第三十八章 大野銀行頭取  大野トウ吉 〜小林小太郎周辺の伊予人A    (注)「トウ」は<人偏+同>
大野トウ吉 (おおの とうきち)  (注)「トウ」は<人偏+同>
弘化元年(一八四四)二月二十三日広島県広島白鳥町(現廣島市中区白鳥町)に真木伊三郎の三男として生れる。長兄仙次郎が相続し、次兄保次郎は広島在小瀬家に養子、三男?吉は安政六年(一八五九)一五歳で松山の讃岐屋・大野五兵衛の養子となる。「讃岐屋」は松山藩政下、「大年寄」格の町人であった。
町方の組織は町奉行(二名)―町方諸改(四〜五名)―同心小頭(二名)―町方内用方(町人任用)からなり、城下(総町七一町を一一組)を二区に分かち、大年寄を四〜九名配した。その下に大組頭二名、町年寄凡そ一二名、五人組凡そ三〇名で構成された。城下の二区分は古町(一万組・新町組・府中組・本町組・魚町組・萱町組・松前町組の七組)と外側(河原町組・唐人町組・藤原町組・湊町組の四組)である。
松山城下の大年寄は、加藤嘉明(一六〇三〜一六二七治封 [末裔は近江水口藩加藤家二万石])の治世下の府中屋念斎(詳細不詳[砂土手(松山城外堀説・運河水運説・堤防説あり)])を以って嚆矢とするが、文化文政時代から維新(一八〇四〜一八六七)にかけて大年寄を務めた町人は、亀屋(黒田氏)、八倉屋(曽我氏)、栗田{栗田樗堂(一七四九〜一八一四)・庚申庵・一茶 酒造業}、和田、小倉、木村、米屋、豊前屋、亀屋、久代屋(仲田氏)、廉屋、茶屋、三島屋、藤岡(魚問屋)、讃岐屋(大野氏)であった。
松山では宮原清介(不詳)の門にいり、和算(算法)を山崎喜右衛門[伊佐爾波神社「算額」一八五〇年製作)に学び、三輪田高房(恒次郎 [久米八幡社宮司三輪田米山(恒貞)の弟、三輪田元綱の兄])に入門する。万延元年(一八六〇)一七歳で「大年寄見習」となる。
文久三年(一八六三)養父大野五兵衛は大年寄と併せ「代官所米銭口入方」となる。明治四年(一九七一)養父は死去し相続するが、?吉の商才が開花し、明治二年には藩米を売り周旋料五〇〇円を取得する。明治四年には久松家の米を一万円で向井禎二郎(詳細不明)に一万円で売却して巨利を得る。明治五年、庄屋・名主・年寄等が廃止され戸長・副戸長等が設置されるが、同年制定された「国立銀行令」に対応して「貸金業」を経営する。
明治八年、旧松山藩主久松家によって旧家臣の救済を目的に創設した「榮松社」(資本金五万円)が設立され、井手真棹(一八三七〜一九〇九)が社長(注1)、トウ吉が頭取となる。五年後の明治一三年頭取を辞任する。
実業家としてのトウ吉の優れた決断は、明治一五年家計帳簿を整理し以後「複式簿記」を用いたことである。日本における複式簿記の普及は、明治六年(一八七三)福沢諭吉訳『帳合の法』から始まるとされるが、文部省が教科書として採用するのは小林儀秀(小太郎)訳『馬耳蘇氏記簿法』(明治八年 文部省刊)と『馬耳蘇氏記簿法』(明治九年 文部省刊)以降である。小林(一八四八〜一九〇四)は伊予松山藩士で、慶応義塾に学び、松山藩英学司教を経て明治一三年文部省に入省し報告(翻訳)局長を務めた。愛媛県では明治一五年(一八七一)、愛媛県布達「愛媛県立中学校教則」で小林訳簿記教科書採用を明示、「改正松山中学校規則」で学期別配分を決定している。機を一にして同年に複式簿記を採用した進取性は驚くべきことである。但し、子規が松山中学で複式簿記を学んだ記述はない。
明治三二年三月三〇日、トウ吉にとっての最後の大仕事となる大野銀行設立を出願、五月一二日設立が認可され、六月一日合名会社大野銀行が開業する。大野銀行は栄松合資会社らと共に松山五十二銀行に統合、更なる県下の金融機関の集中統合によって伊予合同銀行を経て今日の伊予銀行になっている。
明治三九年(一九〇六)には中風症が再発し現役を引退し、六男悌が大野銀行頭取を後継する。大正五年(一九一六)九月二四日逝去。墓は山越の万歳山千秋寺(黄檗宗)に在る。
大野トウ吉は実業家であるだけでなく文化人でもあり、同人、幸槌の号を持ち、書画、詩歌をよくした歌人でもあった。(作品については目下調査中である。)
正岡子規の『筆まか勢・第一編 ○松山会 (明治二十二年十二月)』で、東京と松山の対比を子規独特の分析で記している。その中に福沢諭吉と大野トウ吉の対比がある。                                                
    〔東  京〕     〔松  山〕          
    中村正直       河東坤先生           
    三島中洲       近藤南洋      
    福沢諭吉       大野トウ吉(注)「トウ」は<人偏+同>
明治二〇年代東京を代表する私塾として著名な三塾を挙げ、その代表者に松山の人物を当てはめたものである。即ち慶応義塾(福沢諭吉・一八三五〜一九〇一)、同人社(中村正直・一八三二〜一八九一 敬宇)、二松学舎(三島中洲・一八三〇〜一九一九)であり、中村正直、三島中州は後の東京帝国大学の教授となった。一方、松山人の河東坤(東渓)、近藤南洋(元脩・一八三九〜一九〇一)は明教館の教授であるが、大野トウ吉(一八四四〜一九一六)は旧松山藩主久松家が元家臣の救済の為に設立した栄松社の頭取である。啓蒙家である福沢諭吉に対応する松山人が居ないことにもよるが、「三田の拝金教」と世俗的に云われたことが影響しているかもしれない。明治二七年(一八九四)には「家訓 附家法」を取り纏め『論語』を基底にした優れた実業と家庭経営の指針を著した。大野?吉は強いて挙げれば渋沢栄一(一八四〇〜一九三一)と対比すべき人材かと思われる。
(注1)『県史』『市史』ほか昭和40年以降の「栄松社」に関する書籍は「社長 井手正鄰」と記載している。事実誤認である。原因は『伊予銀行史』のミスを先行文献でチェックせず転記していることによる。後学者は留意して欲しいものである。
伊予史談会編『井手系譜』と『愛媛県百科辞典』では井手真棹を「頭取」と記載している。社長=頭取とすると井手真棹と大野イ同吉とが重複するが、頭取就任期間がズレており、特に問題はない。なお、当時の貸し金の利率は年2割であり高利といえる。
【参考文献】  ご照会下さい。

お願い  大野トウ吉 (おおの とうきち)についての先行論文を調査中です。ご存知の方はご教示下さい。(注)「トウ」は<人偏+同>
【miyoshik@tau.e-catv.ne.jp】

平成25年(2013)1月9日、大野トウ吉氏の曾孫の方から、拙文「大野銀行頭取  大野トウ吉 〜小林小太郎周辺の伊予人A 」を読んで照会のメールが届いた。
個人情報のため、氏名・住所・連絡先は明示できないが、ご縁戚の方の場合には曾孫の方の了解を得てお知らせします。
大野様への返信(抜粋)
 明治維新から明治初期の松山の近代化に尽力された方々について「小林小太郎」をキーにしてご紹介しております。

貴メールを拝見して、ご子孫の方が松山の地でご活躍の由、驚きとともに喜びを禁じえませんでした。ますますのご発展とご多幸をお祈り申し上げる次第です、
「大野恵子」さんのこと、銀行業を継承された六男 悌氏の新宅が昭和初期に昭和町に建築され、この邸宅跡が現在の「愛媛県生活文化センター」であることなど、いろいろと耳にしております。

戦後の混乱期は、旧家の多くが破産寸前の経済状況であったことは想像できます。私どもの父母の世代が何とか持ち堪えてくれたお蔭で今日のわれわれの繁栄があるのでしょうが、随分ご苦労なさった由、文中より想像することができました。

すでにご調査済とは思いますが、トウ吉翁は六男三女の子福者であった由ですが、御祖父は健次郎(または健二郎)に当たる方と存じます。ご参考までに下記致します。

○大野トウ(イ同)吉  (弘化元年出生〜大正五年死去)
(先妻)玉井氏 (慶応元年入籍〜明治一三年死去)
(長男) 熊太郎 慶応三年出生 (次男) 健次郎 (健二郎) 明治三年出生 (三男) 靖三郎  明治七年出生 (四男) 修四郎  明治九年出生 (同年死去) (長女) なを    明治一二年出生 (同年死去) (五男) 忠五郎  明治一三年出生 (同年死去)
(継室)大野氏  (明治一四年入籍)
(二女) 梢    明治一四年出生 (三女) 時雨  明治一七年出生 (六男) 悌    明治二〇年出生