第七十七章 時宗奥谷派の盛衰 ―時衆奥谷道場(宝厳寺)・松前道場(金蓮寺)― |
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はじめに 目 次 はじめに 〜時衆と時宗〜 1)「二祖真教上人七百年御遠忌」 時宗総本山 藤沢山無量光院清浄光寺(遊行寺) 2)時衆(時宗)の三祖師 3)時宗(時衆)十二派 第一章 遊行上人と武家 〜敵味方供養〜 1)遊行五代 藤澤二世 安国 弘安二年〜延年二年(1279〜1337) 2)遊行六代 藤沢三世 一鎮 建治三年〜文和四年(1277〜1355) 3)遊行七代 託何 弘安八年〜文和三年(1285〜1354) 第二章 奥谷道場宝厳寺と松前道場定善寺 〜山人と海人と〜 1)宝厳寺縁起と定善寺縁起 2)伊予の時衆道場と一遍ゆかりの寺) 3)伊予を取り巻く時衆道場 4)時宗総本山遊行寺の統治機構と宝厳寺・定善寺の位置づけ 第三章 遊行七代託何上人と奥谷派 〜遊行派の覇権〜 1)託何上人著述「条々行儀法則」 2)遊行派消滅のプロセス おわりに 〜一遍の遺したもの〜 1)奥谷派大檀那(河野得能家と河野宗家)をめぐって 2)遊行派の覇権と「一向宗」の独立 参考文献 『定本 時宗宗典(上・下)』(時宗宗務所 1979) 『一遍聖絵・遊行日鑑』(伊予史談会双書1986) ◎一遍上人語録(遊行開祖一遍) ○播州法語集(遊行開祖) ◎一遍聖絵(遊行開祖) ○一遍上人年賦略(遊行開祖) ◎一遍上人縁起絵(遊行開祖・遊行二祖他阿真教) ○麻山集(遊行二祖) ○奉納縁起説(遊行二祖) ◎ 條條行儀法則(遊行七祖他阿託阿) ◎ 禅時論 ほか 『重要文化財 時衆過去帳』(時宗教務部 1969) 『時宗末寺帳』(大橋俊雄 1965) 『遊行日鑑』(全三巻)圭室文雄 角川書店 1975 『遊行・藤沢歴代上人史―時宗七百年史』(禰宜田修然・高野修 1989) 『清浄光寺史』(長島尚道・高野修・長澤昌幸 清浄光寺<遊行寺> 2007) 『時宗の寺』(禰宜田修然 1960) 『時宗事典』(時宗教学研究所 1989) 「遊行上人の伊予回国」(『伊予史談』越智通敏(250〜252号)) |
はじめに 〜時衆と時宗〜 1)「二祖真教上人七百年御遠忌」 時宗総本山 藤沢山無量光院清浄光寺(遊行寺) 記念事業 (注)www.jishu.or.jp/ 詳細な内容掲載中。 @京都国立博物館 特別展 時宗二祖上人七百年御遠忌記念 「国宝一遍聖絵と時宗の名宝」 A遊行寺宝物館 神奈川県立歴史博物館(令和元年9月7日〜11月10日) 時宗二祖上人七百年御遠忌記念特別展 「真教と時衆」 B総本山御本尊大修理 C堂宇整備事業 2)時衆(時宗)の祖師 遊行初代 一遍房智真 自阿弥陀仏 奥谷派開祖 (仙阿弥陀仏) 道後 寶嚴寺 遊行二代 真教 他阿弥陀仏 当麻派開祖 (内阿弥陀仏) 当麻 無量光寺 遊行四代 呑海 他阿弥陀仏 遊行派開祖 藤沢上人第一世 藤沢 清浄光寺 (現上人 真円 遊行上人七十四代 藤沢上人第五十七世) (注)当麻・藤沢(遊行)の路線対立 呑海が幕府の信任を受ける。藤沢・鎌倉は地勢的に近接 資料@ 「遊行・藤沢歴代上人略系図」(図録「真教と時衆」 時宗総本山清浄光寺 2019) 3)時宗(時衆)十二派 ○時宗成立 寛永九年九月 徳川幕府による宗教統制 ○『時宗要略譜』(元禄十年1697)浅草日輪寺呑了(遊行四十八代賦国上人) ○「十二」 阿弥陀如来十二光 (十二光箱 十二道具 『聖絵』十二巻 宝厳寺十二塔頭) 内阿(当麻派) 無量光寺(当麻道場) 檀那 大佛氏 千葉氏 浄阿(四条派) 金蓮寺(四条道場) 檀那 天皇家 足利氏 一遍―*真教―智得−呑海―安国―一鎮―託何―(遊行派) 清浄光寺(遊行寺) 檀那 俣野氏 国阿―(国阿派) 正法寺(道場) 檀那 石塔氏(足利一族) ―(霊山派) 雙林寺(道場) 檀那 石塔氏(足利一族) *心阿(仙阿)(奥谷派) 宝厳寺(奥谷道場) 檀那 河野・得能氏 *作阿(市屋派) 金光寺(七条道場) 檀那 空也遺跡市屋継承 王阿(御影堂派)(後嵯峨天皇皇子) 元五条・御影堂 現・新善光寺(長浜) *聖戒(六条派) 歓喜光寺 檀那 関白九条忠教 一向―(一向派) 蓮華寺(番場) 檀那 土肥氏 解阿(解意派) 新善光寺(茨城) 檀那 宍戸氏 (天童派) 仏向寺 檀那 天童氏 宇都宮氏 (注)*印を付した人物は『法水分流記』から判断して、一遍智真の影響が大である。 (注)人名、寺名は『清浄光寺史』(清浄光寺2007)に拠る。 |
第一章 遊行上人と武家 〜敵味方供養〜 (注)河野氏をめぐる動向に関しての識者の詳細な研究はあるが、今回は時宗文献をベースに報告する。年代的には微妙なズレがあるが、了とされたい。 1)遊行五代 藤澤二世 安国 弘安二年〜延年二年(1279〜1337) @ 元弘三年(1333)五月二二日、北条高時自刃。家臣南部十代右馬頭茂時らも切腹(『太平記』)、従臣佐藤彦五茂時遺骸を「藤澤道場」に運び、上人引導。従臣六名殉死。 茂時(正阿)、彦五郎(檀阿)、他に戒阿・忍阿・進阿・恵阿・定阿の七名に阿号授与.「過去帳」記載、墓は遊行寺裏山。 A 元弘三年(1333)五月二二日、京都六波羅探題北条仲時、時益らの軍は破れ、近江番場の堂(時衆・蓮華寺 現在は浄土宗本山蓮華寺)で、仲時以下屠腹(『太平記』)時阿弥陀仏越前前守仲時ほか百八十名の陸波羅南北(ろくはらなんぼく)『過去帳』(重要文化財)と墓がある。 このとき越前の淡河時治(時俊孫)も四散し一族二十余人も滅ぶが、近くの時衆が妻子を引導している(『太平記』) 北陸の淡河氏が初期の時衆の大檀那であった。二祖他阿真教の賦算第一号は淡河時俊。妻が一遍最後の賦算者(250万1724人目)(『一遍聖絵』『遊行上人縁起絵』) ⇒河野通盛(通治)軍も「京都六波羅」に居た。その後「行方不明(通説)」 B 建武二年二月(1335)、通盛(通治)が藤沢道場参詣、従者久万太郎左衛門通賢が上人の弟子となり「久阿弥陀仏」となる。『遊行・藤沢歴代上人史』 (注)建武三年(延元元年)望月崋山『時宗年表』 河野通盛(通治)は安国上人を頼って遁世を乞い、上人はこれを鎌倉建長寺南山士雲(1254〜1335)に請うて得度「善慧」させている。(浅山圓祥『一遍と時衆』) 建武二年八月、足利尊氏は征夷将軍として、幕府回復を図る北条高時の子時行を破り鎌倉に入り、武家政治の再興を宣言。この前後に南山和尚の推挙で尊氏と面会し、結果、尊氏から通盛(通治)に安堵状が出される。 「伊予国河野四郎通信跡の所領等の事 元の如く安堵すべきの状如件 建武二年(1335)九月十六日 尊氏 判 河野対馬守入道殿」(善応寺文書) 同年十二月十二日三条為冬軍と足利兄弟との駿河佐野山合戦で、その戦死者を弔って遺臣脇屋義助の臣下岩秀が時衆となり南朝山願生寺(裾野市)を建立する。(『太平記』) (注)『県史』と一年ズレている。但し久万通賢の建武二年得度記録あり。南山士雲の没年は建武二年十月七日である。建武二年であれば鎌倉、建武三年であれば京で対面した可能性が高い。 建武三年二月十五日 直義 安堵状(「県史」) 建武三年二月十八日 尊氏 安堵状(「県史」) (注)石野弥栄『中世河野氏権力の形成と展開』(戎光祥出版2015)では建武二年、建武三年説にも否定的である。建武三年三月には尊氏は九州へ西走中である。 〔同書 第一部鎌倉〜南北朝期河野氏の動向と権力基盤 第二節 南北朝期の河野氏と九州〕 (参考)伊予の安国寺(現臨済宗妙心寺派 温泉郡川内町則之内)は暦応二年(1339)、足利尊氏開祖、夢窓疎石の法嗣)普明妙葩(?〜1388)を開山として、守護河野通盛が建立した。 2)遊行六代 藤沢三世 一鎮 建治三年〜文和四年(1277〜1355)後醍醐天皇隠岐遷幸 元弘二年(1332)三月後醍醐天皇隠岐遷幸に当たり、皇女瓊子内親王が時衆安養尼となり。元弘三年伯耆五千石村安養寺(米子)開山。遊行中の一鎮上人について落飾、延元四年(1339)入寂(『伯耆志』) 以後十五世まで皇族が続き、十六世から男僧になる。由緒ある時衆寺院である。 3)遊行七代 託何 弘安八年〜文和三年(1285〜1354) @延元三年(1338) 越前敦賀金ヶ崎戦の死者弔う 「新田義貞」 「長崎道場に葬る」「源光院殿正四位上行前左近衛中将新田太守義貞覚阿弥陀仏」 ※「覚阿」は「建武四丁丑歳」を受ける。 長崎道場(福井市外 丸岡町 長崎道場 称念寺) (注)「さては義貞の首に相違なかいけりとて、屍骸を輿に乗せ時衆八人にかかせて葬礼の為に往生院へ送られ、首をば朱の唐櫃に入れ、氏家中務を副へて潜に京都に上せられけり」(『太平記』二十) A 義貞末子「貞氏」、託何上人(?)に救われ「良阿弥」と名乗る(『七条文書』) B 託阿上人書入「時衆過去帳」 神納二年(1351)二月二十六日 珠阿弥陀仏 武蔵守同子息 (注)高師直 同月同日 尊阿弥陀仏 越後守同子息等 為往生極楽也 (注)高師泰 C暦応五年(1342)春 大森彦七盛長が楠正成の亡霊に悩まされる 「去ぬる建武三年五月に、将軍自九州攻上り給し時、新田義貞兵庫湊河にて支へ合戦の有そ時、此大森の一族共、細川卿律師定禅に随て手痛く軍をし、楠正成に腹を切せし者也。されば其勲功也に異なりとて、数箇所の恩賞を給りてんけり。此悦を誇て、一族共、様々の遊宴を尽し活計しけるが、猿楽は是遐齢延年の方なればとて、御堂の庭に桟敷を打て舞台を布、種々の風流を尽さんとす。(略)彦七も其猿楽の衆なりければ・・・(『太平記』巻二十三) (注)「御堂の庭」は、松前 正善寺(性善寺 時衆 松前道場)と推定。 D 西国遊行(康永元年(1342)〜康永3年(1344)) 中国・九州の遊行賦算(都城)を終えて四国を遊行賦算 (注)・託何上人の遊行回国17年 康永元年(1342) 春、備後尾道道場(尾道市 常称寺 西江寺)開く。 康永二年(1343) 尾道道場に逗留『無上大利賛』(上下)述作 康永三年(1344) 4月、九州 (薩摩川内 称名寺 都城 光明寺など開山 6月 伊予 奥谷派を遊行派に編入。 『條々行儀法則』一巻 述作 秋、兵庫で四条二代浄阿らと連歌興行(『筑波集』巻二十) 康永四年(1345) 七条道場で『同行用心大綱註』 、『器朴論』三巻を完成さす。 不 明 『禅時論』執筆(疑問あり)。連歌論に重点が置かれている「龍谷大学図書館本」と時衆教学に重点がある河野憲善師蔵の2冊がある。 (注)『禅時論』 巻頭に「託何上人作」とあるが仮托ヵ。(『時宗辞典』) 道後宝厳寺の時衆に関係ある一文であり、道後温泉についても記述している。宝厳寺における連歌の様子に触れている。 「行脚には不如思立(ち)たる旅衣、苔の袂に身をやつし、金剛の座具に三衣の一鉢を持し、面目を開(か)んと柱杖に宝剣を横(たへ、諸国を往来する程に、南海道伊予国(に)わたり・・・・・伊予の湯の井桁はいくつ。左八右九、中は十□と悲願不思議の入出湯、夫より程近き一遍上人開山し玉ふ宝厳寺と云(ふ)道場を一見するに・・・・・) (注)「いよのゆの湯桁の数は左八つ右は九つに中は十六」(四辻善成「河海抄」(源氏注釈書)) |
第二章 奥谷道場宝厳寺と松前道場定善寺 〜山人と海人と〜 1)宝厳寺縁起と定善寺縁起 @宝厳寺縁起 『一遍上人略伝並に和歌』 小林覚住著 昭和二年三月三十日発行 寶厳寺 遊行元祖一遍上人御誕生舊跡たる伊予国道後場之町時宗寶厳寺は、人皇第三十七代斎明天皇の勅願に依り、天智天皇即位四年国司散位乎智宿禰守輿命を奉して伽藍を創建し子院十二坊を置く、曰く法雲、善成、輿安、醫王、光明、東昭、歓喜、林鐘、正傳、来迎、浄福、弘願是なり、今の松ケ枝町は其址なり、本尊は春日作三尊阿弥陀如来なり、初め法相宗にして主僧法興律師之に任す、此地道後温泉の東方奥谷と呼び斉明天皇並に天智天武三帝御行在の古跡なり、 大同元年弘法大師九州より皈途当山に留錫す、貞観十三年勅許に依ら出雲岡及び伊佐爾波二社神殿に於て祈雨の修法をなし、大に霊験あり爾来二社の別當を兼ぬ、天慶三年又勅命あり逆徒降伏の祈願をなし、主僧定照丹誠を抽んで奏功の後国守散位好方より橘郷饒田の里を寺領に賜る、建暦三年當山十一世真恵和尚京都鞍馬山より毘沙門天の御像を勧請す、国守伊豫之介通俊厄除のため友月台に其堂宇を建立す、 嘉禎三年前相国西園寺實氏下向の砌當山に入り如意輪観世音を信仰して霊験を蒙り厚く之を供養せり、 延應元年河野通廣の二男松壽丸當山別院に於て誕生す、之を時宗の開祖一遍上人とす、 天長七年天台宗に改宗し建治元年又時宗となる、明徳三年河野通範鐘棲閣を建立せり、文明七年河野刑部大輔通直本堂庫裡開山堂を再建す、天正十二年国守小早川隆景従来の寺領たる永田十五町三反歩を寄附す、然るに天正十六年国主福島正則故なく之を没収せり、寛文二年鐘楼門修繕四大柱は明徳三年の物を用ゆ、 延寶五年松平隠岐守定直公寺禄二十石を寄付せり、寛永七年観音堂再建同九年縁應和尚梵鐘を再鋳せり、現在の本堂は安永三年の改築にして庫裏は元禄十三年の建築なり、現境内六百六十餘坪北東南の三面山を繞らし、松樹蓊欝として青翆滴るが如う、南伊佐爾波神社に界し西遥に松山戚を望見す。開基以来大正十五年千二百六十年の星霜を経過せり。 A金蓮寺縁起(性尋寺 定善寺 )(現 真言宗智山派) 1)金蓮寺 松前町大字西古泉六五番地にあり、古くは性尋寺といった。山号は玉松山、院号は十二光院といい、真言宗智山派京都智積院の末寺で、本尊は海上出現の薬師如来(木像)である。明治四三年(1910)転派するまでは、高野山金剛三昧院の末寺であった。(明和八年『寺院判鑑』) 大同三年(808)河野氏によって開創され、天安元年(857)八月宗祖弘法大師の法孫が入って寺の基礎が確立され、貞観元年(859)には、玉生八幡大社の大別当に任ぜられた(別当金蓮寺末神宮寺)。 貞応元年(1222)唐僧明海が渡来、寛喜三年(1231)中興開基して性尋寺と号した(玉生八幡大神社『寺院取調書』)(『松前町史』(1979)) 2)文禄四年(1595)加藤嘉明、松前城築城のため、金蓮寺を現在地に移転。 「文禄四年(1595)加藤嘉明性尋寺を引、其跡へ松前の城を築く、其時改て玉生山十二光院金蓮寺と号といふ 【野田石陽『伊予古蹟志』『予陽郡郷俚諺集】 3)時宗関連資料 @定善寺『遊行派末寺帳』京都七條道場旧蔵 A定善寺『時宗十二派本末惣寺院連盟簿』(但宝暦年中写本) 4)【松前町HP】古くは性尋寺(定善寺)と言います。 (注)@明応二年(1490)河野教通(道基)による「性尋寺」禁制 【松前性尋寺之事】 A慶長六年(1601)加藤嘉明「金蓮寺」に寺領十五石寄進 【玉生八幡大神社蔵『寺院取調書』】 5)遊行四九代一法上人 正徳五年(1715)正月三日「筒井村金蓮寺ニ御休」 遊行五四代尊祐上人 寛政七年(1796)七月廿六日「参詣群集御化益弐千五百人」。奥谷道場では27日間 で九万四千二四一人(一日平均三千五百人) 八蔵道場(入仏寺)は不明 『一遍聖絵・遊行日鑑』 B入仏寺縁起 (現 真言宗智山派) 1)「昔、峠之谷夜々リ光り諸人不審立登り見れハ時ならず蓮之花盛をなす。此花光るへきにあらす掘見んと三尺ほりけれハ、三尊弥陀仏顕れ給ひ各々信心を発しほんぞんとせり、今の堂ハ、享保十四年〔〕に建、寺号林光山蓮花院入仏寺ト云」(「予州大洲領御替地古今集) 2)口碑によると、この地に浮穴・伊予二郡の貢米を収納する八棟の倉庫が在ったに拠る。『愛媛県の地名』 2)伊予の時衆道場と一遍ゆかりの寺 @『遊行派末寺帳』(京都七条道場旧蔵) @定善寺(松前) A宝厳寺(奥谷) B入仏寺(八蔵) C円福寺( ) 「永徳山河野院円福寺」(藤野々) D願成寺(宮床) E保寿寺(陽) 所在不明 A『愛媛県史』ほか F大雄山観念寺(西条市上市) 「観念寺文書」 越智盛氏開創。後家「尊阿」により時衆念仏道場 G浄念寺(松野町豊岡前部落) 「正善寺旧記」 康元(1256)一遍上人開山 H寿永寺(大洲市西大洲) 寿永年間〔1182〜84〕浮穴の「頼朝寺」。遊行上人伊予回国休息寺。 現・浄土宗知恩院末寺。寿英寺末寺「本誓寺」に安西聖伝承。 B『一遍聖絵』 I伊予 窪寺 文永八年(1271)修行地(『聖絵』第一 4段) J時衆「山内入道」(丹波)往生地(『聖絵』第九 36段) (注)松山市窪野。記念碑が窪野小字丹波の仏堂境内に建つ。一遍会は別の場所を比定している。 Cその他 (注)宝厳寺前住職「長岡隆祥」師 K円満寺(道後湯月町) 宝厳寺末寺(子院) 現・浄土宗 L〜N宝厳寺塔中 @法雲院 A善成院 B興安院 C医王院 D光明院 E東昭院 F歓喜院 G林鐘院 H正伝院 I来迎院 Jj浄福院 K弘願院 (注)「一遍上人生誕碑」建立 元弘四年1334 得能通綱) (注)近世 遊行上人 回国(松山) 『遊行日鑑』 四二代 尊任 延宝三年1675 石手真言宗石手寺 (奥谷宝厳寺 無住ヵ) 四九代 一法 正徳五年1715 筒井村金蓮寺(定善寺) 奥谷宝厳寺 五一代 賦存 延享四年1747 筒井村金蓮寺(定善寺) 奥谷宝厳寺 五三代 尊如 安永三年1774 筒井村金蓮寺(定善寺) 奥谷宝厳寺 五四代 尊祐 寛政七年1785 筒井村金蓮寺(定善寺) 奥谷宝厳寺 五六代 傾心 文政九年1826 (長浜〜三津) 奥谷宝厳寺<無住> 曹洞宗義安寺手伝い 3)伊予を取り巻く時衆道場 【参考資料】『遊行派末寺帳』(京都七条道場旧蔵) (注)E桂光院(六寮)系が多い<松前道場>。宝厳寺<奥谷道場>はA洞雲院(二寮)系であるが、 阿号は「弥阿」(二寮)でなく「其阿」(六寮)である。 【南海道】 紀伊 七郡【2寺】 E安養寺(若山湊) E浄土寺(藤代 鳥居浦) 淡路 二郡【なし】 阿波 四郡【4寺】 E常福寺(加茂) 善成寺(画間) 弘願寺(二階堂) A光摂寺(八万) 伊予 十四郡【6寺】 E定善寺(松前) A宝厳寺(道後村奥谷) 入仏寺(八蔵) 円福寺( ?) 願成寺(内ノ子村宮床) 保寿寺(陽) 土佐 七郡【3寺】 乗台寺 (佐河) 善楽寺(一山) 西念寺(一野) 讃岐 十三郡【7寺】 E興善寺(爾保) A江(郷)照寺(宇多(足)津) 浄土寺(由佐・尼) 興勝寺(勝間) 興徳寺(大田・尼) 高称寺(観音堂・尼) 荘厳寺(一宮) 【山陽道】 備後 十四郡【7寺】 E常称寺(尾道) E海徳寺(浮御堂) E本願寺(鞆) 応声寺(草土) A光台寺(岩成) @観音寺(三原) 西郷(江)寺(尾道) 安芸 八郡【2寺】 @長福寺(沼田) 阿弥陀寺(多田ノ海) 周防 六郡【1寺】 善福寺(大内) 長門 八郡【3寺】 E専念寺(赤間関) 常満寺(?) @長福寺(豊田) 【西海道】 豊前 八郡【3寺】 善光寺(中津)× 豊後 十一郡【4寺】 松寿寺(鉄輪)⇒永福寺 A称名寺(国府) 安養寺(関 尼) 専称寺(佐伯) 筑前 十二郡【9寺】 E称名寺(博多) 筑後 八郡【3寺】 E西教寺(西牟田) 肥前 十二郡【2寺】 E西念寺(恵見) 肥後 十四郡【5寺】 E願行寺(高見) 日向 十四郡【21寺】 E海徳寺(志布志) 大隈 八郡【7寺】 薩摩 十三郡【16+1寺】 C)時宗総本山遊行寺の統治機構と宝厳寺・定善寺の位置づけ 【参考資料】時宗本山内機関『時宗要義問弁』(著者、成立年代不明 元禄・宝永以降の江戸期のもの) 総本山(1) 清浄光寺(遊行寺) 大本山(3) 無量光寺(相州当麻) 蓮華寺(江州番場) 金蓮寺(京都四場) 正法寺(都清閑寺町) 別格本山(1) 新善光寺(京都五条) 檀林(3) 一蓮寺(甲州甲府) 日蓮寺(東京浅草) 真光寺(摂州兵庫) 準檀林(2) 称名寺(三州大浜) 来迎寺(越後十日町) 末寺 約500寺(・・・・宝厳寺・・・・・) 時宗 四院 五軒 十室 名称 寮名 所属 阿号 位置付け 職掌 四 院 興徳院 一寮 覚阿 本寮(老分) 洞雲院 二寮 弥阿 本寮(老分) (奥谷道場) 東陽院 三寮 但阿 本寮(老分) 常住庵 四寮 相阿 本寮(老分) 四院の補欠職 等覚庵 五寮 梵阿 本寮(老分) 四院の補欠職 桂光院 六寮 其阿 本寮(老分) (松前道場) 五 軒 衆領軒 桂光院 其阿 首役 官事一山内外経済 門末の興廃 人事 慈照軒 桂光院 臥龍軒 洞雲院 文峯軒 興徳院 万生軒 東陽院 十 室 (注)十室内訳 室 前 五年修行語、十室に至る 初堪忍 三年修行後、室前に至る (注)十室内 @渓室(桂光院)A岩室(桂光院)B純室(桂光院)C連室(洞雲院)D伝室(洞雲院) E行室(洞雲院)F学室(興徳院)G了室(興徳院)H聞室(東陽院)I安室(東陽院) ○ 序列 上人 ― 衆領軒 ― 老僧(本寮)― 中老 ― 平僧 |
第三章 遊行七代託何上人と奥谷派 〜遊行派の覇権〜 1) 託何上人著述「条々行儀法則」 序文 康永三年(1344)四月に起筆、伊予宝厳寺遊行寺、九ヶ条の法式を定める。(『時宗事典』より要約) 第一 本時衆(男僧)副時衆(尼僧) 第二 当時衆、称名に間断不可。(日中は男僧称名、夜間は尼僧称名。) 第三 十二道具 ほかに資具あるべからず (道具 仏道修行の用具。仏具。() 第四 歳末別時 (七日七晩 一日一食 女人先入道場 一時十八人 臨終の儀式) 第五 踊躍念仏信力誠あれば天地も感動する。(踊躍念仏即踊躍歓喜) 第六 日没百万遍 (千二百五十を数とし、融通の百万遍の功徳) 第七 賛念仏、五正中前三後一を助業とす(称名正行以外に四種の助業あり。) 第八 祖忌一夜別時(歓喜踊躍して念仏すべし) 第九 衣色宗祖鎌倉遊行寺より鼠色となる。(初祖は黒衣。末世は仏法の光が消える。念仏が世を照らす。 資料A 長澤昌幸「遊行七祖他阿弥陀仏『条々行儀法則』講説 序文一部抜粋 2) 遊行派消滅のプロセス 康永元年(1342)〜康永3年(1344) 遊行七祖・託何上人 中国・九州の遊行賦算(都城)を終えて四国を遊行賦算 (注)・託何上人の遊行回国17年 康永元年(1342) 春、備後尾道道場(尾道市 常称寺 西江寺)開く。 康永二年(1343) 尾道道場に逗留『無上大利賛』(上下)述作 康永三年(1344) 4月、九州 (薩摩川内 称名寺 都城 光明寺など開山 6月 伊予 奥谷派を遊行派に編入。 『條々行儀法則』一巻 述作 秋、兵庫へ 伊予国 奥谷 菓(ママ)厳寺(宝厳寺)落ち着く (宝厳寺開山 仙阿弥陀仏(宗祖一遍上人 法弟) 弟子 尼 珍一房(住持相続)) ○同行を相伴い 託何上人から十念を受く。 ○珍一房は松前道場に託何上人を招き入れる、(二、三日逗留 賦算?) ○八蔵(道場)で賦算(託何上人 珍一房 同行)。 数日後、珍一房は松前道場に立ち帰る。 ○6月11日 珍一房、自らの一大事を申し合わせる為に宝厳寺に参詣。託何上人に奥谷道場の取り計らいを願う。 ○ 6月21日、珍一房は託何上人と上記を約束して、泣く泣く松前道場に帰ろうとする時、託何上人が「阿弥衣」を与え、これを着用して往生するよう伝える。 ○ 6月26日朝、珍一房は往生す。【重要文化財 時衆過去帳】第一号甲僧衆 第一号乙尼衆・俗衆 珍一房 記載 (注)伊豆房仙阿(奥谷派)、伊予房弥阿聖戒(六条派)とも「時衆過去帳」未記載。 ○ 奥谷派宝厳寺、遊行派に編入。 「珍一房の遺言に任せて初めて遊行会下より奥谷道場へ坊主を定め置いた。(坊主名は???) 奥谷の僧尼たちは先師(珍一房)の遺言を重んじて、誓詞を用いて同誓同心し時衆に入門し、その遺跡(奥谷道場)に共住して娑婆世界を離れ、極楽世界へ往生することに励んだのである。 ○『条々行儀法則』 康永三年(1344)六月起筆、伊予宝厳寺遊行時の執筆 |
おわりに 〜一遍の遺したもの〜 遊行(非定住)・踊念仏・賦算は現在の時宗教団では形骸化している。 1)奥谷派大檀那(河野得能家と河野宗家)をめぐって 奥谷派は遊行派に吸収された経緯は託阿遊行上人の遺した『條條行儀法則』の通りであるが、其の背景には、奥谷派宝厳寺の大檀那である河野家の庇護が受けられなかった歴史的な事実がある。 平成二五年(2013)八月十三日の宝厳寺本堂の火災により、 建武元年・元弘四年(1334)年に得能通綱が一族を供養した法要で供えた高さは約六〇センチの大位牌も焼失した。大位牌の戒名は河野通信夫妻、通広夫妻、通俊夫妻である。(「東禅院殿観光大居士通信」「智光院殿玉慧大姉」「東源院殿観山大居士通広」「大智院殿恵性大姉」「東勝院殿観誓大居士通俊」「智応院殿恵琳大姉」) 承久の乱(1221)で通信は捕らえられ江刺の地に送られ、通俊は戦死、通広は仏門にあり許されたが、通俊の長男通秀、通広の長男通真は鎌倉にあって武家方(北条方)に付いたので、両家とも「本領安堵」となった。河野得能氏の家系は通俊―通秀―通純―通村―通綱と続く。 通純の事績として一遍示寂三十回忌の節目に「宝筐印塔」三基(国重要文化財)を氏寺である大三島に建立している。 通綱(通純の弟通村の子)の事績として建武元年・元弘四年(1334)に@宝厳寺再建(塔中十二坊 A「一遍上人御誕生旧跡」碑建立があり、その法要に当たって大位牌を供えたと考えられる。『太平記』などに拠れば、通綱は承継二年・元弘三年(1333)に宮方として挙兵し、建武四年(1337)三月越前国金崎城で斯波高経らの攻撃を受けて戦死するが、戦乱の暫しの安穏の時期に宝厳寺での法要を執り行っている。併せて、拝志(別府)の領地を宝厳寺に寄贈している。 私見では単に先祖供養ではなく、通信・通俊への弔い合戦であり、時衆宝厳寺を得能氏の菩提寺として、一遍時衆による未来永劫にわたる伊予河野得能家の供養を念じたのではあるまいか。 ちなみに、河野通信室である越智玉氏女の実家である新居家の菩提寺は観念寺であるが、『観念寺文書』によれば、当初は時衆寺院(道場)で後に臨済宗に改宗している。玉氏の子・新居盛氏の室は「尊阿」であり、定阿・智阿・弥阿と阿号がつながっていく。一遍も「(伊予)国中遍く勧進し」(『聖絵』)た折り、得能庄と観念寺は近いので訪れたことはあり得る。 同時期に武家方(足利氏)に加わった河野通盛(通治)の宝厳寺に対する支援、帰依の史資料は管見では見出していない。 100年後になるが、焼失した重要文化財一遍立像の銘文は「当住其阿弥陀仏 檀那(河野)通直 願主弥阿弥陀仏 文明七年(1475)」乙未十一月十九日」であった、 河野通直(〜明応九年1500)は河野通久の嫡男。足利義教から「教」を受けて「教通」を名乗ったが、義政死後「通直」に改名。 其阿弥陀仏は「当住」(宝厳寺)なるも、住持はすべて「其阿」であり、人物を特定できない。 弥阿弥陀仏は阿号のみでは確定しがたいが、聖戒は「弥阿」(歓喜光寺)であり、一遍上人につながる河野家・宝厳寺(奥谷派)・歓喜光寺(六条派)が何らかの法要を行いこの木像を製作したとも考えられるが、史料的裏付けはまったくない。 河野氏と宝厳寺の結びつきが出てくるのは、室町期の歌合せでの興隆期であるが省略する。宝厳寺住職としては初代仙阿、二代珍一房の後、三代から十二代まで本山遊行寺記録からも発見できない。一代の住職在任を二〇乃至三〇年として二〇〇〜三〇〇年間の事績は不詳である。 宝厳寺は大檀越を失って室町期・戦国期は疲弊するが、徳川期になって、幕府・松山藩の支援もあり復旧するが、十二子院中、住職が居住するのは数子院に過ぎなかった。 2)遊行派の覇権と「一向宗」の独立 日本で最小の宗教団体である時宗は、一遍時衆と一向時衆の複合体であり、徳川幕府の宗教政策による一本化であったが、内実は別個の信仰集団であった、結果として、一向時衆は「浄土宗」になり、一向宗の本山である蓮華寺(番場) は、現在浄土宗(時宗)本山に位置づけられている。 一遍智真と一向俊聖の生年は延応元年(1239)で没年は一遍は正応二年(1289)、一向は弘安一〇年(1287)で、同時代人である。遊行開始は一向が文永十一年(1274)、一遍の熊野参詣が同年である。踊念仏は一向が一遍より4〜5年早い。 十三世紀に流布した『天狗草紙』では「或いは一向宗といひて、弥陀如来のほかの余仏に帰依する人をにくみ、神明に参詣するものをそねむ。(略)袈裟をあ出家の法衣なりとて、これを着せずして、なまじひに姿は僧形なり。(略)念仏する時は頭をふり肩をゆすりておどる事、野馬のごとし」 一遍時衆も同様であったろうが、一向時衆は賦算はしなかった。 中世末期の下克上の時代の「一向一揆」(1466〜1570)は真宗(蓮如)の主導性が高く評価されているが、実態は一遍時衆、一向時衆である。蓮如の「帳外御文」(文明五年1473)において「夫一向宗と云、時衆方之名なり、一遍・一向是也。其源とは江州ばんばの道場是即一向宗なり」」として、本願寺信徒で一向宗の名前を使用すれば破門するとした。 時宗以外の宗門から見れば、一遍時衆と一向時衆とに顕著な差異はなく同一視されたが、宗門内の葛藤は近代まで続いた。明治三六年一応の解決をみたが、昭和一七年、戦時下の宗教統制で一向派57寺が浄土宗に展収支時宗一向宗は消滅した。 参考「各宗派データ」 『宗教年鑑』(平成19年版2007) 檀家数/寺院数 天台宗 20宗派 天台宗 寺院数 3,350 檀家数 1,534,854 485 真言宗 44宗派 高野山真言宗 寺院数 3,544 檀家数 4,561,680 1287 浄土宗 21宗派 浄土宗 寺院数 6,908 檀家数 6,021,900 872 浄土真宗本願寺派 寺院数 10,275 檀家数 6,940,967 676 浄土真宗大谷派 寺院数 8,607 檀家数 5,333,146 620 時宗 寺院数 410 檀家数 59,000 140 融通念仏宗 寺院数 356 檀家数 123,375 347 禅宗 22宗派 日蓮宗 39宗派 日蓮宗 寺院数 4,636 檀家数 3,853,592 831 奈良仏教19宗派 律宗 寺院数 26 檀家数 29,500 1136 真言律宗 寺院数 90 檀家数 105,500 1172 法相宗 寺院数 55 檀家数 518,324 942 (注)奈良・律宗 唐招提寺など 奈良・真言律宗 西大寺など 奈良・法相宗 薬師寺 興福寺など 「一代聖教みなつきて、南無阿弥陀仏になりはてぬ」(『聖絵』第十一 第四段) 「我化導は一期ばかりぞ」(『聖絵』第十一 第四段) 以 上 (参考)HP一遍会 http://home.e-catv.ne.jp/miyoshik/ |