第四十九章 道後学序説 〜景観と文化 (道後八景十六谷)
 平成24年7月26日、松山観光ボランティアガイドの会に招かれて「景観と文化〜道後八景十六谷〜」のテーマで講演した。目次は下記である。
はじめに
1) トポス(時と場の記憶)としての「道後」
 (1)いよ(伊予) ←いゆ(湯)
(2)道後の山
(3)道後の川
(4)道後の谷
(5)宝厳寺
(6)道後温泉場
(7)その他
2)道後八景
 @八景の定義 A道後八景(総括) B道後八景(各論)
3)道後十六谷
 @谷の定義 A道後十六谷(総括)B道後十六谷(各論)
おわりに
資料 @奥谷・宝厳寺境内図 A道後山俯瞰図 B道後村地籍図
はじめに
本日は平成24年(2012)7月26日であるが、ちょうど67年前の今日昭和20年(1935)7月26日の夜、松山大空襲で市内は灰燼に帰した。松山のご城下から明治の名残は一晩で消滅してしまった。幸い道後は戦災からは免れたが、高度成長期までは残っていた農村風景は消えうせ都市化が進んだ。
 10年ほど前から「道後学」を提唱してきたが、具体的には2箇所でセミナーが開催されている。
1) 一遍会 【道後学への試み】(3月第2土曜日 奥谷・宝厳寺)
第1回 田中弘道 「湯築城下町、湯之町と寺井内川水系」(2008年開始)
第2回 二神 将 「散策集と宝厳寺界隈〜記録収集を通して〜」
第3回 三好恭治 「宝厳寺の大位牌〜河野通信・河野通広・得能通俊夫妻〜」
第4回 二神 将 「漱石が下宿した愛松亭及び愚陀仏庵と再建問題について」
第5回 竹田美喜 「子規と道後温泉」
2) 愛媛県文化振興財団 文化講座【道後学セミナー】
第1回 道後学への誘い(2010年開始)
第2回 松山とロシア人捕虜(2011年)
第3回 埋蔵文化財・伝承・地形から見た道後(2012年)
3)『湯の町道後隅々案内』(SPC出版) 一般向けの「道後学」のテキストとしてお薦めしたい。
第一章 ようこそ道後温泉へ
○道後温泉クロニカル(年代記)
第二章 宿と店をとことん知る
○道後検番とお座敷遊び
第三章 神社仏閣・アート・文学を語り尽くす
○伊佐爾波神社・湯神社・宝厳寺・円満寺・松山神社・常信寺・石手寺・義安寺
第四章 道後をおさんぽ
○道後村めぐりにチャレンジャー ○道後のまつり
1、 トポス(時と場の記憶)としての「道後」
道後村は郡の中央に在り、東北は道後湯之町を擁して、山を負い湯山、伊台両村に接し、西北は潮見村、東南は石手川を隔てゝ桑原、素鵞村に対し、西は松山市及び御幸村に隣れり、地勢は概して平坦なるも高輪山の余脈北より来り、南東に連亘して道後山となり、東南に突出せる部分を伊佐爾波岡(一に射狭庭又た誘庭など書す)と称す、石切谷、鷺谷、柿ノ木谷等其山系に属す、石手川は当村の東南を繞流し、道後川は其の支流にして、石手を貫通し山麓に沿ひて道後を南に流る、其の分流伊佐爾波神社の馬場を横流す、之れを御手洗川と称す、
(注)「新編温泉郡誌」松田椿南編 大正五(1916)年3月 松田卯太郎著
(1)伊予の地名
@いよ(伊予)は通俗的には、「いゆ(湯)」の転化とされているが、上代特殊仮名遣いでは「ゆ」から「い」への音韻変化はない。
A明治新政府の行政区画は、石鉄(いしづち)県(→松山県)と神山(じんざん)県→(宇和島県)に2分されたが、北予と南予に対応する。明治初期の中学校も、北予中学校(→松山中学校→松山東高等学校)と南予中学校(→宇和島中学校→宇和島東高等学校)である。中予が一般名になったのは愛媛県庁が松山に設置された時期に対応すると考えるか初出資料は不詳である。
B道後平野には伊予郡・久米郡・温泉郡・浮穴郡があり沿岸部には和気郡・風早郡が北に伸びている。       

伊予郡には伊予神社、伊予川(後年の重信川、但し流域は変更されている。) など伊予の名を冠する神社。河川があり、古代の古墳も伊予郡に多い。

久米郡は古代伊予の豪族久米族の拠点であり、伊予の最初の国衙は久米郡に在った。(久米官衙遺跡群・久米官衙遺跡・来住廃寺跡) 

温泉郡は温泉郡(ゆのこうり)と呼称するが、当時の道後温泉名は「伊予の温湯」である。聖徳太子(厩戸皇子)来湯には 高句麗僧・恵慈が同行した。 高句麗は今日の北朝鮮であるが、平安南道には温泉郡温泉邑がある。温泉は「オンチョン」と発音する。温泉邑は日本統治の時代は、平南温泉・龍岡温泉と呼ばれ塩化ナトリウム泉・ラジウム泉で故金日成主席の別荘もあった。(現在は「招待所」)温泉邑は西方が黄海、南方が大同江で、東方と北方は里山ののどかな田園地帯である。伊佐爾波丘から眺めた道後平野に類似した景観ではなかろうか。この地で育った恵慈が、この地を高句麗の温泉郡に比定したと考えられないだろうか。
(2)道後の山
道後を取り囲む里山の最高峰は道後山である。里山群の諸所に、延喜式内社(延長5年927)である、伊佐爾波神社 出雲崗神社 湯神社が点在している。道後に残る古い丘名は伊佐爾波崗、出雲崗、御仮屋山、鳥越山である。伊佐爾波崗と出雲崗は道後を流れる石手川の支流の南北で対峙している。
道後山 別名・桜谷山 ▲山頂の三角点 点 名 本谷  
種別等級 三等三角 地形図 松山−松山北部
緯 度 33°51′20.3909  経 度 132°47′37.2086  標 高 223.65 m
所在地 愛媛県松山市道後花谷字大谷乙70番地 (旧表示愛媛県松山市桜谷標高223.5m)
(注)国土地理院「点の記」
@伊佐爾波崗は「い斎庭崗」であり、通説では伊佐爾波神社が創建され、熟田津行在所跡であり、この地は大和神(天神)の領分であった。一方、出雲崗はその名の通り出雲神(大国主、少彦名)を祭る出雲社があり大和神(天神)に対比する出雲神(地祇)の領分である。道後温泉は、大国主と少彦名命により誕生したとされる。
A伊佐爾波崗が古墳ではないかとの指摘がある。(「「伊予史談」363号中野栄夫論文) 考古学での知見が皆無であり郷土史家には無視されているが、古代における斎場(い斎庭)として「神聖な場」であったと考えられる。
出雲崗には南側の石段の中腹に「子守社」がある。この社には、歴代遊行上人の回国時に立ち寄っている。治世にあたって水の支配は重要であり、水配り(みずくばり)→水分社(みくまり社)→御子守社(みこもり社)と変化し、庶民にとっての子守神として信仰を集めたのであろう。御子守社は時宗開祖一遍の父通広が祭神であったとの伝承がある。歴代遊行上人が参拝したのは、河野家一族に関しての由緒が進ぜられていたのであろう。
B道後公園内の丘に在った伊佐爾波神社は、河野氏の湯築城の建造に当たっての移転先が現在の御仮屋山である。湯月八幡とも云い、道後村の鎮守社であった。一説には行宮跡とも云う。御仮屋山の名称は御+仮屋であり、古代の天皇の来湯時の行在所(休養所)であったのかもしれない。一方鳥越山は、温泉が自噴したとされる鷺谷に近く、この地に後年、鷺谷寺(律宗?)→大禅寺(黄檗宗)、龍穏寺(曹洞宗)、天徳寺(臨済宗)が建立された。『予陽郡俚諺集』『愛媛面影』によれば、「鳥越山鷺谷寺、後世大禅寺と云 湯の上、本尊観音作分明ならす、大宮形と有、(中略)山上に唐仏観音を安置す、麓に井あり、鷺の井とて霊水なり、(略)故に此所を鷺谷と云、(略)」 とある。温泉場をはさんで鷺谷と烏谷があるが、鷺谷の白、烏谷の黒を対比させている。
(3)道後の川
@高輪山系→井(上)川→湯山川→石手川([大御]宝川)→寺井(内)川・石手寺川→義安寺川→烏渓→御手洗川・湯築城内・外堀→放生池(南・北)→大川→樋又川ほか→宮前川(三津) 堀江 (運河)
A道後山→奥谷(川)・鷺谷(川)→大川(合流)
(4)道後の谷
道後十六谷については後述するが、温泉と関連して下記を特記した。
@鷺谷と烏谷(烏渓)は「道後の山」で触れたが、道後温泉場(現在、重要文化財である道後温泉本館がある辺り)が「湯月谷」である。 自噴井があり、井水とも神井とも呼ばれた。その上が奥谷であり、時宗宝厳寺が存在するが、先述の道後山へは奥谷から唯一の登山道があった。(現在は砂防ダムが設置され登山道は消失した)
A道後山の周辺に湯ノ山があるが、古来「湯山七湯」と呼ばれ(『湯山誌稿』(湯山小学校PTA発行 昭和34年) 現在奥道後温泉が開業している。伊台は「湯台」、祝谷は「井(湯)湧キ谷」とも解釈できよう。
(注)音韻転化 「ゆがむ」→「いがむ」  「おかゆ」→「おかい」
B高輪山系温泉群として道後温泉<湯山・湯月>、鈍川温泉、 B本谷温泉が現在も存在し、伊予国三古湯と呼称されている。 
C道後(村)は東・北・南は低い台地に囲まれている。中代(中台  現在の呼称は上市)、 北代(北台 現在は北代<きたしろ>と呼称す) 、南代(南台 現在の持田あたり)である。
2)道後八景
@ 八景の定義
八景とは一地方の八つの景勝。中国の瀟湘(しょうしょう)(中国湖南省洞庭湖の南にある瀟水と湘水)八景におこる。日本では、これにならった近江八景・金沢八景などがある。【広辞苑】
江天暮雪 こうてんぼせつ 長沙市橘子洲。日暮れの河の上に舞い降る雪の風景。
遠浦帰帆 おんぽきはん 湘陰県県城・湘江沿岸。帆かけ舟が夕暮れ時に遠方より戻ってくる風景。
洞庭秋月 どうていしゅうげつ 岳陽市岳陽楼。洞庭湖の上にさえ渡る秋の月。
漁村夕照 ぎょそんせきしょう 桃源県武陵渓。夕焼けに染まるうら寂しい漁村の風景。
煙寺晩鐘 えんじばんしょう 衡山県清涼寺。夕霧に煙る遠くの寺よりの鐘の音を聞きながら迎える夜。
平沙落雁 へいさらくがん 衡陽市回雁峰。秋の雁が鍵になって干潟に舞い降りてくる風景。
山市晴嵐 さんしせいらん 湘潭市昭山。山里が山霞に煙って見える風景。
瀟湘夜雨 しょうしょうやう 永州市蘋島・瀟湘亭。瀟湘の上にもの寂しく降る夜の雨の風景。
【ウイキペディア百科事典「瀟湘八景」より】
A道後八景(総括)
道後八景 道後八勝
@義安寺蛍【義安寺】
A奥谷黄鳥【宝厳寺】
B円満寺蛙【円満寺】
C冠山杜鵑【湯神社】
D御手洗水鷄【放生池】
E湯元蜻蛉【温泉本館】
F古濠水禽【湯築城址】
G宇佐田雁【宇佐八幡
@温泉楼月【温泉本館】
A霊之石陽炎【温泉本館脇】
B振鷺園雪【温泉本館上手】
C円満寺蛙【円満寺】
D奥谷鶯【宝厳寺】
E鴉渓納涼【烏谷】
F冠山郭公【湯神社】
G放生池蓮【放生池】 
(注)道後八景・八勝に 湯月八幡(伊佐爾波神社・御仮屋山)がない。何故か。
B 道後八景(各論)
@義安寺蛍
義安寺は道後公園の東に在る。曹洞宗天臨山龍穏寺の末寺である。寺伝では河野景通の子・彦四郎義安(通安)の創建、一説では河野通秋(義安寺殿)創立。天正十三年河野家没落時に家臣が集い二君に仕えずの誓約を交わした由。明治初期までは、石手寺から遍路道で湯築城大手門に向かい、右折して義安寺参道経由で湯之町に向かった。
谷筋を戒能谷(義安寺谷)、寺下に流れる寺井内川の蛍を戒能蛍(義安寺蛍)と呼び、河野家遺臣の魂が光ると村人に伝えられた。日本の蛍にはゲンジボタル・ヘイケボタル・ヒメボタルなどの種類があり、特に前二者は古来蛍狩の対象として親しまれているが、義安寺蛍はゲンジボタルである。
寛政・昭和の大火で伝来の寺宝は残っていない。「おろくぶさん」(六部講)が盛んである。
A奥谷黄鳥
奥谷は宝厳寺ならびに山手を指す。俳人二神鷺泉が「奥谷や鳥の経読む遊行寺」の句を残している。春まだ寒く暗い奥山の宝厳寺は早朝の読経から一日が始まる。読経に共鳴するかの様にホ・ホケキョウの鳴き声が山中に響く。 遍路か遊行僧か、早立ちの旅人の耳元に鶯の声がいつまでも聞こえてくる。法華経、阿弥陀経が渾然一体なった仏教的世界が広がっている。道後は詩歌の町であり「生死」の町でもある。戦前は山門から瀬戸内海が一望できる名所でもあった。 「奥谷・宝厳寺古図」(伊予史談会所蔵)をご覧頂きたい。「黄鳥」とは@ウグイスの異称。A高麗鶯(スズメ科)の異称であるが、奥谷黄鳥はウグイスである。
B円満寺蛙
円満寺は道後温泉本館と奥谷宝厳寺の中間に在る。二神鷺泉「道後十景」の「円満寺蛙」には「蛙鳴く地蔵が谷の小池かな」の句が付されている。円満寺谷は地蔵ケ谷とも呼ばれていたことが分かる。 本尊地蔵は定朝作とも行基の作とも云われるが定かなことは分からない、座像地蔵尊は長け一丈二尺余りで木造である。この古池に松山藩の松平隠岐守定長が山城の井手の蛙を放った。寺の奥は山が迫っており、広くはない寺域の小池で、芭蕉の「古池や」を念頭に置いた句ではあろうが、この蛙は飛び込むこともなく夕暮れに人恋しく相呼応して鳴いたのであろう。
境内には宝暦五年(1755) 二月に伊予に於ける美濃派の俳人牛洞狂平が師と仰ぐ各務支考の二十五回忌に当たり全国的にも珍しい仮名文の碑を建立している。宝厳寺と同様に円満寺でも度々連歌や句会が開催された記録が残っている。
墓地には道後の人達の記憶に殆どないのだが、明王院金子家の代々の墓がある。『松山俚人談』によると、元禄から明治維新までは新居郡金子城主金子備後守の末裔である明王院(修経道場)金子氏が温泉の鍵を預っていた。道後村庄屋三好家と明王院金子家とは系図では姻戚関係にある。
C冠山杜鵑
冠山は古来「出雲崗」と呼ばれた独立した岡であるが、昭和35年に着工した「温泉センター」(レジャーランド)の建設で冠山の半分を削り取り、山頂に鎮座していた延喜式内の由緒ある湯神社と出雲崗神社を一社に併合して東方に移転し、鬱蒼とした神社林は消え失せた。同時に杜鵑(ホトトギス)の鳴声を耳にすることもなくなった。
「冠山」は(湯)煙山の転語との説もある。また山形が冠に似ていることにより命名されたとの説もある。それだけ村人に愛された「聖なる岡」であったが、湯ノ山の「奥道後温泉」に対抗すべく企画された町おこしの「俗なる岡」化は完全に失敗した。
D御手洗水鷄
伊予鉄市内線「道後温泉駅」東に放生池(現・放生園)があり八幡山(伊佐爾波神社鎮座)石段まで「馬場通り」が直進する。途中に寺井内川が鴉渓を通り「御手洗川」に名を変え、放生池の北を抜けて大川に合流する。
「御手洗川」の橋柱には、「みたらしはし」と正確に刻まれている。鴉渓(現・ふなや庭園)から放生池(現・放生園)にかけて水鶏(くいな)がいた。和歌などにその鳴く声を「たたく」といわれるのはヒクイナで、夏鳥である。
E湯元蜻蛉
湯元とは、現在の道後温泉本館周辺だけでなく古代の温泉の湧地とされる鷺谷界隈を含めた湯月谷一帯をさす。蜻蛉(トンボ)は秋津(アキツ)とも云う。「秋津」 は国名・日本の古称の一つで「大日本豊秋津洲(おおやまと‐とよあきずしま)」であるが、日本最古の温泉に相応しい生き物として蜻蛉がもっとも似つかわしい。
「温泉楼」は宮崎駿監督作品「千と千尋の神隠し」の舞台となった旅館のモデルでもある。浴衣着て振鷺閣を仰ぎ名月を眺めれば文人でなくとも一句ひねりたくなる風情がある。平成23年に温泉提携した台湾・北投温泉近郊の「九フン(イ+分)」も「千と千尋の神隠し」のモデルと現地では喧伝している。
F古濠水禽
水禽とは水鳥であるが、通年湯築城外堀で泳いでいる家鴨などの水鳥のほかに夏、冬の季節ごとに飛来する水鳥のことである。
G宇佐田雁
宇佐は宇佐八幡社の辺りを指す。松山藩当時、市万番所から東進し湯築城搦手門に至る道が「道後往来」である。左に折れ北に向かうと湯月八幡社(伊佐爾波神社)参道下の「放生池」(現放生園)に出る。湯月八幡宮の分社であり、道後村では恵方が南の年は宇佐八幡社が恵方神となった。現在地の東方の狭い道筋は「道後往来」の道のなごりある。今市南・本村(持田)は「砂土手」によりご城下と接していたが人家もまばらな純農村であったので秋の田の雁を眺め、やがてくる冬の用意をしたのではあるまいか。
道後村を南北に横断するもうひとつの道後往還はセキ美術館前から松山神社に抜ける道であるが、近年道路拡幅で消滅した。
1) 道後十六谷
@谷の定義
山あいなどの細く長い窪地。谷川が流れているところが多く、渓谷という。山を「峯」というのに対する語。谷(たに・や・やち・やつ・やと)・迫(さこ・せこ)・渓・谿
(参考)
 江戸(東京)の丘陵(山)と谷
東京の七つの丘
上野台地【上野公園 43.83m】 本郷台地【東大 53.01m】 小石川・目白台地【約35m】牛込台地【約30m】 四谷・麹町台地【約21m】 赤坂・麻布台地【30〜34m】芝・白金台地【約28m】
江戸・東京の「谷」
@駅名:鶯谷駅 渋谷駅 千駄ヶ谷駅 四ツ谷駅 市ヶ谷駅 日比谷 神谷町 
A地名:不忍谷・指ヶ谷谷・平川谷・溜池谷・古川谷・入谷・市ヶ谷・古千谷・谷中・大谷口・谷河内・粧谷・雪谷・神谷・鶯谷・富ヶ谷・幡ヶ谷・市ヶ谷・四谷・阿佐ヶ谷・粕谷・世田谷・入谷・松が谷・谷中・谷原・・
A 道後十六谷(総括)
 谷 名 関連里山 関連川池 関連建造物 現 在 地
@法雲寺谷 道後山 宝厳寺末寺 宝厳寺旧境内
A柿之木谷 道後山 柿ノ木谷池 道後尋常小学校   メルパルク・にぎたつ会館
B立石谷
C本谷 本谷山(道後山) 道後新配水場  ミカン山
D湯月谷 八幡山 伊佐爾波神社  松ヶ枝町 温泉本館
E柳谷 
F奥谷 道後山 宝厳寺池 宝厳寺 宝厳寺旧境内
G細見谷
G大谷 大谷山 大谷池 ミカン山
I桜谷 桜谷山(道後山)   ミカン山
J石切場谷    石切場山 石切場跡 ミカン山
K円満寺谷 道後山 円満寺池  円満寺 円満寺境内周辺
L大堂谷 
M鴉谷 冠山 伊佐爾波丘 御手洗川 鴉渓 紅葉亭  「Hふなや」庭園
N鷺谷    鳥越山 大禅寺   椿館周辺(山手旅館街)
O義安寺谷 義安寺山 戒能川 義安寺 墓地・道後プリンスH
B 道後十六谷(各論)
@奥谷
 一遍生誕寺(地)である豊国山遍照院宝厳寺は現在は道後湯月町5−4が所在地である。寺伝では斉明天皇勅願、空海入住、のちに天台宗の遍照院となり、一遍の弟・仙阿が時宗寺院として開創した。江戸期迄は奥谷派本山又は奥谷道場とも呼ばれた。熊野・本宮大社(念仏賦算神示)、神戸・真光寺(入寂地)と並んで時宗三大聖地とも呼ばれる。時宗奥谷派の名称が示す通り、地元では「奥谷」で通じる場所である。
 道後温泉本館から急坂を上がると遊廓跡を出る。ネオン街(現・上人坂)を上りきると宝厳寺の山門に至る。境内を突き切ると奥に墓地が広がる。墓地の奥は里山になるが、行き止まりの右手の藪の中に昭和57年に一遍会の新田兼市氏が私費で制作した「金剛の滝」の碑が立っている。戦前には谷川が流れて風情があったが「砂防ダム」の完成とともに荒廃して訪れる人もいなくなった。藪をかけ分けて山頂に出ると兎道が残っており、西方は戦前には祝谷から山越に通じていた。東方は一山越せば石手寺に至るので「古代の道」或いは修験道・遍路道であったかも知れぬ。
 「金剛の滝」の謂われは斉明天皇の朝鮮出兵時行宮を奥谷に定め、傍らの飛泉で禊ぎし、洗米の上御神撰として遙か大山祇の大神を拝し戦勝祈願をした。額田王の「熟田津に船乗りせむと月待てば・・・」はこの時の出陣の歌である。
道後温泉には「牛馬湯」が付属している。江戸期、宝厳寺旧境内界隈は牛馬の死体を投げ捨てたという。道後の村人の葬送場所は奥谷・鷺谷・鴉谷ヵ 遊女の遺体は宝厳寺投げ込みヵ
A湯月谷
 湯月谷は伊佐爾波神社(御仮屋山・八幡山)の北麓の谷で、奥谷の下流域であり、一遍生誕寺・宝厳寺寺域一帯である。戦前繁盛した遊廓松ケ枝町辺りである。今日でも道後温泉の本館から宝厳寺まで自転車で漕ぐには急坂過ぎるので、湯月谷の落差を体感できる。
奥谷・湯月谷を流れた急流は御手洗川で鴉谷の清流と合流し道後村の田畑を潤して「熟田津」へ抜けて行った。湯月の語源が「湯付き」であれば近くに温泉が湧出していたことになるのだが史料としては残っていない。     
湯月「谷」のイメージはないが、温泉場周辺からの地下河川が現在も街中を流れている。一本は、冠山(出雲崗)西の「東雲亭」の地下を通り「大川」に注いでおり、現在も雨水の排出に使っている。もう一本は、椿湯(元の西湯<砂湯あり>から、飲食店、藤原酒店、旧遍路宿(現・ミュージックホール)の裏(北側)を流れている地下河川である。元カメラ店を経営していた井上誠一氏の話では「大雨の時には下水が溢れ出て」と説明したが、下水でなく元々は川である。この川がさらに西に流れて、洗濯場と牛馬湯に利用された。温泉の「流し湯」と「湯月谷」の谷川の水と生活用水が混ざって再利用されたか。
B円満寺谷
 奥谷の宝厳寺から戦前華やかだった遊廓(松ケ枝町)のあった上人坂を下って道後温泉の本館に向かっていくと円満寺が右手に見える。周辺は高度成長期までは遍路宿が多く風情があったが、現在営業中の旅館は少なく昼夜ともに閑散としている。
 大悲院円満寺の奥は里山が迫っており、一書には宝厳寺の別院と書かれているが現在は浄土宗の尼寺である。境内に僧行基が道後温泉に立ち寄った際に楠の大木に彫った高さ三・六七米の大地蔵を祭っている。延命地蔵、湯地蔵などなどと呼ばれている。残念ながら谷のイメ−ジは湧かない。
 円満寺と宝厳寺の間に明治初期には「宝厳寺池」が記録されているが所在地は未確認である。
C法雲寺谷
 法雲寺谷の所在は不明であるが、宝厳寺の参道沿いに江戸初期までは塔頭が左右六房あり、筆頭塔頭の名称が法雲寺である。左右の谷は法師谷、尼谷とも呼ばれていたので、元遊廓朝日楼(夢之屋)周辺(現駐車場跡)ではあるまいか。小道を挟んで崖が迫っており現地に立つと法雲寺谷のイメージを描くことが出来る。塔頭十二房跡を発掘すれば奥谷派宝厳寺の遺跡、宝物が多数発掘出来ると考える。
D柿ノ木谷
  桜谷が暗示する「桜+谷」は現存しないが、伊佐爾波神社の両面の急傾斜を眼前にすると谷をイメ−ジすることは可能であり、「十六日桜」で著名な曹洞宗龍穏寺(江戸初期に山越移転)に程近いから山桜が点在していたのかもしれない。
 一方柿ノ木谷(西条柿が点在していたか)から蜜柑畑を通り抜けて石手寺への小径周辺を「風土記の丘」と呼んでいる。柿ノ木谷約四丁歩は元庄屋三好家の所有地で、中腹には通称「柿ノ木池」という三段余の農業用溜池があり、池畔に茶室を設けていた。
池堤の下に広がる平地に道後小学校(戦時中は国民学校)と青年学校と運動場があり、私も六年間通学した思い出の場所である。入会地でもないので江戸時代に庄屋として開拓した新田と考えている。尚、池が満水の非常事態になれば「義安寺谷」に流したと推察される。(現・道後温泉病院、道後プリンスホテル付近か)
E本谷
「三好家資料」に記載されている。明治期までは、柿ノ木谷の「見張り小屋」(柿の木谷140番地)から上り、薪木や山菜を採集したか。現在、南斜面のミカン畑には、宝厳寺と伊佐爾波神社の間の「けものみち」を通って往来している。東斜面(石手・溝辺)のミカン畑には道後・石手・溝辺にまたがる車道が石手寺の手前から通じている。「大谷山」にも近く、現状はみかん畑であるが、明治期に入ってミカンを植えたものと推察する。
F大谷
「三好家資料」に記載されている。本谷の記述に類似するので省略する。麓に「大谷池」が在る。
G石切場谷
松山城登り石垣について「松山城・湯築城から石を運んだ」という伝承があり、中には「おたた」が頭に載せて運んだという荒唐無稽の話も伝わっている。松山城の石垣は整然と組み立てられており高度の石工が存在していたと推定される。採石場を「石切丁場」、工事現場を「普請丁場」といったが、現在は「丁場」と呼ぶ。旧道後村に「石切場(谷)山」、旧祝谷村に「町(丁)場」地名(小字)が残る。ほかに高浜町白石の鼻など。
【温泉郡地誌】明治初頭
石切場山 高サ八拾間(145.5m)、麓廻リ弐町、道後村ノ東北ニアリ登路一条湯月町ヨリ上ル、

石垣の石と石切場山の石塊について地質学による厳密な検証が必要であるが、旧道後村説は松山城と至近の距離にあり、運搬(距離×人夫)や石工の効率からみても有力な説である。又、加藤嘉明が戦略的見地から寺院を山越に集中したが、祝谷は墓石製作の最適地であった。加藤嘉明は「慶長の役」での半島人俘虜を松前・松山(唐人町)に居住させたが、採石・砕石・石工の指導的な役割を果たしたのは半島人であったと考えられる。
(注)郷土史家(城郭研究家)である宮尾克彦氏の論説をベースにしている。
H桜谷
 宝厳寺のある奥谷右手の里山に重要文化財の伊佐爾波神社がありその上方に元の配水所がある。道後地区への水道供給基地であった。南側中腹に元県武道館、県営テニスコ−ト場、松山ユ−スホテル、一段下がってメルパルク松山、公共学校共済組合にぎたつ会館、市立道後保育園が点在している。伊佐爾波神社を除いて現在の地名は姫塚であるが、戦前は柿ノ木谷であった。桜谷と柿ノ木谷の区別はつかない。
「柿木谷」は字名であるが、「桜谷」はかつては通称であった。義安寺、伊佐爾波神社、宝厳寺を含んでいる。ミカン経営をしている烏谷氏のみかん畑は従来「大谷」であったが「桜谷」に変更になった由。現「桜谷町」ゾーンは広く、石手・溝辺・祝谷に接している。
何故「桜谷」か。郷土史家二神将氏は、桜谷は元龍穏寺があった辺り(現大和屋別荘・道後館周辺ホテル界隈。椿ノ湯から山手ホテル界隈に向かう坂道が「龍穏寺坂」であった)と推定している。祝谷、鷺谷(山手)は温泉郡でなく風早郡・和気郡であり、桜谷は郡境界線でもある。「十六日桜」の龍穏寺住職は、地熱(温泉)の影響で早咲きの桜(「十六日桜」)が生育したのではないかとの見解である。
I義安寺谷(戒能谷)
明治三七年(1904)版「松山道後案内」大正一五年(1926)版「道後温泉誌」では義安寺谷でなく戒能谷と記載されている。平時春(詳細不明)作「戒能谷蛍」を紹介する。残念ながら今日では漢詩に読み込まれた風雅な情景は全く残っておらず曹洞宗護国山義安寺の周辺には近代的なホテルが数軒建っている。   
渓流一帯柳堤前 転逐飛蛍度暮天   隔岸飄々掛幽竹 入林細々点寒烟
義安寺裏金如布 伊弉庭辺珠似聯   縦令能堪当灯火 衰来更懶照書編
 義安寺は天文八年(1539)河野彦四郎義安が建立し天文一三年(1544)河野家断絶の時一族郎党がこの寺に会して二君に仕えぬことと誓ったと伝える。寺前の清流には戦前大きい源氏蛍が飛びかい、義安寺蛍とも戒能蛍とも呼ばれた。子供心には河野一族の恨みの灯ではないかと思っていた。義安寺は十六日桜の天臨山竜穏寺の末寺に当たる。庫裏から「誓いの泉」を通り墓地内の急坂を登ると河野義安の墓があり、中世には谷川が流れていたと思えないこともないのだが・・・寺の後方に先述の柿木谷が位置する。養老の昔柿本人麿が道後に来泉時に庵室を営んで養生したとの伝承が残っている。柿木の縁であろうか。里山も川も東に向うと熊野山石手寺に至る。
J鴉谷
鴉渓(鴉谷)は道後十六谷ではもっとも著名な景勝地であった。道後川が義安寺を越えると御手洗川となるが現在の「天皇の宿」ふなや庭園、旧成川邸、ホテル白山荘周辺に当たる。天保期松山藩士大高坂舎人(号天山)が「五清浄室」なる亭を営なみ自ら楽しんだ由である。寛政七年に道後を訪れた小林一茶が「寝ころんで蝶泊らせる外湯かな」と詠んだが、一茶もこの勝地で湯上がりの長閑さを楽しんだ。              
 明治十七年には、二十余の亭と五、六の割烹店が立ち並び、安芸宮島の茶屋に因んで「新紅葉」と呼ばれ「花月楼」が有名であった。伊佐爾波神社の宮司は烏谷家であるが、伊佐爾波神社のある御仮屋山の南麓一帯は烏の棲であったかもしれない。
K鷺谷
白鷺は道後温泉の象徴である。宝永七(1710)年編纂の「予陽郡郷俚諺集」に「古此湯少し湧出して并辟(ヘイヘキ) たり、鷺の足かたは(片輪)なるが、常々来たりて足を浸す、幾程となく平癒したり、故に此所を鷺谷と云、」と記載されている。(注)并辟⇒サンズイ偏あり。
 白鷺伝説は山形・湯田川温泉、佐賀・武雄温泉にもあるが、今日でも道後に残された川で白鷺が餌を啄む姿を眺めると「さもあらん」と納得する。伝承を記念して鷺石が道後温泉駅前の放生園に存在する。 鷺谷は道後温泉本館の山手、鳥越山鷺谷寺(後の大禅寺)跡周辺であり、寺域である共同墓地は松山藩下級武士層の墓地が多く、秋山真之家の墓地も現存する。裏山には昭和30年頃まで遊廓・松ケ町の遊女達の専門病院があった。病死した遊女の墓は今日確認すらできない。哀しい「鷺女」の物語である。子規は明治25年「鷺谷に一本淋し枯尾花」と詠んでいる。
 今日では近代的なホテルが立ち並び、古の谷間の印象は全くないが、鷺谷から里山を上ると、瀬戸風峠(温泉郡・風早郡境)から石手寺への道が通じ、峠を越すと伊台に至る。
(L立石谷
不明。資料調査中。湯台)、湯山(現奥道後)の古代の温泉道が繋がっている。霊験あらたかな熟田津の温湯が鷺谷で湧出しており、近くの杣人が偶然発見し暫し憩ったのであろうか。
M柳谷
不明。湯山柳との関連があるヵ。資料調査中。
M柳谷
不明。湯山柳との関連があるヵ。資料調査中。
N細見谷
不明。資料調査中。
O大堂谷
不明。道後山周辺に大きな御堂があったヵ。資料調査中。 
おわりに
1)景観は文化である
景観(景色)とはなにか
「景」 「日」(ヒカリ)+「京」(カゲ=影)
「風景」 自然景  生活景  
ユネスコ「世界遺産」 @文化遺産 A自然遺産 B複合遺産
景観は優れて文化である
文化(CULTURE)  
耕作(CULTIVATE)  外なる「自然」 内なる「人間」  
観る・・・・ 眼 鼻 耳 舌 身 意
村の風景 神社(聖・産土神)大樹(依代) 林 祭礼 遊び場 <中世都市・教会>
(注)依代・憑代(よりしろ) 神霊が招き寄せられて乗り移るもの。樹木・岩石・御幣・神籬(ひもろぎ)などの有体物で、これを神霊の代りとして祭る。かたしろ。【広辞苑】
山 森林 谷(渓谷) 川(河) 道(路) 峠 原野 池・江・湖・滝 山紫水明(山明水紫) 白砂青松 渓声山色 深山幽谷 大山高嶽 桃花流水  見立て ○○富士
日本人にとっての自然
自然は「空」ではなく「実」である。  
「一切衆生悉皆仏性」(釈迦)
「山川草木悉皆仏性」(最澄 道元 天台宗 曹洞宗)
「草木国土悉皆成仏」(安然 天台密教の大成者)
「山川草木悉皆成仏」(空海 真言宗)
「よろず生きとしいけるもの、山河草木、ふく風たつ波の音までも、念仏(南無阿弥陀仏)ならざずといふことなし」(一遍 時宗)
(参考) 
○ 捨ててこそ(自力か、他力か)
○ 念ずれば花ひらく (自力か、他力か)
○ 春来草自生 春来花自咲 (他力)
○ 浄土宗(百万遍  融通念仏  易行)
真 宗 (信心  易行)
時 宗 (一遍  絶対他力) 
○ 花のことははなにとへ 紫雲のことは紫雲にとへ 一遍はしらず
信不信をえらばず  浄不浄をきらわず その札(「南無阿弥陀仏 決定往生六十万人」)をくばるべし
2) 文化の裏打ちとしての歴史性(物語 名歌 人物)
夏目漱石『坊っちゃん』、司馬遼太郎『坂の上の雲』と松山のイメージ
「実に名歌は名所より長持ちする」(小林秀雄)
@ 遊行柳
謡曲「遊行柳」(観世信光1435?1516)
遊行上人(一遍上人)が奥州行脚の際に、老人の姿をした柳の精に出会って西行が詠んだ「朽木の柳」へ案内され、老人は、上人に念仏を授けられて成仏するが、夜になって再び現われ、上人に柳にまつわる故事をつらつら語り報謝の舞を見せて姿を消す。
西行:道の辺に清水流る柳かげ しばしとてこそ立ちどまりつれ
遊行上人(一九代尊晧):朽残るあし野の柳末の世もおとのう法のみちはありけり
芭蕉:田一枚植て立去る柳かな
A 国宝『一遍聖絵』(1299年) 聖戒(伊予出身・法弟)が作成
「名所尽くし」にもなっている。 『一遍聖絵』を眺めて日本観光!
延応1(1239) 1月15日  伊予国 道後奥谷(宝厳寺支院)出生

建長3(1251) 春〜 伊予→肥前→太宰府→伊予(約12年間)

文永7(1270)春〜 伊予→太宰府→伊予

文永8(1271)春〜 伊予→信濃善光寺→伊予

文永11(1274)冬〜 伊予→四天王寺→高野山→熊野三山→京都→西海道→?→伊予(1年半)

建治 2(1276)春〜 伊予→太宰府→筑前→大隅→豊後→伊予(約2年間) 

弘安 1(1278)秋〜 伊予→安芸厳島→備前福岡→京因幡堂→信濃善光寺→下野(小野寺)→陸奥(白河・江刺・平泉・松島)→常陸→鎌倉→伊豆→尾張→近江→京(四条京極・七条市屋道場・雲居寺)→丹波 →丹後→但馬→印幡→伯耆→美作→四天王寺→住吉→磯長→大和当麻寺→岩清水八幡→淀→四天王寺→播磨→備中→備後→安芸厳島→伊予(約10年間)

弘安11(1288) 伊予→讃岐(善通寺)→阿波→淡路→明石→兵庫(観音堂)

正応 2(1289) 8月23日往生  兵庫島(観音堂)
B 歌人としての一遍
「勅撰和歌集」に入っている最初の伊予(歌)人
時宗連歌師 「宝厳寺」連歌→「大三島神社」連歌
  →歌づくりの風土
C 一遍の思想による浄・不浄なき温泉づくり
○ 道後温泉(癩病・遍路者) ○鉄輪温泉(敗血症) ○湯の峰温泉(小栗判官蘇生)
道後温泉場
 高縄山系温泉群(@道後<湯山・湯月> A鈍川 B本谷 ・・・・・伊予国三古湯)
○ 差別なし・・・・・刺青 らい病 乞食 馬(牛)湯
○ 「寝こんで蝶泊まらせる外湯かな    一茶」  外湯=馬(牛)湯
○ 伊佐庭如矢  温泉近代化  本館(重要文化財) 外湯の隔離
○ 「女帝の湯」 「上人の湯」 「神代の湯」 「太子の湯」・・・・・ ステイタス温泉名称
○湯桁・・・・・ 混浴ヵ 差別ヵ
風景(景観)は客観にして主観である。
以上