎌倉に留め置かれたので(人質ヵ)、承久の乱では通久軍に編入された。結果、所領地の一部が保証された。) | ||||
一遍の実母(大江女 恵)の父大江(毛利)季光は、息子4人(広光、光正、経光、師雄と娘2人を儲けた。姉が一遍の実父通広に嫁ぎ、妹は北条時宗の実父北条時頼に嫁した。異説はあるが、一遍の母と北条時宗の母は姉妹であるので、二人は従兄弟の関係にある。季光の姉(または妹)が時宗の曽祖父泰時に嫁している。北条氏と三浦氏の姻戚関係は密接である。 (注)北条時政@―義時A―泰時B―時氏―時頼D―時宗G* ○番号は執権就任順位 *印は連署就任者 時氏は29歳で父泰時に先立って死去 | ||||
鎌倉幕府内での北条氏と有力御家人の覇権争いで、宝治元年(1247)には宝治合戦(三浦氏の乱)が起こった。大江(毛利)季光の妻は三浦義村の娘であり、季光は最終的には妻の実家三浦氏に加担し、三男経光を除いて親子共々自決した。三男経光は越後国の吉田荘の国人領主であったので咎はなかったが、安芸国に移された。毛利元就の祖である。 | ||||
一遍は寛文三年(1245)7歳の1月15日、伊予国の天台寺院得智山継教寺に登り縁教律師に就いた。建長五年(1253)15歳で薙髪出家。師の名前を一字授けられ隋縁と名乗る。 (注)一遍が学んだ継教寺の山号得智山の「得」は得能、「智」は越智の智でもあるから越智得能氏の学問所ではなかったか。当時、道後奥谷は得能氏が支配しており、足助威男氏は「宝厳寺内学問所」を想定した。 | ||||
一遍の母(毛利季光娘 恵)は宝治二年(1248)に死去した。宝治合戦(1247)で一族が壊滅したのが一因であったかもしれない。一遍10歳の年である。 (注)戒名 大智院殿恵性大姉[宝厳寺位牌] (母の死は、『一遍聖絵』『麻山集』『年譜略』とも一致。父母の死は10歳の物語性ヵ。『一遍聖絵』では母と死別後、無常の道理を悟って父の命で出家し隋縁と称したとしているが、具体的な記述はない。「隋縁」の整合性に欠ける。無常の道理には宝治合戦の背景があるヵ) | ||||
妻の死もあり、建長二年(1250)父通広入道は出家して如佛と号し、翌建長三年に、僧善入を連れ立って西山派証空上人同門の大宰府に住む聖達上人(恐らく肥前国清水寺華台上人も)を訪ねる。通広が入道(剃髪)したのは承久の変(1221)前ヵ。 | ||||
(『一遍聖絵』では、13歳の一遍が九州に修行に出かけ、父の死(弘長三年(1263))の25歳まで修行した。約12〜13年間の消息が不明である。聖人譚では13歳が転機になる。(釈迦(悉多太子))出家。石堂丸(『苅萱』)旅出立。梅若(『隅田川』東国流浪。一寸法師住吉出立)。厨子王(『さんせう太夫』)旅立ちなど)。物語りヵ) | ||||
この空白時代(1253〜1260)、一遍は伊予国を離れ、比叡山に登り慈眼僧正について台宗(三大部及び密潅)を受ける。(比叡山延暦寺では一遍の比叡山修行を公知している。(HP)) 文応元年(1260)兄道真(通貞)が死去、一族の間で相続をめぐって争いになるが、一遍相続には家臣の福良三郎通孝らが反対し、一旦京に戻るが、更に通孝は郎党を京に派遣し一遍智真の殺害を謀る。 | ||||
これを逃れて、奥州(得能氏所領地)に逃れ、弘長元年(1261)に相模国の大江(毛利)季光の旧所領地当麻(実母の生地ヵ)に落ち着き庵を結ぶ。伊予国から福良通孝を刺殺した河野家家臣(河野氏の縁者ヵ)の関山通真、通継が相模国に来て一遍に随従給仕する。 | ||||
弘長三年(1263)父如佛が死去し、浮穴郡別府庄(現在の下林地区)の所領地は亡兄通真(通貞)の長子通朝が家督を継ぐ。一遍(隋縁)も伊予国に帰国する。 (『一遍聖絵』では妻子を娶り、家督相続をめぐって親類間での争いに巻き込まれる。「輪鼓の機」により再度出家を志す、とするが、上人物語りヵ) | ||||
文永七年(1270)秋に再び相模国に戻り、10年前の弘長元年(1261)に相模川畔に結んだ庵を金光院と称して修行する。現在の無量光寺の母体となる当麻道場を設ける。これ以降、『一遍聖絵』とは時期が前後するが、紀州熊野、豊後国府、備中吉備神宮、信州佐久、奥州を回国する。 | ||||
弘安四年(1281)は蒙古襲来の年に当たるが、相模国に戻り「行儀法則」や「道具」など制作し、時衆集団の統制を図る。翌弘安五年(1282)に鎌倉に入ることになる。((『一遍聖絵』『麻山集』『年譜略』とも一致。) | ||||
同年3月1日、鎌倉山内の出入りは北条時宗の巡視とかち合い拒否されるが、翌2日には時宗は一遍を滝口の往生院に招聘し、3日には同院で供養する。時宗と一遍は「従兄弟」であるから共通の縁戚を供養することになる。7日以降片瀬の地蔵堂に移り「累日供養、勤行時々」で布教し、7月16日片瀬を離れることになる。 | ||||
時宗は禅宗に深く帰依し、弘安五年(1282)には円覚寺を建立し弘安の役での「敵味方戦没者供養」をおこなっている。現在の時宗大本山藤沢山清浄光寺(遊行寺)に在る「敵味方供養碑」(応永二五年(1418))に先立つこと凡そ140年前のことである。 (『一遍聖絵』では、鎌倉での「一遍と北条時宗の対決の場」での一遍の毅然とした態度を描いているが、これも上人賛美物語ヵ 一遍の全国にわたる布教(遊行、賦算。踊躍念仏)を可能にしたのは鎌倉幕府(北条執権)下の黙認があったと考えざるを得ない。特に「陣僧」として幕府、御家人に従属した背景は無視できない。 | ||||
北条時宗は禅宗の蘭渓通隆(らんけいどうりゅう)、兀庵普寧(ごったんふれい)、大休正念(だいきゅうしょうねん)、無学祖元(むがくそげん)に深く帰依しており、仏教には寛容であった。日蓮上人に対する弾圧は、日蓮が執権に上呈した「立正安国論」に起因する。日蓮の主張は、蒙古来襲と国土の災害は法然(浄土宗)念仏が元凶であり念仏の排斥が主眼であり、信仰の弾圧とは異質である。 浄土宗にも寛容であった。浄土時宗の開祖一向上人(1239〜1287)は、鎌倉で浄土宗第二祖である鎮西上人(聖光房弁長1162−1238)の婿弟で浄土宗第三祖である記主良忠(然阿弥陀仏 浄土宗教学大成者 1199−1287)の下で15年間(正元元年(1259)〜文永十年(1273))修行している。(『宝樹山称名院仏向寺縁起』) | ||||
建治二年(1276)以降、他阿弥陀仏(真教・時宗二祖)が一遍に同行しているので、『遊行上人縁起絵』の前半部分に一遍が描かれている。 以後は、相模国当麻山無量光寺からの視点で一遍並びに遊行上人について考えていく。 | ||||
四、一遍・遊行上人と 当麻山無量光寺 | ||||
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(参考文献) 『時宗の寺々』禰%c修然 (1975) 『相模原市史』第一巻 相模原市役所刊 1964.11.20 『当麻山の歴史』 座間美都治 当麻山無量光寺刊 1986・8・31 『麻山集』是名撰 『定本時宗宗典』下巻 時宗宗務所刊 1979・12・25 「当麻山無量光寺」時宗当麻山無量光寺 | ||||
地理 「当麻」は、アイヌ語の「Toman」あるいは「Toma」で、「低湿の土地」が語源ヵ。 当麻は古来からの交通の要地で、平安期の武蔵国からの貢納物、諸牧の若駒の集約地であり、起点でもあった。海上交通としては相模川の上流に当たる。 鎌倉街道にも近く「いざ鎌倉」の要路でもあった。 (JR茅ヶ崎駅から八王子まで「相模線」が走っているが、八王子駅手前に原当麻駅がある。無量光寺は徒歩15分ほどである。) 中世に入り小田原北条氏の時代には当麻宿が設置され市場が建設される。この「市場」を支配した当麻三人衆(関山氏、落合氏、不明)のうち、関山氏は伊予河野(別所)家の家人で、一遍の当麻止宿時には関山通真、通継兄弟が一遍に随従給仕した。(以下省略する) | ||||
◎一遍と当麻山の出会い(『当麻集』による) | ||||
○ 初回 弘長元年(1261)23歳 文応元年(1260)兄通貞が死去、一族の間で相続をめぐって争いになるが一遍相続には福良三郎通孝らが反対し京に戻るが、更に通孝は郎党を京に派遣し殺害を謀る。これを逃れて、奥州(得能氏所領地)に逃れ、弘長元年(1261)に相模国の大江(毛利)季光の旧所領地(実母の生地)に落ち着き庵を結ぶ。伊予国から福良通孝を刺殺した関山通真、通継が相模国に来て一遍に随従給仕する。 ○次回 文永七年(1270) 32歳 文永七年(1270)秋に再び相模国に戻り、10年前の弘長元年(1261)に相模川畔に結んだ庵を金光院と称して修行する。現在の無量光寺の母体となる当麻道場を設ける。これ以降、『一遍聖絵』とは時期が前後するが、紀州熊野、豊後国府、備中吉備神宮、信州佐久、奥州を回国する。 ○ 3回 弘安四年(1281)43歳 弘安三年(1280)奥州江刺の祖父通信の墓を回向し、塩釜明神、平泉、見仏上人の旧跡を回向し、武蔵国石浜(浅草)、武蔵八王子を巡行し、弘安四年に相模の旧庵(金光院)に時衆一行は落ち着く。この地に道場(現在の無量光寺)を建て行儀法則や道具など製作する。 翌五年(1282)、遊行上人(三代目)となる智得上人を当麻道場に留めて「鎌倉いりの作法にて化益の有無をさだむべし。利益たゆべきならば、是を最後と思べき」(『聖絵』)の決意で鎌倉に向かうことになる。 | ||||
◎遊行二祖真教と当麻山の出会い | ||||
真教は、遊行上人を智得に譲り独住したのは当麻山であり、入寂までの17年間に及ぶ。「麻山集」に二祖真教の記した「当山建立之記」が残っている。 「殊に近年病患に侵され、回国の修行稍々意に任せず。ここによって、草庵を卜して静かに念仏を修せんと欲す。然るに摂宗兵庫の地は故上人御入寂の地なり。最もかしこを以て我が臨終の地と為すべしと雖も、当庵は是先師初発心幽居の遺跡なり。是を以て当寺を再興す。号するに無量光を以てす。是れ先師初開の義を標するなり。他阿弥陀仏 嘉元二年(1304)甲辰二月二十三日営功畢んぬ。」 ○初回 弘安四年(1281)、一遍に随行して奥州江刺からの帰途であろう。 ○?回 一遍入寂後、関東への遊行時に往来筋であり、しばしば当麻山に留まった可能性は高い。(後継者の智得上人が、一遍の指示で当麻道場に留まっていた可能性大である) ○無量光寺の伽藍を建立し、独住(17年間)し入寂。嘉元元年(1302)〜文保三年(元応元年1319)1月27日。 | ||||
◎遊行三代智得と当麻山の出会い | ||||
○初回 弘安四年(1281)一遍が智得上人を当麻道場に留めて遊行に出発したので数年以上当麻道場で修業した可能性が高い。「麻山集」では、もと鶴岡八幡宮の宮司、「遊行系図」では正応四年(1291)加賀遊行中に真教に入門した一番弟子の一人。 ○嘉元二年(1303)、二祖真教から他阿弥陀仏の法号を受け知識の位につく。その後16年は関東から奥羽にかけて賦算する。 ○二祖真教が入寂後、無量光寺で独住し入寂。文保三年(元応元年1319)〜元応二年(1320)7月1日) | ||||
◎遊行四代呑海と当麻山の出会い | ||||
真光と呑海の葛藤(何故、二祖真教・三代智得は遊行四代上人に呑海を指名しなかったか)〜 真光は「遊行正統系譜録」では二代真教の弟子、遊行三代智得入寂後第四代に就任。当麻山に在住し、正慶二年(元弘三年 1333)5月8日入寂。 一方、呑海は、相模国俣野の出身で、俣野荘地頭 俣野五郎景平の実弟(大庭氏の支流)といわれる。正安三年(1301)二祖真教の命により七条道場金光寺に派遣され、京都での賦算を許された。文保三年、三代智得は当麻に帰山のため遊行を呑海に譲る。呑海は第四代遊行上人として、中国・四国・九州を巡教した。遊行廻国6年、正中二年(1325)に遊行を安国に譲る。 | ||||
問題は、元応二年(1320)7月1日)に遊行三代智得上人入寂後、側近であった真光が、「智得の遺言」と称して自ら遊行他阿を名乗り呑海に対抗し、遊行上人(呑海)と絶縁する。 呑海は、独住先として、やむなく藤沢山清浄光院(現在の清浄光寺)を開く。寺の創設は、実兄の俣野五郎景平が開基の檀那として援助したらしい。嘉暦二年(1327)2月18日藤沢山で入寂。(一説では、廃寺であった極楽寺を再興して清浄光院として止住とも) | ||||
この対立の背景について『麻山集』附法伝「遊行分附之切紙」で以下の記述がある。 @ 正安年中に、執権北条貞時が二祖真教と密談して曰く「承久の乱以来、京都方は北条家を敵視しており、将軍家も北条家に対し陰謀の企みがある。よって、北条家の為に遊行中に不穏な動きがあれば連絡してもらいたい。四海太平の計は万民安穏の基であり、大慈大悲の善巧であろう。」 A 二祖真教はこれを無視し、三代智得も師の真教の態度を遵守した。 B 執権は直接呑海を呼び寄せ遊行を命じた。そこで遊行三代智得は公命黙止しがたく、障子越しに庭に座した呑海に十念を授け勘当した。 C 四代呑海以降遊行上人の回国に関しては、北条氏から始まり、足利幕府、徳川幕府とも便益を与えていく。政権側に、何等かのメリットがあったと考えられる。 当麻山無量光寺の資料であり、真偽は不明である。「聖と俗のギリギリの選択」で、D「聖」の通を選んだ当麻派は敗北し、「俗」の通を選び、政権(北条方)と手を結んだ遊行派(藤沢山清浄光寺)が時宗十二派内で覇権を握ることになる。 | ||||
五、おわりに | ||||
「歴史的事実」はひとつであっても、史観により解釈が異なる。聖戒の『一遍聖絵』では無視した当麻山の修行をいかに評価するか。 一遍の後継者・二祖他阿真教が当麻山を隠棲(独住)地としたのは「当庵は是先師初発心幽居の遺跡なり。是を以て当寺を再興す。号するに無量光を以てす。是れ先師初開の義を標するなり。」(「当山建立之記」)と明記している。 「当麻が一遍の初発心幽居の地である」ことが、一遍・時衆教団の公知の「事実」とすると、一遍の正統的な血縁である(とは、断言できないが)聖戒にとっては全く容認できない「事実」であった。聖戒しか知りえない一遍の初発心幽居の地である「窪寺」「岩屋寺」を『一遍聖絵』で描くことにより、聖戒にとっての「一遍からの正統性」を主張したことにならないか。 相異なる二つの、いずれが真であり、虚であるのか。それとも真実は、それ以外のあるのか、双方とも真実なのか・・・・・残された史資料からは一切判断できない。 一遍に随伴した二祖他阿真教の『遊行上人縁起絵(絵詞伝)は簡潔に記すのみである。 | ||||
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結びにあたって 当麻山は、一遍が立ち寄り修行した由緒ある地であり、かつ10歳で死別した母にゆかりのある地であったと推察する。 一遍の後継者である真教(二祖他阿上人)は、「是先師初発心幽居の遺跡」に、兵庫の観音堂(現在の神戸・真光寺)から一遍の遺骨を分骨、墓を立て、無量光寺を建立し独住した。 真教は一遍(1239〜1289)に遅れること30年(1237〜1319)、この寺で入寂し一遍の墓の隣で眠っている。 |