おわりに ~一遍の遺したもの~
遊行(非定住)・踊念仏・賦算は現在の時宗教団では形骸化している。
1)奥谷派大檀那(河野得能家と河野宗家)をめぐって
奥谷派は遊行派に吸収された経緯は託阿遊行上人の遺した『條條行儀法則』の通りであるが、其の背景には、奥谷派宝厳寺の大檀那である河野家の庇護が受けられなかった歴史的な事実がある。
平成二五年(2013)八月十三日の宝厳寺本堂の火災により、 建武元年・元弘四年(1334)年に得能通綱が一族を供養した法要で供えた高さは約六〇センチの大位牌も焼失した。大位牌の戒名は河野通信夫妻、通広夫妻、通俊夫妻である。(「東禅院殿観光大居士通信」「智光院殿玉慧大姉」「東源院殿観山大居士通広」「大智院殿恵性大姉」「東勝院殿観誓大居士通俊」「智応院殿恵琳大姉」)
承久の乱(1221)で通信は捕らえられ江刺の地に送られ、通俊は戦死、通広は仏門にあり許されたが、通俊の長男通秀、通広の長男通真は鎌倉にあって武家方(北条方)に付いたので、両家とも「本領安堵」となった。河野得能氏の家系は通俊―通秀―通純―通村―通綱と続く。
通純の事績として一遍示寂三十回忌の節目に「宝筐印塔」三基(国重要文化財)を氏寺である大三島に建立している。
通綱(通純の弟通村の子)の事績として建武元年・元弘四年(1334)に①宝厳寺再建(塔中十二坊 ②「一遍上人御誕生旧跡」碑建立があり、その法要に当たって大位牌を供えたと考えられる。『太平記』などに拠れば、通綱は承継二年・元弘三年(1333)に宮方として挙兵し、建武四年(1337)三月越前国金崎城で斯波高経らの攻撃を受けて戦死するが、戦乱の暫しの安穏の時期に宝厳寺での法要を執り行っている。併せて、拝志(別府)の領地を宝厳寺に寄贈している。
私見では単に先祖供養ではなく、通信・通俊への弔い合戦であり、時衆宝厳寺を得能氏の菩提寺として、一遍時衆による未来永劫にわたる伊予河野得能家の供養を念じたのではあるまいか。
ちなみに、河野通信室である越智玉氏女の実家である新居家の菩提寺は観念寺であるが、『観念寺文書』によれば、当初は時衆寺院(道場)で後に臨済宗に改宗している。玉氏の子・新居盛氏の室は「尊阿」であり、定阿・智阿・弥阿と阿号がつながっていく。一遍も「(伊予)国中遍く勧進し」(『聖絵』)た折り、得能庄と観念寺は近いので訪れたことはあり得る。
同時期に武家方(足利氏)に加わった河野通盛(通治)の宝厳寺に対する支援、帰依の史資料は管見では見出していない。
100年後になるが、焼失した重要文化財一遍立像の銘文は「当住其阿弥陀仏 檀那(河野)通直 願主弥阿弥陀仏 文明七年(1475)」乙未十一月十九日」であった、
河野通直(~明応九年1500)は河野通久の嫡男。足利義教から「教」を受けて「教通」を名乗ったが、義政死後「通直」に改名。
其阿弥陀仏は「当住」(宝厳寺)なるも、住持はすべて「其阿」であり、人物を特定できない。
弥阿弥陀仏は阿号のみでは確定しがたいが、聖戒は「弥阿」(歓喜光寺)であり、一遍上人につながる河野家・宝厳寺(奥谷派)・歓喜光寺(六条派)が何らかの法要を行いこの木像を製作したとも考えられるが、史料的裏付けはまったくない。
河野氏と宝厳寺の結びつきが出てくるのは、室町期の歌合せでの興隆期であるが省略する。宝厳寺住職としては初代仙阿、二代珍一房の後、三代から十二代まで本山遊行寺記録からも発見できない。一代の住職在任を二〇乃至三〇年として二〇〇~三〇〇年間の事績は不詳である。
宝厳寺は大檀越を失って室町期・戦国期は疲弊するが、徳川期になって、幕府・松山藩の支援もあり復旧するが、十二子院中、住職が居住するのは数子院に過ぎなかった。
2)遊行派の覇権と「一向宗」の独立
日本で最小の宗教団体である時宗は、一遍時衆と一向時衆の複合体であり、徳川幕府の宗教政策による一本化であったが、内実は別個の信仰集団であった、結果として、一向時衆は「浄土宗」になり、一向宗の本山である蓮華寺(番場) は、現在浄土宗(時宗)本山に位置づけられている。
一遍智真と一向俊聖の生年は延応元年(1239)で没年は一遍は正応二年(1289)、一向は弘安一〇年(1287)で、同時代人である。遊行開始は一向が文永十一年(1274)、一遍の熊野参詣が同年である。踊念仏は一向が一遍より4~5年早い。
十三世紀に流布した『天狗草紙』では「或いは一向宗といひて、弥陀如来のほかの余仏に帰依する人をにくみ、神明に参詣するものをそねむ。(略)袈裟をあ出家の法衣なりとて、これを着せずして、なまじひに姿は僧形なり。(略)念仏する時は頭をふり肩をゆすりておどる事、野馬のごとし」 一遍時衆も同様であったろうが、一向時衆は賦算はしなかった。
中世末期の下克上の時代の「一向一揆」(1466~1570)は真宗(蓮如)の主導性が高く評価されているが、実態は一遍時衆、一向時衆である。蓮如の「帳外御文」(文明五年1473)において「夫一向宗と云、時衆方之名なり、一遍・一向是也。其源とは江州ばんばの道場是即一向宗なり」」として、本願寺信徒で一向宗の名前を使用すれば破門するとした。
時宗以外の宗門から見れば、一遍時衆と一向時衆とに顕著な差異はなく同一視されたが、宗門内の葛藤は近代まで続いた。明治三六年一応の解決をみたが、昭和一七年、戦時下の宗教統制で一向派57寺が浄土宗に展収支時宗一向宗は消滅した。
参考「各宗派データ」 『宗教年鑑』(平成19年版2007)
檀家数/寺院数
天台宗 20宗派 天台宗 寺院数 3,350 檀家数 1,534,854 485
真言宗 44宗派 高野山真言宗 寺院数 3,544 檀家数 4,561,680 1287
浄土宗 21宗派 浄土宗 寺院数 6,908 檀家数 6,021,900 872
浄土真宗本願寺派 寺院数 10,275 檀家数 6,940,967 676
浄土真宗大谷派 寺院数 8,607 檀家数 5,333,146 620
時宗 寺院数 410 檀家数
59,000 140
融通念仏宗 寺院数 356 檀家数 123,375 347
禅宗 22宗派
日蓮宗 39宗派 日蓮宗 寺院数 4,636 檀家数 3,853,592 831
奈良仏教19宗派 律宗 寺院数 26 檀家数 29,500 1136
真言律宗 寺院数 90 檀家数 105,500 1172
法相宗 寺院数 55 檀家数 518,324 942
(注)奈良・律宗 唐招提寺など 奈良・真言律宗 西大寺など 奈良・法相宗 薬師寺 興福寺など
「一代聖教みなつきて、南無阿弥陀仏になりはてぬ」(『聖絵』第十一 第四段)
「我化導は一期ばかりぞ」(『聖絵』第十一 第四段) 以 上
(参考)HP一遍会 http://home.e-catv.ne.jp/miyoshik/
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