第八十二章  遊行上人と平将門伝承
はじめに

新型コロナウイルスも令和三年夏には第五期に入り、報道では「統御不能」でワクチン頼みになっている。さすが二一世紀だけに疫病の流行に怨霊や加持祈祷の話は出ないが、一遍上人が生きた鎌倉時代ではいかがであったか。

 平安時代から中世の時代に「日本の三大怨霊」と貴族から民衆までが恐れ慄いた怨霊が三霊(三人)出現した。

 最初の一人は、太宰府で憤死した菅原道真(八四五〜九〇三)、次に東国下野で挙兵し、一時期「新王」として東国の過半を支配した「天慶の乱」の平将門(?〜九〇四)、三人目は讃岐に流され悶死した崇徳上皇(一一一九〜一一六四)である。
 東国では疫病が流行ると「平将門」の怨霊が動き出す。鎌倉時代に、将門の怨霊を鎮めたのが一遍上人の後継者である二祖真教他阿上人であったと伝えられる。
厳密な歴史的な検証は無理であるが、この伝承に極力近づいていきたいと思う

一、 伊予と江戸氏

愛媛県の県庁所在地は松山である。市内を走る伊予鉄道市内電車の駅名に、昭和初期には「江戸町停留所」(昭和二年〜昭和二八年)があった。この市内線に交差して松山市駅と高浜駅を結ぶ郊外線が走っている。現在「大手町駅」と呼称されているが、江戸時代の松山城の「大手門」通りとはまったく関係がない。「江戸町」は明治以前の「江戸村」に起因するが、なぜ地名に「江戸」が残るのか。記憶は鎌倉時代に遡る。

1,松山の「江戸さん」

『日本姓氏語源辞典』(宮本洋一編 Kindle )に拠ると、全国の「江戸姓」は約四一〇〇人で、順位は三一三五位である。

〇都道府県順位

1.北海道(約四〇〇人)
2.茨城県 (約四〇〇人)
3.青森県 (約三〇〇人)
4.愛媛県 (約三〇〇人)
5.大阪府 (約三〇〇人)
6.福井県 (約二〇〇人)
7.東京都 (約二〇〇人)
8.兵庫県 (約二〇〇人)
9.千葉県 (約二〇〇「人)
?.宮城県 (約一五〇人)

〇市区町村順位

1,茨城県 つくば市 (約二〇〇人)
2,青森県 東津軽郡平内町 (約二〇〇人)
3,愛媛県 松山市 (約二〇〇人)
4,福井県 三方上中郡若狭町 (約一二〇人)
5.島根県 出雲市 (約一〇〇人)
6.青森県 青森市 (約七〇人)
7.愛媛県 東温市 (約七〇人)
8.大阪府 堺市 (約六〇人)
9.香川県 観音寺市 (約六〇人)
9.大分県 由布市 (約六〇人)

○小地域順位

1.茨城県 つくば市 田中 (約一一〇人)
2.愛媛県 松山市 畑寺 (約九〇人)
3.青森県 東津軽郡平内町口広口広沢 (約八〇人)
3.福井県 三方上中郡若狭町 横渡(約80人)
5.島根県 出雲市 下古志町 (約七〇人)
5.茨城県 つくば市 作谷 (約七〇人)
7.愛媛県 東温市 北方 (約四〇人)
8.大分県 由布市 高岡 (約三〇人)
8.福井県 三方上中郡若狭町 田上 (約三〇人)
8.香川県 丸亀市 垂水町 (約三〇人)

 都道府県順位、市町村順位、小地区順位のいずれの項目でも「東国」を除くと「伊予国」愛媛県がトップにランクされ、地域的に固まって居住している。

2,伊予国の江戸氏

奈良・平安時代から伊予国は中央からは「上国」と位置づけられ、社寺、公家の荘園が数多く点在した。伊予国守護は源氏が握り、地頭には配下の宇都宮氏が任ぜられている。

年代別に記すと守護は源頼光・源満仲・源満政・源頼義・源義家・平重房・源義仲。源義経と続き、地頭職は佐々木盛綱・宇都宮頼綱・宇都宮頼業・宇都宮豊房・宇都宮貞宗らが任官されている。

承久の変では土佐・阿波・讃岐・伊予(道前)の守護であった佐々木氏(広綱一統)が宮方に加勢したので、讃岐・土佐の国司は細川氏、阿波の国司は信濃小笠原氏(土着して三好氏)となり、配下の二階堂氏が地頭に任ぜられている。

伊予(道後)の守護河野氏も、@道後七郡守護職A久米郡以下諸所地頭職B奥州三迫領(宮城県旧栗原郡)C宇都宮領(栃木県)ほか五十三箇所の領地没収、一族百四十九人の所領が没収された。

鎌倉武士である多賀谷氏(周布郡、桑村郡、越智郡)、江戸氏(風早郡、和気郡)、金子氏(宇摩郡、新居郡)らがその没収地の地頭・目代に任ぜられている。

河野氏の本拠地である高縄山や風早郡河野庄の地頭は不明である。河野氏の復権までは幕府が直轄したのではあるまいか。

(注)伊予史談会の先行研究にも具体的な地頭の記述がない。

 
河野氏が、やがて復権し。足利時代には「守護」となるが、伊予・江戸氏は河野氏に組み込まれることになる。河野氏滅亡後、下野し、松山(畑寺)
東温市(北方)に定住(帰農)したと推察される。尚、『松山藩役録』(伊予史談会双書)には、士分に江戸姓は見当たらない。

3,東国の「江戸氏」

鎌倉期の江戸(城)をイメージしていただきたい。

地名通り「江」と「戸」から成り立っている。

左図は、『史蹟 将門塚の記』(史蹟 将門保存会 2011)より転載


【地図 入る】

江戸城は江戸氏が居城したことに始まる。簡潔に変遷を記載する。

(1)江戸重継 平安末期〜鎌倉初期

(2)太田道灌 扇谷上杉家の上杉持朝の家臣である太田道灌が、享徳の乱に際して康正三年(一四五七年)に江戸城を築城した。上杉朝良が隠居城として用いた。

(3)大永四年(一五二四年)、扇谷上杉氏を破った後北条氏の北条氏綱の支配下に入る。

(4)徳川家康 天正十八年(一五九〇年)、豊臣秀吉の小田原攻め(小田原征伐)の際に開城。

(5)宮城 明治元年(一八六八年)四月四日、江戸城は明治新政府軍に明け渡され、一〇月一三日に東京城(とうけいじょう)に改名された。(江戸開城)

明治二年(一八六九年) 東京奠都。皇城と称される。

江戸(城)の開祖江戸重継について触れる。江戸氏には平将門の血が流れている(後述)。

桓武平氏の平将常を祖とする秩父氏の当主・秩父重綱(出羽権守)の四男である。重継は、平安時代の末(十一世紀)に武蔵国江戸郷を相続、江戸貫主となり「江戸四郎」を称して江戸氏を興す。

江戸貫主とは江戸氏の惣領という意味で、江戸一族の支配が強大であったことを示唆している。重継は江戸の桜田の高台(後の江戸城本丸、二の丸周辺)に居館を構えたという。

武蔵国の名族・秩父氏の祖である平将恒は、平安時代中期から後期にかけての豪族、武将である。桓武天皇の六世に当たる。

父は平忠頼、生母は平将門の娘・春姫。母方の祖父が平将門であり、将恒の「将」の諱も将門から引き継いだものと思われる。官位は武蔵権大掾。

秩父氏は桓武平氏の一門、坂東平氏の流れで、坂東八平氏のひとつに数えられる。

(注)坂東八平氏とは上総、千葉、三浦、土肥、秩父、大庭、梶原、長尾の八氏(通説)秩父氏の主な一族を列挙しておきたい。

小山田氏(稲毛氏  榛谷氏)
葛貫氏
畠山氏(浄法寺氏(伝承) 伊地知氏)
河越氏
高山氏(高山右近を出した一族)
江戸氏(喜多見氏 蒲田氏)
渋谷氏(東郷氏 東郷平八郎を輩出した)
豊島氏(葛西氏)
吉見氏


4,一遍上人と江戸氏

 一遍聖と江戸氏を直接結び付ける史料はないが、『一遍聖絵』に拠れば、弘安三年(一二八〇)一遍聖と時衆は奥州からの帰途、武蔵国石浜(東京都浅草石浜町)に立ち寄る。鎌倉入りは弘安五年(一二八二)春であるから、約二年、江戸に居住したことになる。その間の時衆の安全と生活を支援したのは江戸氏ではなかろうか。病弱の時衆を江戸氏に依頼し、一行は西に向かうことになる。  

〇『聖絵』第五  弘安三年(一二八〇)

 武蔵国石浜にて、時衆四五人病み臥したりけるを見給ひて

「残り居て昔を今と語るべき心の果を知る人ぞ無き」  

〇『他阿上人家集』(下)乾元元年(一三〇二) 

 武蔵国石浜の道場にて八月の別時、勤行有りける時、古る事を思ひて詠み給ひける。

いつよりか都の鳥のすみだ川啼かば昔の友や恋しき 


 
 
論者は、一遍が育った伊予は鎌倉御家人が支配しており、和気郡・風早郡の地頭は江戸氏であった。これより鎌倉に向かう一遍聖・時衆一行にとって足手まといになる病人を信頼できる江戸氏に託したのではないか。二〇年後。同地を訪れた二祖他阿上人も、当時を思い出し。歌を残している。後述するが、この地が時宗の拠点寺院となった。

昔の友である病み伏して別れた時衆四五人が機縁で時衆「石浜道場」が誕生したと思われる。「石浜道場」は現存しないが、江戸期の時宗の江戸(対幕府)の拠点寺院として「神田山芝崎道場日輪寺」が強化される。尚、石浜は浅草寺域の北、芝崎は浅草寺域の西に位置する。


二、平将門と東国・江戸

1,平将門の人物像

平将門の詳細人物像は割愛するが、共通知識として、現行の高校教科書(山川出版社)を引用する。

関東の地にはやくから根をおろした桓武平氏のうち、平将門は下総を根拠地にして、一族と私闘をくりかえすうちに、国司に反抗していた豪族と手を結び、九三九(天慶二)年に反乱をおこした(平将門の乱)。
将門は常陸・下野・上野の国府をせめ落とし、関東の大半を征服して新皇と称するに至ったが、」同じ関東の武士の平貞盛・藤原秀郷らによって討たれた。
同じころ、もと伊予の国司であった藤原純友も瀬戸内海の海賊をひきいて反乱をおこし(藤原純友の乱)、伊予の国府や大宰府をせめ落として、朝廷に大きな衝撃をあたえた。純友は清和源氏の祖である源経基らによって討たれ、東西の反乱はおさまった。
この二つの乱は時の年号から承平天慶の乱(九三五〜九四一)ともよぶ。

2,平将門の系譜

 平将門は、桓武天皇の六代の血脈に当たる。

桓武天皇―葛原親王―高見王―平高望―良将―将門

父良将の平高望の三男で、長男 国香は「鎮守府将軍」として国府の市原、次男 良兼は東北の横芝、三男 良将は西北の桜、四男 良縣は西南の天n羽、五男 良文は 西方の千葉を分割統治した。 

3,将門終焉の地と将門首塚

 『将門記』等に拠れば、将門は天慶三年(九四〇)二月一四日、平貞盛と藤原秀郷により討たれた。茨城県猿島郡岩井町神田山に仮埋葬(胴塚)された。  一方切断された将門の首は、藤原秀郷(俵藤太)らにより京に運ばれ、獄門晒し首となった。将門の怨霊がのり移った首は、空を飛んで東国に向かったという伝承がある。

 将門敗死後の一族縁者の追討は過酷だったと推察されるが、鎌倉後期の虎関師錬著の歴史書『元亨釈書』に将門の三女「如蔵」の記述がある。

 この女性が、秩父氏の祖である平将恒先述の生母平将門の娘・春姫。母方の祖父が平将門に結び付き、将門は東国武将の守り神として甦えるのである。

「史跡 将門塚」は東京都千代田区大手町一丁目にあり、史跡将門塚保存会により管理されている。将門の首塚である。 左図は、古代より明治初期までの形態。(将門故蹟所蔵)『史蹟 将門塚の記』(史蹟   将門保存会 2011)より転載。


安房国の漁民が安房神社の分霊を奉持して柴崎(現 大手町)に定住して漁業に従事していた。天慶三年から一〇年後の天暦四年(九五〇)に将門塚が鳴動し異形の武者が出現したこの荒魂を祀ったという伝承がある。九段中坂の世継ぎ稲荷神社の境内にある築土明神がそれにあてられているが、江戸の氾濫などで場所は移動を重ね現在地に落ち着いついたようである。

4,将門の首 伝承

 先に「将門終焉の地と将門首塚」で触れた将門の首の飛来伝承は、京から江戸への道筋に残っており、主だったものを列挙する。

@ 御頭神社 
京から東国に飛び帰る途上、美濃国南宮神社の隼人が首を射落とし祀る。

A 社宮司社(しゃくししゃ)三狐神社
  熱田神宮近く貞守上洛時に立ち寄り、首を祀る。

B 東京下谷の鳥越山(鳥越神社)を将門の首が飛び越える。
現代風に言えば、謎の飛行物体に遭遇して、その不思議さを将門伝承に結び付けたのであろうか。

5,将門を祀る社寺(御霊神)

 将門の御霊神を祀る社の全国的な分布並びに数は不明であるが、主だったものを左記にする。「平門の首」伝承を除くと、「東国」に固まっている。また日本三大祭礼である、江戸の神田祭、京都の祇園祭、大阪の天満祭が、平将門や菅原道真の御霊神社の祭礼で、氏子の祭りであることが興味深い。

国王神社  茨城県猿島郡岩井町
相馬神社  群馬県群馬郡相馬ヶ丘
将門明神  千葉県東葛飾郡湖北村
神田明神  東京都千代田区外神田
築土神社  東京都千代田区九段
将門明神  東京都南多摩郡上恩方村
将門神社  神奈川県小田原市
国王神社  福島県相馬郡相馬中村
和田鎮守  山梨県北都留郡和田村
(注)成田山新勝寺は平将門調伏祈願の寺院である。


三、他阿真教上人と平将門

1,平将門の名号

正安二年〜徳治二年(一三〇〇〜一三〇七)頃、他阿上人二祖真教(遊行上人)が東北を遊行中、江戸芝崎村を訪ねる。

(注)『他阿上人家集』(下)乾元元年(一三〇二)

武蔵国石浜の道場にて八月の別時、勤行有りける時、古る事を思ひて詠み給ひける。

いつよりか都の鳥のすみだ川

啼かば昔の友や恋しき
 


天災、病災に苦しむ村人を見、村人は「将門公」の祟りに違いないと恐れおののいていた。

真教上人は、難渋する村人の訴えを聞き、さっそく将門公に「蓮阿弥陀仏」の法号を授与し、首塚を修復し、懇ろに供養した。

すると不思議に疫病も収束し病人も快復したので、村内にあった「日輪寺」に逗留してもらい、これにより「日輪寺」は時衆の念仏道場(芝崎道場)となる。真教上人の将門公供養年は嘉元年中(一三〇三年)ともいわれており、特定できない。

「蓮阿弥陀仏」の板碑は

@ 千代田区大手町の将門塚 

A 浅草芝崎の日輪寺境内に現存する。


2,他阿真教の事績

 一遍の直弟子である他阿真教(遊行上人)の賦算遊行により

〇永仁五年(一二九七) 上野・下野(新善光寺)

〇永仁六年(一二九八) 武蔵・甲斐・相模・北条・三田・畠山・成田・持田・本間・川越・川口・江戸・人見などの武家が帰依し、各々が旦那寺である向徳寺・教合寺・称名寺などの地に二祖を開山として道場を開いた。   

乾元元年(一三〇二)には武蔵浅堤(浅草ヵ)逗留し、下総の千葉氏の帰依を得て来迎寺・海隣寺・本福寺等を開山した。

嘉元元年(一三〇三)一遍聖の母の生国である相模(当麻寺)で独住に入り、賦算を遊行三世智得上人(一二六一〜一三二〇)に譲る。建治二年(一二七六)豊後の大友兵庫頼泰の館で一遍聖と相まみえてから二七年後のことである。

 世良田親氏(家康先祖)は、信州で浪々の節、真教上人により剃髪し時衆となり「徳阿弥」と名乗る。柴崎道場参籠して、のちに三河国松平郷で在原信重に婿入り。徳川姓を名乗ることとなる。異説もあるが、徳川時代には、幕府の伝馬朱印状を後ろ盾とした遊行上人の「遊行回国」が行なわれたことも記憶に留めておくことが必要であろう。



3,時衆芝崎道場日輪寺 縁起

日輪寺の開基は天台宗の了円法師と云われるが 詳細は不明である。当時の地名は「武蔵国豊島郡芝崎(神田御門内芝崎村)」であり。江戸は豊島郡にあった。大雑把に云うと、現在の東京は山地の多摩郡と低地の豊島郡から成り立っていた。

平将門の首塚は芝崎村に安置されていたが、もともとは将門の首を京より持ち帰り房総の「神田山」に葬ったものを、安房国の漁民が江戸(芝崎)移住し漁業を生業とした。「縁起」では神田山はカラダ山(からだやま)としている」、首塚の傍らに建てた祠が「神田明神」であり、真教上人が将門霊「蓮阿弥陀仏」と疫病供養の際、神田明神を改修した。

爾後、日輪寺(神田山芝崎道場)と神田明神は

密な関係が続き、神田明神の「神宮寺」は日輪寺となり、祭礼・法要は僧侶と神官で行っている。

時宗内での日輪寺の格式は高く、@総触頭 A江戸幕府宗務処理 B本山代行所の機能を果たした。

4,神田明神 縁起

 神田祭は江戸三大祭りの一つで、@神田祭(神田神社)A山王祭(日枝神社)B深川祭(富岡八幡宮)指す。「神輿深川、山車神田、だだっ広いが山王様」として江戸時代から伝わる年中祭事である。

 神田神社(神田明神)は千代田区外神田二丁目に所在し、神田、日本橋(日本橋川以北)、秋葉原、大手町、丸の内、旧神田市場・築地魚市場など一〇八ヶ町会の総氏神である。

祭神は、元来、平将門であったが、慶応四年(一八六八)三月の「神社分離令」布告により「叛臣」である将門を祭神すすることは許可されず、大己貴命、少彦名命を安置する。明治一一年になって、将門霊神は摂社将門神社に遷座された。

氏子の反発は激しく。明治新政府も放置するわけにもいかず、同年明治天皇の神田神社行幸により「将門霊神」を公認し、不穏な空気は一応治まった。もっとも「将門霊神」が本殿に復帰したのは一〇〇年後の昭和五九年(一九八四)で、今日の神田神社の祭神は大己貴命、少彦名命、平将門の三柱である。

 平将門は「過去の神」でなく、権力に反抗した東国の英雄として憧れの対象ですらある。

 地名となっている「神田」の謂れであるが、将門の首のない胴体を埋めた山をカラダヤマ(神田山)と云い、その名を取ったと伝えられる。尚、日輪寺の山号は「神田山」である。

 将門の終焉地(茨城県猿島郡岩井町神田山)から江戸に墓を移した「江戸の神田山」(標高三〇〇メートル)を、後年、家康が取り崩し、江戸湾の埋め立てに活用に活用し、その後の丘陵に武家屋敷を建築し信頼できる三河武士が住んだ。現在、駿河台と呼ばれる地帯である    

まとめ

一遍会会員の過半の方が愛媛県出身者で還暦世代以上の世代の方ではないだろうか。昭和五一年のNHK大河ドラマ「風と雲と虹と」をご覧になった方も多いのではないか。

 海音寺潮五郎の同名の小説が原作であるが、このドラマの主人公は平将門と藤原純友である。両人は示し合わせて反逆したという話もあるが・・・

 伊予人にとって藤原純友が平将門のような「英雄」に擬せられるロマンを感じられないのは率直に残念に思う。

 いつの時代にも、民衆は「英雄」を待望する。科学が未発達の時代には、天変地異(災害、疫病など)が発生すると、祟り・怨霊を恐れて神仏を頼み、鎮めを祈る。

 将門は怨霊であるが、「東国」にとって「東人」

にとっては、頼りになる「英雄」であったのか。

 神否定の(浄土)真宗と異なり、「日本教」でもある神仏同時崇拝の時衆の遊行上人は怨霊である将門に阿弥号「蓮阿弥陀仏」を与え、天変地異を治めた。当時の時衆の信仰母体は、海の民・山の民・武士といった「殺生の民」と差別民が多かった。

 やがて二祖他阿上人真教は、相模国当麻(時衆多淫道場清浄光寺)に定住し、時衆を東国に広め東国の武将の帰依を得て、「南無阿弥陀仏」を広く広めることになる。

 将門の伝承も、中世室町期には、時衆も多く参加した「阿弥衆」により、文芸に、戦記物に、歌舞伎に、歌に数多く登場して民衆に恐れられ、親しまれ、愛された人物に昇華されていったのではあるまいか。

参考文献

『一遍上人全集』(橘俊道・梅谷繁樹)春秋社

『遊行・藤沢歴代上人史』禰%c修然・高野修

『将門伝説の歴史』樋口州男 吉川弘文館

『史蹟 将門塚の記』史蹟将門塚保存会編

『時宗神田山芝崎道場日輪寺縁起』?日輪寺編