第八十八章  一遍と温泉〜癒しと『再生

子規博友の会 講話

一遍と温泉〜癒しと再生〜

三 好 恭 治

 

1,        はじめ

【資料】宝厳寺第二七回一遍上人生誕祭】

 

春(彼岸)一遍上人生誕祭・道後温泉まつり

夏(八月朔日)湯釜祭・道後温泉夏まつり・松山野球拳おどり(旧松山まつり)

秋(彼岸)一遍上人忌・窪野曼殊沙華祭

 

子規忌過ぎ一遍忌過ぎ 月は秋  黙然

 

2,一遍上人と温泉

一遍聖とは

「一遍ひじりは、俗姓は越智氏、河野四郎通信が孫、同七郎通広(出家して如仏と号す)が子なり。延応元年己亥、予州にて誕生。」(『聖絵』)

 

〇幼名 松寿丸 (俗名)通尚、通秀

(房号)一遍 (諱)智真

〇出生 延応元年(1239)二月一五日

伊予・奥谷・宝厳寺 *釈迦涅槃会

〇成道 文永一一年(1274)熊野本宮証誠殿で「神託」を授かる。【証誠大師】

〇死去 正応二年(1289)八月二三日

兵庫津・観音堂  *勢至菩薩縁日

一遍は釈迦の生まれ変わり(再生)

 

(注)釈迦 三大法会

出生 紀元前六二四年四月八日 ルンビニー 灌仏会・花まつり *虚子 命日

成道 紀元前五八九年一二月八日

成道会 *土屋文明 命日

死去 紀元前五九五年二月一五日クシナーラー 涅槃会 *西行 命日 *一遍 誕生

*西行法師 

「願はくは花のもとにて春死なむ そのきさらぎのもちづきのころ」(旧暦如月望月)

 

日本宗教史の三大聖

「市聖 空也」踊念仏、六斎念仏開祖

「勧進聖 重源」東大寺再建 重源堂

「捨聖 一遍」時衆

*一遍聖の呼称

捨聖 遊行聖 念仏聖 歌聖 医聖 湯聖

【歌聖 一遍】

一遍の法歌(和歌)のうち勅撰和歌集『玉葉和歌集』に四首撰ばれた。伊予の歌人中「勅撰集」に選ばれた歌人は「一遍上人」のみか。

036極楽にまゐらむとおもふこゝろにて

南無阿弥陀仏といふぞ三心

074弥陀たのむ人はあま夜の月なれや

雲はれねどもにしにこそゆけ

099しほりせでみ山のおくの花を見よ 

たづねいりてはおなじ匂ひぞ

100谷川のこのはがくれのむもれ水 

ながるゝもゆくしたたるもゆく

 

一遍にゆかりのある道後の遺物

〇「南無阿弥陀仏」名号

@    道後公園北口の湯釜薬師の上部に置かれ宝珠の「南無阿弥陀仏」の六字名号は、

河野通有の依頼により一遍上人が刻んだもの? 版木の筆体で、賦算(遊行上人手渡しの御札)の書体である。

A    宝厳寺山門左にある「南無阿弥陀仏」の六字名号は、一遍筆と伝えられる熊野本宮近くに実在する石碑から写す。筆跡である。

〇「一遍父・河野通広石棺」

  湯神社本殿(祭神・大己(おおなむ)()命、少彦名命)相殿【出雲崗神社】(祭神・素盞鳴(すさのお)命、稲田姫命)、南方の「中嶋神社」(祭神・()道間(じま)(もり)命)、その右手にある「子守社・河野社」(祭神・河野通広)の後方に石棺がある。未発掘(野口宮司説明)の石棺に河野通広が眠る。歴代の遊行上人の回国時、伊佐爾波神社と河野社に参拝する。

○遊行五六代傾心(文政九年1826

【文政九年八月一五日 八幡宮回廊ニ而御下車、此処御手水有之、二畳台ニ而如法衣御召、神前ニ而御拝、略懺悔、弥陀念仏一会、而二畳台ヘ御着座、神楽相済、夫ヨリ河野古城跡岩崎明神ヘ御社参、湯ノ神社、七郎明神各心経一巻之御法楽、夫ヨリ温泉玉之石被遊御覧、御帰リニ相成候条、(略)】(『遊行日鑑』)

【医聖・湯聖 一遍】

本草(薬草)、飲尿(生命・健康維持)、水銀・丹(不老不死)、温泉療法(皮膚病、金傷、万病!?)

 

一遍にゆかりの温泉

鉄輪(河直)、湯峰、道後の三温泉は「硫泉」

であり、癩病(皮膚病)治療の温泉場でもあった。現在の道後温泉は「単純アルカリ泉」であるが、奥道後温泉は「硫黄泉」。鉄輪(河直)温泉、湯峰温泉は「自噴泉」、道後温泉は「湧出泉」であるが、「旅人」は自由に入浴できた。

 

〇道後温泉は江戸期の記録では「外湯」(非人

湯)があり、癩病(皮膚病)者、遍路、乞食ら誰もが無賃で入浴した。(省略)

道後温泉当たりにて 

寝ころんで蝶泊まらせる外湯哉 小林一茶

寛政七年(1795)二月一日

 

〇鉄輪温泉(別府市(旧国豊後国速見郡)

「伊予国の風土記に曰はく、湯の郡。大穴持命、見て悔い恥じて少彦名命を活かさまく欲して、大分の速見の湯を、下桶より持ち度り来て、少彦名命を漬し浴ししかば、暫が間に活起りまして、居然しく詠して、「真暫、寝ねるかも」と曰りたまひて、践み健びましし跡處、今も湯の中の石の上にあり。凡て貴く奇しきことは、神世の時のみにあらず、今の世に疹痾に染める、万生、病を除やし、身を在つ要薬と為せり(『伊予国風土記』

「建治二年(1276)大友兵庫頭頼泰帰依したてまつりて、衣などたてまつりけり。其の所にしばらく逗留して、法門などあひ談じ給ふあひだ、他阿弥陀仏はじめて同行相親の契りをむすびたてまつりぬ。」(『一遍聖絵』)

建治三年(1277) 秋、豊後に於て(ろう)(もう)?(いん)?(かく)等非人に施食、引き連れて遊行、鶴見岳に温泉を拓き自ら癩病などの施治にあたる。」『一遍義集』)

*上人創湯・鉄輪蒸湯

*上人湯(共同浴場)一遍上人像触る

*上人浜(一遍上陸地)

*鉄輪湯あみ祭り(例年九月)一遍聖像入湯。

湯あみ法要(時宗・温泉山永福寺) 

河野住職先頭に町内一巡。稚児行列。

〇湯の峰温泉

一遍熊野詣途上での「南無阿弥陀仏」碑

「弘安三年(1280)春、行儀法則を定め、夢想により、熊野に三七日参篭、万歳峰に名号を刻した石塔を建立し吉祥童と名付ける。」((『一遍義集』)    

磨崖名号碑 伝一遍上人名号碑

*説話・小栗判官・照手姫 (つぼ湯)

〇日本最古の湯泉の和歌(万葉集 3368)

阿之我利能 刀比能可布知尓 伊豆流湯能 余尓母多欲良尓 故呂河伊波奈久尓(作者不詳)

あしがり(足柄)の土肥の河内に、出づる湯の、世にもたよらに、子ろが言はなくに(湯河原)

*一遍の生きた時代背景1239〜1289

 承久の変 1221

 元寇の役 (文永役1274〜弘安役1281)

 建武の中興1333?南北朝・室町時代

3,子規・漱石と一遍聖

〇「散策集」(正岡子規

「松枝町を過ぎて宝厳寺に謁づ こゝは一遍上人御誕生の霊地とかや 古往今来当地出身の第一の豪傑なり 妓廓門前の楊柳往来の人をも招かでむなしく一遍上人御誕生地の古碑にしだれかゝりたるもあわれに覚えて

 古塚や 恋のさめたる 柳散る

   宝厳寺の山門に腰うちかけて

 色里や 十歩はなれて 秋の風」

〇愚陀仏は主人の名なり冬籠  漱石

漱石の疾風怒濤の時代 そして 挫折

@明治二六年 帝国大学文科大学卒業 

A明治二六年〜二八年一月  就職活動(不合格)

*七月〜八月 学習院 合格者「重見周吉」

*横浜英字新聞「ジャパン・メイル」 

B明治二七年二月 肺結核騒動 

*北里柴三郎 診断 肺結核初期  

C明治二七年 転居・転居・転居

*大学寄宿舎・菅虎雄新居・宝蔵院(尼寺)他

D明治二六〜二七年 漱石の恋慕

*大塚楠緒子・小股の切れ上がった花柳界につながる女・嫂 登世など

E明治二七年 参禅

*鎌倉円覚寺塔頭「帰源院」釈宗演・釈宗活

(二七年一二月二三日〜二八年一月七日)

*公案「父母未生以前本来面目如何」

F明治二七年 借金漬け 

*文部省貸与分九〇〇円 返済七円五〇銭 

*交際手切れ金三〇〇円  菅虎雄から借金。  

*松山赴任時入用金五〇円 菊池謙二郎(山口高等中学校)から借金。

G明治二八年 「松山落ち」

*四月 愛媛県参事官・浅田知定(同郷)から菅虎雄に愛媛県尋常中学校英語教師依頼。

*四月、東京から逃げるように高等師範学校講師を辞職し、愛媛県尋常中学校に赴任。

 

子規・漱石の愚陀仏庵五二日

〇「愚陀仏」考

「愚陀仏は主人の名なり冬籠  漱石」

「愚陀仏」の初出は、明治二八年九月二三日

付{句稿一、三二句}、最終は、二九年一〇月付(句稿一九、十五句}である。【『漱石・子規往復書簡集』和田茂樹編】

 思うに「愚陀仏」は、「松山下り」前の参の公案「父母未生以前本来の面目は如何」の解ではなかったか。自己の存在を「愚陀仏」と規定し、再生を誓ったのではあるまいか。

「愚陀仏」を「愚+(阿弥)陀+佛」とすると「阿弥陀」は無量寿(無限の時間 アミターユス)無量光(無限の空間 アミターバ)であり、永遠を希求する「愚者」であろう

*一遍の詞に「ただ愚なる者の心に立かへりて念仏したまふべし」とあり、

*親鸞「愚禿鈔」には「愚禿が心は、内は愚にして外は賢なり」とある。

*古代ギリシア哲学者ソクラテスの「無知の知」(不知の自覚)に通じる真言であろう。

 

漱石は心(神経)の病、子規は体(喀血)の病の静養時に、子規のふるさとの地で、文学を

愛する知的青年に囲まれて講話・句会・吟行・温泉を通して癒され、再生し、後世へ多大の文化遺産を残すことになる。

*「愚陀仏庵の五二日」の経緯は、割愛する。

 

4,子規・漱石のラストメッセー

○子規『仰臥漫録二十一』

余は今まで禅宗のいはゆる悟りといふ事を誤解して居た。悟りといふ事は如何なる場合にも平気で死ぬる事かと思つて居たのは間違ひで、悟りといふ事は如何なる場合にも平気で生きて居る事であつた。」

〇漱石最後の句

瓢箪は 鳴るか鳴らぬか 秋の風

 

道後湯玉音頭

 

太古神話の昔から

湧き出る湯は常世から

白鷺教えた温泉は

伊予の湯 道後の湯

少彦名の神様が

ここで病気になったとき

道後のお湯に入ったら

 「伊予〜」

真暫寝哉(ましましねたるかも)

やわらかなお湯の中

真暫寝哉(ましましねたるかも)

嬉しくてダンス

 

太鼓の音で夜が明ける

あふれでるのは湯釜から

歴史と文化と人情が

いい湯 伊予の湯 道後の湯

そぞろ歩きのハイカラは

色とりどりの浴衣着て

マドンナたちの下駄の音

  「伊予〜も

真暫寝哉(ましましねたるかも)

芳しい湯気の中

真暫寝哉(ましましねたるかも)

楽しくてダンス