第三十九章 松山藩洋学所出身の教育者 和久正辰 〜小林小太郎周辺の伊予人B 
和久正辰 (わく まさとき)  通称喜佐雄。号 大悟翁、大喝軒、瓦礫庵など
嘉永五年(一八五二)七月●日、松山藩百五十石取りの和久正鑑の長男に生れる。祖母・理は松山藩の儒官で明教館教授である日下宗八(伯巌)(一七八五 〜一八六六.)の娘で、姉・橋(玉鵞)は石原有澄(掬月)に嫁した。
文久三年(一八六三)松山藩の藩校である明教館に入学し漢学を修業し、明治元年(一八六八)には新設の松山藩洋学所にて英学を学ぶ。英学司教は伊予松山藩士で慶応義塾出身の小林小太郎であった。小林は、明治六年から文部省に出仕するが、明治十八年当時、正岡子規が在籍する東京大学予備門の予備門長は小林小太郎で、杉浦重剛((一八五五〜一九二四 東宮[昭和天皇]御学問所御用掛)の後任であった。
明治二年から四年にかけて開明的な伊予松山藩の十三代並びに十五代藩主であった松平勝成(まつだいら かつしげ一八三二〜一九一二)の主導により三十二名の青年が国内留学し、更に明治三年には外国文明事情視察のため四名が米国に派遣された。慶応義塾に「入社」したのが和久正辰、高木小文吾、菱田中行、黒田進、佐伯寿人の五青年であり(注1)、菱田中行は鳴雪・内藤素行の従兄弟である。尚鳴雪の実弟である薬丸大之丞は私費「入社」している。尚、内藤家は百十石、薬丸家は二百石、菱田家は百石取りの中士の家柄である。
卒業後東京本郷の「菅相義塾」で英学教授、「日清眞事誌社」を経て、同七年から九年二月までは宇和島藩出身の末広鉄腸が主筆の「東京曙新聞社」に入り編輯に従事するが、法に触れて禁錮一年の獄に投ぜられる。(『弘前中学校校友会報』第六号「就任の辞」)
この筆禍により実業界や新聞界での雄飛の夢破れて、教育界に転身し生涯を捧げることになる。慶応義塾の福沢諭吉の推薦を得て明治九年三月愛知県師範学校教頭兼付属小学校主事(月俸五十円)、明治十二年四月から宮城県師範学校校長兼宮城中学校長、続いて東京府師範学校長を歴任する。明治二〇年以降、浄土宗大学林教頭、旧松山藩主久松家家事諮問員、明治二十九年には京都・東本願寺より真宗大学主幹兼真宗京都中学主幹を委嘱され、明治三十年には東本願寺新門跡大谷光演の教授掛の要職を担当する。
青年教育への熱は冷めず、明治三十二年四月奈良県郡山中学校長、明治三十六年青森県弘前中学校長として明治四十四年まで勤務し、定年後東京小石川に帰る。
この間、『小学填字法』(明治一二年)、『教育学講義』(明治一九年)、『理科教授法』(明治二〇年)、『初等心理学』(明治二三年)、『論理学教授書』(明治二五年)、『教育学教授書』(明治二七年)、『心理学』(明治二八年)、『教育史講義』 (尋常師範学科講義録)など著作・翻訳書など多数に上る
東京では旧藩主久松定謨伯爵の家事諮問員等の要職にあったが、大正十二年(一九二三)の関東大震災で罹災し、嗣子仁三郎を亡くし、翌年妻(鍵子)も他界、失意の中で大正十三年孫二人を伴って故郷松山に戻り、昭和九年(一九三四)八十三歳で没した。墓は松山市本町の妙立山・大法寺にある。戒名は「大悟院棟陽正辰日斉居士」。
正辰にとって松山出身の陸軍大将秋山好古(一八五九〜一九三〇 「日本騎兵の父」))とは運命的な出会いがあった。日本海海戦で、先任参謀として丁字戦法を考案、バルチック艦隊を撃滅した秋山真之(一八六八〜一九一八) は実弟である。
(1)明治九年(一八七六)愛知県師範学校教頭在職中に大阪師範学校を卒業した好古が赴任する。司馬遼太郎(一九二三〜一九九六)の大著『坂の上の雲』の「春や昔」の章に二人の出会いが詳細に描かれているが、正辰の指導もあり翌明治十年陸軍士官学校に入学し軍人の途を歩むことになる。
(2)明治三十八年(一九〇五)青森県弘前中学校長在職時に秋山好古陸軍騎兵大佐は騎兵第一旅団長として青森県弘前の第八師団とともに日露戦争で勝利したが、『弘前中学校会報』に「送征露軍隊」なる漢詩を詠んでいる。
(3)大正三年(一九一四)帰郷した松山では秋山好古の生家近くの松山市歩行町の借家に住んだが、大正十三年末、陸軍大将を退役後松山に戻り北予中学(現松山北高校)の校長を務めた秋山好古とは住居が近いので両家を行き来して旧交を温めた。好古は終生正辰を「先生」と呼び師弟の礼を重んじた。好古に「教育の何たるか」を教え、「軍人の道」を教えた教育者和久正辰こそ、秋山好古を大成させた恩人であり、好古が子息二人を慶応義塾に進学させたのは、そこに和久正辰「先生」の生き方を見たからではないだろうか。
(注1)当時の私塾への入学は「入門」が一般的であるが、慶応義塾(会社)では「入社」とし、教職員並びに塾員を総称して「社中」と呼んだ。
【参考文献】 ご照会下さい。