第八十章 「宝厳寺古図」(伊予史談会蔵)を読み解く |
1、 はじめに 2月例会 古代 「誓願院と遍照院」 3月例会 中世(鎌倉)」 「時衆奥谷派の盛衰 奥谷道場宝厳寺・松前金蓮寺」 8月例会 中世(鎌倉、A)「『宝厳寺古図」(伊予史談会所蔵)を読み解く』 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 7月例会 講師 竹田 美喜 氏 子規記念博物館 総館長) 演題 軽太子(かるの ひつぎのみこ)と軽大郎女(かるの おおいらつめ)・近親相姦事件の謎 ―息長(おきなが)氏王朝と葛城氏の政権抗争の犠牲か― ⇒ 吉田金彦『沼の司祭者 額田王』(毎日新聞社 1993) 熟田津(額田王) 熟田津に船乗りせむと 月待てば 潮もかなひぬ 今は漕ぎ出でな 七世紀中頃(皇極・持統朝) 柔田津(柿本人麻呂)柔田津に舟乗りせむと聞きしなへ 何かも君が見え来ざるらむ 七世紀後半(持統・文武朝) 飽田津(山部赤人) 百式の大宮人の飽田津は 船乗りそけむ 年の知らなく 八世紀(奈良時代) 右田 (みきた みぎた うだ) 御幸寺山 味酒 祝谷(石井谷)? 鷺谷 → 湯月谷 → 湯月台(湯付台 → 友月台) → 奥谷 伊予の石湯 伊予温湯(いよのゆ) 熟田津石湯(にぎたつのいわゆ) 2、「『宝厳寺古図」とは 〇製作者 原図者 不明 写図者 「幕」の字の「巾」部分が「手」の文字の人物 (明治生まれ。郷土史家?) 〇制作時期 原図 不明 写図 大正十二年(1923)十一月 〇伝来 不明(明治期 史談会での収集時ヵ) (注)高須賀康生氏(伊予史談会名誉会長 宝厳寺檀家)確認 〇内容 @現存の宝厳寺図でもっとも古い寺域内の配置図(但し 写し) A時代の特定 「毘沙門堂」記載 (注)@建暦三年(1212) 十一世真恵和尚京都鞍馬山より毘沙門天の御像勧請、 A得能通俊(?〜承久の乱で戦死1221)厄除のため「友月台」に其堂宇「毘沙門天堂」を建立、 B天正十三年(1585) 小早川隆景 水田十五町余寄進 寺域整備(開山堂、奥之院、本堂、毘沙門天堂、地蔵堂、鎮守社、庫裏、楼門、総門)等完備 (古図に近い雰囲気 河野氏終焉。人心安定。寺域荒廃? 河野氏残党対応など 三好仮説) 3、「奥之谷宝厳寺古図」内記載文面(伊予史談会柚山俊夫副会長校閲)
(注)●は「幕」の字の「巾」部分が「手」になった文字 内容 説明 @ 十二坊中今名ノ存スルハ林迎坊ノミ (注)「林迎坊」と「林鐘坊」の二坊。「林迎坊」は天智四年(665)記載なく天正十三年(1585)には記載あり。 A 林迎坊本尊「観音像」が門前の観音堂に安置 (注)「門前の観音堂」の門前とは 山門脇(参道から見て鐘楼門の左手にあった。 B 十二坊跡全部、松ヶ枝町遊郭二四楼 (注)「色里や十歩はなれて秋の風 正岡子規」(明治二八年(1895)九月) 「二十四楼 柳の奥の 軒行燈 柳原極堂」(未確認) C 松ヶ枝町営業開始は明治九年(1876) (注)明治五年(1972)「芸娼妓解放令」発令 「遊女屋」→「貸座敷」 松ヶ枝町遊廓は新規 D 寺域は藪であった。(牛馬の死体放置など) (注)地震で温泉の湧出止まる。地盤安定のため、寺社境内、湯筑城址、庄屋屋敷など竹を植える。 松山藩「竹奉行」設置。 慶長十九年(1614) 貞享二年十二月(1685) 宝永四年十月(1707) 安政元年十一月(1854) E 「宝厳寺古図」建造物等
年表 【宝厳寺 建造物など】 天智四年(665) 乎智宿禰守輿命を奉して伽藍を創建、子院十二坊を置く。 (法雲、善成、輿安、醫王、光明、東昭、歓喜、林鐘、正傳、来迎、浄福、弘願) 建暦三年(1212) 十一世真恵和尚京都鞍馬山より毘沙門天の御像勧請、通俊厄除のため友月台に其堂宇を建立、 正応五年(1292) 一遍聖木像 門人仙阿作 元弘四年(1334) 通綱 宗祖誕生碑建立 寺領寄付 康永元年(1342) 七代上人「条々行儀法則」記術 元中九年(1392) 通範楼門(鐘楼堂)建立 文明七年(1475) 政通(刑部大輔) 本堂再建 宗祖木造修理(「当住其阿弥陀仏、檀那通直、願主弥阿弥陀仏) 厨子寄進 住侶 連歌興行大山祇神社往来 天正十三年(1585) 小早川隆景 水田十五町余寄進 当時(開山堂、奥之院、本堂、毘沙門天堂、地蔵堂、鎮守社、庫裏、楼門、総門)等完備 門前末坊 (右僧庵<僧谷>・左尼庵<尼谷>) (右)僧庵、法雲、善成、康安、医王、光明、東昭 <僧谷> (左)尼庵、教善、林鐘、正伝、林迎、浄福、弘願 <尼谷> 正徳四年(1714) 寺領没収 宝厳寺疲弊ヵ (注)正徳五年(1715)松山藩 従来町奉行管轄であった寺社統制のために「寺社奉行」を置く。 楼門改修 江戸中期 右 宗祖誕生旧蹟碑 元弘四年 左 宗祖名号碑 昭和五四年 観音堂改修 江戸中期 熊野社改修 (江戸中期) 本堂(江戸中期) 山額 向拝上 名号額 内陣上 右壇 宗祖一遍上人木造(国宝→国重文→焼失 文明七年修理) 左壇 大位牌(通信・通広・通俊夫妻) 得能通綱寄進 厨子前(政通寄進) 観音堂開基 楽譽像 <「譽」は浄土系 時宗は「其阿」号> 庫裏(明治期) 碑文 「金剛の滝」由来(原文まま) 斉明7年(661)正月6日、時の女帝斉明天皇は、隣国の百済(朝鮮)を救援のため、水軍の精鋭を難波の海に集結し、中大兄皇子・大海人皇子(後の天智・天武天皇 )を従えて、一路瀬戸の海を西征の船旅に出陳され、その月の14日に、伊予の海にその軍船団の勇姿を現わされました。時に六十八歳の老女帝は、身心ことのほかお疲れ、御不予に渡らせ給うたので、道後のお湯に浴し給うため、急遽、御船を熟田津に泊め、道後奥谷の高台(現宝蕨寺の地 )を行宮と定められ、その側の飛泉を天皇御躬親汲み給いて、米を洗い、これを御神饌として遥か大山祇の大神を拝し、病気平癒と戦勝祈願のみそぎをなし給いました。後世「金剛滝」と呼は承るに至った飛泉こそ、此処道後奥谷の滝のことであります。また、天皇の率いる軍船団がこの地に到着の14日は満月の大潮であり、軍船は大潮に乗って熟田津の砂浜奥深く乗り上げていました。女帝が御病気快方に向かわれても、次の大潮まで船出が出来ず、月待ちの日々を重ねていましたが、やがて潮もよく、いざ出陣の歓びは全軍に満ち満ちました。この遠征に従軍していた万葉の歌人額田王も、この歓喜を 「熟田津に船乗りせむと月待てば 潮もかなひぬ 今は漕ぎ出でな」 熟田津爾船乗 世武登月待者 潮毛可奈比沼 今者許藝乞菜 と此処宝厳寺の地で詠まれたのでした。斉明天皇行幸と、この歌が作られてから今年でちょうど1320年に当たります 【資料02】毘沙門堂 友月台 建暦三年(1212年年)當山十一世真恵和尚京都鞍馬山より毘沙門天の御像を勧請す、国守伊豫之介通俊厄除のため友月台に其堂宇を建立す、 【資料03】鎮守社(神仏混交) 貞観十三年(871年)勅許に依り出雲岡及び伊佐爾波二社神殿に於て祈雨の修法をなし、大に霊験あり爾来二社の別當を兼ぬ、 熊野社改修 (江戸中期) ⇒明治期に「伊佐爾波神社」に移設ヵ 【資料04】塔中(十二院) 人皇第三十七代斎明天皇の勅願に依り、天智天皇即位四年(665年)国司散位乎智宿禰守輿命を奉して伽藍を創建し子院十二坊を置く、曰く法雲、善成、輿安、醫王、光明、東昭、歓喜、林鐘、正傳、来迎、浄福、弘願是なり、 参考 『愛媛の仏教史』三浦章夫 愛媛郷土叢書18巻 松菊堂 昭和三七年(1862) 『時宗の寺々』 禰宜田修然 昭和五五年(1980) 『愛媛県史』 『松山市史料集』 |