第八十一章 奥谷宝厳寺時衆連歌文化 考 |
一、 はじめに 日本の中世文化、文芸の有力な担い手に「阿弥集団」があったことは広く知られている。舞踊・歌舞伎(阿国)、立花(池坊)、絵画、茶道、連歌(時衆僧)、説教節・・・寄席芸(聖)、俳諧、能(世阿弥 観阿弥)、建築、作庭、刀剣、作陶がある。彼の集団は、すべてが念仏集団ではないが、その中核に時衆があった。浄土宗、特に時衆は、奈良・平安期の国家護持を支えた仏教と異なり、念仏信仰を通して個人と仏が結ばれた。 西欧において中世から近世の移行期に、宗教改革と文芸復興が勃発した。その運動を支えた庶民にとって生活の糧を支えた職業は「召命(ザ・コール)」と呼称され、自己の職業の徹底は神の道に背くものではないと信じられた。 一遍時衆では国宝『一遍聖絵』に記名されている一遍智真(二首)、後継者他阿真教。聖戒、円伊は勅撰和歌集『玉葉和歌集』に撰ばれている。 〇極楽にまゐらむとおもふこゝろにて 南無阿弥陀仏といふぞ三心 〇弥陀たのむ人はあま夜の月なれや 雲はれねどもにしにこそゆけ さらに勅選の連歌集である『菟玖波集』に一遍の発句が記載されている。 ○郭公なかぬ初音ぞ珍しき 正岡子規の『散策集』の言葉を引用するとすれば、一遍上人は「古往今來當地出身の第一の」歌人なりと称されよう。 例会講話では、勅撰和歌集や連歌史についても触れたが、字数の制約もあり、遊行上人の連歌と宝厳寺の時衆が執筆したとされる『禅時論』の紹介を中心に話を進めていきたい。中世の雰囲気を伝えるべく、あえて『禅時論』で展開する連歌論は原文の侭にした。諒とされたい。 二、一遍時衆と連歌 1、一遍上人の連歌(発句) 勅撰の連歌集の嚆矢は『菟玖波集』である。連歌が日本武尊の新治筑波の問答歌に起こるという説による最初の連歌撰集。二〇巻。二条良基が救済と共撰。一三五六年(延文元年)成り、五七年勅撰に準ぜられた。古来の連歌を「付合」を主として二千句余集める。 (注)新治筑波の問答歌 新治筑波を過ぎて幾夜か寝つる(日本武尊) 日々並べて夜には九夜日には十日を(秉燭者) (注)二条良基(一三二〇〜八八) 南北朝時代の歌学者・連歌作者・故実家。初め後醍醐天皇に、のち北朝に仕え、摂政関白となる。二条派の和歌の復興を計り、頓阿と和歌の奥旨を問答した形の「愚問賢注」を著し、また、救済とともに「菟玖波集」を撰した。 (注)救済(一二八五?〜一三七八?)室町初期の連歌師。歌を冷泉為相に、連歌を善阿に学び、二条良基を助けて「菟玖波集」を撰、「連歌新式」の制定に協力。良基・周阿とともに連歌道の三賢といわれた。 『菟玖波集』に一遍の郭公の発句並びに多数の時衆の発句が選ばれている。郭公(子規)の句が時衆において珍重されていることが分かる。 遊行の時、兵庫の島につきたりけるに、浄阿 上人待向ひたりける夜の連歌に 月に鳴けめぐり逢う夜の子規 託阿上人 善阿法師一遍の仏事の席に一日千句侍りけるに 頼むぞよ十声一声ほととぎす 能阿法師 文和三年四月、家の千句連歌に 待てばこそ鳴かぬ日のあれ子規 堂誉法師 郭公なかぬ初音ぞ珍しき 一遍上人 (注) 浄阿上人(一三〇四〜一三六〇)南北朝時代の僧。連歌師。時衆金蓮寺住職。 託何上人(一二八五〜一三五四)七代目遊行上人。 康永三年(一三四四)六月伊予回国中に奥谷派を遊行派に編入。『條々行儀法則』一巻を述作。秋、兵庫で四条二代浄阿らと連歌興行。 『禅時論』(執筆年不明)巻頭に「託何上人作」とあるが仮托ヵ。奥谷道場宝厳寺の時衆に関係ある一文であり、道後温泉についても記述している。宝厳寺における連歌の様子に触れている。 善阿法師 鎌倉時代後期 地下の連歌師。 能阿法師(一三九七〜一四七一)室町時代の画家、連歌師、茶人。 堂誉法師(一二九六〜一三〇六)京極(佐々木)道誉。婆沙。 2,時鳥の謂れと貴族・農民 (1)ホトトギスが「時鳥」であるのは「時告鳥」であり、時とは「田植え」であり、神の使いでもあった。 公家、文化人にとっての時鳥の夜明けの一声は、農民にとっては過酷な農作業の開始を告知する一声でもあった。 「賀茂へ詣づる道に、女どもの、あたらしき折敷のやうなる物を笠に着て、いとおほく立てりて、歌をうたひ、起き伏すやうに見えて、ただ何すともなく、うしろざまに行くは、いかなるにかあらむ、をかしと見るほどに、郭公をいとなめくうたふ声ぞ心憂き。「郭公よ。おれよ。かやつよ。おれ鳴きてぞ、われは田に立つ」とうたふに、聞きも果てず。いかなりし人か、「いたく鳴きてぞ」と言ひけむ。仲忠が童生ひ言ひおとす人と、「鶯には郭公はおとれる」と言ふ人こそ、いとつらうにくけれ。鶯は夜鳴かぬ、いとわろし。すべて夜鳴くものはめでたし。 ちともそはめでたからぬ」『枕草子』(二四八段) (2)一方、ホトトギスの異称のうち「杜宇」「蜀魂」「不如帰」は、中国の故事や伝説にもとづく。 長江流域の蜀杜宇という男が現れ、農耕を指導して蜀を再興し帝王となり「望帝」と呼ばれた。後に、長江の氾濫を治めるのを得意とする男に帝位を譲り、望帝は山中に隠棲した。望帝杜宇は死ぬと、その霊魂はホトトギスに化身し、農耕を始める季節が来るとそれを民に告げるため、杜宇の化身のホトトギスは鋭く鳴くようになったと言う。 後に蜀が秦によって滅ぼされたことを知った杜宇の化身のホトトギスは嘆き悲しみ、「不如帰去」と鳴きながら血を吐いた、血を吐くまで鳴いた、と言われるようになった。(『ウイキペディア』ホトトギス) (3)尚、異称「子規」については不詳。 3、国宝『一遍聖絵』の中の連歌師 弘安十年(一二八六)、備中の国軽部の宿と申す処におはしけるに、花のもとの教願、「四十八日結縁せん」と申してつきたてまつり侍りけるが、日数みちければ、むかへの人なんどくどりたりけるに、をりふしわづらふ事ありければ、むかへのものをばかへして、ひとすぢに臨終の用心にてぞ侍りける。 病中に、「冷水に有曙の月をいれておまばや」と、ねがひ物にして侍りけるこそやさしく侍れ。臨終ちかくなりて、聖にたてまつりける歌 とにかくにまよふこゝろのしるべせよ いかにとなへてすてぬちかひぞ 聖 とにかくにまよふこゝろのしるべには なも阿弥陀仏ともうすばかりぞ 知識のをしへのごとく、臨終正念にして往生をとげにけり。花のもと月のまへの昔のたはぶれまでも、宝樹蓮台の今の縁となりに侍りけるにや。 (『聖絵』第十・三九) (注)花のもと 中世連歌の宗匠の称号で、一時代一人にかぎり朝廷から許された連歌師の頭領。花下連歌のことで、中世寺社のしだれ桜の下でおこなわれた連歌。 4、歳末別時念仏会(一っ火) 御連歌式 歳末別辞念仏会を修行する前に遊行上人はじめ全山の僧が、熊野大権現の神前に、連歌を奉納する儀で七〇〇年余続いている献歌儀式としては稀有である。 (1)吟詠役が始めの句の頭を二回吟じ、後は一句づつ吟詠する。 (2)列席者は名を呼ばれたら後灯側から進み出て朗詠する。 (3)吟詠役の朗詠が終わると、御番頭が御連歌の包みを三宝に載せて神前に奉納する。 三、『禅時論』と宝厳寺時衆 1、『禅時論』とは 著者:「託何上人御作」と記載があるが、託何示寂は一三五五年、内容に嘉慶二年(一三八八)の記述があるので、遊行七祖の仮托書とされる。 その内容は、五山の一禅僧が行脚し、奥谷宝厳寺において連歌について問答する随筆である。室町末期、宝厳寺関係の一時衆による執筆と考えられる。 2、『禅時論』記載の連歌の嚆矢 ○吾朝の歌も素戔嗚尊の八雲出雲歌 より三十文字余りに定まり畢んぬ。又連歌は天暦御門御製に、 小夜更けて今はねぬたく成りにけり とあそばせしを、滋野内侍、 夢に逢うふべき人や侍らん と申せしよりこのかた、此道盛りにして于今不絶。 (注)天暦御門 村上天皇 九四七〜九五七年在位 滋野内侍 『菟玖波集』一句入集 3、伊予の湯の井桁 〇諸国を往来する程に、南海道伊予国わたり(略) かなたこなたさそらい行く程に、伊予の湯の井桁 はいくつ、左八右九中は十六と悲願不思議の出湯 に入る。夫れより程近い一遍上人の開山し玉ふ宝 厳寺と云ふ道場を一見するに・・・・・ 4、奥谷道場宝厳寺 連歌討論 @僧 一心に念仏することを時衆では旨としているのに、連歌をもてあそぶのは何故か。 〇時衆 万事を念佛と心得て連歌をやっている。 A僧 近ごろの連歌では「指し合い」を嫌わないと云ってなんでも上げるのは邪道ではないか (注)「指し合い」 連歌・俳諧で、同字語や同義語などが規定以上に近くに出るのを禁じること。 〇時衆 連歌は百韻を構え、春夏秋冬・神祇・釈教・恋などと理を立て、人々が和合して自他の迷いの心を忘れるから、仏法にもかない、神明の受納にもあずかること疑いなし。 B僧 連歌ではことに「賦」という文字を重要視するのはなぜか 〇時衆 諸種の例証をあげ、詩経に云う賦の辞の意義<物事をありのままうたうということ>を考え、わが国の歌でも言われてきたことでもあることを思うと、賦の字を用いることに何の不審があろう。 (注)ふしもの(賦物)「布敷(しきそ)」「頌之」 くばる をこす あとふ ほどこす うけ うくる たまはる C僧 念仏について安心区々也。当番往生、即得往生と云う。一遍上人は「帰名往生」を宗として、又踊念仏とて首を振り手足を動かし給ふは一心不乱の心か 〇時衆 名号不思議の本願に会えることを悦んで歓喜踊躍する心なるべし。例えば仏在世の緊那羅が瑠璃の琴を弾かすと、迦葉尊者が不覚にも立って舞い給うたこと。 D僧 面々の踊り跳ね申す念佛と禅宗の安閑の座禅とは同じか。「 〇時衆 不同不別。各々の三昧である。 〇僧 「各々三昧」とは如何なるものか。 〇時衆 「鶏寒ふして木に登り鴨寒ふして水に入る」 E僧 善導和尚の念仏には口より仏が出で給ふと承っているが、数遍に及ぶ念仏をするも曽って一仏も口から出ない・ 〇時衆 (打ち笑って)何と申す仏が口より出でたか。善導の口から出で給ひし仏は、只是「南無阿弥陀仏」にて候。それこそ仏よ。 F僧 地獄極楽とは事事余所にはあるべからず候や。 〇時衆 地獄は地獄に非ず。我が心に地獄有り。極楽は極楽に非ず。我が心に極楽有り。 〇僧 極楽とは何とて申し候ぞ。 〇時衆 地には苦しみ多く天には楽しみ多く候ほどに凡夫の終りを「極」と云い、命終して天然の空理に帰るを「楽」と申し候。此外は才覚に及ばず候。 G僧 肝要は佛に成ることが我人の所期にて候。佛には如何にして成り候ぞ。 〇時衆 宗々不同、出離得道の安心も唯一ならず候か。古徳に「佛には成ること難く成りやすし 成るになられず成らずしてなる」念仏の行者の「即身成仏」なるは「念仏申さず時は只悠々の凡夫なり。数珠をとり南無阿弥陀仏と唱うればやがて佛なり。 肝要は造次?沛南無阿弥陀佛と唱ふる外に得る所はなし。 H僧 時衆は六時行体浄土門の外は才智ましまさずと存じていたが、是程まで広智の法門と承った。当方から申すべき漢才法門とも逆に盡され申すに付いて「逆さまに降る春の雪哉」と云ひければ 〇時衆 「谷風に散り敷く花やあかるらん」と付ける。 僧・時衆・聞く人も一度に?(どう)と笑いける。 四、大山祗神社法楽連歌 大山祗神社は河野氏の氏神であり、戦時・平時を問わず寄進している。平穏を念じて法楽連歌を当然に奉納している。 『大山祇神社法楽連歌』を研究者である和田茂樹氏は全体を三期に分けている。(一九八六) 〇期間を三区分に分け、今次発表は第一期のみ。 第一期 室松中期(文安二年一四四五〜永正元年一五〇四)六〇年間 第二期 室町後期・安土桃山(大永五年一五二五〜文禄二年一五九三)七〇年間 第三期 江戸初期(寛永一四年一六三七〜萬治三年一六六〇)二〇年余 「第一期六十年間の法楽は、大山積神を氏族神とする河野家が中心となり、通直(教道)主催のもとにその一門の武将武士が参加し、河野家出身の一遍上人の法系、宝厳寺其阿ら連歌に卓越した時宗僧の指導により、真言宗石手寺の僧や、盲法師なども連衆となって興行されたものであり、河野家一門一座の連歌といった感がある。」(和田 『連歌』三二六頁) 2 特に、第一期で活躍する法楽連歌の作者としては、 河野一族では河野教通(二代通直)を筆頭に道宣(教通長男)、通定 九郎 通重 通安 通貞 河野一族以外では、@時衆僧 其阿奥谷宝厳寺() 弥阿(内子願成寺ヵ) 眼阿 重阿 覚阿、A真言僧 信禅 良真 真言宗石手寺、 B盲法師 永一(栄一・栄都) 親一 清一である。 五、宝厳寺時衆の主要な人物 平成二五年宝厳寺の大火と共に焼失した国指定重文「一遍上人木像」には製作者が記名されていた。 当住其阿 願主彌阿弥陀仏 (1)当住 其阿弥陀仏 宝厳寺住職は「其阿」を呼称し今日に至っている。「大山祇神社法楽連歌にも、「其阿」の連歌が多数残っている。 文明 七年(一四七五)乙未一月十九日 〇文明十二年(一四八〇) 千句 其阿 〇文明十四年(一四八二) 万句 其阿 更に、重要文化財「清浄光寺時衆過去帳 僧衆」に、「与州宝厳寺」と明記されている。 遊行廿一代 明応六年五月八日始之 ・・・其阿弥陀仏・・・与州宝厳寺 他阿弥陀仏 遊行廿一代 永正十年五月八日寂 上記宝厳寺住職「其阿」は同一人と考えても矛盾はない。(一四七五〜一四八二〜一五〇〇?) (2)檀那 河野通直 河野通久の子。永享七年(一四三五)父の戦死後、伊予の守護職を継ぐ。その地位をめぐって分家の河野通春や管領細川勝元と争い、通春との抗争は長く続いた。応仁の乱では西軍に属す。文明七年(一四七五)同族出身の一遍の木像をつくらせたり、大山祇神社の法楽連歌に名を連ねたりする文化人でもあった。 (3)彌阿弥陀仏 遊行二十一代「智蓮上人」は伊予との関係が特に深い。智蓮(長禄三年一四五九―永正十年一五一三)は上野国(群馬県)岩松新田氏の出で。内子願成寺十九世、智蓮、珠阿、七条十三世弥阿を経て遊行二十一代(明応六年一四九七〜永正十年一五一三)となる。後の遊行二十一代智蓮が「願主」として「弥阿」を名乗っても矛盾しない。史料的確認が不備であり、更に検討を加えたい。 (注)『遊行・藤沢歴代上人史」(禰%c修1989) 『時宗辞典』(時宗教学研究所1989) 六、おわりに (1)万事を念佛と心得て連歌をやっている。 (『禅時論』連歌討論@) (2)日本ノ和歌モ、ヨノツネノ詞ナレドモ、和歌ニモチヰテ思ヲノブレバ、必感アリ。マシテ仏法ノ心ヲフクメランハ、無疑陀羅尼ナルベシ。 (無住(一二二七〜一三一二)『沙石集』) (3)連歌は百韻を構え、春夏秋冬・神祇・釈教・恋などと理を立て、人々が和合して自他の迷いの心を忘れるから、仏法にもかない、神明の受納にもあずかること疑いなし。(『禅時論』連歌討論A) 貴族・宮廷文化から武家・町人文化へと移行する中で聖、時衆らの集団が「座(坐)」を通しての文化の継承・発展の一形態ではなかったか。 以上 |
「宝厳寺小史」の試み 古代 〇457回 宝厳寺の大位牌〜河野通信、河野通広、得能通俊 〇576回 宝厳寺小史@ 誓願院と遍照院 中世 〇468回 時宗十二派来歴〜時宗奥谷派定義 〇577回 宝厳寺小史A 奥谷派宝厳寺 遊行派に帰属 〇578回 宝厳寺小史B 「宝厳寺古図」(伊予史談会蔵)を読み解く ○589回 宝厳寺小史C 宝厳寺時衆連歌文化 近世 〇438回 江戸期四国の時宗二十寺院 近代 〇519回 明治・大正期の宝厳寺学僧 橘恵勝師 現代 ○501回 宝厳寺― 喪われた記憶 寺宝について 〇504回 「一遍会史」の試み@〜相原熊太郎・北川淳一郎・佐々木安隆」 ○510回 「一遍会史」の試みA〜浅山圓祥師と門弟の時代 ○ 516回 「一遍会史」の試みB〜越智通敏と町衆、同志たち 1、はじめに 遊行七代 託何 弘安八年〜文和三年(1285〜1354) 康永三年(1344)6月 伊予 奥谷派を遊行派に編入。『條々行儀法則』一巻 述作。 秋、兵庫で四条二代浄阿らと連歌興行。 執筆年不明『禅時論』 巻頭に「託何上人作」とあるが仮托ヵ。 道後宝厳寺の時衆に関係ある一文であり、道後温泉についても記述している。 宝厳寺における連歌の様子に触れている。 2 和歌・俳句 俯瞰 (1) 時代区分 飛鳥・奈良・平安時代 和歌(万葉集 古今集 新古今集) 室町時代 連歌(菟玖波集 新撰菟玖波集) 江戸時代 俳諧の連歌(連句) 俳諧の発句 川柳(誹風柳多留) 明治時代 俳句 短歌 現代 HAIKU ? (2) 和歌・連歌系譜 (別紙) @ 『一遍聖絵』に登場する名門家 (長澤 昌幸 『一遍】 ) A 鎌倉・室町期連歌系譜 (樋口 功 『菟玖波集』 ) 御子左家(藤原氏) 俊成― 定家― 為家―<三別家> (二条家)―為氏― 為世・・・・ 頓阿 良基 心敬 (京極家)―為教− 為兼 ・・・・善阿―救済―梵燈庵―宗磋―宗祇 周阿 正徹 (冷泉家)―為相<母 阿仏尼> 東重胤―胤行<為家娘婿>・・・・・・・・・・・常縁 (3)勅撰和歌集(@905〜I1372年〜(21)1439年) 歌 集 名 成 立 下 命 者 撰 者 巻数 歌 数 1 古今和歌集 905 醍醐天皇 紀貫之他 20巻 1100首 2 後撰和歌集 951 村上天皇 大中臣能宣他 20巻 1425首 3 拾遺和歌集 1005-07花山院 花山院 20巻 1351首 4 後拾遺和歌集 1087 白河天皇 藤原通俊 20巻 1218首 5 金葉和歌集 1126 白河院 源俊頼 10巻 650首 6 詞花和歌集 1151頃 崇徳院 藤原顕輔 10巻 415首 7 千載和歌集 1188 後白河院 藤原俊成 20巻 1288首 8 新古今和歌集 1205 後鳥羽院 藤原定家 20巻 1978首 9 新勅撰和歌集 1235 後堀河天皇 藤原定家 20巻 1374首 10 続後撰和歌集 1251 後嵯峨院 藤原為家 20巻 1371首 11 続古今和歌集 1265 後嵯峨院 藤原為家他 20巻 1915首 12 続拾遺和歌集 1278 亀山院 二条為氏 20巻 1459首 13 新後撰和歌集 1303 後宇多院 二条為世 20巻 1607首 14 玉葉和歌集 1312 伏見院 京極為兼 20巻 2800首 15 続千載和歌集 1320 後宇多院 二条為世 20巻 2143首 16 続後拾遺和歌集1326 後醍醐天皇 二条為藤他 20巻 1353首 17 風雅和歌集 1349 花園院監修 光厳院 20巻 2211首 18 新千載和歌集 1359 後光厳天皇 二条為定 20巻 2365首 19 新拾遺和歌集 1364 後光厳天皇 二条為明他 20巻 1920首 20 新後拾遺和歌集1384 後円融天皇 二条為遠他 20巻 1554首 21 新続古今和歌集1439 後花園天皇 飛鳥井雅世 20巻 2144首 * 新葉和歌集 1381 長慶天皇 宗良親王 20巻 1426首 (4)京極為兼と『玉葉和歌集』 一遍・真教 『玉葉集』 撰者 京極為兼(1254〜1332) 法然 円空 一遍 他阿真教 聖戒 円伊(『聖絵』画) 藤原長清 遠州勝間田在地領主。時衆門徒。冷泉為相門下で他阿真教の師。『夫木和歌抄』編纂、一遍七首、真教十二首撰ぶ。⇒ 『玉葉集』一遍 二首(詠み人知らず) 〇極楽にまゐらむとおもふこゝろにて南無阿弥陀仏といふぞ三心 〇弥陀たのむ人はあま夜の月なれや雲はれねどもにしにこそゆけ (5)花のもとの教願 『聖絵』第十<三九> 弘安十年(1286)、備中の国軽部の宿と申す処におはしけるに、花のもとの教願、「四十八日結縁せん」と申してつきたてまつり侍りけるが、日数みちければ、むかへの人なんどくどりたりけるに、をりふしわづらふ事ありければ、むかへのものをばかへして、ひとすぢに臨終の用心にてぞ侍りける。 病中に、「冷水に有曙の月をいれておまばや」と、ねがひ物にして侍りけるこそやさしく侍れ。 臨終ちかくなりて、聖にたてまつりける歌 とにかくにまよふこゝろのしるべせよ いかにとなへてすてぬちかひぞ 聖 とにかくにまよふこゝろのしるべには なも阿弥陀仏ともうすばかりぞ 知識のをしへのごとく、臨終正念にして往生をとげにけり。 花のもと月のまへの昔のたはぶれまでも、宝樹蓮台の今の縁となりに侍りけるにや。 (注)花のもと 中世連歌の宗匠の称号で、一時代一人にかぎり朝廷から許された連歌師の頭領。花下連歌のことで、中世寺社のしだれ桜の下でおこなわれた連歌。 3、連歌の起源 (1)旋頭歌 『日本書紀』 日本武尊 秉燭人 唱和 五七七 五七七 旋頭歌 新治(ニイバリ) 筑波を過ぎて 幾夜か寝つる 秉燭者(ヒトモセルモノ) 日々(カガ) 並(ナ)べて 夜(ヨ)には九夜(ココノヨ) 日には十日(トオカ)を 連歌 ⇒「筑波の道」 ・・・・・勅撰和歌集『菟玖波集』 (2)単連歌⇒鎖(長)連歌 『万葉集』巻八 尼 家持の唱和 二人で一首の和歌(単連歌)五七五 七七 ⇒鎖連歌(長連歌)⇒百韻(標準化) 尼が頭句(とうく)を作り、大伴宿祢家持が尼に頼まれて末句を作って答えた歌一首 1635 佐保川の水を堰(せ)上げて植ゑし田を〈尼作る〉 刈(か)れる初飯(はついい)はひとりなるべし 〈家持続(つ)ぐ〉 佐保の川をせき止めて引いた水で植えた田を〈尼が作った〉刈って炊いた新米を 食べさせたい人あなただけ〈家持が続けた〉 (3)『禅時論』記載の連歌の嚆矢 吾朝の歌も素戔嗚尊の八雲出雲歌 より三十文字余りに定まり畢んぬ。又連歌は天暦御門御製に、 小夜更けて今はねぬたく成りにけり とあそばせしを、滋野内侍、 夢に逢うふべき人や侍らん と申せしよりこのかた、此道盛りにして于今不絶。 (注)天暦御門 村上天皇 947〜957年在位 滋野内侍 『菟玖波集』一句入集 (4)愛宕百韻 明智光秀の「発句」 愛宕百韻(あたごひゃくいん)は、本能寺の変の直前に愛宕山で明智光秀が張行した連歌である。「明智光秀張行百韻」「天正十年愛宕百韻」とも。 発句 明智 光秀「ときは今 あめが下しる 五月かな」 脇句 威徳院行祐「水上まさる 庭の夏山」 三句 里村 紹巴「花落つる 池の流を せきとめて」。 @ 「土岐」は今 天が下しる五月かな A 時は今 天(天皇)が下しる五月かな 4、連歌と一遍時衆 (1) 一遍時衆と『菟玖波集』 遊行の時、兵庫の島につきたりけるに、浄阿上人待向ひたりける夜の連歌に 月に鳴けめぐり逢う夜の子規 託阿上人 善阿法師一遍の仏事の席に一日千句侍りけるに 頼むぞよ十声一声ほととぎす 能阿法師 文和三年四月、家の千句連歌に 待てばこそ鳴かぬ日のあれ子規 堂誉法師 郭公なかぬ初音ぞ珍しき 一遍上人 (郭公なかぬはつねぞ<啼かぬは常ぞ>珍しき) (2)『菟玖波集』時衆連歌師 浄阿上人 1304〜1360 南北朝時代の僧,連歌師。時衆金蓮寺 託何上人 1285〜1354 遊行上人(7代目) 善阿法師 鎌倉時代後期 地下の連歌師。 能阿法師 1397−1471 室町時代の画家,連歌師,茶人 堂誉法師 1296〜1306 京極(佐々木)道誉 婆沙 ほととぎすと武人 「なかぬなら殺してしまへ時鳥 織田右府」(織田信長) 「鳴かずともなかして見せふ杜鵑 豊太閤」(豊臣秀吉) 「なかぬなら鳴まで待よ郭公 大權現様」(徳川家康) 「鳴け聞こう わが領分の ほととぎす」 加藤清正 「鳴かざれば 放してやろう ホトトギス」 明智光秀 「郭公なかぬ初音ぞ珍しき」 一遍上人 (3)歳末別時念仏会(一っ火) 御連歌式 本山(遊行寺) 歳末別辞念仏会を修行する前に遊行上人はじめ全山の僧が、熊野大権現の神前に、連歌を奉納する儀式。 1)吟詠役が始めの句の頭を2回吟じ、後は一句づつ吟詠する。 2)列席者は名を呼ばれたら後灯側から進み出て朗詠する。 3)吟詠役の朗詠が終わると、御番頭が御連歌の包みを三宝に載せて神前に奉納する。 5、『禅時論』と宝厳寺時衆 (1)『禅時論』とは 著者:「託何上人御作」?<七祖の仮托書> (注)託何示寂1355年、内容に嘉慶二年(1388)の記述あり。 内容:五山の一禅僧が行脚し、奥谷宝厳寺において連歌について問答する随筆。室町末期、宝厳寺関係の一時衆による執筆ヵ。 〇諸国を往来する程に、南海道伊予国わたり・・・・・かなたこなたさそらい行く程に、伊予の湯の井桁はいくつ、左八右九中は十六と悲願不思議の出湯に入る。夫れより程近い一遍上人の開山し玉ふ宝厳寺と云ふ道場を一見するに・・・・・ (2)宝厳寺連歌討論 第一 〇僧 一心に念仏することを時衆では旨としているのに、連歌をもてあそぶのは何故か。 〇時衆 万事を念佛と心得て連歌をやっている。 (2) 和歌即陀羅尼 無住(1227〜1312)「沙石集」 和歌ノ一道ヲ思トクニ、散乱(キ)動ノ心ヲヤメ、寂然静閑ナル徳アリ。又言スクナクシテ、心ヲフクメリ。素戔嗚尊、スデニ「出雲八重ガキ」ノ、三十一字ノ詠ヲ始メ給ヘリ。仏ノコトバニ、コトナルベカラズ。天竺の陀羅尼モ、只、其国ノ人ノ詞也。仏これをもて、陀羅尼ヲ説キ給ヘリ。此故ニ、一行禅師ノ大日本経疏ニモ「隋方ノコトバ、皆陀羅尼」ト云ヘリ。佛モシ我国ノ出給ハバ、只我国ノ詞以テ、陀羅尼トシ給ベシ。・・・・日本ノ和歌モ、ヨノツネノ詞ナレドモ、和歌ニモチヰテ思ヲノブレバ、必感アリ。マシテ仏法ノ心ヲフクメランハ、無疑陀羅尼ナルベシ。 (4)宝厳寺連歌討論 第二 〇僧 近ごろの連歌では「指し合い」を嫌わないと云ってなんでも上げるのは邪道ではないか (注)「指し合い」 連歌・俳諧で、同字語や同義語などが規定以上に近くに出るのを禁じること。 〇時衆 連歌は百韻を構え、春夏秋冬・神祇・釈教・恋などと理を立て、人々が和合して自他の迷いの心を忘れるから、仏法にもかない、神明の受納にもあずかること疑いなし。 (5)宝厳寺連歌討論 第三 〇僧 連歌ではことに「賦」という文字を重要視するのはなぜか 〇時衆 諸種の例証をあげ、詩経に云う賦の辞の意義<物事をありのままうたうということ>を考え、わが国の歌でも言われてきたことでもあることを思うと、賦の字を用いることに何の不審があろう。 (注)くばる をこす あとふ ほどこす うけ うくる たまはる ふしもの(賦物)「布敷(しきそ)」「頌之」 (6)賦物(ふしもの) 連歌・俳諧の百韻または歌仙の一巻全体を規制する形式。句の中に特定の事物の名を詠みこむこと。また、一巻の要になる字や詞。鎌倉初期の鎖連歌は毎句に詠みこんだが、室町以降は形式的に発句だけにとどまった。 たとえば、初めは魚鳥、白黒などの物の名を各句に詠みこんで一巻を規制したが、後には何人(なにひと)、山何(やまなに)などの何の箇所に発句中の字や詞を入れて成語とするものだけになった。 『水無瀬三吟百韻 』の題は「賦何人 連歌」で,発句の「雪ながら山本かすむ夕べかな」のなかの「山」を,題の「何」と置き換えると「山人」という熟語ができる。 (精選版 日本国語大辞典) (7)宝厳寺連歌討論 第C 〇僧 念仏について安心区々也。当番往生、即得往生と云う。一遍上人は「帰名往生」を宗として、又踊念仏とて首を振り手足を動かし給ふは一心不乱の心か 〇時衆 名号不思議の本願に会えることを悦んで歓喜踊躍する心なるべし。例えば仏在世の緊那羅が瑠璃の琴を弾かすと、迦葉尊者が不覚にも立って舞い給うたこと。 (8)宝厳寺連歌討論 第C 〇僧 面々の踊り跳ね申す念佛と禅宗の安閑の座禅とは同じか。「 〇時衆 不同不別。各々の三昧である。 〇僧 「各々三昧」とは如何なるものか。 〇時衆 「鶏寒ふして木に登り鴨寒ふして水に入る」 (10)宝厳寺連歌討論 第D 〇僧 善導和尚の念仏には口より仏が出で給ふと承っているが、数遍に及ぶ念仏をするも曽って一仏も口から出ない・ 〇時衆 (打ち笑って)何と申す仏が口より出でたか。善導の口から出で給ひし仏は、只是「南無阿弥陀仏」にて候。それこそ仏よ。 (11)宝厳寺連歌討論 第E 〇僧 地獄極楽とは事事余所にはあるべからず候や。 〇時衆 地獄は地獄に非ず。我が心に地獄有り。極楽は極楽に非ず。我が心に極楽有り。 〇僧 極楽とは何とて申し候ぞ。 〇時衆 地には苦しみ多く天には楽しみ多く候ほどに凡夫の終りを「極」と云い、命終して天然の空理に帰るを「楽」と申し候。此外は才覚に及ばず候。 (12)宝厳寺連歌討論 第F 〇僧 肝要は佛に成ることが我人の所期にて候。佛には如何にして成り候ぞ。 〇時衆 宗々不同、出離得道の安心も唯一ならず候か。 古徳に「佛には成ること難く成りやすし 成るになられず成らずしてなる」 念仏の行者の「即身成仏」なるは「念仏申さず時は只悠々の凡夫なり。数珠をとり南無阿弥陀仏と唱うればやがて佛なり。 肝要は造次?沛南無阿弥陀佛と唱ふる外に得る所はなし。 (13)宝厳寺連歌討論 第G 〇僧 時衆は六時行体浄土門の外は才智ましまさずと存じていたが、是程まで広智の法門と承った。当方から申すべき漢才法門とも逆に盡され申すに付いて 「逆さまに降る春の雪哉」と云ひければ 〇時衆 「谷風に散り敷く花やあかるらん」と付ける。 僧・時衆・聞く人も一度に?(どう)と笑いける。 6、大山祗神社法楽連歌 和田茂樹編『大山祇神社法楽連歌』(1986) 〇期間を3区分に分け、今次発表は第1期のみ。 第1期 室松中期(文安二年1445〜永正元年1504)<60年間> 第2期 室町後期・安土桃山(大永五年1525〜文禄二年1593)<70年間> 第3期 江戸初期(寛永一四年1637〜萬治三年1660)<20年余> 〇法楽連歌の作者 (1) 河野通直とその一門 @ 河野教通(二代通直) A河野道宣<教通長男> 河野一門 @通定 A九郎 B通重 C通安 D道貞 (2) 時宗(時衆)僧・真言僧・盲法師 時衆僧 @其阿 A弥阿 B眼阿 C重阿 D覚阿 真言僧 E信禅F良真 <真言宗石手寺> 盲法師 G永一(栄一・栄都) H親一 I清一 (注)其阿<奥谷宝厳寺> A弥阿<内子願成寺ヵ> ○大山祗神社法楽連歌(和田茂樹 解説) 「第一期六十年間の法楽は、大山積神を氏族神とする河野家が中心となり、通直(教道)主催のもとにその一門の武将武士が参加し、河野家出身の一遍上人の法系、宝厳寺其阿ら連歌に卓越した時宗僧の指導により、真言宗石手寺の僧や、盲法師なども連衆となって興行されたものであり、河野家一門一座の連歌といった感がある。」(和田 『連歌』326頁) (注)河野教通(二代通直) ?〜明応九年(1500) 河野通久の子。永享七年(1435)父の戦死後、伊予の守護職を継ぐ・ その地位をめぐって分家の河野通春や管領細川勝元と争い、通春との抗争は長く続いた。 応仁の乱では西軍に属す。文明七年(1475同族出身の一遍の木像(宝厳寺蔵 焼失)をつくらせたり、大山祇神社の法楽連歌に名を連ねたりする文化人でもあった。 7 宝厳寺時衆 (1) 其阿弥陀仏 @宝厳寺蔵「一遍上人木像」<焼失 国指定重文> 当住 其阿弥陀仏 檀那 (河野)通直 願主 彌阿弥陀仏 文明七年(1475)乙未一月十九日 〇文明十二年(1480) 千句 其阿 〇文明十四年(1482) 万句 其阿 A重要文化財「清浄光寺時衆過去帳 僧衆」(印刷本88~89頁) 遊行廿一代 明応六年(1497)五月八日始之 ・・・其阿弥陀仏・・・与州宝厳寺 他阿弥陀仏 遊行廿一代 永正十年(1513)五月八日寂 其阿弥陀仏(与州宝厳寺)は遊行二十一代の6人目の往生者である。上記宝厳寺住職「其阿」が同一人と考えても矛盾はない。(1475〜1482〜1500?) (2)遊行二十一代「智蓮上人」<伊予との関係が深い> ⇒『遊行・藤沢歴代上人史」(禰%c修1989) ⇒『時宗辞典』(時宗教学研究所1989) 上野(群馬県)岩松新田氏。長禄三年1459―永正十年1513 内子願成寺十九世、智蓮、珠阿、七条十三世弥阿・・・遊行二十一代(明応六年1497〜永正十年1513) ◎遊行二十一代智蓮は「弥阿」を名乗っても「其阿」を名乗ることはあり得ない。 (3)其阿弥陀仏の読み方 @き あみだぶつ 「當時の武鑑を閲するに、連歌師の部に淺草日輪寺其阿(きあ)と云ふものが載せてあつて、壽阿彌(じゅあみ)は執筆日輪寺内壽阿曇「(どんてう)と記してある。」 寿阿弥の手紙 (旧字旧仮名) / 森鴎外(著) Aごあ しょうにん 時宗僧。寛保3年八代将軍吉宗六十賀の千句に里村家とともに一座した連歌師でもある。 (4)宝厳寺時衆 彌阿弥陀仏 1、宝厳寺蔵「一遍上人木像」<焼失 国指定重文> 当住 其阿弥陀仏 檀那 (河野)通直 願主 彌阿弥陀仏 宝厳寺蔵「一遍上人木像」願主 彌阿弥陀仏(1475)は、遊行二十一代智蓮の内子願成寺当時(16歳)で年代的には矛盾はない。<断定は出来ない> 一遍の法弟伊予房弥阿聖戒(六条派)は内子願成寺の開祖であり、智蓮が「弥阿」を称することもありうる。 彌阿の「連歌」参加は「宝厳寺住職」ではない。「宝厳寺住職」は、あくまで「其阿」である。 8、おわりに 1)宝厳寺時衆連歌文化 万事を念佛と心得て連歌をやっている。 日本ノ和歌モ、ヨノツネノ詞ナレドモ、和歌ニモチヰテ思ヲノブレバ、必感アリ。マシテ仏法ノ心ヲフクメランハ、無疑陀羅尼ナルベシ。 連歌は百韻を構え、春夏秋冬・神祇・釈教・恋などと理を立て、人々が和合して自他の迷いの心を忘れるから、仏法にもかない、神明の受納にもあずかること疑いなし。 2)宝厳寺時衆文化の継承・発展 伊予中世期における河野氏と宇都宮氏、西園寺氏、(一条氏)との文化・文芸の的交流の可能性。(京都、鎌倉の先進文化の取り込み) 〇宝厳寺時衆連歌 ⇒連歌フェスティバル 〇宝厳寺時衆「踊念仏」(盆踊り)⇒「踊念仏(念仏踊り)」フェスティバル 〇宝厳寺時衆文化展 ⇒「伊予の豪傑 一遍時衆と子規山脈 」 一遍上人 生誕900年・入寂850年 記念祭 2036年(令和18年)】<15年後> 【参考文献】 |