「宝厳寺小史」の試み
古代
〇457回 宝厳寺の大位牌~河野通信、河野通広、得能通俊
〇576回 宝厳寺小史① 誓願院と遍照院
中世
〇468回 時宗十二派来歴~時宗奥谷派定義
〇577回 宝厳寺小史② 奥谷派宝厳寺 遊行派に帰属
〇578回 宝厳寺小史③ 「宝厳寺古図」(伊予史談会蔵)を読み解く
○589回 宝厳寺小史④ 宝厳寺時衆連歌文化
近世
〇438回 江戸期四国の時宗二十寺院
近代
〇519回 明治・大正期の宝厳寺学僧 橘恵勝師
現代
○501回 宝厳寺― 喪われた記憶 寺宝について
〇504回 「一遍会史」の試み①~相原熊太郎・北川淳一郎・佐々木安隆」
○510回 「一遍会史」の試み②~浅山圓祥師と門弟の時代
○ 516回 「一遍会史」の試み③~越智通敏と町衆、同志たち
1、はじめに
遊行七代 託何 弘安八年~文和三年(1285~1354)
康永三年(1344)6月 伊予 奥谷派を遊行派に編入。『條々行儀法則』一巻 述作。
秋、兵庫で四条二代浄阿らと連歌興行。
執筆年不明『禅時論』 巻頭に「託何上人作」とあるが仮托ヵ。
道後宝厳寺の時衆に関係ある一文であり、道後温泉についても記述している。
宝厳寺における連歌の様子に触れている。
2 和歌・俳句 俯瞰
(1) 時代区分
飛鳥・奈良・平安時代 和歌(万葉集 古今集 新古今集)
室町時代 連歌(菟玖波集 新撰菟玖波集)
江戸時代 俳諧の連歌(連句)
俳諧の発句 川柳(誹風柳多留)
明治時代 俳句 短歌
現代 HAIKU ?
(2) 和歌・連歌系譜 (別紙)
① 『一遍聖絵』に登場する名門家 (長澤 昌幸 『一遍】 )
② 鎌倉・室町期連歌系譜 (樋口 功 『菟玖波集』 )
御子左家(藤原氏) 俊成― 定家― 為家―<三別家>
(二条家)―為氏― 為世・・・・ 頓阿
良基 心敬
(京極家)―為教- 為兼 ・・・・善阿―救済―梵燈庵―宗磋―宗祇
周阿 正徹
(冷泉家)―為相<母 阿仏尼>
東重胤―胤行<為家娘婿>・・・・・・・・・・・常縁
(3)勅撰和歌集(①905~⑩1372年~(21)1439年)
歌 集 名 成 立 下 命 者 撰 者 巻数 歌 数
1 古今和歌集 905 醍醐天皇 紀貫之他 20巻 1100首
2 後撰和歌集 951 村上天皇 大中臣能宣他 20巻 1425首
3 拾遺和歌集 1005-07花山院 花山院 20巻 1351首
4 後拾遺和歌集 1087 白河天皇 藤原通俊 20巻 1218首
5 金葉和歌集 1126 白河院 源俊頼 10巻 650首
6 詞花和歌集 1151頃 崇徳院 藤原顕輔 10巻 415首
7 千載和歌集 1188 後白河院 藤原俊成 20巻 1288首
8 新古今和歌集 1205 後鳥羽院 藤原定家 20巻 1978首
9 新勅撰和歌集 1235 後堀河天皇 藤原定家 20巻 1374首
10 続後撰和歌集 1251 後嵯峨院 藤原為家 20巻 1371首
11 続古今和歌集 1265 後嵯峨院 藤原為家他 20巻 1915首
12 続拾遺和歌集 1278 亀山院 二条為氏 20巻 1459首
13 新後撰和歌集 1303 後宇多院 二条為世 20巻 1607首
14 玉葉和歌集 1312 伏見院 京極為兼 20巻 2800首
15 続千載和歌集 1320 後宇多院 二条為世 20巻 2143首
16 続後拾遺和歌集1326 後醍醐天皇 二条為藤他 20巻 1353首
17 風雅和歌集 1349 花園院監修 光厳院 20巻 2211首
18 新千載和歌集 1359 後光厳天皇 二条為定 20巻 2365首
19 新拾遺和歌集 1364 後光厳天皇 二条為明他 20巻 1920首
20 新後拾遺和歌集1384 後円融天皇 二条為遠他 20巻 1554首
21 新続古今和歌集1439 後花園天皇 飛鳥井雅世 20巻 2144首
* 新葉和歌集 1381 長慶天皇 宗良親王 20巻 1426首
(4)京極為兼と『玉葉和歌集』 一遍・真教
『玉葉集』 撰者 京極為兼(1254~1332)
法然 円空 一遍 他阿真教 聖戒 円伊(『聖絵』画)
藤原長清
遠州勝間田在地領主。時衆門徒。冷泉為相門下で他阿真教の師。『夫木和歌抄』編纂、一遍七首、真教十二首撰ぶ。⇒
『玉葉集』一遍 二首(詠み人知らず)
〇極楽にまゐらむとおもふこゝろにて南無阿弥陀仏といふぞ三心
〇弥陀たのむ人はあま夜の月なれや雲はれねどもにしにこそゆけ
(5)花のもとの教願 『聖絵』第十<三九>
弘安十年(1286)、備中の国軽部の宿と申す処におはしけるに、花のもとの教願、「四十八日結縁せん」と申してつきたてまつり侍りけるが、日数みちければ、むかへの人なんどくどりたりけるに、をりふしわづらふ事ありければ、むかへのものをばかへして、ひとすぢに臨終の用心にてぞ侍りける。
病中に、「冷水に有曙の月をいれておまばや」と、ねがひ物にして侍りけるこそやさしく侍れ。
臨終ちかくなりて、聖にたてまつりける歌
とにかくにまよふこゝろのしるべせよ
いかにとなへてすてぬちかひぞ
聖
とにかくにまよふこゝろのしるべには
なも阿弥陀仏ともうすばかりぞ
知識のをしへのごとく、臨終正念にして往生をとげにけり。
花のもと月のまへの昔のたはぶれまでも、宝樹蓮台の今の縁となりに侍りけるにや。
(注)花のもと 中世連歌の宗匠の称号で、一時代一人にかぎり朝廷から許された連歌師の頭領。花下連歌のことで、中世寺社のしだれ桜の下でおこなわれた連歌。
3、連歌の起源
(1)旋頭歌
『日本書紀』
日本武尊 秉燭人 唱和
五七七 五七七 旋頭歌
新治(ニイバリ) 筑波を過ぎて 幾夜か寝つる
秉燭者(ヒトモセルモノ)
日々(カガ) 並(ナ)べて 夜(ヨ)には九夜(ココノヨ) 日には十日(トオカ)を
連歌 ⇒「筑波の道」 ・・・・・勅撰和歌集『菟玖波集』
(2)単連歌⇒鎖(長)連歌
『万葉集』巻八
尼 家持の唱和
二人で一首の和歌(単連歌)五七五 七七
⇒鎖連歌(長連歌)⇒百韻(標準化)
尼が頭句(とうく)を作り、大伴宿祢家持が尼に頼まれて末句を作って答えた歌一首
1635 佐保川の水を堰(せ)上げて植ゑし田を〈尼作る〉
刈(か)れる初飯(はついい)はひとりなるべし 〈家持続(つ)ぐ〉
佐保の川をせき止めて引いた水で植えた田を〈尼が作った〉刈って炊いた新米を
食べさせたい人あなただけ〈家持が続けた〉
(3)『禅時論』記載の連歌の嚆矢
吾朝の歌も素戔嗚尊の八雲出雲歌 より三十文字余りに定まり畢んぬ。又連歌は天暦御門御製に、
小夜更けて今はねぬたく成りにけり
とあそばせしを、滋野内侍、
夢に逢うふべき人や侍らん
と申せしよりこのかた、此道盛りにして于今不絶。
(注)天暦御門 村上天皇 947~957年在位
滋野内侍 『菟玖波集』一句入集
(4)愛宕百韻 明智光秀の「発句」
愛宕百韻(あたごひゃくいん)は、本能寺の変の直前に愛宕山で明智光秀が張行した連歌である。「明智光秀張行百韻」「天正十年愛宕百韻」とも。
発句 明智 光秀「ときは今 あめが下しる 五月かな」
脇句 威徳院行祐「水上まさる 庭の夏山」
三句 里村 紹巴「花落つる 池の流を せきとめて」。
① 「土岐」は今 天が下しる五月かな
② 時は今 天(天皇)が下しる五月かな
4、連歌と一遍時衆
(1) 一遍時衆と『菟玖波集』
遊行の時、兵庫の島につきたりけるに、浄阿上人待向ひたりける夜の連歌に
月に鳴けめぐり逢う夜の子規 託阿上人
善阿法師一遍の仏事の席に一日千句侍りけるに
頼むぞよ十声一声ほととぎす 能阿法師
文和三年四月、家の千句連歌に
待てばこそ鳴かぬ日のあれ子規 堂誉法師
郭公なかぬ初音ぞ珍しき 一遍上人
(郭公なかぬはつねぞ<啼かぬは常ぞ>珍しき)
(2)『菟玖波集』時衆連歌師
浄阿上人 1304~1360 南北朝時代の僧,連歌師。時衆金蓮寺
託何上人 1285~1354 遊行上人(7代目)
善阿法師 鎌倉時代後期 地下の連歌師。
能阿法師 1397-1471 室町時代の画家,連歌師,茶人
堂誉法師 1296~1306 京極(佐々木)道誉 婆沙
ほととぎすと武人
「なかぬなら殺してしまへ時鳥 織田右府」(織田信長)
「鳴かずともなかして見せふ杜鵑 豊太閤」(豊臣秀吉)
「なかぬなら鳴まで待よ郭公 大權現様」(徳川家康)
「鳴け聞こう わが領分の ほととぎす」 加藤清正
「鳴かざれば 放してやろう ホトトギス」 明智光秀
「郭公なかぬ初音ぞ珍しき」 一遍上人
(3)歳末別時念仏会(一っ火) 御連歌式 本山(遊行寺)
歳末別辞念仏会を修行する前に遊行上人はじめ全山の僧が、熊野大権現の神前に、連歌を奉納する儀式。
1)吟詠役が始めの句の頭を2回吟じ、後は一句づつ吟詠する。
2)列席者は名を呼ばれたら後灯側から進み出て朗詠する。
3)吟詠役の朗詠が終わると、御番頭が御連歌の包みを三宝に載せて神前に奉納する。
5、『禅時論』と宝厳寺時衆
(1)『禅時論』とは
著者:「託何上人御作」?<七祖の仮托書>
(注)託何示寂1355年、内容に嘉慶二年(1388)の記述あり。
内容:五山の一禅僧が行脚し、奥谷宝厳寺において連歌について問答する随筆。室町末期、宝厳寺関係の一時衆による執筆ヵ。
〇諸国を往来する程に、南海道伊予国わたり・・・・・かなたこなたさそらい行く程に、伊予の湯の井桁はいくつ、左八右九中は十六と悲願不思議の出湯に入る。夫れより程近い一遍上人の開山し玉ふ宝厳寺と云ふ道場を一見するに・・・・・
(2)宝厳寺連歌討論 第一
〇僧
一心に念仏することを時衆では旨としているのに、連歌をもてあそぶのは何故か。
〇時衆
万事を念佛と心得て連歌をやっている。
(2) 和歌即陀羅尼 無住(1227~1312)「沙石集」
和歌ノ一道ヲ思トクニ、散乱(キ)動ノ心ヲヤメ、寂然静閑ナル徳アリ。又言スクナクシテ、心ヲフクメリ。素戔嗚尊、スデニ「出雲八重ガキ」ノ、三十一字ノ詠ヲ始メ給ヘリ。仏ノコトバニ、コトナルベカラズ。天竺の陀羅尼モ、只、其国ノ人ノ詞也。仏これをもて、陀羅尼ヲ説キ給ヘリ。此故ニ、一行禅師ノ大日本経疏ニモ「隋方ノコトバ、皆陀羅尼」ト云ヘリ。佛モシ我国ノ出給ハバ、只我国ノ詞以テ、陀羅尼トシ給ベシ。・・・・日本ノ和歌モ、ヨノツネノ詞ナレドモ、和歌ニモチヰテ思ヲノブレバ、必感アリ。マシテ仏法ノ心ヲフクメランハ、無疑陀羅尼ナルベシ。
(4)宝厳寺連歌討論 第二
〇僧
近ごろの連歌では「指し合い」を嫌わないと云ってなんでも上げるのは邪道ではないか
(注)「指し合い」 連歌・俳諧で、同字語や同義語などが規定以上に近くに出るのを禁じること。
〇時衆
連歌は百韻を構え、春夏秋冬・神祇・釈教・恋などと理を立て、人々が和合して自他の迷いの心を忘れるから、仏法にもかない、神明の受納にもあずかること疑いなし。
(5)宝厳寺連歌討論 第三
〇僧
連歌ではことに「賦」という文字を重要視するのはなぜか
〇時衆
諸種の例証をあげ、詩経に云う賦の辞の意義<物事をありのままうたうということ>を考え、わが国の歌でも言われてきたことでもあることを思うと、賦の字を用いることに何の不審があろう。
(注)くばる をこす あとふ ほどこす うけ うくる たまはる
ふしもの(賦物)「布敷(しきそ)」「頌之」
(6)賦物(ふしもの)
連歌・俳諧の百韻または歌仙の一巻全体を規制する形式。句の中に特定の事物の名を詠みこむこと。また、一巻の要になる字や詞。鎌倉初期の鎖連歌は毎句に詠みこんだが、室町以降は形式的に発句だけにとどまった。
たとえば、初めは魚鳥、白黒などの物の名を各句に詠みこんで一巻を規制したが、後には何人(なにひと)、山何(やまなに)などの何の箇所に発句中の字や詞を入れて成語とするものだけになった。
『水無瀬三吟百韻 』の題は「賦何人 連歌」で,発句の「雪ながら山本かすむ夕べかな」のなかの「山」を,題の「何」と置き換えると「山人」という熟語ができる。
(精選版 日本国語大辞典)
(7)宝厳寺連歌討論 第④
〇僧
念仏について安心区々也。当番往生、即得往生と云う。一遍上人は「帰名往生」を宗として、又踊念仏とて首を振り手足を動かし給ふは一心不乱の心か
〇時衆
名号不思議の本願に会えることを悦んで歓喜踊躍する心なるべし。例えば仏在世の緊那羅が瑠璃の琴を弾かすと、迦葉尊者が不覚にも立って舞い給うたこと。
(8)宝厳寺連歌討論 第④
〇僧
面々の踊り跳ね申す念佛と禅宗の安閑の座禅とは同じか。「
〇時衆
不同不別。各々の三昧である。
〇僧
「各々三昧」とは如何なるものか。
〇時衆
「鶏寒ふして木に登り鴨寒ふして水に入る」
(10)宝厳寺連歌討論 第⑤
〇僧
善導和尚の念仏には口より仏が出で給ふと承っているが、数遍に及ぶ念仏をするも曽って一仏も口から出ない・
〇時衆
(打ち笑って)何と申す仏が口より出でたか。善導の口から出で給ひし仏は、只是「南無阿弥陀仏」にて候。それこそ仏よ。
(11)宝厳寺連歌討論 第⑥
〇僧
地獄極楽とは事事余所にはあるべからず候や。
〇時衆
地獄は地獄に非ず。我が心に地獄有り。極楽は極楽に非ず。我が心に極楽有り。
〇僧
極楽とは何とて申し候ぞ。
〇時衆
地には苦しみ多く天には楽しみ多く候ほどに凡夫の終りを「極」と云い、命終して天然の空理に帰るを「楽」と申し候。此外は才覚に及ばず候。
(12)宝厳寺連歌討論 第⑦
〇僧
肝要は佛に成ることが我人の所期にて候。佛には如何にして成り候ぞ。
〇時衆
宗々不同、出離得道の安心も唯一ならず候か。
古徳に「佛には成ること難く成りやすし 成るになられず成らずしてなる」
念仏の行者の「即身成仏」なるは「念仏申さず時は只悠々の凡夫なり。数珠をとり南無阿弥陀仏と唱うればやがて佛なり。
肝要は造次?沛南無阿弥陀佛と唱ふる外に得る所はなし。
(13)宝厳寺連歌討論 第⑧
〇僧
時衆は六時行体浄土門の外は才智ましまさずと存じていたが、是程まで広智の法門と承った。当方から申すべき漢才法門とも逆に盡され申すに付いて
「逆さまに降る春の雪哉」と云ひければ
〇時衆
「谷風に散り敷く花やあかるらん」と付ける。
僧・時衆・聞く人も一度に?(どう)と笑いける。
6、大山祗神社法楽連歌
和田茂樹編『大山祇神社法楽連歌』(1986)
〇期間を3区分に分け、今次発表は第1期のみ。
第1期 室松中期(文安二年1445~永正元年1504)<60年間>
第2期 室町後期・安土桃山(大永五年1525~文禄二年1593)<70年間>
第3期 江戸初期(寛永一四年1637~萬治三年1660)<20年余>
〇法楽連歌の作者
(1) 河野通直とその一門
① 河野教通(二代通直) ②河野道宣<教通長男>
河野一門 ①通定 ②九郎 ③通重 ④通安 ⑤道貞
(2) 時宗(時衆)僧・真言僧・盲法師
時衆僧 ①其阿 ②弥阿 ③眼阿 ④重阿 ⑤覚阿
真言僧 ⑥信禅⑦良真 <真言宗石手寺>
盲法師 ⑧永一(栄一・栄都) ⑨親一 ⑩清一
(注)其阿<奥谷宝厳寺> ②弥阿<内子願成寺ヵ>
○大山祗神社法楽連歌(和田茂樹 解説)
「第一期六十年間の法楽は、大山積神を氏族神とする河野家が中心となり、通直(教道)主催のもとにその一門の武将武士が参加し、河野家出身の一遍上人の法系、宝厳寺其阿ら連歌に卓越した時宗僧の指導により、真言宗石手寺の僧や、盲法師なども連衆となって興行されたものであり、河野家一門一座の連歌といった感がある。」(和田 『連歌』326頁)
(注)河野教通(二代通直) ?~明応九年(1500)
河野通久の子。永享七年(1435)父の戦死後、伊予の守護職を継ぐ・
その地位をめぐって分家の河野通春や管領細川勝元と争い、通春との抗争は長く続いた。
応仁の乱では西軍に属す。文明七年(1475同族出身の一遍の木像(宝厳寺蔵 焼失)をつくらせたり、大山祇神社の法楽連歌に名を連ねたりする文化人でもあった。
7 宝厳寺時衆
(1) 其阿弥陀仏
①宝厳寺蔵「一遍上人木像」<焼失 国指定重文>
当住 其阿弥陀仏 檀那 (河野)通直 願主 彌阿弥陀仏
文明七年(1475)乙未一月十九日
〇文明十二年(1480) 千句 其阿
〇文明十四年(1482) 万句 其阿
②重要文化財「清浄光寺時衆過去帳 僧衆」(印刷本88~89頁)
遊行廿一代 明応六年(1497)五月八日始之
・・・其阿弥陀仏・・・与州宝厳寺
他阿弥陀仏 遊行廿一代 永正十年(1513)五月八日寂
其阿弥陀仏(与州宝厳寺)は遊行二十一代の6人目の往生者である。上記宝厳寺住職「其阿」が同一人と考えても矛盾はない。(1475~1482~1500?)
(2)遊行二十一代「智蓮上人」<伊予との関係が深い>
⇒『遊行・藤沢歴代上人史」(禰冝田修1989)
⇒『時宗辞典』(時宗教学研究所1989)
上野(群馬県)岩松新田氏。長禄三年1459―永正十年1513
内子願成寺十九世、智蓮、珠阿、七条十三世弥阿・・・遊行二十一代(明応六年1497~永正十年1513)
◎遊行二十一代智蓮は「弥阿」を名乗っても「其阿」を名乗ることはあり得ない。
(3)其阿弥陀仏の読み方
①き あみだぶつ
「當時の武鑑を閲するに、連歌師の部に淺草日輪寺其阿(きあ)と云ふものが載せてあつて、壽阿彌(じゅあみ)は執筆日輪寺内壽阿曇奝(どんてう)と記してある。」
寿阿弥の手紙 (旧字旧仮名) / 森鴎外(著)
②ごあ しょうにん
時宗僧。寛保3年八代将軍吉宗六十賀の千句に里村家とともに一座した連歌師でもある。
(4)宝厳寺時衆 彌阿弥陀仏
1、宝厳寺蔵「一遍上人木像」<焼失 国指定重文>
当住 其阿弥陀仏 檀那 (河野)通直 願主 彌阿弥陀仏
宝厳寺蔵「一遍上人木像」願主 彌阿弥陀仏(1475)は、遊行二十一代智蓮の内子願成寺当時(16歳)で年代的には矛盾はない。<断定は出来ない>
一遍の法弟伊予房弥阿聖戒(六条派)は内子願成寺の開祖であり、智蓮が「弥阿」を称することもありうる。
彌阿の「連歌」参加は「宝厳寺住職」ではない。「宝厳寺住職」は、あくまで「其阿」である。
8、おわりに
1)宝厳寺時衆連歌文化
万事を念佛と心得て連歌をやっている。
日本ノ和歌モ、ヨノツネノ詞ナレドモ、和歌ニモチヰテ思ヲノブレバ、必感アリ。マシテ仏法ノ心ヲフクメランハ、無疑陀羅尼ナルベシ。
連歌は百韻を構え、春夏秋冬・神祇・釈教・恋などと理を立て、人々が和合して自他の迷いの心を忘れるから、仏法にもかない、神明の受納にもあずかること疑いなし。
2)宝厳寺時衆文化の継承・発展
伊予中世期における河野氏と宇都宮氏、西園寺氏、(一条氏)との文化・文芸の的交流の可能性。(京都、鎌倉の先進文化の取り込み)
〇宝厳寺時衆連歌 ⇒連歌フェスティバル
〇宝厳寺時衆「踊念仏」(盆踊り)⇒「踊念仏(念仏踊り)」フェスティバル
〇宝厳寺時衆文化展 ⇒「伊予の豪傑 一遍時衆と子規山脈
」
一遍上人 生誕900年・入寂850年 記念祭
2036年(令和18年)】<15年後>
【参考文献】
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