第六十五章  七郎明神社の所在について
一、 はじめに
 「七郎明神社」といっても宗門はもとより一遍生誕の地伊予国道後(愛媛県松山市道後町)でも知る人は少ない(と、思う。) 平成28年(2016)5月14日 宝厳寺の落慶法要にあたり、他阿真円第74代遊行上人(時宗法主)が宝厳寺に来られたが、歴代遊行上人がお参りされた「七郎明神社」に立ち寄られることはなかった。
 平成二八年(2016)八月、湯神社の歴代宮司であった烏谷氏の社家が取り壊された。事情を知らない町民、氏子にとってはショックな出来事だった。個人情報保護の見地から『一遍聖絵』にあやかって「恐繁略之」としておきたい。
 湯神社境内に存在するとされる河野七郎通広(一遍実父)を祭る七郎明神社(児守社)の場所を確認しておかねばと思い立ち、宝厳寺関係者や商店街の幹部に尋ねたが確答を得ることが出来なかった。そこで文献調査を開始し、一遍会の創立に尽力された一遍堂主人 故新田兼市氏の記録から確認できた。
【この由緒ある児守社は、温泉センター建設当時、地行(ママ)のため一時とりのぞかれ、冠山の湯神社の境内の以前の位置に多少修築され、昔のままに、菓祖中島神社と並んで建立されていますが、世の移り変りとともに、人々に知られないままにあります。】(『時衆 あゆみ (一遍の仏念)』(1976))
(注)「道後温泉センター」とは (省略)
二、 「七郎明神社」の文献調査
七郎明神社(児守社)の記録は、幸いなことに数多く残っている。
@【七郎明神 是は一遍上人の父河野七郎通広を祝ひ祭る宮也。湯神社石壇の端に祠有り、】 『予陽郡郷俚諺集』(松山藩家老 奥平藤左衛門貞虎<1668〜1710>編、宝永七年(1710)完)
A【阪(坂ヵ)中央開林叢祠、曰児守明神、是皆為湯神社之属祠也、】『伊予古蹟志』(松山藩士 野田石陽<1775〜1827>著。文政年間(1818〜1830)完)
B【出雲岡烏谷に葬る、小祠建営、称河野父神廟】『宝厳寺旧蔵「河野系図」』
C【七郎大明神は湯神社の坂中右脇の小社也。】『伊予国旧蹟考』
時宗関係では『遊行日鑑』に遊行上人の四国回国に克明に行動記録が残されている「遊行日鑑」によれば、宝厳寺に宿泊し、伊佐爾波神社・湯神社(塚)・岩崎神社を参詣している。湯神社・岩崎神社は河野通広に縁があり、一遍も恐らく訪ねたのではあるまいか。但し、郷土史研究では研究者が参照することが多い『愛媛面影』(半井梧庵<1813〜1889>著、慶應二年(1866)完)では七郎明神社(児守社)についての記述はない。
D『遊行日鑑』抜粋
○ 遊行五一代賦存(延享四年1747)
 【延享四年六月二日 今日四ッ時八幡宮江御社参之筈なり、(略)神前ニ而御拝、略懺悔、弥陀経念仏回向、夫より二畳台御着座、神楽相済候而御帰り、夫より河野七郎大明神宮江御参詣、御輿ニ而御拝、(略)】
○遊行五六代傾心(文政九年1826)
 【文政九年八月一五日 八幡宮回廊ニ而御下車、此処御手水有之、二畳台ニ而如法衣御召、神前ニ而御拝、略懺悔、弥陀念仏一会、?而二畳台ヘ御着座、神楽相済、夫ヨリ河野古城跡岩崎明神ヘ御社参、湯ノ神社、七郎明神各心経一巻之御法楽、夫ヨリ温泉玉之石被遊御覧、御帰リニ相成候条、(略)】
 昭和三四年(1959)五月二一日〜二五日、「宗祖六百六十年御遠忌」が宝厳寺で修行され、遊行七十一世隆宝上人<1888〜1981>が宝厳寺で親修の節、七郎明神社(児守社)で法要が行われた。当時の住職は永浜秀道師であった。(当時の資料、写真を保存されている方がいればぜひ開陳いただきたい。)

七郎明神社を「児守社」と表示する文献調査は進んでいないが、遊行四六代尊証上人<1644~1700>が元禄「十三年伊予に入り、ここで松山宝厳寺の栗を再建、児守社を参詣し拝志村の別府墓所代参などを行って」いる。(禰宜田修然・高野修『遊行・藤澤上人史』1989)参考「時宗教学年報第六輯橘俊道師「元禄時代の遊行」。

宝厳寺の塔頭は十二坊あり、法師庵と尼庵があったことと関連があるのかもしれない。拝志村の別府墓所には通広はじめ一遍の係累の墓所があった(らしい)。

一方、下記の説もある。http://momijiaoi.blog.jp/archives/1052443134.html[ たんぽぽろぐ」より

児守社
祭神は神大市姫命、鎮疫神、下陣河野七郎通広霊。
松山城東麓にありましたが、築城に伴い当社末社の河野霊神に合祀。
河野通広は時宗の開祖一遍上人の父。
三、おわりに
 由緒ある一遍ゆかりの七郎明神社(児守社)についての由緒を掲示し、伊佐爾波神社・湯神社・岩崎神社(湯築城址)のコースの設定を切望する。南無阿弥陀仏。