第六十章  一遍上人の法歌  ―捨 ・ 遊 ・ 念 ―  (付) 歌のひじり 一遍  全百首
一、 はじめに
時宗の開祖といわれる一遍上人(1239〜1289)は、遊行聖、捨聖、湯ノ聖、医ノ聖、市ノ聖として広く世に広まった。「歌ノ聖」として 一遍聖に言及した著述は管見ではし知らない。
一遍(以下一遍と表記する)の遺した法歌は、九八首(または百首)あり、うち二首(または四首)勅撰和歌集「玉葉集」に撰ばれている。一遍の後継者(二祖)である他阿真教は「読み人知らず」として、法弟である聖戒は「聖戒法師」として各一首選ばれている。
 聖戒が編した『一遍聖絵』には六十首の和歌がり、うち五二首は一遍の歌である。他阿真教が『一遍聖絵』制作に当たり聖戒に協力したとも云われている。
一遍にとって「法歌」は布教(賦算)にあたっての言語ツールであり、歌を通して、貴族、寺社(禰宜、住持)、文化人、時衆との「場」「時」の共有・共感・共生した言語コミュニケーションであったと考える。後述する「和歌陀羅尼」として、鎌倉期には和歌もまた仏道の道として是認(連歌も同様)されていた。
二、鎌倉期の新仏教と顕密体制
鎌倉新仏教は顕密体制(奈良仏教と天台宗、真言宗)下にあって、新たに誕生した仏教である。天皇、貴族らの権門に支持された旧仏教とは違い、武力により権力を握った武士層や富を蓄えつつあった町人層に支援された。一方、非定住の山人、海人、遊民にも布教の手が差しだされた。
 主な鎌倉新宗教には自力救済の禅宗(臨済宗・曹洞宗)・日蓮宗と、他力救済の浄土教(浄土宗・真宗・時宗)がある。中でも一遍の時衆(時宗は時衆の江戸期の名称であり、以後「時衆」とする)は、他力本願で「南無阿弥陀仏」を念仏し、先行する新仏教とは違い非定住民(山人・海人・遊民・被差別民・乞食など)が多く帰依した。地方の開発領主も顕密体制下の既存仏教を支援せず、鎌倉新仏教を支援した。
三、一遍の思想と行動(捨・遊・法)
(1)捨 家 棄 欲
○空也上人は我先達なり。始四年は身命を山野にすて、居住を風雲にまかせてひとり法界をすすめ給き。おほよそ済度を機縁にまかせて、徒衆を引具給といへども、心諸縁をはなれて、身に一塵をもたくはへず、一生つゐに絹綿のたぐひ、はだにふれず、金銀の具手にとる事なく、酒肉五辛をたちて、十重の戒珠を全し給へり。
○念仏の機に三品有り。上根は、妻子を帯し家に在りながら、着せずして往生す。中根は、妻子をすつるといへども、住処と衣食とを帯して、着せずして往生す。下根は、万事を捨離して、往生す。我等は下根のものなれば、一切を捨ずば、定て臨終に諸事に著して往生をし損ずべきなりと思ふ故に、かくのごとく行ずるなり。 
○衣食住の三は三悪道なり。衣裳を求(め)かざるは畜生道の業なり。食物をむさぼりもとるは餓鬼道の業なり。住所にかまふるは地獄道の業なり。しかれば、三悪道をはなれんと欲せば、衣食住をはなれるべきなり。
(2)遊 行 (賦算 踊念仏 法歌)
@遊行(非定住)
○旅衣木のねかやのねいづくにか 身のすてられぬところあるべき
A賦 算
○「南無阿弥陀仏 決定往生 六十万人」
○六字名号一遍法 十界依正一遍体 万行離念一遍証 人中上々妙好華
○六字之中 本無生死 一声之間 即証無生
B踊念仏
○跳ねば跳ねよ踊らば踊れ春駒の のりの道をば知る人ぞ知る
○とも跳ねよかくても踊れ心駒 弥陀の御法と聞くぞ嬉しき
C自然の理
○花のことは花に問へ、紫雲の事は紫雲に問へ、一遍知らず。 
○咲けば咲き 散ればおのれと散る花の 
ことわりにこそ 身はなりにけり
D南無阿弥陀仏
○となふれば仏もわれもなかりけり南無阿弥陀仏の声ばかりして
○とふれば、仏もわれもなかりけり 南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏
○一代の聖教みなつきて、南無阿弥陀仏になりはてぬ
E生死の理
○身をすつるすつる心をすてつれば おもひなき世に墨染めの袖
○六道輪廻の間にはともなふ人もなかりけり 独りむまれて独り死す生死の道こそ悲しけれ
(3)神祇崇拝 
一遍が訪ねた寺社(年代順)
1271 (信濃) 善光寺 (伊予 窪寺
1273 (伊予) 菅生岩屋(寺)
1274 (摂津) 天王寺 (紀伊) 高野山 (紀伊) 熊野社
1276 (大隅)正八幡宮
1278 (安芸) 厳島社
1279 (京都) 因幡堂 (信濃) 善光寺 (下野) 小野寺
1280 (白川) 関明神
1282 (鎌倉) 片瀬の館の御堂 片瀬浜地蔵堂 (伊豆) 三島社
1283 (尾張) 甚目寺 (近江守山) 閻魔堂(近江草津) *伊勢大神宮*山王権現 *結縁の神
1284 (京都) 四条京極 釈迦堂 因幡堂 三条 悲田院 蓮光院 雲居寺 六波羅密寺 市屋道場 (丹波) 穴太寺
1285 (但馬久美浜) 道場 (美作) 一宮
1286 (摂津) 天王寺 住吉神社 (河内磯長) 聖徳太子廟(大和) 当麻寺 (山城) 石清水八幡宮 (摂津) 天王寺
1287 (播磨) 書写山 (播磨) 松原 (備後) 一宮(安芸) 厳島社
1288 (伊予) 菅生岩屋寺 繁多寺 三島社
1289 (讃岐) 善通寺 讃 曼荼羅寺 (淡路) 二宮 志筑北野天神(播磨兵庫) 観音堂
寺社中、「アマテラス」系の参拝が少ない。土地神(地祇神)系が多い。
四、一遍聖の法歌
(1)、神々との交流
一遍時衆を特色付ける信仰形態として「神祇崇拝」があり、一遍は各地の地神(地祇)や鎮守社(八幡社)を崇拝した唯一の日本仏教の開祖者である。同時に和歌(法歌)を詠んだ数少ない開祖者(他に道元がいる)で、和歌のほかに連歌にも一遍の句が残されている。(『玖波集』)
神 託  夢 託
神託(夢託)の法歌は八首ある。一遍が詠んだ歌か、一遍を通じて神詠されたものか確認は難しい。
(一)伊予・河野別府邸ヵ 文永七年
○世をわたりそめて高ねのそらの雲 たゆるはもとのこころなりけり
(二)熊野本宮証誠殿 文永十一年
○まじへ行みちにないりそくるしきに 本の誓のあとをたづねて
(三)大隈正八幡宮  建治二年
○とことはに南無阿弥陀仏ととなふれば なもあみだぶにむまれこそすれ
(四)石清水八幡宮 弘安九年
○極楽にまゐらむとおもふこゝろにて 南無阿弥陀仏といふぞ三心
(五)石清水八幡宮A 弘安九年
○しほりせでみ山のおくの花を見よ たづねいりてはおなじ匂ひぞ 
(六)石清水八幡宮B 弘安九年
○谷川のこのはがくれのむもれ水 ながるゝもゆくしたたるもゆく
(七)真如堂 弘安九年
○弥陀たのむ人はあま夜の月なれや雲はれねどもにしにこそゆけ
(八)淡路志筑・北野天満宮 正応二年
○よにいづることもまれなる月景に かゝりやすらむみねのうきくも
 社 寺 参 詣
(一)関の明神  弘安三年
○ゆく人をみだのちかひにもらさじと 名をこそとむれしら川のせき
(二)播磨・弘嶺八幡宮 弘安九年
○いはじただこと葉の道をすくすくと ひとのこゝろの行こともなし
(三)書写山円教寺  弘安十年
○かきうつすやまはたかねの空にきえて ふでおもよばぬ月ぞすみける
(四)書写山円教寺  弘安十年
○世にふればやがてきへゆくあはゆきの 身にしられたる春のそらかな
(五)福良二ノ宮 正応二年○名にかなふこゝろはにしにうつせみの もぬけはてたる声ぞすゞしき
(六)ある時よみ給ひける 
○我みばや見ばやみえばや色はいろ いろめく色はいろぞいろめく
或とき仏の開眼供養し給ふとて 
○いまははや見えず見もせず色はいろ いろなるいろぞ色はいろなる
(2)勅撰和歌集「玉葉和歌集」
歌 集 名 成 立 下 命 者 撰  者 巻数 歌 数
1 古今和歌集 905 醍醐天皇 紀貫之他 20巻 1100首
2 後撰和歌集 951 村上天皇 大中臣能宣他 20巻 1425首
3 拾遺和歌集 1005-07花山院 花山院     20巻 1351首
4 後拾遺和歌集 1087 白河天皇 藤原通俊 20巻 1218首
5 金葉和歌集 1126 白河院     源俊頼   10巻 650首
6 詞花和歌集 1151頃 崇徳院    藤原顕輔 10巻 415首
7 千載和歌集 1188 後白河院 藤原俊成 20巻 1288首
8 新古今和歌集 1205 後鳥羽院 藤原定家 20巻 1978首
9 新勅撰和歌集 1235 後堀河天皇 藤原定家 20巻 1374首
10 続後撰和歌集 1251 後嵯峨院 藤原為家 20巻 1371首
11 続古今和歌集 1265 後嵯峨院 藤原為家他 20巻 1915首
12 続拾遺和歌集 1278 亀山院 二条為氏     20巻 1459首
13 新後撰和歌集 1303 後宇多院 二条為世 20巻 1607首
14 玉葉和歌集 1312 伏見院 京極為兼 20巻 2800首
15 続千載和歌集 1320 後宇多院 二条為世 20巻 2143首
16 続後拾遺和歌集1326 後醍醐天皇 二条為藤他 20巻 1353首
17 風雅和歌集 1349 花園院監修 光厳院 20巻 2211首
18 新千載和歌集 1359 後光厳天皇 二条為定 20巻 2365首
19 新拾遺和歌集 1364 後光厳天皇 二条為明他 20巻 1920首
20 新後拾遺和歌集1384 後円融天皇 二条為遠他 20巻 1554首
21 新続古今和歌集1439 後花園天皇 飛鳥井雅世 20巻 2144首
* 新葉和歌集 1381 長慶天皇 宗良親王 20巻 1426首
(3)一遍上人歌集(百首)
参考にした一遍の法歌百首を掲載した文書
@『一遍聖絵』     五二首(mk01〜52)
A『一遍語録』     二〇首(mk53〜72)
B『夫木抄本』      三首(mk73〜75)
C『玉葉集』       二首(mk98〜100
D『播州法語集』     
E『遊行上人絵詞伝』   
F『一遍上人行状』    四首(mk76〜77)
G『一遍上人法門抜書』 一八首(mk78〜86)
H『上人発心之事大概』  二首(mk87〜88)
I『一遍上人七夕之御歌』 四首(mk89〜92)
J『阿弥陀経見聞私』   二首(mk93〜94)
K『法華経直談抄』    三首(mk95〜96)
M『一向上人語録』    一首(mk97)   
N『拾遺風体集』     一首(mk98)  
L『鎌倉九代記』
 合計掲載数     一〇〇首(mk01〜98)
(注)分類番号mk01〜mk100は、一遍の法歌のリストアップに当たっての論者の整理番号である。
百首の掲載文献
@『一遍聖絵』:『一遍聖絵』(聖戒編 大橋俊雄校注 岩波文庫 2000年)。
A『一遍語録』:『一遍上人語録』(大橋俊雄校注 岩波文庫 1985年)。
B『夫木抄』:『新編 国歌大観』第二巻「夫木和歌抄巻」。
C『玉葉集』:『新編 日本古典文学全集』第四九巻「中世和歌集」。
D『播州法語集』:『一遍上人語録』(大橋俊雄校注 岩波文庫 1985年)。
E『遊行上人絵詞伝』:『一遍上人全集』(橘俊道・梅谷繁樹 春秋社1989年)。
F『一遍上人行状』:『定本時宗宗典 下巻445頁〜』。
G『一遍上人法門抜書』:『定本時宗宗典 上巻95頁〜』。
H『上人発心之事大概』:『定本時宗宗典 上104頁〜』。
I『一遍上人七夕之御歌』:『定本時宗宗典 上108頁〜』。
J『阿弥陀経見聞私』:『一遍上人全集』275頁
K『法華経直談抄』:『一遍上人全集』275頁
L『鎌倉九代記』: 『続群書類従』第29輯 上 雑部(1978).
M『一向上人縁起絵詞』:(『一向上人の御伝集成』1986 浄土宗本山蓮華寺)
N『拾遺風体集』:冷泉為相私撰集『拾遺風体集』(1508)
(注1)
C勅撰和歌集「玉葉集」四首のうち二首は、B『夫木抄本』八首の中から撰ばれている。 
B『夫木抄本』八首は、@『一遍聖絵』A『一遍語録』との同一句が五首、B『夫木抄本』のみが三首である。
@『一遍聖絵』A『一遍語録』B『夫木抄本』合計で七五首、全体(一〇〇首)の76.5%を占める。F『一遍上人行状』以下の参考文献の過半は『定本時宗宗典』に掲載されており、一般的な文献ではない。
(注2)
C勅撰和歌集「玉葉集」に撰ばれた二首も種々見解が分かれている。
○極楽にむまれんとおもふ心にて 南無阿弥陀仏といふぞ三心
(mk36、『聖絵』九・1、『夫木抄』16388、『玉葉集』2621)
○弥陀たのむ人はあま夜の月なれや 雲はれねども西にこそゆけ
(mk74、『夫木抄』16352、『玉葉集』2621)
(注3)
N冷泉為相私撰集『拾遺風体集』(1508)「にしへやまの岩ねをふみなれば 苔こそ道にさわりなりけり」を一遍の和歌として撰んでいる。『一向上人縁起絵詞』によれば、この歌は一向上人の歌である。
一遍上人法歌百首
和歌の頭に付した番号(mk01〜mk100)は、論者の整理番号である。
この整理番号は、「一遍上人歌集 鑑賞」「一遍上人歌集 五〇音索引」など一遍の法歌の整理番号として使用している、ご活用いただければ幸甚である
(4)狂言(きょうげん)綺語(きご)即陀羅尼(だらに)(和歌即陀羅尼)
○無住(1227〜1312)「沙石集」
 和歌ノ一道ヲ思トクニ、散乱(キ)動ノ心ヲヤメ、寂然静閑ナル徳アリ。又言スクナクシテ、心ヲフクメリ。素戔嗚尊、スデニ「出雲八重ガキ」ノ、三十一字ノ詠ヲ始メ給ヘリ。仏ノコトバニ、コトナルベカラズ。天竺の陀羅尼モ、只、其国ノ人ノ詞也。仏これをもて、陀羅尼ヲ説キ給ヘリ。此故ニ、一行禅師ノ大日本経疏ニモ「隋方ノコトバ、皆陀羅尼」ト云ヘリ。佛モシ我国ノ出給ハバ、只我国ノ詞以テ、陀羅尼トシ給ベシ。・・・・日本ノ和歌モ、ヨノツネノ詞ナレドモ、和歌ニモチヰテ思ヲノブレバ、必感アリ。マシテ仏法ノ心ヲフクメランハ、無疑陀羅尼ナルベシ。
五、おわりに
「古往今来当地出身の豪傑は、一遍と子規なり。」
【歌ひじり 一遍 全百首】
001世をわたりそめて高ねのそらの雲 たゆるはもとのこゝろなりけり
002つのくにやなにはものちのことのはは あしかりけりとおもひしるべし
003とことはに南無阿弥陀仏ととなふれば なもあみだぶにむまれこそすれ
004はねばはねよをどらばをどれはるこまの のりのみちをばしる人ぞしる
005ともはねよかくてもをどれこゝろこま みだのみのりときくぞうれしき
006こゝろよりこゝろをへむとこゝろえて 心にまよふこゝろなりけり
007みな人のことありがほにおもひなす こゝろはおくもなかりけるもの
008いはじたゞことばのみちをすくすくと 人のこゝろの行事もなし
009のりの道かちよりゆくはくるしきに ちかひのふねにのれやもろ人
010ふればぬれぬるればかはく袖のうへを あめとていとふ人ぞはかなき
011くもとなるけぶりなたてそあまのはら つきはおのれとかすむものかは
012ゆく人をみだのちかひにもらさじと 名をこそとむれしら川のせき
013はかなしなしばしかばねのくちぬほど 野原のつちはよそにみえけり
014世中をすつるわが身もゆめなれば たれをかすてぬ人とみるべき
015身をすつるすつる心をすてつれば おもひなき世にすみぞめの袖
015のこりゐてむかしをいまとかたるべき こゝろのはてをしる人ぞなき
017さけばさきちればをのれとちるはなの ことはりにこそみはなりにけれ 
018はながいろ月がひかりとながむれば こゝろはものをおもはざりけり
019こゝろをばにしにかけひのながれ行 みづのうへなるあわれ世の中
020くもりなきそらはもとよりへだてねば こゝろぞにしにふくる月景
021須弥のみねたかしひきしの雲きへて 月のひかりやそらのつちくれ
022念仏にものがこゝろをひくすゞは みをせめだまの露としらずや
023あともなきくもにあらそふこゝろこそ なかなか月のさはりとはなれ
024郭公なのるもきくもうたゝねの ゆめうつゝよりほかの一声
025うつゝとて待得てみれば夢となる きのふに今日なおもひあはせそ
026をのづからあひあふときもわかれても ひとりはをなじひとりなりけり
027おほかたのそらにはそらの色もなし 月こそ月のひかりなりけれ
028かくしつゝのはらのくさの風のまに いくたびつゆをむすびきぬらん
029おもひとけばすぎにしかたもゆくすゑも ひとむすびなる夢のよの中
030はきものゝものぐさげにはみゆれども いそいそとこそみちびきはせめ
031ひらくべきこゝろのはなのみのために つぼみがさきることをこそいゑ
032けさのぢにおくればやがてかきばかま しぶの弟子ともたのみける哉
033つまばつめとまらぬ年もふるゆきに きへのこるべきわが身ならねば
034つのくにの難波のうらをいでしより よしあしもなきさとにこそすめ
035うちなびくひともとすゝきほのぼのと みたがへてこそよしあしといへ
036極楽にまいらむとおもふこゝろにて 南無阿弥陀仏といふぞ三心
極楽にむまれんとおもふ心にて 南無阿弥陀仏といふぞ三心(玉葉集)
037ながき夜も夢もあとなしむつの字の なのるばかりぞいまの一声
038わがと思ひとの心にひかれつゝ をのれとおふる草木だになし
039思ふことなくてすぎにしむかしさへ しのべばいまのなげきとぞなる
040我みばやみばやみえばや色はいろ いろめく色はいろぞいろめく
041いつまでもいでいる人のいきあらば 弥陀のみのりのかぜはたへせじ
042かきうつすやまはたかねの空にきえて ふでもをよばぬ月ぞすみける
043世にふればやがてきへゆくあはゆきの 身にしられたる春のそらかな
044とにかくにまよふこゝろのしるべには なも阿弥陀仏と申ばかりぞ
045おもふことみなつきはてぬうしとみし よをばさながら秋のはつかぜ
046きへやすきいのちはみづのあはぢしま 山のはなから月ぞさびしき
047あるじなきみだのみなにぞむまれける となへすてたるあとの一声
048名にかなふこゝろはにしにうつせみの もぬけはてたる声ぞすずしき
049よにいづることもまれなる月景に かゝりやすらむみねのうきくも
050旅衣木のねかやのねいづくにか 身のすてられぬところあるべき
051阿弥陀仏はまよひさとりのみちたへて たゞ名のかよふいき仏なり
052南無阿弥陀ほとけのみなのいづるいき いらばゝちすのみとぞなるべき
053おしめどもつゐに野原に捨てにけり はかなかりける人のはてかな
054皮にこそをとこをんなのいろもあれ 骨にはかはるひとかたもなし
055すてやらでこゝろと世をば嘆きけり 野にも山にもすまれける身を
056捨てこそ見るべかりけれ世の中を すつるも捨ぬならひ有とは
057おもひしれうき世の中にすみぞめの 色々しきにまよふこゝろを
058こゝろをばいかなるものとしらねども 名をとなふればほとけにぞなる
059をしむなよまよふこゝろの大江山 いく野の露と消やすき身を
060こゝろからながるゝ水をせきとめて おのれと淵に身をしづめけり
061心をばこゝろの怨とこゝろえて こゝろのなきをこゝろとはせよ
062とにかくに心はまよふものなれば 南無阿弥陀仏ぞ西へゆくみち
063すみすまぬゝころは水の泡なれば 消たる色やむらさきの雲
064弥陀の名にかすまぬ空の花ちりて こゝろまどはぬ身とぞなりぬる
065仏こそ命と身とのあるじなれ わが我ならぬこゝろ振舞
066ひとりたゞほとけの御名やたどるらん おのおのかへる法の場人
067夢の世とおもひなしなば仮のよに とまる心のとまるべきやは
068いにしへはこゝろのまゝにしたがひぬ 今はこゝろよ我にしたがへ
069いまははや見えず見もせず色はいろ いろなるいろぞ色はいろなる
070となふれば仏もわれもなかりけり 南無阿弥陀仏の声ばかりして
071となふれば仏もわれもなかりけり 南無阿弥陀仏なむあみだ仏
072まじへ行道にないりそくるしきに 本の誓のあとをたづねて
073にしへ行くまよひさとりの道たえて 南無阿弥陀仏のこゑにまかせよ
074みなとなふ人はあま夜の月なれや くもはれねどもにしへこそ行け
弥陀たのむ人はあま夜の月なれや 雲はれねども西にこそゆけ(玉葉集)
075なにかなふ心はにしにうつせみの もぬけはてたる声ぞすずしき
076西へユク道ニナ入ソクルシキニ モトノミノリノアトヲ尋ネヨ
077ステハテゝ身クチナキモノトヲモヒシニ サムサキヌレバ風ゾ身ニシム
078善悪の心は(欠文)捨て 法の道をは足にまかせん
079身を捨てぬ人の姿の色めきて 花に心をかくるはかなさ
080世の中にあきはてゝ入(る)山まても 心留なと散行葉かな
081何事も定なしとはいかゝいわん あす死ぬる習ある世を
082思ひとけは心のとまるふしもなし むすひな初そ夢の世の中
083心をは心得ぬそと心得よ 心得ぬれば心得ぬなり
084火の家を造り立(て)むとする人の はてにはおきをつかむ成けり
085極楽にゆかんと思ふ心こそ 地獄に落(つ)る初めなりけり
086心より外にそ法の舟はあれ 知らぬもしつみ知るもうかはす
087本ヨリモカゝレトテコソ捨シ身ノ クルシキ事ヲ何ニナケカマシ
089ヤセハテゝ身ハナキ物ト思ヘトモ 雪フリヌレハコゝヘヌルカナ
089七夕も思ひよらし我もまた かさいと思う黒染の袖
090我か憑む西の山路をふみみれは 苦こそ道のさはりなりけれ
091我と行(く)道ならはこそ西の山 苦ありとても何かくるしき
092あら楽や人に人とて知られねは 人をも人とみしらさりけり
093極楽ハミナミノ内ニ有物ヲ 西ト思ソハカナカリケル
094一度モ南無阿ミタ仏ト唱レハ 身ノアラハコソ罪モ作ラメ
095白川の関路にもなほ留まらじ 心の奥のいてしなければ
096思ふことなくて過にし昔さへ 忍べば今のなげきとそなる
098にしへゆく山の岩かどふみならし こけこそみちのたよりなりけり
098にしへゆくやまの岩ねをふみなれば 苔こそ道にさわりなりけり
099しほりせでみ山のおくの花を見よ たづねいりてはおなじ匂ひぞ(玉葉集)
100谷川のこのはがくれにむもれ水 ながるゝもゆくしたたるもゆく(玉葉集)
一遍上人の法歌  ― 捨 ・ 遊 ・ 念 ―
      

一、はじめに


時宗の開祖といわれる一遍上人(1239〜1289)は、遊行聖、捨聖、湯ノ聖、医ノ聖、市ノ聖として広く世に広まった。「歌ノ聖」として 一遍聖に言及した著述は管見では知らない。一遍上人(以下一遍と表記する)の遺した法歌は、九八首(または百首)あり、うち二首(または四首)勅撰和歌集「玉葉集」に撰ばれている。一遍の後継者(二祖)である他阿真教は「読み人知らず」として、法弟である聖戒は「聖戒法師」として各一首選ばれている。
 聖戒が編した『一遍聖絵』には六十首の和歌がり、うち五三首は一遍の歌である。優れた歌人でもあった二祖他阿真教が『一遍聖絵』制作に当たり聖戒に協力したとも云われている。
一遍にとって「法歌」は布教(賦算)にあたっての言語ツールであり、和歌を通して、貴族、寺社(禰宜、住持)、文化人、時衆との「場」「時」「念仏」の共有・共感・共生した言語コミュニケーションであったと考える。「和歌陀羅尼」として、鎌倉期には和歌もまた仏道の道として是認(連歌も同様)されていた。

二、鎌倉期の新仏教と顕密体制

 
 鎌倉新仏教は顕密体制(奈良仏教―顕教と天台宗・真言宗―密教)下にあって、新たに誕生した仏教である。天皇、貴族らの権門に支持された旧仏教とは違い、武力により権力を握った武士層や富を蓄えつつあった町人、農村に支持された。
 主な鎌倉新宗教には自力救済の禅宗(臨済宗・曹洞宗)・日蓮宗と、他力救済の浄土教(浄土宗・真宗・時宗)がある。中でも一遍の時衆(時宗は時衆の江戸期の名称であり、以後「時衆」とする)は、他力本願で「南無阿弥陀仏」を念仏し、先行する新仏教とは違い非定住民(山人・海人・遊民・被差別民・乞食など)が多く帰依した。地方の開発領主も顕密体制下の既存仏教を支援せず、鎌倉新仏教を支援した。

三、一遍の思想と行動(捨・遊・法)

一遍時衆を特色付ける信仰形態として「神祇崇拝」があり、一遍は各地の地神(地祇)や鎮守社(八幡社)を崇拝した唯一の日本仏教の開祖者である。同時に和歌(法歌)を詠んだ数少ない開祖者(他に道元がいる)で、和歌のほかに連歌にも一遍の句が残されている。
(注)「郭公なかぬ初音ぞ珍しき 一遍」(『菟玖波集』1367)

(1)捨 家 棄 欲

○空也上人は我先達なり。始四年は身命を山野にすて、居住を風雲にまかせてひとり法界をすすめ給き。おほよそ済度を機縁にまかせて、徒衆を引具給といへども、心諸縁をはなれて、身に一塵をもたくはへず、一生つゐに絹綿のたぐひ、はだにふれず、金銀の具手にとる事なく、酒肉五辛をたちて、十重の戒珠を全し給へり。
○念仏の機に三品有り。上根は、妻子を帯し家に在りながら、着せずして往生す。中根は、妻子をすつるといへども、住処と衣食とを帯して、着せずして往生す。下根は、万事を捨離して、往生す。我等は下根のものなれば、一切を捨ずば、定て臨終に諸事に著して往生をし損ずべきなりと思ふ故に、かくのごとく行ずるなり。 
○衣食住の三は三悪道なり。衣裳を求(め)かざるは畜生道の業なり。食物をむさぼりもとるは餓鬼道の業なり。住所にかまふるは地獄道の業なり。しかれば、三悪道をはなれんと欲せば、衣食住をはなれるべきなり。

(2)遊 行 (賦算 踊念仏 法歌)

@遊行(非定住)
○旅衣木のねかやのねいづくにか 
身のすてられぬところあるべき(mk049)

A賦 算
○南無阿弥陀仏 決定往生 六十万人
○六字名号一遍法 十界依正一遍体 
万行離念一遍証 人中上々妙好華
○六字之中 本無生死 一声之間 即証無生

B踊念仏

○跳ねば跳ねよ踊らば踊れ春駒の 
のりの道をば知る人ぞ知る(mk004)
○とも跳ねよかくても踊れ心駒   
弥陀の御法と聞くぞ嬉しき(mk005)

C自然の理
○花のことは花に問へ、紫雲の事は紫雲に問へ、一遍知らず。 
○咲けば咲き 散ればおのれと散る花の 
ことわりにこそ身はなりにけり(mk017)

D南無阿弥陀仏
○となふれば仏もわれもなかりけり
南無阿弥陀仏の声ばかり(mk070)
○とふれば、仏もわれもなかりけり
南無阿弥陀仏なむあみだ仏(mk071)
○一代の聖教みなつきて、南無阿弥陀仏になりはてぬ

E生死の理

○身をすつるすつる心をすてつれば 
おもひなき世に墨染めの袖( mk015)
○六道輪廻の間にはともなふ人もなかりけり 独りむまれて独り死す生死の道こそ悲しけれ

(3)神祇崇拝

一遍が訪ねた寺社は四〇数社寺。ここでは『一遍聖絵』に記載された神社のみ記す。土地神(地祇神)系が圧倒的に多い。
1274 (紀伊) 熊野社
1276 (大隅) 正八幡宮
1278 (安芸) 厳島社
1280 (白川) 関明神
1282 (伊豆) 三島社
1285 (美作) 一宮
1286 (摂津) 住吉神社 (山城)石清水八幡宮(播磨)弘嶺八幡宮
1287 (備後) 一宮(安芸) 厳島社
1288 (伊予) 三島社
1289 (淡路) 二宮 志筑北野天神

四、一遍聖の法歌

(1)、神々との交流


神 託  夢 託

神託(夢託)の法歌は八首ある。一遍が詠んだ歌か、一遍を通じて神詠されたものかの確認は難しい。専門家の見解も分かれている。

(一)伊予・河野別府邸ヵ 文永七年(1270)迄(聖絵 第一・2)(語録67)
  彼の輪鼓の時、夢に見給へる歌
○世をわたりそめて高ねのそらの雲 
たゆるはもとのこころなりけり(mk001)

(二)熊野本宮証誠殿 文永十一年(1274)(語録68)

 熊野権現より夢に授け給ひし神詠
○まじへ行みちにないりそくるしきに 
本の誓のあとをたづねて〔mk072〕

(三)大隈正八幡宮  建治二年(1276)(聖絵 第四・2)
 大隈正八幡宮にまうで給ひけるに、
御神のしめし給ひける歌
○とことはに南無阿弥陀仏ととなふれば 
なもあみだぶにむまれこそすれ(mk003)

(四)石清水八幡宮 弘安九年(1286)(聖絵 第九・1)(語録69)(玉葉2621)

 弘安九年冬のころ、八幡宮に参じ給ふ。大菩薩御託宣文に云く、
 往時出家名法蔵 得名報身住浄土 今来娑婆世界中 即為護念念仏人文
  同じく御詠に云く
○極楽にまゐらむとおもふこゝろにて 
南無阿弥陀仏といふぞ三心(mk036)

(五)石清水八幡宮A 弘安九年(1286)(玉葉 2618)
此の歌は、ある人石清水の社にこもりて百万反の念仏申し侍りけるに、又こもりあひたる人、物語して、「三心具足せざらん念仏はかなふべからず」と申し侍りければ、「さては我身は三心もしらねばいたづら事にや」おと思ひてねにける夢に見えける歌となむ
○しほりせでみ山のおくの花を見よ 
たづねいりてはおなじ匂ひぞ(mk099) 

(六)石清水八幡宮B 弘安九年(1286)(玉葉 2619)
これはある人おなじ社にこもりて、「念仏の数反はおほくくるこそすぎれたれ」と申す人侍りけるを、又「そづかにひとつづゝこそ申すべけれ」と申す人侍りければ、「いづれかまことによきならん」とおぼつかなくおもひてねたる夢にかく見えけるとなん
○谷川のこのはがくれのむもれ水 
ながるゝもゆくしたたるもゆく〔mk100〕

(七)真如堂 弘安九年(1286)(玉葉2620)(夫木抄16352)
是は真如堂にまうでて超世の悲願のたのもしきこととおもひながら、我身の業障をもき事をおそれ思ひてまどろみて侍りける夢に、けだかき御声にてつげさせ給うけるとなん
○弥陀たのむ人はあま夜の月なれや
雲はれねどもにしにこそゆけ(mk074)

(八)淡路志筑・北野天満宮 正応二年(1289)(聖絵 第十一・1)(語録70)
 同国しづきといふ所に、北野天神勧請したてまつれる地あり。聖をいれたてまつらざりけるに、・・・・・
○よにいづることもまれなる月景に 
かゝりやすらむみねのうきくも(mk048)

 社 寺 参 詣

(一)関の明神  弘安三年(1280)(聖絵 巻五・3)(語録3)
かくて白川の関にかゝりて、関の明神の宝殿の柱にかきつけ給うひける
○ゆく人をみだのちかひにもらさじと 
名をこそとむれしら川のせき(mk011)

(二)播磨・弘嶺八幡宮 弘安九年(1286)(聖絵 巻四・5)(語録56)

 播州御化益のころ、弘嶺の八幡宮にて、言語道断心行処滅のこゝろを
○いはじただこと葉の道をすくすくと 
ひとのこゝろの行こともなし(mk007)

(三)書写山円教寺  弘安十年(1287) (聖絵 巻九・4)(語録57)
 弘安十年のはる、播磨の国書写山に参詣し給ふ。・・・冥慮をあふぎ祈誓をいたして、四句の偈、一首の歌をたてまつり給ふ。其の詞に云く
○かきうつすやまはたかねの空にきえて 
ふでおもよばぬ月ぞすみける(mk041)

(四)書写山円教寺  弘安十年(1287) (聖絵 巻九・4)(語録58)

 聖のたまひけるは、「上人の仏法修行の霊徳、ことばにもおよびがたし。諸国遊行の思ひで、たゞ当山巡礼にあり」とて一夜行法して、あくれば御山をいで給ひけるに、春の雪お もしろくふり侍りければ、
○世にふればやがてきへゆくあはゆきの 
身にしられたる春のそらかな(mk043)

(五)福良二ノ宮 正応二年(1289)(聖絵 巻十一・1)(語録63)
 聖、おほせられけるは、「出離生死をばかゝる神明にいのり申すべきなり。世たゞしく人すなほなりし時、勧請したてまつりしゆゑに、本地の真門うごく事なく、利生の悲願あらたなるものなり」と。さて、聖、やしろの正面に札をうち給へり。
○名にかなふこゝろはにしにうつせみの 
もぬけはてたる声ぞすゞしき(mk048)

(六)詳細不祥  「聖絵」に「此歌は深意あるべし」と注記されている。
ある時よみ給ひける (聖絵 巻九・3)(語録 記載なし)
○我みばや見ばやみえばや色はいろ 
いろめく色はいろぞいろめく(mk040)
或とき仏の開眼供養し給ふとて (語録52)(聖絵 記載なし)
○いまははや見えず見もせず色はいろ 
いろなるいろぞ色はいろなる(mk069)

(2)勅撰和歌集「玉葉和歌集」
一遍の法歌が『玉葉和歌集』(以下『玉葉集』とする)二句(または四句)に撰ばれている。一遍の名はなく「詠み人知らず」である。
○極楽にまゐらむとおもふこゝろにて 
南無阿弥陀仏といふぞ三心〔mk036〕
○弥陀たのむ人はあま夜の月なれや
雲はれねどもにしにこそゆけ〔mk074〕
○しほりせでみ山のおくの花を見よ 
たづねいりてはおなじ匂ひぞ〔mk099〕
○谷川のこのはがくれのむもれ水 
ながるゝもゆくしたたるもゆく〔mk100〕

『玉葉集』は勅撰和歌集の嚆矢である『古今和歌集』(醍醐天皇下命、紀貫之外撰者、歌数九〇五首)から第十四番の勅撰和歌集で、伏見院の下命、撰者は京極為兼で 二〇巻二八〇〇首に及ぶ大勅撰和歌集である。

『玉葉集』の撰者京極為兼((1254〜1332)は新旧の仏教に深い関心を持ち、玉葉集には浄土宗の開祖法然、西山派深草派流祖円空(聖達上人実子)も入っている。時衆関係では一遍、二祖他阿真教、『一遍聖絵』制作に関わった聖戒、画家円伊、『夫木抄』撰者の藤原(勝間田)長清が撰ばれている。
藤原長清は、冷泉為相(母は阿仏尼)の歌の門下であり、時衆(他阿真教)門徒でもある。真教は長清から歌を教わっている。
長清は遠州勝間田(現 牧之原市)の在地領主であり、東海道(京〜鎌倉)を往来する為相や真教がこの地で歌を詠んでいる。(『二祖他阿上人詠歌』など)。
長清は『夫木(ふぼく)和歌抄』(以下『夫木抄』)を延慶二,三年頃(1317〜18)編纂したが、一七三五一首を三六巻五九六題に分類し、巻三四を神祇釈教に当てている。この中で、一遍が七首(八首とする説もある。)、二祖他阿上人が十二首入っている。京極為兼は玉葉和歌集の撰者として『夫木和歌抄』を参考にしたといわれている。

(3)一遍上人歌集(百首)
別表(『一遍会報』第三七五号掲載予定)に「一遍百首」として一遍の法歌百首を一覧で掲載した。和歌に付した番号(mk01〜mk100)は論者の整理番号である。

@『一遍聖絵』     五三首(mk01〜53)
A『一遍語録』     一九首(mk54〜72)
B『夫木抄本』      三首(mk73〜75)
C『播州法語集』     
D『遊行上人絵詞伝』   
E『一遍上人行状』    二首(mk76〜77)
F『一遍上人法門抜書』  九首(mk78〜86)
G『上人発心之事大概』  二首(mk87〜88)
H『一遍上人七夕之御歌』 四首(mk89〜92)
I『阿弥陀経見聞私』   二首(mk93〜94)
J『鎌倉九代記』     二首(mk95~96)
K『一向上人語録』    一首(mk97)   
L『拾遺風体集』     一首(mk98)
M『玉葉集』       二首(mk99〜100)  
 合計掲載数     一〇〇首

百首の掲載文献


@『一遍聖絵』:『一遍聖絵』(聖戒編 大橋俊雄校注 岩波文庫 2000年)。
A『一遍語録』:『一遍上人語録』(大橋俊雄校注 岩波文庫 1985年)。
B『夫木抄』:『新編 国歌大観』第二巻「夫木和歌抄巻」。
C『播州法語集』:『一遍上人語録』(大橋俊雄校注 岩波文庫 1985年)。
D『遊行上人絵詞伝』:『一遍上人全集』(橘俊道・梅谷繁樹 春秋社1989年)。
E『一遍上人行状』:『定本時宗宗典 下巻445頁〜』。
F『一遍上人法門抜書』:『定本時宗宗典 上巻95頁〜』。
G『上人発心之事大概』:『定本時宗宗典 上104頁〜』。
H『一遍上人七夕之御歌』:『定本時宗宗典 上108頁〜』。
I『阿弥陀経見聞私』:『一遍上人全集』275頁
J『鎌倉九代記』: 『続群書類従』第29輯 上 雑部(1978).
K『一向上人縁起絵詞』:(『一向上人の御伝集成』1986 浄土宗本山蓮華寺)
L『拾遺風体集』:冷泉為相私撰集『拾遺風体集』(1508)
M『玉葉集』:『新編 日本古典文学全集』第四九巻「中世和歌集」。

五、おわりに
 
鎌倉仏教始祖のうち和歌に親しんだのは一遍のみであるといわれるが、『玉葉集』の雑歌五を見ると西行、道供、寂恵、高弁、廣政など上人、法師の和歌が並ぶ。
 無住(1227〜1312)著「沙石集」に「素戔嗚尊、スデニ「出雲八重ガキ」ノ、三十一字ノ詠ヲ始メ給ヘリ。仏ノコトバニ、コトナルベカラズ。(略)日本ノ和歌モ、ヨノツネノ詞ナレドモ、和歌ニモチヰテ思ヲノブレバ、必感アリ。マシテ仏法ノ心ヲフクメランハ、無疑陀羅尼ナルベシ。」と和歌即陀羅尼を主張している。
 一遍は神祇を尊崇しており、神託(夢託)を通して南無阿弥陀仏を絶対的なものとして時衆に伝えている。今日的に言えばその時代背景の中で一般大衆に受け入れられた「陀羅尼」ではなかったか。

○捨ててこそ         空也上人
○南無阿弥陀仏        一遍上人
○無一物即無尽蔵       西田天香
○念ずれば 花ひらく     坂村真民

「古往今来当地出身の豪傑は一遍なり。」
       子規「散策記」(明治二十八年)


 
狂言(きょうげん)綺語(きご)即陀羅尼(だらに)(和歌即陀羅尼)
○ 和歌ノ一道ヲ思トクニ、散乱(キ)動ノ心ヲヤメ、寂然静閑ナル徳アリ。又言スクナクシテ、心ヲフクメリ。素戔嗚尊、スデニ「出雲八重ガキ」ノ、三十一字ノ詠ヲ始メ給ヘリ。仏ノコトバニ、コトナルベカラズ。天竺の陀羅尼モ、只、其国ノ人ノ詞也。仏これをもて、陀羅尼ヲ説キ給ヘリ。此故ニ、一行禅師ノ大日本経疏ニモ「隋方ノコトバ、皆陀羅尼」ト云ヘリ。佛モシ我国ノ出給ハバ、只我国ノ詞以テ、陀羅尼トシ給ベシ。・・・・







5,おわりに

○捨ててこそ         空也上人
  
○無一物即無尽蔵       西田天香

○念ずれば 花ひらく     坂村真民

○南無阿弥陀仏        一遍上人

○学生・家住・林棲・遊行   バラモン教


(4)狂言(きょうげん)綺語(きご)即陀羅尼(だらに)(和歌即陀羅尼)
○和漢朗詠集  白居易(白楽天)
  「願はくは 今生世俗の文字の技 狂言綺語の誤りをもって
   翻して当来世々讃仏乗の因 転法輪の縁とせむ」
○真言密教→「和歌即陀羅尼(呪・真言)」→和歌合せ・法楽和歌・法楽連歌
○西行(1118〜1190))「御装濯河歌合」「宮河歌合」伊勢神宮奉納
○無住(1227〜1312)「沙石集」「雑談集」
○一遍(1239〜1289)和歌 非雑行 神仏混淆(習合)
五、おわりに

「古往今来当地出身の豪傑は、一遍と子規なり。」
















(注1)
C勅撰和歌集「玉葉集」四首のうち二首は、B『夫木抄本』八首の中から撰ばれている。 
B『夫木抄本』八首は、@『一遍聖絵』A『一遍語録』との同一句が五首、B『夫木抄本』のみが三首である。
@『一遍聖絵』A『一遍語録』B『夫木抄本』合計で七五首、全体(一〇〇首)の76.5%を占める。F『一遍上人行状』以下の参考文献の過半は『定本時宗宗典』に掲載されており、一般的な文献ではない。
(注2)
C勅撰和歌集「玉葉集」に撰ばれた二首も種々見解が分かれている。
○極楽にむまれんとおもふ心にて 南無阿弥陀仏といふぞ三心
(mk36、『聖絵』九・1、『夫木抄』16388、『玉葉集』2621)
○弥陀たのむ人はあま夜の月なれや 雲はれねども西にこそゆけ
(mk74、『夫木抄』16352、『玉葉集』2621)
(注3)
N冷泉為相私撰集『拾遺風体集』(1508)「にしへやまの岩ねをふみなれば 苔こそ道にさわりなりけり」を一遍の和歌として撰んでいる。『一向上人縁起絵詞』によれば、この歌は一向上人の歌である。

 
(4)狂言(きょうげん)綺語(きご)即陀羅尼(だらに)(和歌即陀羅尼)
○無住(1227〜1312)「沙石集」
 和歌ノ一道ヲ思トクニ、散乱(キ)動ノ心ヲヤメ、寂然静閑ナル徳アリ。又言スクナクシテ、心ヲフクメリ。素戔嗚尊、スデニ「出雲八重ガキ」ノ、三十一字ノ詠ヲ始メ給ヘリ。仏ノコトバニ、コトナルベカラズ。天竺の陀羅尼モ、只、其国ノ人ノ詞也。仏これをもて、陀羅尼ヲ説キ給ヘリ。此故ニ、一行禅師ノ大日本経疏ニモ「隋方ノコトバ、皆陀羅尼」ト云ヘリ。佛モシ我国ノ出給ハバ、只我国ノ詞以テ、陀羅尼トシ給ベシ。・・・・日本ノ和歌モ、ヨノツネノ詞ナレドモ、和歌ニモチヰテ思ヲノブレバ、必感アリ。マシテ仏法ノ心ヲフクメランハ、無疑陀羅尼ナルベシ。

五、おわりに

「古往今来当地出身の豪傑は、一遍と子規なり。」

大石慎三郎(1923年9月6日 -〜2004年5月10日)
愛媛県温泉郡正岡村(現松山市)出身。東京大学文学部国史学科卒業。文学博士(東京大学)。文部省史料館(現国文学研究資料館)高崎学習院大学経済学部教授(名誉教授)。
愛媛県歴史文化博物館初代館長(1994〜2004)『中学社会 新しい歴史教科書』(扶桑社)監修。 中学社会(歴史)教科書に一遍と子規の事績を掲載する。

古往今来当地出身の豪傑は、一遍と子規なり。
二〇一六年度からの四年間、公立中学校で使用する教科書の採択審議が八月十一日、愛媛県内で始まり、松山市教育委員会は歴史教科書に「新しい歴史教科書をつくる会」の流れをくむ育鵬社版を初めて採択した。公民は前回と同じ日本文教出版だった。今月中に県教委とすべての市町教委で審議する予定。
審議終了後、松山市教委の金本房夫教育委員長は「学校現場や調査部会の意見も参考に、松山の子どもにふさわしい教科書を採択できた」と話した。市教委によると全二九市立中学校の生徒数は約一万二千人(五月一日時点)で、平成二八年度の新一年生から使用する。
十一日は委員五人が九教科十五分野の教科書を公開で審議。歴史は委員二人が八社のうち育鵬社版と東京書籍版を推薦し、育鵬社版については「改正教育基本法の趣旨に沿い、伝統と文化、人物などを興味がわくよう、わかりやすく広く取り上げている」と理由を説明。東京書籍を推した委員は「一連の年表で、どの時代を学んでいるか瞬時に分かる。視点が明確でバランスがいい」と述べた。
歴史は無記名投票の採決により四対一で育鵬社版が選ばれ、公民は一人が育鵬社版を推薦し、四対一で日本文教出版に決まった。(「愛媛新聞」一部修正)