第七十二章 「遊行上人伊勢参宮」考 一遍会例会 卓話(2018.5.12)
はじめに

 平安期以降の月参り・巡礼・辺地・遍路
@「伊勢へ七度、熊野へ三度、お多賀さま(愛宕さま)へは月参り」〜
A「西国三十三ケ所巡礼」(起点熊野・那智)那智山青岸渡寺〜谷汲山華厳寺」
B「四国八十八カ所札所遍路」(起点高野山・熊野・阿波)」八十八ヵ所霊場+金毘羅宮

1、一遍は伊勢参宮をしなかったか


文永十一年1274 熊野・本宮証誠殿   
建治二年 1276 大隈・一宮大隈正八幡宮
建治三年1277 豊後・宇佐八幡宮
弘安元年1278 安芸・一宮厳島神社
弘安元年1278 備前・吉備津宮 
弘安三年1280 白河・関の明神の宝殿
弘安五年1282 伊豆・三島神社
弘安六年1283 尾張・甚目寺にて伊勢大神宮が蜂の姿(神使)で結縁)
弘安六年1283 近江草津遊行中深夜、伊勢大神宮、山王権現(日吉神社)が結縁
弘安八年1285 美作・一宮中山神社
弘安九年1286 摂津・一宮住吉大社
弘安九年1286 山城・男山・石清水八幡宮
弘安十年1287 播州・松原八幡宮
弘安十年1287 備後・一宮吉備津神社
弘安十年1287 安芸・一宮厳島神社
正応元年1288 伊予・一宮大山祇神社
正応二年1289 伊予・一宮大山祇神社
正応二年1289 淡路・二宮大和大国魂神社
正応二年1289 淡路・志筑北野天神
正応二年1289(摂津観音堂にて西宮大明神と夢中にて結縁)
(注)研究者の中には一遍は民衆宗教家であり、天皇家の神社である伊勢神宮を忌避したとの言及もある。

2、伊勢神宮からなぜ「神」(結縁)が来たか 


「又、不思議なりしことは、近江の国草津(多賀大社との関連)と申す所におはせし時、中夜をはりて人みなしづまりて後、にはかに雷電し、雨あらく風はげしかりしに、聖おきゐ給へり。そのかたはらにしかば、「たヾいま結縁のために伊勢大神宮のいらせ給ふに、」山王(山王権現・日吉大社)もいらせ給ふなり。不信のものども小神たちに罰せられて、おほく病悩のものありぬとおぼゆるぞ)と仰せられき。」(『一遍聖絵』第七、1段)
「又、萱津(愛知県海部郡甚目寺町)の宿におはしける時も、「伊勢大神宮のいらせ給はむずるが、蜂にて現ぜさせ給ふべきなり」との給ひけるに、日中はじまりければ、道場におほきなる蜂充満したりけれども、人をさす事もなくて日中はてければ、みなとびさりにけり。」((『一遍聖絵』第七、1段))
(注)『一遍聖絵』では国難でもあった元寇について一切触れていない。顕密体制下の天皇国家にあって「伊勢大神宮との結縁」と元寇の戦時体制を結びつけるのは歴史の深読みヵ。

3、他阿真教の伊勢参宮と参拝神社


正応三年1290 越前・惣社(武生府中惣社)
正応三年1290 越前・惣社
正応五年1292 越前・惣社
正安三年1301 越前・一の宮気比(けひ)大神宮(敦賀)
○正安三年1301 伊勢・伊勢神宮
正安四年1302 近江・小野社(大津)
正安三年十月、伊勢大神宮へ参詣。
外宮にて、真教上人の手より金色の光りを放つ。続いて内宮を参詣する。(『遊行上人伝』第九巻一段)

「正安三年十月の比、伊勢国へ入り給ふ。同十一月の始、櫛田の赤御堂に逗留ありけるが、此の次で似太神宮(外宮)へ参詣すべきよしの給ひけるを 凡そ当宮は僧尼参詣の儀たやすからざるうへ、如比 遊行多衆の聖宮中へいり給ふ事いまだ其の例なし。且若干の尼衆の中には月水等のけがれあるべし。又疥癩人などつきしたがひ奉れり。是又宮中へ入る事禁制あり・・・、疥癬のたぐひをば宮河の辺に留め置きて自余の僧尼以下は皆引き具して外宮にもうで給ふに敢へて制したてまつる人なし。これによりて中の鳥居までまいりて十念をとなへ給ふ。宮居久しく神さびたるけしき余の社のすぐれ渇仰を至し信心をもよをす事他の神に超えたり。・・・かくて宮中出入のともがらに念仏をすゝめ給ふに神人等この所の風俗としてかくのごとくの儀いましめられ侍りとて一人もうくるものなし。爰に宮の政所太夫雅見(まさみ)といふもの、おりふし参宮して下向しけるが、聖の念仏をすゝめ給ふ。御手より金色の光、其の色あざやかにして、上へ一尺五六寸ばかり、左右に一尺七八寸許見え給ふ。又同じき御手より五色の瓔珞(ようらく)二尺許玉を貫きてうごくがごとくしてたれたり。(略)

又次日内宮へまうでたまふ。御裳洗河(御手洗川)に浴水をもちゐて漸く社壇におもむきたまふに・・・さて二の鳥居にて十念となへて下向したまふに、内宮一禰宜申して云く 神の法楽人の結縁のためとて日中の礼賛を所望し侍りけるに、社頭は其の例なき 間道のかたわらなる芝の上にて例のごとく一時念仏あり。」

4、伊勢神宮の仏教忌避

 『沙石集』巻「「大神宮御事」の冒頭に、「去弘長年中、太神宮へ詣テ侍シニ、或社官ノ語シハ、当社二三宝ノ御名ヲ忌、 御殿近クハ僧ナドモ詣デヌ事ハ=⊥とあるように、伊勢神宮には僧尼の参詣を忌避するしきたりが存在した。かかる規定は平安初期の 『皇太神宮儀式帳』 の時代以前にまで遡るもので、神宮の伝統になっていた。

しかし平安末期に至るや、僧徒の伊勢参宮のブームが起こる。これは、平家の焼き討ちによって焼亡した東大寺再建祈願のために大勧進垂源(一一一二〜一二〇六)と東大寺衆徒等が始めた伊勢神宮参詣を契機とするもので、鎌倉時代を通じて隆盛を極めた。

では、僧徒は参詣において、神宮域内のどこまで参入することが許されたのだろうか。
(参考)虎関師錬『元亨釈書』(鎌倉末期)巻十八「伊勢皇大神宮」条

「論日、予詣勢州神祠。高山環峙、清河繞流。杉林森矗、大数十囲、高百余尺。一鳥毒不鳴幽□?爾。殿製朴古、蓋茅茨、無彫刻。行人屏息、蹄足入中。心己粛如也。漸進殿前、一覡(神官)呵曰、此神不愛沙門、莫近也。遮止一大樹下。」
「一大樹下」・・・外宮「五百枝杉」、内宮「百枝杉」は、寛保三年(一七三二)『斎居通読篇』では「然れども何処に在て、何の木こそ其神也とも知る人なく云々」と記載。

(参考)鎌倉時代の五百枝杉・百枝松
弘安年中の成立である通海の『大神宮参詣記』(通称『通海参詣記』)である。
 内宮ニマイリ侍レバ二鳥居ノ辺ニシテ甚深ノ法施ヲタテマツル。鳥居ノウチニ大ナル木ノモトニモトヨリ僧一人アリテ、布衣ノ俗卜対面シテ、当宮ノ御事ヲ問答スル事カラ也。(上巻一段)
 同十五日ノ朝、通夜ノ法施ヲハリテ、下向サマニ又豊受宮二参リタレハ、昨日ノ僧、モトヨリ御池ノ辺二霊木ノ下二念諦シテ侍、(上巻一三段)
(注)二祖他阿真教『遊行上人縁起絵』記述との整合性あり。

5、おわりに

 古来日本人の精神構造は神祇崇拝・神仏混淆であった。特に一遍は遊行に当たって各地の「一の宮」はじめ八幡宮を参詣した。一遍にとっては「ネコ(禰子)もシャクシ(釈子)」も賦算対象であった。鎌倉新宗教の中には神仏崇拝を拒否した親鸞の教義もあったし、一方、多くの寺社で聖や被差別民衆を忌避したのも事実である。

主要参考書
『定本時宗宗典』(山喜房)
『一遍全集』(橘俊道・梅谷繁樹 春秋社)
『宗教文芸の言説と環境』(シリーズ日本文学の展望を拓く 第三巻 笠間書院)
『絵で見る―遊行上人伝―』(長島尚道 真光寺)
講話のレジュメ
一、 はじめに

〜「伊勢へ七度、熊野へ三度、お多賀さま(愛宕さま)へは月参り」〜
⇒「西国三十三ケ所巡礼(起点熊野・那智)@那智山青岸渡寺〜(33)谷汲山華厳寺」
⇒「四国八十八カ所札所遍路(起点高野山・熊野・阿波)」+金毘羅宮
〜「遊行上人四国回国(道後・宝厳寺)  出典『遊行日監』
⇒伊佐爾波神社・・・「一遍上人遊行透かし彫り」<現存>
⇒湯神社・・・・・・別府通広(一遍実父)神社(「子守社」)、墓石(「石棺」)<現存>
⇒岩崎神社・・・・・河野家祖霊<現在の岩崎神社ヵ>

2、 なぜ一遍は伊勢参宮しなかったか

(一遍智真の参拝神社)
文永十一年1274  熊野・本宮証誠殿   
建治二年 1276  大隈・一宮大隈正八幡宮
建治三年 1277ヵ 豊後・宇佐八幡宮 (『一向上人縁起絵詞』) 
弘安元年 1278  安芸・一宮厳島神社
弘安元年 1278  備前・吉備津宮  安仁神社(岡山市西大寺)ヵ<浅山圓祥説>
弘安三年 1280  白河・関の明神の宝殿
弘安五年 1282  伊豆・三島神社<伊予・大三島大山祇神社の分社ヵ>
○弘安六年 1283 (尾張・甚目寺にて伊勢大神宮が蜂の姿<神使>で結縁)
○弘安六年 1283 (近江草津遊行中深夜、伊勢大神宮、山王権現(日吉神社)が結縁)
弘安八年 1285  美作・一宮中山神社(法性の宮)
弘安九年 1286  摂津・一宮住吉大社
弘安九年 1286  山城・男山(石清水)八幡宮<豊後・宇佐八幡宮の分社>
弘安十年 1287  播州松原八幡宮
弘安十年 1287  備後一宮吉備津神社
弘安十年 1287  安芸・一宮厳島神社
正応元年 1288  伊予・一宮大三島大山祇神社
正応二年 1289  伊予・一宮大三島大山祇神社
正応二年 1289  淡路・二宮大和大国魂神社(祭神 伊弉諾尊)
正応二年 1289  淡路・志筑北野天神
○正応二年 1289 (摂津観音堂にて西宮大明神と夢中に結縁)

(注)宇佐・男山・松原(石清水別宮)・志筑(北野天神) 伊勢神宮
他は 式内社(古代国家の神<大和朝廷系>でない)
神祇崇拝 山岳仏教(修験道) 民間信仰 伊勢神宮への参詣なし。

熊野・本宮証誠殿:
「熊野の本地は弥陀なり、和光同塵して念仏をすゝめ給はんが為に神と現じ給ふなり。故の証誠殿と名づけたり。是念仏を証誠したまう故なり。阿弥陀経に『西方に無量仏まします』といふは、能証誠の弥陀なり。」

大隈・一宮大隈正八幡宮:
「とことはに南無阿弥陀仏ととなふればなもあみだぶにむまれこそすれ」

山城・男山(石清水)八幡宮:

「極楽にまゐらむとおもふこゝろにて南無阿弥陀仏といふぞ三心」

浄土宗 真宗  「専修念仏」  「善人往生す なおもて悪人をや」

時衆制誡 @「専仰神明威 莫軽本地徳」
     A「専念仏法僧 莫忘感応力」
     B「専修称名行莫勤余雑行」


2、伊勢神宮からなぜ「神」が来たか

(伊勢神宮の結縁)「聖絵」第七、1段 <弘安六年(1283)>
<元寇:文永十一年(1274)、弘安四年(1281) 神風 伊勢大神宮 天皇家 >

「又、不思議なりしことは、近江の国草津(多賀大社との関連)と申す所におはせし時、中夜をはりて人みなしづまりて後、にはかに雷電し、雨あらく風はげしかりしに、聖おきゐ給へり。そのかたはらにしかば、「たヾいま結縁のために伊勢大神宮のいらせ給ふに、」山王(山王権現・日吉大社)もいらせ給ふなり。不信のものども小神たちに罰せられて、おほく病悩のものありぬとおぼゆるぞ)と仰せられき。

又、萱津(愛知県海部郡甚目寺町)の宿におはしける時も、「伊勢大神宮のいらせ給はむずるが、蜂にて現ぜさせ給ふべきなり」との給ひけるに、日中はじまりければ、道場におほきなる蜂充満したりけれども、人をさす事もなくて日中はてければ、みなとびさりにけり。」
(注)神使:雷電 蜂


3、他阿真教の伊勢参宮

(他阿真教の参拝神社)
正応三年 1290  越前・惣社(武生=府中惣社)
正応三年 1290  越前・惣社
正応五年 1292  越前・惣社
正安三年 1301  越前・一の宮気比(けひ)大神宮(敦賀)
○正安三年 1301  伊勢・伊勢神宮(間道にて念仏を称える)
正安四年 1302  近江・小野社(大津)

『遊行上人伝』第9巻1段

正安三年(1301)十月、伊勢大神宮へ参詣。外宮にて、真教上人の手より金色の光りを放つ。続いて内宮を参詣する。
「正安三年十月の比 、伊勢国へ入り給ふ。同十一月の始、櫛田の赤御堂に逗留ありけるが、此の次で似太神宮(外宮)へ参詣すべきよしの給ひけるを 凡そ当宮は僧尼参詣の儀たやすからざるうへ、如比 遊行多衆の聖宮中へいり給ふ事いまだ其の例なし。且若干の尼衆の中には月水等のけがれあるべし。又疥癩人などつきしたがひ奉れり。是又宮中へ入る事禁制あり 旁々はばかりあるべしなど申す輩侍りけれども追ひ返されむ所までまいるべしとて、疥癬のたぐひをば宮河の辺に留め置きて自余の僧尼以下は皆引き具して外宮にもうで給ふに敢へて制したてまつる人なし。これによりて中の鳥居までまいりて十念をとなへ給ふ。宮居久しく神さびたるけしき余の社のすぐれ渇仰を至し信心をもよをす事他の神に超えたり。
(略)
かくて宮中出入のともがらに念仏をすゝめ給ふに神人等この所の風俗としてかくのごとくの儀いましめられ侍りとて一人もうくるものなし。爰に宮の政所太夫雅見(まさみ)といふもの、おりふし参宮して下向しけるが、聖の念仏をすゝめ給ふ。御手より金色の光、其の色あざやかにして、上へ一尺五六寸ばかり、左右に一尺七八寸許見え給ふ。又同じき御手より五色の瓔珞*(ようらく)二尺許玉を貫きてうごくがごとくしてたれたり。
(注)瓔珞*(ようらく):仏像の天蓋、また建築物の破風はふなどに付ける垂れ飾り。
(略)
又次日内宮へまうでたまふ。御裳洗河(御手洗川)に浴水をもちゐて漸く社壇におもむきたまふに神風ひさしくつたはりて業塵をはらひ霊水遠く流れて心垢をきよむるかとぞおぼえたる。
さて二の鳥居にて十念となへて下向したまふに、内宮一禰宜申して云く 神の法楽人の結縁のためとて日中の礼賛を所望し侍りけるに、社頭は其の例なき 間道のかたわらなる芝の上にて例のごとく一時念仏あり。聴聞の上下感涙をおさへて信仰し侍り。
凡そ外用の仏法に敵すり暫く魔王に順じて国土を領せんがため内証の利生を専らにする つゐに群萌をこしらへて仏界に入れむ事を欲するや 此の事は雅見注進状並びに一禰宜夢想 とて後日に神宮より上人に進ぜられけるとなむ。

4、伊勢神宮の仏教忌避

 『沙石集』巻「「大神宮御事」の冒頭に、「去弘長年中、太神宮へ詣テ侍シニ、或社官ノ語シハ、当社二三宝ノ御名ヲ忌、 御殿近クハ僧ナドモ詣デヌ事ハ=⊥とあるように、伊勢神宮には僧尼の参詣を忌避するしきたりが存在した。かかる規定は平安初期の 『皇太神宮儀式帳』 の時代以前にまで遡るもので、神宮の伝統になっていた。

 しかし平安末期に至るや、僧徒の伊勢参宮のブームが起こる。これは、平家の焼き討ちによって焼亡した東大寺再建祈願のために大勧進垂源(一一一二〜一二〇六)と東大寺衆徒等が始めた伊勢神宮参詣を契機とするもので、鎌倉時代を通じて隆盛を極めた。
 では、僧徒は参詣において、神宮域内のどこまで参入することが許されたのだろうか。江戸時代には「僧尼拝所」が設置されていたことが知られる。

寛政九年(一七九七)刊行の 『伊勢参宮名所図会』 によると、
外宮は 「僧尼拝三の鳥居の前、流水の小橋をわたり左にあり。正殿に向へり。僧尼・山伏・法体人・此において拝し奉る。」(巻四)
内宮は「五十鈴川を隔てゝ本宮の向にあり」(巻五)とある。内宮の僧尼拝所については、同図会の挿絵(内宮宮中図)には、内宮正面の南方、五十鈴川を隔てて小さな屋舎が描かれている。

鎌倉末期に成った虎関師錬『元亨釈書』巻十八「伊勢皇大神宮」条

 「論日、予詣勢州神祠。高山環峙、清河繞流。杉林森矗、大数十囲、高百余尺。一鳥毒不鳴幽□?爾。殿製朴古、蓋茅茨、無彫刻。行人屏息、蹄足入中。心己粛如也。漸進殿前、一覡呵曰、此神不愛沙門、莫近也。遮止一大樹下。」

(注)一覡(神官)現れて、紙は僧徒を愛さざるゆえそれ以上ちかづくなと咎め、「一大樹下」に止められた。

「一大樹下」 外宮 「五百枝杉」  内宮 「百枝杉」 寛保三年(一七三二)『斎居通読篇』では「然れども何処に在て、何の木こそ其神也とも知る人なく云々」と記載。

 鎌倉時代の五百枝杉・百枝松
弘安年中の成立である通海の『大神宮参詣記』(通称『通海参詣記』)である。
 内宮ニマイリ侍レバ二鳥居ノ辺ニシテ甚深ノ法施ヲタテマツル。鳥居ノウチニ大ナル木ノモトニモトヨリ僧一人アリテ、布衣ノ俗卜対面シテ、当宮ノ御事ヲ問答スル事カラ也。(上巻一段)
 同十五日ノ朝、通夜ノ法施ヲハリテ、下向サマニ又豊受宮二参リタレハ、昨日ノ僧、モトヨリ御池ノ辺二霊木ノ下二念諦シテ侍、(上巻一三段)

(注)対話者の一方である僧は、内宮にては二鳥居の内にある「大ナル木ノモト」に、外宮でも「御池」(外宮正殿前にある池)付近の「霊木ノ下」に止まっていたのである。これらが五百枝杉・百枝松を指すと考えられる。

⇒二祖他阿真教『遊行上人縁起絵』記述との関連 整合性あり。

5、おわりに(仮説)

一遍の神祇崇拝     神仏混淆  親鸞と一遍の「神・仏」信仰

[天皇・公家  寺社  武家  農民]  山人・海人  被差別(乞食 芸人 ライ者 など)

→ 天皇国家(荘園・顕密体制)からの疎外  伊勢神宮からの忌避

「花の事は はなにとへ。紫雲の事は 紫雲にとへ。一遍しらず」(『聖絵』第六@