第四十一章 愛媛県の初代権令(県令) 岩村高俊 〜小林小太郎周辺の伊予人D
岩村高俊(いわむら たかとし)

弘化二年(一八四五)乙巳十一月十日(新暦十二月八日)土佐国幡多郡宿毛で岩村英俊の三男に生れる。長男は通俊(左内)、次兄 包直(有造)は林家の養子となる。母嘉乃は宿毛の大庄屋小野家(小野義賢)から嫁す。
長兄岩村通俊(天保一一年(一八四〇)〜大正四年(一九一五)) 明治期の官僚(鹿児島県令・沖縄県令・司法大輔・初代北海道庁長官・第一次山県内閣農商務大臣・宮中顧問官・貴族員勅選議員・御料局長などの要職を歴任。明治二九年年男爵。
次兄林有造は(天保一三年(一八四二)〜大正一〇年(一九二一)) 明治期の政治家。自由党土佐派の重鎮として活躍。第一次大隈(隈板)内閣逓相・明治三三年政友会結成の総務委員,・第四次伊藤内閣農商務相歴任。
なお父英俊の姉袖崎は、土佐藩士竹内吉管(よしうち)に嫁ぎ孫の茂が吉田健三の養子となり大成して総理大臣となる。

幼名は鉄五郎、のち精一郎と改名。
十歳の春、習字読書を酒井三治(詳細不明)に学び、十三歳で父英俊から北条氏の兵法を学び、のち伊予国宇和島に出て大野昌三郎・細川潤次郎(洋学)、吉村賢次郎・宮地左仲(西洋兵学)に教えを乞い、元治二年(一八六五)五月には吉村謙次郎から高嶋流砲術皆伝免許を得て二〇歳で帰国し土佐藩家老伊賀家の砲術教師となる。
この時期、土佐国でも武市半平太(瑞山)らが薩長同盟への参加を藩主に建白し、岩村家の通俊、有造、高俊も共にこの動きに挺身する。慶應三年(一八六七)九月鉄砲買い付けのため長兄通俊らに同行し長崎に向かうが、十月には徳川慶喜の大政奉還、十二月には王政復古宣言が出され時代は急変する。高俊は十一月に陸援隊に入隊する。
翌明治元年、二四歳で陸援隊軍監となり、東山道討征群に参加し、信州平定の軍監として松代、長岡藩(家老河合継之助)を下し、新発田・米沢に転戦し、年末に京都に凱旋する。
明治二年、新潟府権判事、明治四年宇都宮県権参事、明治六年神奈川県権参事、明治七年一月佐賀県権令(佐賀の乱、江藤新平処断)、同年十二月愛媛県権令(県令)となり五年余は県政では「民権知事」として保守的な風土を革新し、明治十三年三月内務省大書記官(戸籍局長)に栄進する。
明治十六年石川県令、明治二三年愛知県知事、明治二八年福岡県知事、明治三一年三月広島県知事となるも七月病気にて免官す。翌明治三九年一月二日貴族院に出席中「東京病院」で死亡(流行性脳脊髄膜炎)。墓地は京都東大谷の武家墓に葬られた。

明治二年(一八六八)松代藩士花岡直之助二女音瀬と結婚 、妻の病没(明治十八年十月)後、明治十九年九月 真田乙猪と再婚している。高俊は子福者で一〇名(男四名、女五名)の子と側室(池田鶴)に儲けた五名(男三名、女二名)の子供がいた。岩村家は多産系家系らしく、高俊は八人兄弟姉妹であり、長兄通俊は十二名(次女「蝦夷」は高俊嫡男「透」に嫁し、三女「月子」は丘浅次郎[一八六八‐一九四四 明治-昭和時代前期の動物学者]に嫁ぐ)、次兄(林)有造は八名(嫡男は政治家の「林譲治」)の子を儲けた。

五年余の愛媛県権令・県令{明治七年十二月から明治十三年三月}としての主な施策を列挙するが、国に先駆けた県会開催など革新的な行政を展開した優れた内務官僚であった。

@町村議事会心得・同仮規則交付(八年)
A松山に県立英学校開校(八年)
B戸長公選仮規則・戸長選挙仮方法(九年)
C大区会仮規則(九年)
D香川県の廃止し愛媛県に合併(九年)
E公立愛媛伊予師範学校設立(九年)
F愛媛新聞(県庁御用新聞)創刊支援(九年)
G讃岐・伊予両国全管区編成替発表<讃岐国7大区、伊予国第14大区>(九年)
H愛媛小学校規則公布(九年)
I組頭選挙仮規則布達(一〇年)
J第一回特設県会<議長 小林信近>(一〇年)
K民費賦課方法などにつき小区会開催の件布達(一〇年)
L県立松山病院収養館に医学所併設(一一年)
M愛媛県庁現在地に落成(一一年)
N県内一四郡役所に郡長任命<大小区長、戸長、組頭廃止>(一一年)
O戸長公選規則改正(一二年)
P耕地改組(一二年)

明治一〇年代の松山は岩村高俊県令(権令)の下で迅速かつ強力に新体制に移行したが、輿論の形成に当たって新聞と演説(スピーチ)と討論(ディベイト)を有効に使った。スピーチを演説と訳したのは慶応義塾を創始した福沢諭吉であり明治八年には演説館(重要文化財)を建設し演説討論の稽古場として多くの人材を育成している。英学塾の校長として招聘された草間時福もその一人として「三田の演説」を松山に導入定着させた。
松山中学校の明教館(重要文化財)での演説の光景が『四十年前之恩師草間先生』(永江為政編)に描かれている。「学生一同は英書を学ぶ以外に、月に二回または三回、明教館の講堂に中央を議場の如く大円形に造り「テーブル」を置き直して正面に縁談を据え、定期の演説会、若しくは討論会が開かれる。其時は必ず県庁から岩村権令が臨席される。内藤鳴雪翁などは無論の事・・・県官中の政論家も、毎回出席されて、討論の問題に就いては草間先生から説明される。(以下省略)
子規と岩村権令とに直接の関係はないが、子規の松山中学校時代の演説草稿については「自由何クニカアル」「諸君将ニ忘年会ヲヒラカントス」「天将ニ黒塊ヲ現ハサントス」はじめ政治色強い小論文が多数あり、「中学の課業を休んでは、県会に傍聴に行ったり、演説会にも出かけ・・・会員丈の演説会をお寺の本堂を借りてやったり」(三並良)と岩村高俊の播き草間時福が育てた松山の演説風土の中で少年子規は育ったといえよう。
【参考文献】  ご照会下さい。