第三十二章 子規サロン「子規にとっての一遍さん」 
 平成十九年九月二十日子規記念博物館で「第1回子規サロン」が開催され、スピーカーとして招待された。以下は演題「子規にとっての一遍さん」の要旨である。
一、 はじめに
 正岡子規が時衆開祖一遍智真(以下一遍さんと呼びたい)について触れた文章、俳句の中で人口に膾炙している著作に、明治二八年に執筆した「散策集」 がある。「散策集」についての書誌学的な話は一切省略して、今回は明治廿八年十月六日の散策の記述に目を通してみたい。
今日ハ日曜なり天気は快晴なり病気ハ軽快なり 遊志勃然漱石と共に道後に遊ぶ
三層楼中天に聳えて来浴の旅人ひきもきらず
温泉楼上眺望
柿の木にとりまかれたる 温泉哉
鷺谷に向ふ
山本や うしろ上りに 蕎麦の花
黄檗の 山門深き 芭蕉哉
道後をふり返りて
稲の穂に 温泉の町低し 二百軒
しる人の墓を尋ねけるに四五年の月日ハ北郊の山墳墓を増してつひに見あたらず
花芒 墓いづれとも 見定めず
引き返して鴉渓の花月亭といへるに遊びぬ
柿の木や 宮司か宿の 門がまへ
百日紅 梢ばかりの 寒さ哉
亭ところどころ 渓に橋ある 紅葉哉
松枝町を過ぎて宝厳寺に謁づこゝは一遍上人御誕生の霊地とかや古往今来当地出身の第一の豪傑なり 妓廓門前の楊柳往来の人をも招かでむなしく一遍上人御誕生地の古碑にしだれかゝりたるもあわれに覚えて
古塚や 恋のさめたる 柳散る
宝厳寺の山門に腰うちかけて
色里や 十歩はなれて 秋の風
帰途大街道の芝居小屋の前に立ち止まりて漱石てには狂言見んといふ
立ちよれば今箙の半ば頃なり 戯れに一句づゝを題す
紅梅の ちりぢりに 敵逃にけり
狂言止動方角
狂ひ馬 花見の人を 散らしけり
能楽鉄輪
蝋燭に すさまじき夜の 嵐哉
狂言磁石
長き夜や 夢にひしひし 二貫文
能楽安宅
剛力になり おほせたる 若葉哉
狂言三人片輪
三人の かたはよりけり 秋の暮
能楽土蜘
蜘殺す あとの淋しき 夜寒哉
小さくといへる役者の女ながらも天晴腕前なりけるに
男郎花は 男にばけし 女哉
 子規は一遍さんを「古往今来当地(伊予国)出身の第一の豪傑なり」と規定している。通俗的には一遍さんは遊行聖、捨聖、湯聖、医聖と呼ばれ、「遊行、賦算、踊念仏」を通して南無阿弥陀仏の布教がなされたと信じられている。謡曲「遊行柳」、西行法師の「道のべに清水流るゝ柳かげしばしとてこそ立ちどまりつれ」や松尾芭蕉が「奥の細道」で詠んだ「田一枚植て立去る柳かな」を子規は脳裏に浮かべながら「宝厳寺に謁」でた。
 おそらく本堂に安置されている重要文化財「一遍上人立像」は拝観していない。拝観したとすれば一遍さんの遊行姿は子規にとっては抑えきれない感動を湧き起こしたに違いあるまい。近年一遍さんに関する俳句を作っている俳人黒田杏子に「寒満月遊行上人遊行の眼 杏子」なる句があるが、子規であればどのような句を作ったかは俳人ならずとも興味がある。
宝厳寺は一遍さんの生誕寺と信じられているが、このあたりは松ヶ枝町と呼ばれ、昔は遊郭が軒を連ねていた。元は宝厳寺境内で十二院の寺院建物が左右に分かれてたっていたと云う。松ヶ枝町の謂れは、宝厳寺寺域南<伊佐爾波神社側>に松の古木があり、おそらく遍路の目印になっていたものと思われる。
二、 城と温泉と文学の町、松山
 松山市の紹介に当たって、「城といで湯と文学の町」を口にすることが多い。城とは松山城、いで湯とは日本最古の温泉である道後温泉、文学では子規・漱石と小説「坊っちやん」といったところであろうか。ところで一遍さんを語るに当たっても城といで湯と文学(文芸)の三点から眺めて行きたい。
1) 松山城は築城四〇〇余年であり、子規は「春や昔十五万石の城下哉」 「松山や秋より高き天守閣」などの名句を残している。一遍さんにとっての城とは湯築城である。河野家の本城であり、一遍さんの祖父に当たる河野通信は鎌倉幕府を開いた源頼朝の義弟にあたり、一遍の活躍した時代の城主は蒙古襲来に当たって武勇の誉れ高い河野道有であり、従兄弟でもあった。道有に乞われて揮毫した「南無阿弥陀仏」は、湯築城北内堀脇に安置されている湯釜薬師に頭部に刻まれている。子規の記述には湯築城なる名称はなく。「散策記」では「お竹薮」である。
 余談であるが、現在の子規記念博物館の建っている場所は戦前には道後公会堂があり、鎌倉期から江戸時代を通して湯築城の北外堀になっており、そのまま現在のふなや旅館の庭園になっている烏谷(鴉渓)に下る要塞堅固な戦略地点であった。衛門三郎の「玉の石伝説」は有名であり、赤子が手に握って生まれた石は安養寺に納められ今日の四国霊場五十一番札所石手寺となったが、「予陽盛衰記」ではこの赤子が成長し一遍上人となったと書かれている。河野家、(弘法)大師、一遍伝説が三位一体的に集約された伊予国の伝承である。子規の句に「南無大師 石手の寺よ 稲の花」がある。
2) 「いで湯」であるが、子規が道後温泉に頻繁に通ったとか、入浴後の気分を句に詠んだことはない。子規は風呂(温泉)好きではなかったらしい。夏目漱石の方が遥かに温泉好きであり、道後温泉観光に寄与していることには誰も依存はあるまい。「椿の湯」の湯槽に子規の「十年の汗を道後の温泉に洗へ」が刻まれている。詳述は避けるが、一遍さんは湯聖とか医聖とか呼ばれるように、温泉好きであり、温泉の薬効を正当に評価した人物であった。豊後国の今日の別府七湯の一つ鉄輪(かんなわ)温泉は一遍さんが開いたと言い伝えられ「上人の湯」「蒸し湯」などなど温泉と宗教的な因縁話が語り継がれている。又熊野の温泉は説教節の代表作「小栗判官照子姫」で語られるように説教師や山伏(修験道)、高野聖、天王寺聖によって広まっていった。
 一遍生誕寺宝厳寺は、道後温泉の山手にあり、遊行中道後にも数回立ち寄っているので、おそらく道後温泉に立ち寄っているに違いあるまい。一遍会では毎年三月(旧暦二月)に「一遍生誕会並びに松寿丸<一遍智真幼名>湯浴み式を執り行っている。湯築城は「湯月城」とも「湯付城」とも故記録には残っている。
3) 文学(文芸)であるが、一遍さん、聖戒(一遍さんの異母兄弟または実子)、二祖他阿弥陀仏は、歌人としての素養も持ち、歌をそれぞれ残したいる。二祖には『他阿上人歌集』がある。子規記念博物館の竹田美喜館長は優れた万葉学者であり和歌にもご造詣が深いので是非一遍さんの和歌についてもお話いただきたいとお願いします。
一遍さんの文芸上の事跡(事績)は全く不明であるが、生存中から「時衆」と呼ばれた集団について若干触れてみたい。「時衆」の多くは「阿号(阿弥陀仏)」を持つが、足利将軍や戦国大名の同朋衆も「阿号」を称しているが即「時時衆」とは言えない。 
○ 連歌は宝厳寺や大三島で時宗僧を中心に連歌が巻かれ、記録として残っている。
○ 一遍時衆の独創ではないが、賦算に当たっての踊念仏から、歌舞伎踊りが生まれ、阿国歌舞伎、野郎歌舞伎を経て今日の歌舞伎の誕生した。一方 大衆には祖霊崇拝、豊作祈願の民間行事と結びつき「念仏踊り」「盆踊り」と結びつき今日まで継承されてきた。子規の句に「親負うて念仏踊り見に行ん」がある。
○ 能・狂言の大成者である世阿弥 観阿弥 音阿弥も「阿号(阿弥陀仏)」である。道後からの帰途「新栄座」で子規・漱石が観た「照葉狂言(てには狂言)」は、能狂言に踊や俗謡をまじえて三味線の囃子を加えた演芸で、泉裕三郎・小さく夫妻の一座であった。
○ 茶の湯    千阿弥
○立て花    立阿弥 文阿弥 宣阿弥
○建築・造園  善阿弥
○刀剣・工芸  正阿弥 本阿弥(光悦・宗悦)
 武家社会を支えた「阿号(阿弥陀仏)」を持つ同朋衆を抜きにして室町、戦国時代の文芸、工芸は考えられないし、武士の持つ美意識もこの雰囲気の中からうまれてきたと云えよう。
三、 宝厳寺にある歌碑・句碑
説明は割愛します。
@ 一遍上人碑 旅衣木乃儀禰宜可やのねい徒具于閑身能すてら禮ぬところあるべ幾
A 正岡子規    色里や 十歩者なれて 秋の風
B 酒井黙禅    子規忌過ぎ 一遍忌過ぎ 月は秋
C 斎藤茂吉    安かヽヽと一本の道 通り多里霊剋る 和が命奈りけり
D 川田順   糞掃衣すその短く くるぶしも臑もあらはに  わらんぢ も穿かぬ素足者 (略)
E 河野清雲   あとやさき 百壽も露の いのち哉
F 坂村真民   念ずれば 花開く   
四、おわりに
 一遍会についてご紹介させていただきたい。
 一遍会は宗教団体ではなく、「哲学と宗教と歴史と文学と・・宗教文化を探求する文化団体としての一遍会」と規定している。会長(代表)は小沼大八愛媛大学名誉教授(倫理学専攻)で、一般会員は地元会員が五〇名、県外会員(インターネット会員)が三〇名である。随時参加者を含めると一〇〇名前後である。
 例会は毎月第二土曜日(道後公民館視聴覚教室)で開催しており、特別行事として@例年秋彼岸に松山市内窪野の一遍上人堂を起点として「窪寺まんじゅしゃげ祭り」を開催している。俳人黒田杏子氏が「遊行者一遍倒れ伏す曼珠沙華」と表現したまんじゅしゃげが処々に咲き誇っている宗教的な霊地でもある。A毎年三月には一遍生誕会並びに松壽丸湯浴み式を一遍生誕寺である宝厳寺で開催している。B毎年一回、バスを利用して一遍さんに因む場所を訪ねている。昨年は内子・願成寺(開基は聖戒)と内子歴史地区、本年は西予市・県歴史文化博物館と卯の町歴史地区である。明年度は一遍さん修行の久万・岩屋寺(四国霊場第四五番札所)と第四四番札所大宝寺を予定している。
 今日の一遍会があるのは優れて先人のお蔭であり、宝厳寺の檀信徒の方々や初代会長佐々木安隆氏始め北川淳一郎氏、浅山円祥師、坂村真民氏、越智通敏元会長、古川雅山氏、村松一鶴氏、足助威男氏、和田繁樹氏、浦屋薫前会長など数え切れないが、過半の先人は浄土の世界に旅立たれた。
 ご清聴感謝申し上げます。南無阿弥陀仏。