第四十七章 遊行上人の伊予回国 〜聖と俗の狭間で〜 
本テーマは平成二三年二月例会で発表した「時宗(時衆)十二派の来歴〜奥谷派の定義〜」と関連したテーマである。
一遍時衆を特徴づける行動様式は「遊行」であり、遊行を通して「賦算」(「南無阿弥陀仏」札)と「踊念仏」による念仏布教をおこなった。遊行は「旅衣木乃祢可やのねい徒具に閑身能すてら禮ぬところあるべ幾」(宝厳寺 一遍上人歌碑)の苦難の日々であり、一遍と後継者たちを「遊行上人」と呼び、時宗本山「藤沢山無量光院 清浄光寺」を「遊行寺」、時宗は別名「遊行宗」とも呼ばれている。
一、遊行上人と藤沢上人
一遍の遊行は一五年に及び、摂津国(兵庫県神戸市)の兵庫観音堂(現・真光寺)で終焉を迎えた。後継者である(二祖)他阿真教は、一遍と一五年間遊行をともにし、一遍の死後一六年間遊行ののち、高齢と病身のため当麻山無量光寺に隠遁した。時宗では「独住」という。真教後の賦算の継承者は四名居り、承継をめぐっての混乱が生じることになる。
@聖戒 京都六条道場 歓喜光寺(宗祖一遍弟子)
A智得 相模当麻道場無量光寺(二祖真教弟子)→真阿「他阿上人」
B呑海 京都七条金光寺(二祖真教弟子)  →藤沢清浄光寺(遊行寺)他阿・遊行上人
C真観 京都四条道場金蓮寺(二祖真教弟子) 
遊行三祖智得は一遍並びに二祖真教の弟子で、他阿真教から「他阿弥陀仏」号を受け継ぐ。遊行歴は三〇年以上となる。元応元年、二祖寂後、当麻で独住。
遊行四代呑海の時、独住の遊行三祖智得に仕えた内阿真光が知得の遺言として遊行他阿を名乗り、呑海と対立する。呑海は遊行引退後、藤沢山清浄光寺を創建、「藤沢上人」と呼んだ。遊行五代安国以降「遊行上人」を経て、独住後「藤沢上人」を名乗り、宗門としての上人交代の制度が確立する。一方、「藤沢上人」没後に「遊行上人」が、次の「遊行上人」を指名して「藤沢上人」が誕生することになるので、「遊行上人」のまま遊行中に没するケースが多々生じた。 
 現在の時宗総本山管長である他阿真円上人は遊行七四代、藤沢五七世に当るが、平成二一年(2009)一一月三日奥谷宝厳寺にて賦算と法話を頂いた。
二、遊行上人の回国
(1)開創期
一遍の回国は『一遍聖絵』(第三巻〜第十二巻)に、二祖真阿の回国は『一遍上人絵詞伝』(第五巻〜第十巻)に描かれている。遊行十代(藤沢五世)までの回国の事績は『遊行上人・藤沢歴代上人史―時宗七百年史―』で克明にたどることができるので省略する。
(2)興隆期(中世)
室町時代から戦国時代の遊行は、戦乱の供養と文芸のたしなみの中で続行された。苦難の遊行もあれば、法悦の遊行もあった。
(3)中興期(近世)
 慶長一八年(1613)の伴天連追放令を契機としてキリシタン弾圧が強行され、現在でも残滓がある檀家制度や寺院認可により浄土宗(真宗・時宗・一向宗)、真言宗(高野山聖、善光寺聖)の拡大へつながった。
 その上、時宗(遊行上人)は、檀家制度の枠外で、全国土布教の特権を付与された。
@ 天正十九年 遊行寺に一千石朱印付与
A 慶長一八年 馬五〇匹伝馬朱印状付与
B 本末関係で遊行寺に総本山の地位保障
江戸期に遊行上人が一〇名の将軍から二三回の伝馬手形を受領し、幕府、各藩の行政権の介入もあって、「大名行列」が固定化し遊行の本質は形骸化した。民衆の教化は、念仏賦算の札のほか、矢除け・雷除け・病除けの厄払いや、弁天・愛染・大黒などの福神から呪字のお守りを配るなど現世利益を守るべく世俗化した。遊行上人の名声は上がったが、信仰とは別次元の大衆化であった。
江戸幕府から時宗遊行寺(清浄光寺)に特権が与えられた背景には、徳川家と時宗(時衆)との浅からぬ因縁があったと想定される。
@新田義貞一族「得川氏」は義貞滅亡後(1301〜1338)流浪したが、得川有親が公方足利義満に取り立てられて上州得川の地を安堵される。。
A応永年間(1394〜1428)に小山氏の反乱に加担し、足利氏満に討たれ潜伏中、桐生青蓮寺に留錫中の遊行一二代尊観法親王(後亀山天皇第二王子恒明親王第四子。1349〜1400 異説あり)に身を寄せ弟子となる。父有親は徳阿弥、子親氏は長阿弥を名乗る。
B遊行上人の回国に随行、三河国大浜称名寺での連歌の会の機縁で、坂井郷の土豪坂井氏の養子となる。後に妻が死亡し、松平郷主松平氏の養子となる。松平(徳川)家康は親氏から八代目にあたる。(橘俊道『遊行寺』)
4)明治期以降(近代・現代)
神仏分離令や宗派内対立・離脱(一向宗番場蓮華寺など)により宗門の地位は低下し、「不断遊行」から「随時遊行」に移行した。現在の信者数は六万人弱で『宗教年鑑』(文化庁)によれば第一〇四位にランクされている。
三、伊予回国と奥谷・宝厳寺
「遊行日鑑」によれば江戸期までの伊予回国の遊行上人は宗祖一遍を加えて下記一四上人であり、宝厳寺を拠点に賦算している。
宗祖一遍、七代託何、九代白木、一六代南要、二一代知蓮、二七代真寂、三九代慈光、四二代尊任、四六代尊証、四九代一法、五一代賦存、五三代尊如、五四代尊祐、五六代傾心
橘俊道論文「遊行上人御通行に付要用留」によれば寛政七年の五四代尊祐の回国に当たっては、馬一五匹で合計七七四人(うち宰領組頭四五人)の大行列である。
伊予回国では九州から宇和島に上陸し、松葉町(現 西予市)―大洲―内子(長浜、中山)―郡中(現 伊予市)を経て奥谷宝厳寺に来駕している。土佐回国は西条経由となるので、志津川(現 東温市)―田野村―壬生川を経て西条に向かっている。
宿泊は宇和島(西光寺、大超寺)、松葉町(光教寺、水口宅)、大洲(寿永寺、清源寺)、内子(時宗願成寺)、郡中(灘屋宅)、志津川(酒屋宅、庄屋宅)、田野村(野口宅)、壬生川(芥川宅)などである。浄土宗寺院や商家、庄屋宅のほかに個人宅の表記があるのは代官宅の可能性が強い。松山近郊にある志津川が宿場町であったことは特筆すべきである。
文政九年宝厳寺を起点にした傾心上人の道後の寺社参拝の行列経路は下記の通りである。
「(湯月)八幡宮回廊ニ而御下乗、此処御手水有之、二畳台ニ而如法衣御召、神前ニ而御拝、略懺悔、弥陀経念仏一会、●而二畳台ニ御着座、神楽相済、夫ヨリ河野古城跡岩崎明神ヘ御社参(湯ノ神社、七郎明神ヘ)各心経一巻之御法楽、夫ヨリ温泉玉之石被遊御覧、御帰リニ相成候条、」(「遊行日鑑」)
(注)●は「己」の下に「十」
行列は御免傘―御先箱・御先箱―御立傘―御朱印―御先僧―御助僧―御番頭―御輿―御草履取―御日傘・御用心扣―御茶瓶―役者乗物―草履取―長柄用箱―合羽篭―老僧中・惣代衆・伴僧泰山―草履取の約四〇名である。
通説では宝厳寺境内は江戸期に荒廃していたとするが、論者は、上記遊行上人の宝厳寺での厳粛な行事から推察して、明治の廃仏毀釈までは整然としていたと考える。