第五十三章  宝厳寺本堂炎上す  〜在りし寺の記憶の継承の試み〜
一、 はじめに
 平成二五(二〇一三)年八月十日午後二時一〇分頃、江戸時代建立の時宗の古刹である護国山宝厳寺の本堂から出火、棟続きの住職住居の庫裏にも延焼し、木造平屋計二七〇平方メートルを全焼した。 本堂内に安置されていた江戸期の「木造弥陀三尊」や鎌倉時代制作の国重要文化財「木造一遍上人立像」、一遍の祖父(通信)・父(通広)・伯父(得能通俊)夫妻の「大位牌」のほか、庫裏に保管されていた貴重な「河野家系図」等の寺宝がことごとく焼失した。わずかに銅と木材で作られた懸仏の木製部分が焼け、残欠は銅製で 煤が付いているものと、一遍立像を安置している厨子扉の取手が残された。(「愛媛新聞」2013・8.26)
 これらの事実は今後記録として史料として残されるが、道後に生まれ、育ち、やがて道後の地で最晩年を迎えることとなる筆者にとっては、宝厳寺炎上前の生の記憶を残し、一〇年後、二〇年後に宝厳寺を参詣する人たちにこの記憶を継承して欲しいと願っている。
 丁度この時間帯に道後公民館三階視聴覚室で第四九八回一遍会八月例会を開催していた。約五年間読み続けてきた「国宝『一遍聖絵』を絵解きする」の最終回で、一遍が伊予国から阿波路を抜けて船で兵庫に渡り観音堂(現・神戸真光寺)で往生するくだりである。けたたましい消防車のサイレンと奥谷からもくもくと湧いてくる黒煙を背に受けて講義が続いた。宝厳寺に駆けつけることは不可能であり、本堂に安置されている「一遍立像」が黒煙の充満する本堂内から勇躍して飛び出してくることを念じるのみであった。奇跡は起こらなかった。
二、山門(楼門)への道
 道後温泉本館から石手寺に通じる市道沿いに宝厳寺に到る参道がある。今日では上人坂と呼ぶが、入り口右手に石碑が建っている。門柱正面には「宗祖一遍上人 御誕生旧跡 時宗宝厳寺」、裏面は「宝厳寺略縁起」、右面には「平成十八年十二月吉日 宝厳寺五十三世真阿隆祥建之」と刻まれている。「宝厳寺略縁起」は以下の簡潔な文章である。
「宝厳寺は寺伝によると天智天皇七(六六八)年斎明天皇の勅願で国司乎智宿袮守興が創建当初は法相宗、その後天台宗に転じたあと時宗が隆盛し、弟子の仙阿がここに住むようになって正応五(一二九二)年寺が再建され時宗に改めたとある。
時宗の開祖一遍は河野通広の第二子として延応元(一二三九)年に生まれた。幼くして僧門に入り文永十一(一二七四)年時宗を開き翌年熊野の地で神勅を受けて「南無阿弥陀佛」と記した念佛札の賦算を始めた。弘安二年には信濃国佐久郡で念仏踊りを始めた。その後正応二(一二八九)年神戸真光寺で死すまで全国各地を念仏遊行し一所不住捨聖遊行上人と尊崇された。」
鎌倉時代から江戸期には門前末坊として十二院あり、参道の右左にそれぞれ六つの庵があった。右手が僧庵で法雲院・善成院・興安院・医王院・光明院・東昭院、左手が尼庵で教善院、林鐘院、正伝院、林迎院、浄福院、弘願院である。一遍立像は林迎院に在ったがのちに本堂に移された。明治九年に、一二院跡が二四区画に細分されて、松ヶ枝遊郭二四貸座敷(旭・芳春楼・松国・いろは・松竹梅・松風・三よしや・梅木・若竹屋・清月・岡橋・吉紋・いづ五・花月・玉の里・鹿の子・大岩・大紋・むら佐・鮒屋・井筒・開運亭・阿め音)として営業を開始する。(明治一七年版「松山玉尽付録」に拠る。) 明治二八年、漱石とともに訪れた子規は「色里や十歩はなれて秋の風」の句を残した。楼門にもっとも近い遊郭として朝日楼(夢乃屋)であったが、近年解体され宝厳寺専用駐車場となっている。(犬伏武彦『民家と人間の物語り』)
 楼門(江戸中期)の前、右に宗祖誕生旧蹟碑、左に宗祖阿弥号碑(昭和五四年)が建つ。旧蹟碑は寺伝では元弘四(一三三四年)に得能(河野)通綱が建立している。
三、境内に入る
 境内に入って左には観音堂(江戸中期)と熊野社(近年処分)がある。奥には右(南)向きに本堂(江戸中期)、棟続きに西向きに住職の居室を兼ねた庫裏(明治期)が在った。境内の真ん中に銀杏が二本あるが、重要文化財である伊佐爾波神社の建つ御仮屋山への類焼を防いだ立役者はこの銀杏であった。枯死することはないだろうが、痛々しく無言で突っ立っている。境内には七基の句碑・歌碑がある。
四、本堂参拝
 本堂の向拝上に山額「豊国山」が、内陣上に名号額「南無阿弥陀仏」があった。正式名称は「豊国山 遍照院 宝厳寺」で斉明天皇の勅願寺である。柱には、河野家の家紋である「折敷に三文字」や一遍の母大江氏の家紋「沢瀉」(宝厳寺住職談)も彫られていた。本堂は、湯築城の廃屋或いは弘化四(一九四七)年松山城再建の際の廃材が使用された(住職談)というが確証はない。子規ゆかりの子規堂のある正宗寺にも同様の伝承がある。
本堂正面に弥陀三尊、右壇に一遍上人立像(国重要文化財)、左壇の厨子前に河野通信、河野通広、得能(河野)通俊夫妻の大位牌と観音堂開基の楽誉像(楽誉なる人物は不詳)が安置されていた。
弥陀三尊は、中尊が阿弥陀如来、左腋侍が観音菩薩、右腋士が勢至菩薩ある。春日仏師の制作であるが、詳細不明である。春日作の仏像は奈良京都を中心に全国に点在しており、仏像の制作集団であった可能性もある。
一遍上人立像(国重要文化財)は多くの解説書もあり細部の説明は省略する。今回の火災に際して、一遍上人立像の焼失に関して「残念でした」と悔やむ声は多かったが、常時公開を批判して通常は格納しておくべきとの辛らつな批判は行政や博物館関係者に多かった。昭和四七年から宝厳寺に住んでおられる現住職夫人は、上人像の厨子の扉が閉っていたという記憶はないといわれる。記録では明治三五(一九〇二年)三月中完に宝厳寺住職中島善應師が「国宝之霊像開扉之辨」(個人蔵)で「諸子カ学芸上或ハ歴史ニ或ハ美術ニ参考ノ一助ニナラン乎。且ツ高徳聖者ノ肖像ナレバ其威徳ヲ感シ自然信心ヲ発起スルコトモアラントシテ謹テ開扉ヲナス」として実行した。本堂焼失までの一一〇年間厨子は開扉されていたことになる。
一遍上人とか一遍聖という畏まった呼び名でなく「一遍さん」がもっともふさわしい親しみにある呼称であろう。一遍研究者である梅谷繁樹師(時宗西市屋道場西蓮寺住職)が二〇〇四年NHK「宗教の時間」での「一遍の語録を読む」の一年間の講話はすべて「一遍さん」で通された。仏教に無縁の人でも地蔵菩薩を「お地蔵さん」として親しみを感じているように、一遍さんも秘仏扱いをされるのを嫌われるに違いない。
俳人の黒田杏子氏(俳誌「藍生」主宰)は年数回俳句の指導で子規記念博物館などにみえるが、その節に必ず宝厳寺に立ち寄って一遍立像と対面される。最近は一遍上人を詠まれる句が多いが、個人的には左の三句が忘れられない。
「寒満月遊行上人遊行の眼  杏子」
「稲光一遍上人徒跣     杏子」
「灰燼に帰したる安堵一遍忌 杏子」
宝厳寺の朝勤行に参加された折、本堂の窓から差し込む月光が一遍立像に差し込む。一遍の大きな眼はまさに遊行上人の「南無阿弥陀仏」の世界である。一遍忌法要の節、あたりが暗くなり稲光が走った。その瞬間、一遍立像の一遍さんが参列者の眼前を横切って裸足のままで遊行に旅立たれた姿を見送った。たまたま筆者も同席していた。宝厳寺本堂の火災により一遍立像も灰燼に帰した。「捨ててこそ」を生涯通して実践した一遍さんにふさわしい消滅であった。これほど一遍立像の本質を直感的に捉えられた文学者、詩人はいないのではなかろうか。
大位牌は、宝厳寺の初期には河野氏ではなく得能氏が庇護してきた歴史的事実を語りかけてくれる。理解を深める為にまずは一遍の系譜に触れておきたい。聖戒が編纂した『一遍聖絵』(遊行寺・国立東京博物館蔵)は次の文章で始まる。「一遍ひじりは、俗姓は越智氏、河野四郎通信が孫、同七郎通広(出家して如仏と号す)が子なり。延応元年己亥、予州にして誕生。」
 通説では河野通信夫人は新居太夫玉氏女とされ、長男が通俊、次男が通政、三男が通広で、通俊は得能氏を名乗り通広は河野別府と呼ばれる。一遍(通尚)は通広の次男で、長男は道真である。他に二階堂信濃民部女との四男通末、正妻の北条時政女(谷)とに儲けた五男通久、六男通継がいた。承久の乱(一二二一年)で通信は宮方につき鎌倉幕府に敗北を喫し所領をすべて没収され奥州江刺に流罪となるが、通俊の子通秀と通広の長子道真は北条方についたので、旧領を安堵された。「宝厳寺蔵河野系図」では通広の所領である「別府」は拝志郷別府とするが、別系統の「河野系図」では河野郷別府であるとしている。
 大位牌は高さが六〇糎あり、中央上部に「南無阿弥陀仏」とあり、中央に東禅院殿観光大居士通信・智光院殿玉慧大姉、右側に東源院殿観山大居士通広・大智院殿恵性大姉、左側に東勝院殿観誓大居士通俊・智應院殿恵琳大姉の戒名が刻まれている。寺伝では元弘元(一三三一)年に得能通俊の曾孫通綱が宝厳寺を再興しているので其の時の先祖供養と推定される。
五、庫裏のお宝
 庫裏には住職ご一家の住まいもかねていたが本堂と共に焼失した。主な寺宝はそこに格納されていた。知るところでは、「一遍上人念持懸仏」(松山市重要美術品)、「河野系図」「一遍聖絵(写)」や経典、軸物などなどである。
「河野系図」は非公開であるが数回拝見している。「一遍聖絵」の編纂者である聖戒は、宝厳寺の河野系図では、通広の長男道真、次男通秀(智真坊・一遍)の左に伊予坊号聖戒上人と伊豆坊号仙阿上人(時宗奥谷派開祖)が記載されている。時宗本山清浄光寺蔵の『予章記』には一遍の右に「伊予坊号聖戒上人」と後から書き入れており、宝厳寺蔵「河野系図」は類書に比してかなり新しいものと類推した。焼失したが、内容は住職であった浅山圓祥師や一遍会の越智通敏や足助威男の著作の中で引用している箇所も多い。子規記念博物館第十七回特別企画展「子規を生む潮流  河野氏と一遍」に系図の一部が掲載されている。
「一遍聖絵(写)」の資料的価値は別として、「大三島町誌」の表紙裏に大三島の場面が「宝厳寺蔵『一遍上人聖絵』写より」として掲載されている。
「一遍上人念持懸仏」(松山市重要美術品)は銅製の部分が残欠として発見され現在は松山市教育委員会で復元につき検討中である。
六、文学碑を見てまわる
 宝厳寺の紙と木の文化は今回の火災で消滅したが、石(石碑)の文化は健在であるし、一〇〇〇年は優に持ち堪えるだろう。紙面が尽きたので割愛するが、道後温泉に立ち寄られた節には、ぜひ宝厳寺まで足を伸ばして鑑賞してほしいと願っています。一遍さんを敬愛した坂村真民翁の「念ずれば花開く」の墓銘碑にも立ち寄ってほしい。
一遍上人歌碑 旅衣 木乃祢可やのね い徒具に閑  身能すてら禮ぬ ところあるべ幾     一遍
正岡子規句碑 色里や 十歩者なれて 秋の風 子規
酒井黙禅句碑 子規忌過ぎ 一遍忌過ぎ 月は秋  黙禅
斎藤茂吉歌碑 安かゝゝと一本の道通り多里  霊剋る 和が命奈りけり   茂吉
川田順歌碑 糞掃衣裾の短く くるぶしも臑もあらはに  川田 順
わらんぢも穿かぬ素足者 国々の道の長手能
土をふみ石をふみ来て にじみたる血さへ見ゆが尓
以たましく頬こけおちて おとがひもしやくれ尖るを 
眉は長く目見の静けく たぐひなき敬虔をもて 
合せたる掌のさきよりぞ 光さへ放つと見ゆれ 
伊予の国伊佐庭の山乃 み湯に来て為すこともなく 
日をかさね吾も遊ぶを こ能郷尓生れな可らも 
こ能み湯尓浸るひまなく 西へ行き東へ往きて
念彿もて勧化したまふ みすがたを
ここに残せる  一遍上人
河野静雲句碑 あとやさき 百寿も露の いのち哉 静雲
黒田杏子句碑 稲光一遍上人徒跣 杏子
            (注)記録重視の視点から原文のまま記載した。
七  おわりに
 一遍会は今年(平成二五年)十月例会で五〇〇回を迎えた。毎年三月には一遍生誕会と松寿丸(一遍幼名)湯浴み式を行い、引き続き宝厳寺セミナーを開催してきました。ここ数年のセミナーは左記の通りです。(敬称略)
青山淳平(作家)「一遍に生きる〜足助威男」 、竹田美喜(子規博館長) 「子規と道後」 、二神将(伊予史談会監事)「子規「散策集」と宝厳寺界隈」、三好恭治(松山子規会常任理事)「宝厳寺の大位牌〜河野通信・河野通広・得能通俊夫妻〜 」、田中弘道(湯築城ボランティア)「湯築城下町、湯之町と寺井内川水系」、小沼大八(愛媛大学名誉教授)「日本文化の基層」、田村憲治(元・愛媛大学教授)「中世民衆の心〜歌謡の世界」などなど。残念ながら、宝厳寺セミナーは宝厳寺本堂再建までは休講となる。
宝厳寺の本堂や一遍立像は焼失したが、一遍の残した法話や「一遍聖絵」は現存するし、道後・宝厳寺で生まれた一遍はわれわれの記憶の中に鮮明に残っている。松山市が採用している平成二五年度の中学校社会科(歴史)の教科書『新編新しい社会 歴史』(東京書籍)に記載されている伊予人は一遍上人だけです。現在の中学生が一遍や宝厳寺を学習することにより、在りし日の宝厳寺の記憶が次代に継承されるだろうと信じています。
     「八月十日一遍生誕寺炎上     杏子」
  参考資料
 一遍並びに宝厳寺については、多くの歴史学・宗教学の専門書や研究論文、小説や文学評論がありますが、あえて割愛します。ご関心のある方は下記の書籍に目を通して、一遍さんのメッセージを直接受け取っていただきたい。
○ 『一遍上人絵伝』中央公論社版 日本の絵巻20
○ 『一遍聖絵』角川書店版 日本絵巻物全集11
○ 『法然 一遍』岩波書店版 日本思想体系10
○ 『一遍上人全集』春秋社版
なお『明教』第39号に拙論「一遍上人・宝厳寺と遊行寺」が掲載されています。