第七十九章 宝厳寺小史(U) 中世 鎌倉期@ |
古代 要約 斉明帝が新羅征討時、のちの天智・天武の両皇子とともに斉明七年(661年)筑紫へ下向中、熟田津の石湯(伊予の湯)に立ち寄る。このとき奥谷を上り「金剛滝」を背に大三島の大山祇神を遥拝、「国豊民安」を誓願された。後に、天智天皇(626〜671)が越智守興(国司散位)に命じて天智四年(665年)宝厳寺を創建、「豊国山誓願院宝厳寺」と名付けた。 初め法相宗であったがその後天台別院の定額寺となり「遍照院」と院号を変えた。 (注)大同元年(806)空海(弘法大師)が九州より帰途当山に留錫したとするが、大宰府「観世音寺」に止住中である。また、一遍上人が宝厳寺を時宗寺院に変えたとするが確証はない。 【資料@】『宝厳寺縁起 一遍上人略伝並に和歌』小林覚住著(昭和2年3月30日発行 宝厳寺) はじめに 「中世」の時代定義は、研究者により見解が分かれ、厳密な定義は困難である。たとえば鎌倉幕府の成立時期も大きく二つに分かれる。 @1192年 源頼朝 「征夷大将軍」就任 A1185年 源頼朝「守護・地頭」を全国に設置 同様に、足利幕府の終焉も特定できない。 本論では、「中世」を鎌倉時代・足利時代・戦国時代(三好・織田・豊臣政権)とし、「近世」を徳川時代とする。 中世の権力構造として、黒田俊雄は『権門体制論』で中世社会の支配は@天皇家(王家)・公家勢力 A社寺勢力 B武家勢力の三極補完体制とする。 1221年の「承久の乱」は天皇家対武家(北条氏)であり、 「南北朝の争乱」は天皇家と武家が二分し南朝・北朝に分かれて対立した。 「承久の乱」「南北朝の騒乱」ともに伊予の豪族「河野氏」を巻き込んだ。「承久の乱」では伊予・河野直系は壊滅し、「南北朝の騒乱」で(河野)得能氏は消滅した。 二つの争乱は結果として宮方が敗北し、武家方(鎌倉北条氏 足利氏)が勝利するが、三極補完体制は維持された。河野氏の盛衰の中で宝厳寺も試練を受けることになった。 中世後期「領主制」となり 戦国時代(下克上 天下人 三好長慶・織田信長・豊臣秀吉)に入るが、武士政権が@天皇家・公家勢力 A社寺勢力を押さえ込むのは徳川幕府であり、時代区分としては「近世」に入る。 小林覚住師『宝厳寺縁起』の中世に関する記述 建暦三年(1212年)當山十一世真恵和尚京都鞍馬山より毘沙門天の御像を勧請す、国守伊豫之介通俊厄除のため友月台に其堂宇を建立す、嘉禎三年(1237年)前相国西園寺實氏下向の砌當山に入り如意輪観世音を信仰して霊験を蒙り厚く之を供養せり、延應元年(1239年)河野通廣の二男松壽丸當山別院に於て誕生す、之を時宗の開祖一遍上人とす、天長七年(830)天台宗に改宗し建治元年(1275)又時宗となる、明徳三年(1392)河野通範(?)鐘棲閣を建立せり、文明七年(1475)河野刑部大輔通直[教通]〔?〜1500〕本堂庫裡開山堂を再建す、天正十二年(1584)国守小早川隆景「1533〜1597」従来の寺領たる永田十五町三反歩を寄附す、然るに天正十六年(1588)国主福島正則故なく之を没収せり、寛文二年鐘楼門修繕四大柱は明徳三年の物を用ゆ、 中世の宝厳寺史で重要なる史実である下記3点の記載がない。 1)得能道綱の宝厳寺再建・寄進、法要 2)遊行上人(託何)による奥谷派(宝厳寺)の吸収 3)宝厳寺「法楽連歌」 建暦三年(1212年)當山十一世真恵和尚京都鞍馬山より毘沙門天の御像を勧請す、 (注)宝厳寺十一世「真恵和尚」 初代「仙阿」、二世「珍一房」、三世〜十世不詳 国守伊豫之介通俊厄除のため友月台に其堂宇を建立す、 (注)国守伊豫之介通俊 得能通俊 河野通信の(長)子。「得能」の祖で承久の乱で戦死。その子通秀は北条方。曾孫が「通綱」で宝厳寺に寄進(石碑 大位牌) 「友月台」は現境内か、墓地のある境内の上か(要検討) 嘉禎三年(1237年)前相国西園寺實氏下向の砌當山に入り如意輪観世音を信仰して霊験を蒙り厚く之を供養せり、 (注)西園寺實氏(1194〜1269)従一位 太時宗政大臣 嘉禎元年(1235年)当時 右大臣 嘉禎二年(1236年)4月から寛文二年(1244年)まで職を辞しており(政争・鎌倉幕府?)、難を避け、伊予国宇和庄(西園寺領)に「下向」したか。 年代的には矛盾しない。 西園寺氏が在地領主化し松葉城を築城し宇和盆地を支配するのは永和二年(1376年)以降である。『宇和旧記』 延應元年(1239年)河野通廣の二男松壽丸當山別院に於て誕生す、之を時宗の開祖一遍上人とす、 (注)旧暦二月十五日 @涅槃会(釈迦入滅) A一遍生誕 (『一遍義集』『一遍上人年賦』『麻山集』) 天長七年(830)天台宗に改宗し建治元年(1275)又時宗となる、 (注)湯山 食場 天長五年(825年)「定額寺」 承和七年(840年)「天台別院」 伊予国弥勒寺の所在について先学の三浦章夫(『愛媛の仏教史』)も田中弘道(『伊予天徳寺千四百年の歴史』)も不明とするが論者は奥道後の弥勒山の地名からの弥勒寺の可能性を考えている。その立地は、伊予国衙、国分寺、久米官衙、三津、現・松山平野などの四方の分岐点であり「食場」なる地名は「食を呈する場」」とも考えられる。 その後定額寺は細分化され安養寺(現石手寺)の「地蔵堂」、道後田高の「多幸山弥勒院天徳寺」があり奥谷の「豊国山遍照院宝厳寺」もその一つではなかったか。高縄参詣の南端には数多くの天台系寺院が現存する。古地図には府中から食場に至る大道が記載されている。 建治元年(1275)時宗説は『一遍聖絵』の文章と合致するが、浅山圓祥は疑問(否定)している。 「国中あまねく勧進して、いづちともなくいで給(ひ)ぬ。次(の)年<建治二年1276>、又事のゆえありて、予州をとほり九国へわたり給(ひ)て (以下略)」 明徳三年(1392)河野通範鐘楼閣を建立せり、 (注)河野(得能)通範 通綱―通言―通政―通定―通範 明徳三年は南北両朝統一の年 【資料A】奥之谷宝嚴寺古図(伊予史談会所蔵) 鐘楼閣 一説では、鐘楼閣は伊佐爾波神社境内、天神社は宝厳寺境内にあった。天神社は伊佐爾波神社(現存)、鐘楼閣(鐘楼門)は宝厳寺に移設した。 文明七年(1475)河野刑部大輔通直[教通](?〜1500)本堂庫裡開山堂を再建す (注)開山堂 河野刑部大輔通直[教通] 天正十二年(1584)国守小早川隆景(1533〜1597)従来の寺領たる永田十五町三反歩を寄附す、 (注)史料未確認 然るに天正十六年(1588)国主福島正則故なく之を没収せり、 (注)史料未確認 寛文二年鐘楼門修繕四大柱は明徳三年の物を用ゆ、 (注)未確認 宝厳寺と河野氏 宝厳寺の大檀那は南北朝期に得能氏が宮方(南朝方)に在って武家方(足利氏 北朝方)に敗北するまでは得能氏であった。南北朝後は河野氏が支援したが、河野氏は禅宗(臨済宗・曹洞宗)を信奉した。 通俊の母の実家である越智(新居)家の「観念寺」は、有力な時衆寺院であった。 1)承久の乱(1221年)と伊予河野家の去就 通信 <江刺流刑> @通俊 <宮方戦死>― 通秀(北条方) <得能家> 所領安堵 新居太夫玉氏女 A通政 <宮方斬殺> 所領没収 B通広 (仏門) ― 通真(北条方) <別府家> 所領安堵 通秀(時氏、通尚とも) (智真・一遍房) 二階堂信濃民部入道女 C通末 <宮方流刑> 所領没収 北条時政女(谷) D通久(北条方) ―E通継(養子) 所領受領 E通継(北条方 通久嗣子) ― 通有<河野家> 所領受領 (注)得能通秀・別府通 (一遍)・河野通有は「従兄弟」 2、河野氏系譜 【河野家】 通信―通久―通継―通有―通盛―通朝―通堯 ―通義―持通(通久)―教通(通直)―通春―通宣(刑部太夫)―通直(伊予守)―通軌(宍戸元秀の子 養子) 断絶 【得能家】 河野通広―(得能)通俊―通秀―通村―通綱―通言―通政―通定―通範 ―通純―通景―重見通宗 【別府家】 河野通広―(別府)通広―通真―通朝―通高(長淵庄) ―時氏(通尚 通秀)(一遍房 隋縁 智真) ― 仙阿(伊豆房) ―通定(伊予房 聖戒) 得能道綱の宝厳寺再建・寄進、法要 得能道綱は得能通俊の曾孫に当る。通俊・通秀・通純・通村・通綱と続く。通村は通純の実弟である。通綱は通村の子で通称又太郎。生年は不詳であるが没年は建武四年・延元二年三月(1337)である。 (注)通純の事績としては国重要文化財「宝筐印塔」三基を一遍示寂三十回忌の節目に氏寺である大三島に建立した。また松山の中心部に在る大林寺に得能氏の大五輪墓があり、得能通純の墓と伝わっている。 河野通信室である越智玉氏女の実家である新居家の菩提寺は観念寺であるが『観念寺文書』によれば当初は時宗寺院で後に臨済宗に改宗している。玉氏の子・新居盛氏の室は尊阿であり、定阿・智阿・弥阿と阿号がつながっていく。一遍も「国中あまねく勧進し」(『一遍聖絵』)た折、観念寺を訪ねたかもしれない。得能庄と観念寺は近いので通綱も訪れたに違いあるまい。 通綱の事績として建武元年・元弘四年(1334)に @ 宝厳寺再建(塔頭十二坊) A 「一遍上人御誕生旧跡」碑建立 B 別府荘(通広旧領)寄付 C 法要(大位牌) 焼失前の本堂の正面には春日作の「阿弥陀三尊」が安置され、右側(法師席)には国指定重要文化財の「一遍立像」が、左側(尼席)の御簾の前に「大位牌」があった。位牌の高さは約六〇センチ。 大位牌の中央上部に「南無阿弥陀仏」とあり、 中央に「東禅院殿観光大居士通信 智光院殿玉慧大姉」 右側に「東源院殿観山大居士通広 大智院殿恵性大姉」 左側に「東勝院殿観誓大居士通俊 智應院殿恵琳大姉」の戒名が刻まれていた。 河野通信夫妻(一遍祖父・祖母)・河野通広夫妻(一遍父・母)・得能通俊夫妻(一遍伯父・伯母)の戒名は、越智・河野家の氏神「三島明神」の本地仏が「大通智勝仏」であり、男子には「通」、室(夫人)には「智」を付け、通智」で完結することになる。因みに「大通智勝仏」は「法華経化城喩品」に書かれている過去に出現して法華経を説いたという仏で阿弥陀如来・釈迦如来の父に当たります。大は空、通は仮、智は中道で、空仮中の三観を表しています。 『太平記』などによれば、 正慶二年・元弘三年 (1333)年に後醍醐天皇方として伊予国で挙兵し幕府方の軍と戦う。その後、新田義貞軍に属し、建武三年(1336)年二月には摂津国打出浜(芦屋市)で、同年五月には湊川(神戸市)で足利軍と戦った。さらに一〇月には恒良親王を擁して北陸に下る新田義貞軍と合流するが、翌建武四年(1337)三月越前国金崎城(敦賀市)で斯波高経らの攻撃を受けて戦死した。 承久の乱(1221)で宮方に加担した河野通信以下の伊予河野衆の衰亡から一世紀を経て再び宮方と武家方の「南北朝の抗争」が勃発する。戦乱の暫しの安穏の時期に宝厳寺を再建し「一遍上人御誕生旧跡」碑を建立し、華やかに法要を執り行ったのは、単に先祖供養ではなく、通信・通俊への弔い合戦であり、宝厳寺を得能氏の菩提寺(氏寺)として、一遍時衆による未来永劫にわたる伊予河野家ならびに得能家の供養・加護を念じたのではあるまいか。 (注)焼失した「大位牌」は、平成28年5月14日宝厳寺本堂落慶法要に鯖江市小黒町の「河野一族会」(代表河野通弘氏)により奉納され、遊行上人他阿真円師による入魂式が執り行われた。 遊行上人(託何)による奥谷派(宝厳寺)の吸収 遊行上人(託何)の伊予回国 康永元年(1342)〜康永3年(1344) 【資料B】長澤昌幸「遊行七祖他阿弥陀仏『条々行儀法則』講説 序文一部抜粋 (『時宗教学年報』第四十六輯 抜刷 平成30年3月31日発行) 康永元年(1342) 春、備後尾道道場(尾道市 常称寺 西江寺)開く。 康永二年(1343) 尾道道場に逗留『無上大利賛』(上下)述作 康永三年(1344) 4月、九州 (薩摩川内 称名寺 都城 光明寺など開山) 6月 伊予 奥谷派を遊行派に編入。 『條々行儀法則』一巻 述作 秋、兵庫へ 伊予国 奥谷 菓(ママ)厳寺(宝厳寺)落ち着く (宝厳寺開山 仙阿弥陀仏(宗祖一遍上人 法弟) 弟子 尼 珍一房(住持相続)) ○同行を相伴い 託何上人から十念を受く。 ○珍一房は松前道場に託何上人を招き入れる、(二、三日逗留 賦算?) ○八蔵(道場)で賦算(託何上人 珍一房 同行)。 数日後、珍一房は松前道場に立ち帰る。 ○6月11日 珍一房、自らの一大事を申し合わせる為に宝厳寺に参詣。託何上人に奥谷道場の取り計らいを願う。 ○ 6月21日、珍一房は託何上人と上記を約束して、泣く泣く松前道場に帰ろうとする時、託何上人が「阿弥衣」を与え、これを着用して往生するよう伝える。 ○ 6月26日朝、珍一房は往生す。【重要文化財 時衆過去帳】第一号甲僧衆 第一号乙尼衆・俗衆 珍一房 記載(注)伊豆房仙阿(奥谷派)、伊予房弥阿聖戒(六条派)とも「時衆過去帳」未記載。 ○ 奥谷派宝厳寺、遊行派に編入。 「珍一房の遺言に任せて初めて遊行会下より奥谷道場へ坊主を定め置いた。(坊主名は???) 奥谷の僧尼たちは先師(珍一房)の遺言を重んじて、誓詞を用いて同誓同心し時衆に入門し、その遺跡(奥谷道場)に共住して娑婆世界を離れ、極楽世界へ往生することに励んだのである。 ○『条々行儀法則』 康永三年(1344)六月起筆、伊予宝厳寺遊行時の執筆 1) 託何上人著述『条々行儀法則』 序文(資料添付) 康永三年(1344)四月に起筆、伊予宝厳寺遊行寺、九ヶ条の法式を定める。(『時宗事典』より要約) 第一 本時衆(男僧)副時衆(尼僧) 第二 当時衆、称名に間断不可。(日中は男僧称名、夜間は尼僧称名。) 第三 十二道具 ほかに資具あるべからず (道具 仏道修行の用具。仏具。() 第四 歳末別時 (七日七晩 一日一食 女人先入道場 一時十八人 臨終の儀式) 第五 踊躍念仏信力誠あれば天地も感動する。(踊躍念仏即踊躍歓喜) 第六 日没百万遍 (千二百五十を数とし、融通の百万遍の功徳) 第七 賛念仏、五正中前三後一を助業とす(称名正行以外に四種の助業あり。) 第八 祖忌一夜別時(歓喜踊躍して念仏すべし) 第九 衣色宗祖鎌倉遊行寺より鼠色となる。(初祖は黒衣。末世は仏法の光が消える。念仏が世を照らす。 (参考)時宗十二派 (大檀那) 内阿(当麻派) 無量光寺(当麻道場) 檀那 大佛氏 千葉氏 浄阿(四条派) 金蓮寺(四条道場) 檀那 天皇家 足利氏 一遍―*真教―智得−呑海―安国―一鎮―託何―(遊行派) 清浄光寺(遊行寺) 檀那 俣野氏 国阿―(国阿派) 正法寺(道場) 檀那 石塔氏(足利一族) ―(霊山派) 雙林寺(道場) 檀那 石塔氏(足利一族) *心阿(仙阿)(奥谷派) 宝厳寺(奥谷道場) 檀那 河野・得能氏 *作阿(市屋派) 金光寺(七条道場) 檀那 空也遺跡市屋継承 王阿(御影堂派)(後嵯峨天皇皇子) 元五条・御影堂 現・新善光寺(長浜) *聖戒(六条派) 歓喜光寺 檀那 関白九条忠教 一向―(一向派) 蓮華寺(番場) 檀那 土肥氏 解阿(解意派) 新善光寺(茨城) 檀那 宍戸氏 (天童派) 仏向寺 檀那 天童氏 宇都宮氏 (注)*印を付した人物は『法水分流記』から判断して、一遍智真の影響が大である。 (注)人名、寺名は『清浄光寺史』(清浄光寺2007)に拠る。 「湯釜薬師」と宝厳寺・河野家(参考) 【松山市史】第五巻記載の公式の発表を先ずは記載しましょう。 県指定(建造物) 石造 湯釜 松山市道後公園 松山市 昭和29年11月24日 指 定 直径166.7cm,高さ157.6pの円筒形,花崗岩の湯口で、天平勝宝年間(749〜757)に作られ、正応元(1288)年河野通有の依頼により一遍上人が湯釜の宝珠に南無阿弥陀仏の6字の名号を彫ったという。享禄4(1531)年河野道直が尾道の石工に命じ、胴まわり部に天徳寺徳応禅師撰文の温泉記を彫らせた。この湯口は現在の道後温泉本館ができるまで使われたもので、温泉史上貴重なものである。 (1)円筒形花崗岩の湯口製作が天平勝宝年間(749〜757)とすれば、大仏開眼(752)の時代で伊予国に国分寺が建立された時代です。鎌倉時代は13世紀ですから遡ること4〜500年ということになります。「奈良時代の湯釜」説の根拠は荒唐無稽ではないようです。 (2)正応1年は一遍の最後の帰郷した年に当たります。河野道有・一遍・湯釜の宝珠・南無阿弥陀仏を結びつけるとすれば逆に正応1年しかありえないことになります。郷土史の文献では「〜という」又は「〜と伝えられる」と記述しており確証はありません。尚[湯釜]でなく宝珠に「南無阿弥陀仏」と彫られていますが、一遍筆の確証はありません。 (3)享禄4年の記述は1710年頃に編集された「予陽郡郷諺集」(伊予史談会叢書N)に基づくものです。 (4)明治以降使用された湯釜は神の湯、養生湯始め幾つか湯釜がありましたので、今後観光資源として活用することも考えてほしいものです。昭和49年刊行の「道後温泉」(松山市発行・編集委員長 和田茂樹)が最も信頼できる研究資料集でしょう。 尚、この「湯釜」ですが、今日では「湯釜薬師」と呼称しており、毎年8月1日を「湯釜薬師祭」として温泉の守護佛をお祭りし、この祭りを皮切りに「道後温泉まつり」がスタートします。当一遍会でもお供えし会員代表が参列しております。 @ 「一遍立像」(焼失)と宝厳寺・河野家(次回) A 宝厳寺「法楽連歌」 (次回以降) B 阿弥衆と宝厳寺・河野家(次回以降) |