第六十八章  一遍生誕会(松寿丸 湯浴み式)考
一、 はじめに
宝厳寺での一遍生誕会は、平成二五年(2013)八月一〇日の本堂の焼失により中止となり、二八年五月一四日の再建により、明年(二九年)三月一一日に復活する予定である。まずはめでたいことである。この機会に、一遍生誕会(松寿丸湯浴み式)の経緯について記述し、一遍生誕会の今後のあり方についての参考に供したい。
一、一遍上人の生誕日
 一遍は時宗の開祖であり生誕地は「伊予」、終焉の焉の地は「兵庫 観音堂」とされる。終焉については、一遍につながる聖戒が編纂した『一遍聖絵』の最終巻に詳細に記載されており、没年月日は正応二年(1289)陰暦八月二三日であり疑問をさしはさむ余地はまったくない。一方、生誕月日についての第一次史料は残されていない。『一遍聖絵』では冒頭に一遍の出生を簡潔に述べている。
 「一遍ひじりは俗姓は越智氏河野四郎通信が孫同七郎通広(出家して如佛と号す)が子なり 延応元年(1239)巳亥予州にして誕生 十歳にて慈母しをくれて始て無常の理をさとり給ぬ」
 通説では、松山市道後にある(奥谷道場)豊国山遍照院宝厳寺の寺域内にある父通広の住む塔中のひとつに、延応元年(1239)二月十五日に生まれたとする。鎌倉後期の宝厳寺の塔中は十二庵あったと想定されるので、そのうちのひとつの庵であったと考えられる。
(注)通説の資料は『一遍義集』(1497〜1513)、『一遍上人年譜略』(近世初期以降か)、『麻山集』(不詳)である。
 陰暦二月十五日は釈迦の入滅(にゅうめつ)の日であり、涅槃会(涅槃講や涅槃忌とも称する)である。尚、釈迦の生誕の日は陰暦四月八日であり、潅仏会として、日本では釈迦童像に甘茶を掛ける行事が定着している。
 思うに一遍の生誕日を陰暦二月十五日(涅槃会)にしたのは、一遍を釈迦の再来とする庶民(時衆)の期待があったからではなかろうか。一遍の示寂は陰暦八月二三日(秋分の日)であり、まさに一遍を阿弥陀仏(釈迦)の生まれ代わりと信じたのではあろう。(中世の多くの遊行聖がそのように説教して回ったのではあるまいか。)
一遍が崇拝した鎌倉期の歌人である西行法師の『山家集』(1175年頃)には、涅槃会に仏に抱かれてこの世を去りたいという句が残されている 
「ねがはくは花のしたにて春死なんそのきさらぎの望月の頃」
二、一遍上人生誕会法要
時宗本山(遊行寺 清浄光寺)の陰暦二月十五日(太陽暦では一ヶ月遅れの三月十五日)には涅槃会法要はあるが、一遍生誕会法要はない。
『清浄光寺史』(遊行寺2007)によれば本山の主要な年中行事は左記の六法要である。
@ 歳末別時念仏会 
A 薄念仏会 
B 御札切り(御札切之次第) 
C 二祖忌(真教上人忌) 
D春季開山忌(呑海上人忌) 
E秋季開山忌(一遍上人忌)
当然のことながら、涅槃会行事を実施している時宗寺院もあるが一遍生誕会法要をおこなう寺院はない。
一遍上人生誕会は、一遍生誕の地である宝厳寺並びに一遍会が実施する「一遍上人生誕会&松寿丸湯浴み式」のみである。それだけに、この生誕会行事は貴重であり、当代の勝手で中断してはなるまい。
一遍生誕会(松寿丸湯浴み式)が一遍会によって宝厳寺で実現したのは平成七年(1995)三月十五日である。当時は「松寿丸像湯あみ行事」と称した。松寿丸は一遍智真の幼名で、祖父通信の幼名「若松丸」と父通広の幼名「徳寿丸」から一字ずつもらったものといわれる。
当時の記録(『一遍会報』第二〇五号1995)  によると「一遍上人生誕会法要の後、松寿丸像開眼供養が宝厳寺 長岡隆祥師、常称寺 佐藤精善師、願成寺 長岡義尚師により執り行われた。記念講演は一遍会理事 和田茂樹氏(松山市立子規博物館長、愛媛大学名誉教授)の「一遍上人と道後温泉」。講演後の「松寿丸像湯あみ」行事は、本堂前に設置された松寿丸像に参加者全員(約九〇名)が道後温泉汲み置きの温泉をかけて松寿丸の生誕を祝った。」
この一遍生誕会(松寿丸湯あみ行事)」は平成一六年(2004)の第一〇回一遍生誕会まで誕生日である陰暦二月十五日の一ヶ月遅れの三月十五日に実施したが、第十一回一遍生誕会から一遍会例会開催日(第二土曜日)に「松寿丸像湯浴み式」として例会終了後に宝厳寺境内でおこなうこととなった。
爾後、平成二五年(2013)三月九日、第四九三回一遍会三月例会・第七七四回一遍上人生誕会法要・第一八回松寿丸像湯浴み式を執り行ったが、同年八月一〇日の宝厳寺本堂の焼失により中止となり今日に至った。平成二八年五月一四日の本堂再建、一遍上人堂の竣工により、明年二九年(2017)三月一一日(第二土曜日)に四年ぶりに復活する予定である。
三、松寿丸像湯浴み式
法要の主人公でもある「松寿丸像」は一遍会理事 故足助威男氏が制作した砥部焼の陶製で、ほのかに微笑をたたえた童顔が美しかった。この像は本堂の重要文化財「一遍上人立像」の前に置かれていたので、本堂の出火で「一遍上人立像」とともに灰燼に帰した。現在の松寿丸像は一遍会顧問である中川重美氏(窪野在住)から寄進されたもので、足助威男氏の同時期に制作された陶像である。松寿丸像湯浴み式の着想は大分県別府市鉄輪温泉の「温泉まつり」での「一遍上人湯あみ祭り」から得たものである。筆者は足助威男氏から直接話を聞いたことがある。
鉄輪温泉の「湯あみ祭り」については、平成二八年八月一三日開催の一遍会八月例会で武智利博氏(伊予史談会名誉会長)から「一遍の後を歩く(鉄輪)」の講話があり、『一遍会報』第三八〇号に要旨を掲載したので細部は省略するが若干補足をしておきたい。
鉄輪にある時宗・温泉山永福寺は檀家がなく、寺域から温泉が自噴する。地名「風呂本」が示すように、寺域内に一遍上人が蒸し風呂を設け蒙古襲来の戦傷者や頑固な皮膚病を中心に湯治による功徳をすすめた。寺域内に温泉神社があったが、明治初年の神仏分離により神社は鉄輪の山手に移設された。
「湯あみまつり」で一遍上人坐像は御輿に乗せられ烏帽子をつけた白装束の男性が担ぎ、導師である永福寺住職(河野憲勝師)により、風呂本にある「渋の湯」「蒸し湯」で読経念仏させながら湯あみをさせる。その後、元湯・熱の湯・すじ湯・地獄原湯・大師湯・上人湯を巡回する。烏帽子・白装束は江戸時代の神仏混淆の名残かと河野住職にお訊ねしたが確答を得られなかった。尚、行事の主催者は「鉄輪温泉共栄会」と「湯あみ祭り奉賛会」である。「松寿丸像湯浴み式」の今後の運営について考えさせられた。