第七十章  生死(しょうじ)の執着(しゅうじゃく)と安心(あんじん) 〜一遍と子規と〜
はじめに

1)聖路加国際病院名誉院長「日野原重明」氏逝去  平成29年(2017)7月18日(105歳)。
明治44年(1911)10月4日山口市で誕生。父善輔(ぜんすけ)は日本メソジスト教会牧師。京都帝大医学部(1932入学〜1037卒業 結核を患い挫折、休学)、41年から聖路加国際病院内科医、聖路加看護大学長、92年同病院長、96年理事長。平成29年(2017)終末期にあたり、同病院での延命治療を断り在宅治療。
座右の銘は、ウィリアム・オスラー(カナダ 1849〜1919)「医学は科学に基づくアートである」

(日野原氏との出会い 25年前)
著書 『アートとヒューマニティー』(中央法規出版)
アート論(生命は短し、芸術(医術)は永し Life is short, Art is long)
「Ars longa, vita brevis」.(古代ギリシャ医者ヒポクラテス)「医術を学ぶには長い月日を必要とするが、人生は短いので怠らず励むべきだ。」

医術(Art)はキュア(Cure 治療 医師)とケア(Care 看護・介護 看護士)から成る。
医療は「アート」であり、取引ではない。使命であって商売ではない。
ベースにあるものはヒューマニティー(キリスト教的愛)である。

一遍、子規ともに最高のケアとキュアを受けた。最高のアートを享受した。
→「文学作品は作者の死後も後世に残るが、文学者の生命は短い。」 (子規)
→くすし(薬師・医)(一遍は「医聖」)

日野原氏が聖路加看護大学長当時、質問を呈しランチに誘われた。
薬品はアート事業(薬品事業のビジョンづくり)ヵ

2)平成29年は子規生誕150年、子規没後115年に当たる。一方、一遍は生誕778年、没後728年である。子規と一遍では6世紀以上隔たるし、時代も鎌倉武家政権と近代天皇制とはまったく異質ではある。併し、個人の生死観については、時代を超克した「生死への執着と安心」があったのではないか。郷土伊予国を代表する時代の先覚者である一遍と子規の生死観を通して、現代の吾々の立つ位置について考察したい。

「生死の執着と安心」の構成
  はじめに 
T 四苦と八苦
U、一遍の生死の執着と安心
V、子規の生死の執着と安心
W、「南無阿弥陀仏」と「南無糸瓜仏」
  おわりに


1 四苦と八苦

「苦」とは 自分の思い通りにならないこと
「四苦」とは、@生・A老・B病・C死
「八苦」とは、「四苦」とD愛別離苦・E怨憎会苦・F求不得苦・G五陰(オン)盛苦 
(注)五陰(色・受・想・行・識)から生ずる心身の苦しみ。五蘊
畢竟「生者必滅 会者定離」「諸行無常」
祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらはす。
おごれる人も久しからず、ただ春の夜の夢のごとし。たけき者も遂にはほろびぬ、ひとへに風の前の塵に同じ。

他人の「四苦」は、社会・家庭・肉親から切り離して、@は産科病院 Aは介護施設 Bは総合病院 C病院→斎場に追いやる。死は「不浄」「穢」である。
自分の「四苦」は、現代の科学技術や神秘を信頼・信仰。「生」は性別産み分け、劣性因子の生命拒絶、「老」を否定して「アンチエイジング」<いつまでも若々しく>が大流行。「死」を否定して悲惨な「延命治療」「最先端医療」もてはやされている。併し、現段階では「不老」も「不死」を可能にする方策は存在しない。

「八苦」とは、「四苦」に加えて、新たな「四苦」が加わる
Dは愛する存在との別離の苦しみ Eは怨憎の存在と会する苦しみ Fは求めたい存在の不得の苦しみ Gは五陰(色・受・想・行・識)から生ずる心身の苦しみ。
仏説・摩訶般若波羅蜜多心経
観自在菩薩・行深般若波羅蜜多時、照見五蘊皆空、度一切苦厄。舎利子。色不異空、空不異色、色即是空、空即是色。受・想・行・識亦復如是。舎利子。・・・(略)

U 一遍の生死への執着と安心

(1) 出自 武士(支配層・エリート)

@「常在戦場 常時死身 臨終安穏」 A「タテ社会(忠孝) イエの論理(家督相続)」

 「一遍聖絵」 第一 第一段
 一遍ひじりは、俗姓は越智氏、河野四郎通信が孫、同七郎通広(出家して如仏と号す)が子なり。延応元年(1239)己亥(つちのとい)予州にして誕生。十歳にして悲母におくれて、始(め)て無常の理をさとり給(ひ)ぬ。つひに父の命をうけ、出家をとげて、法名は隋縁と申(し)けるが、建長三年(1251)の春、十三歳にて、僧善入とあひ具し、鎮西に修行し、大宰府の聖達(しょうだつ)上人の禅定(室)にのぞみ給ふ。
 上人、学問のためならば、浄土の章疏文字よみをしてきたるべきよし、示し給(ふ)によりて、ひとり出て、肥前(の)国清水の華台上人の御もとにまうで給(ひ)き。
 上人あひ見て、「いづれの処の人、なにのゆゑにきたれるぞ」と問(ひ)給(ふ)に、事い(の)おもむきくはしくこたへ申されければ、処の上人、「さては、昔の同朋の弟子にこそ。往事のまだわすれず。旧好いとむつまじ。さらばこの処に居住あるべし」とて、名字を問(ひ)給(ふ)に、隋縁と申(す)よし答(へ)申(し)給(ふ)に、「隋縁雑善(ぞうぜん)恐難生(恐らく生じ難し)」といふ文あり。しかるべからず」とて、智真(と)あらため給き。
 さて、彼の門下につかへて、一両年研精修学し給ふ。天性聡明にして、幼敏ともがらにすぎたり。上人、気骨をかゞみ、意気を察して、「法機のものに侍り。はやく浄教の秘蹟をさづけられるべし」とて、十六歳の春、又、聖達上人の御もとに、おくりつかはされ給(ひ)けり。


1)伊予の豪族河野氏の一族である。承久の乱(1221)で、一族は後鳥羽上皇方と鎌倉幕府方に別れて抗争した。上皇方は敗北し、通信以下伊予系河野家は所領を没収され、北条系河野家が総領家として以後伊予国の統治者となる。庶家の得能河野家(通秀)と別府河野家(通真)は幕府方(北条方)に加担したので所領が安堵された。別府河野家通広の次男として一遍智真(松寿丸 隋縁)は1239年誕生する。父・通広(如仏)は仏門にあり、母の死を契機に、学問の道(師は縁教上人)に入り、大宰府に留学する。

一遍の系譜

〇武家の子 家系 仏門 幕府方(北条方) 次男 母(大江[毛利]季光娘)
○一遍の生涯(1239〜1289)文永の役(1274)弘安の役(1281)
通信――通広――通真(みちざね)・・・・・別府河野家継承(庶家)
        ――通尚 一遍<智真坊>・・・時宗開祖
        ――通定 聖戒<伊予坊>・・・『一遍聖絵』編者
        ――不詳 仙阿<伊豆坊>・・・奥谷派宝厳寺開基)
  ――通俊――通秀・・・・・・・・・・・得能河野家継承(庶家)
  ――通秀
  ――通末
  ――通久――通継――通有・・・・・・・鎌倉系(北条)河野家継承(総領家)
  ――通継

2)1263年、父(通広)の死により伊予に帰国、還俗して領地を相続し家庭を持つが、一族の相克が起きる。刃傷沙汰に発展し、善光寺・窪寺閑室・菅生岩屋で修行し、再出家を選択する。

学生期 ○エリート進学・留学
伊予・得智山継教寺(縁教) 筑紫・大宰府原山寺(聖達) 肥前・清水庵室(華台) 
天台<顕教・密教)・浄土教・真言密教(山岳宗教)・法華経・曹洞禅
「まことに一子出家すれば七世の恩所、得脱することはりなれば、亡魂さだめて慨土望郷のむかしの夢をあらためて、華池宝閣の常楽にうつり給(ひ)ぬらむと、ことにたのもしくこそおぼえ侍れ。(第五・第三段)」

家住期 
 
○ 兄(通真)の死 父(通広)の帰寂 領地相続 結婚 子供(本妻 妾) 
○ 親族間の相克(領地、妻妾、刃傷)
→挫折 → 発心(安心)
「夫(そもそも)、真俗二諦(は)相依の法、邪正一如は実業のことはりなれども、「在家にして精進ならんよりは、山林にしてねぶらむにはしかじ」と仏もをしへ給へり。又、「聖としかとは、里にひさしくありては難にあふ」といへる風情も、おもひあはせらるゝ事侍り。(第一 第二段)
発心の契機は「輪鼓」(りゅうご)の悟り 「一遍聖絵」 第一 第二段
「そののち(父通広帰寂)、或は真門をひらきて勤行をいたし、或は俗塵にまじはりて恩愛をかへりみ、童子にたはぶれて、輪鼓をまはすあそびなどもし給(ひ)き。
ある時、此輪鼓地におちてまはりやみぬ。これを思惟するに、「まはせばまはる、まはさゞればまはず。われらが輪廻も又かくのごとし。三業の造作(に)よりて六道の輪廻たゆる事なし。自業もしとゞまらば、何をもてか流転せむ。こゝに、はじめて、心にあたて生死のことはりを思ひしり、仏法のむねをえたりき」とかたり給(ひ)き。
彼(の)輪鼓の時、夢に見給へる歌□
001「世をわたりそめて高ねのそらの雲 たゆるはもとのこゝろなりけり」
→「コマが据わる」 「動中静」 「動即静」 「輪廻・解脱」

林住期 
○ 善光寺(二河白道図) 
○ 窪寺閑室(己心領解)「十劫正覚衆生界 一念往生弥陀国 十一不二証無生 国界平等座大会」
○ 菅生岩屋(衆生済度 捨て聖)
○空也(「捨ててこそ」)〇教信(念仏・捨身)〇性空(「性空即是涅槃聖 六字宝号無生故」)

3)「捨て聖」として16年間念仏賦算の遊行を続ける。賦算は25万1724人に及ぶ。(全人口の約5%)

遊行期  
再出家 (天王寺 高野山 熊野 ・・・・)
賦算   二十五億(万)千七百二十四人(16年間)
◎「融通念仏をすゝむる聖、いかに念仏をばあしくすゝめらるゝぞ。御房のすゝめによりて一切衆生はじめて往生すべきにあらず。阿弥陀仏の十劫正覚に、一切衆生の往生は南無阿弥陀仏と決定するところ也。信不信をえらばず、浄不浄をきらはず、その札をくばるべし」(第三、第一段)
遊行(非定住)
◎「今はおもふやうありて同行等をもはなちすてつ。又念仏の形木くだしつかはす。結縁あるべきよしなどこまかくかき給へり。」(第三、第二段)
踊り念仏
◎004「はねばはねよをどらばをどれはるこまの のりのみちをばしる人ぞしる」
◎005「ともはねよかくてもをどれこゝろごま みだのみのりときくぞうれしき」
念仏(南無阿弥陀仏)
(注)弘安年間(1278−1287)人口4,994,828(男)1,994,828人(女)2,994,830
   『類聚名物考』(全人口の5%)

4)最後の遊行は伊予国から始まる。岩屋寺・繁多寺・大山祇神社、(讃岐)善通寺・曼荼羅寺(阿波)河辺(こうべ)寺、(淡路島)、(兵庫津)。
正応二年(1289)8月23日兵庫観音堂(兵庫の光明福寺内にあったといわれる。現在の時宗真光寺の位置ヵ。海人の惣堂ヵ。今も寺内に観音堂がある。)で大往生する。奇しくも勢至菩薩の縁日に当る。(勢至菩薩の生まれ変わり伝承)

大往生   生死の執着と安心の「超克」
 
 遺誡(正応二年(1289)8月2日 
 ◎「我(が)化導(念仏勧進)は一期(一生涯)ばかりぞ」(第十一 第段)
 ◎「一代聖教みなつきて、南無阿弥陀仏になりはてぬ」(第十一 第段)
辞世 
◎050旅衣木のねかやのねいづくにか 身のすてられぬところあるべき(第十一、第三段)
⇒ 一遍百歌
看護死(×孤独死) 
◎「彼(の)五十一年の法林、すでにつきて1千余人の弟葉むなしくのこれり。平生におなじきは六時念仏の音ばかりなり」(第十二 第段)
師弟 他阿真教 仙阿(伊豆坊) 聖戒(伊予坊) 時衆
◎一代で終わる⇒南無阿弥陀仏となりはてぬ  (二祖他阿上人) 
(子規と虚子) 道灌山事件(明治二八年)
(参考)五百木瓢亭(亮三)宛書簡 虚子『俳句の五十年』(昭和17年)
 遺産 中世文化 従軍僧 御伽衆 時衆

V 子規の生死への執着と安心


1)正岡家の遠祖は風早郡の豪族で河野家の家臣である。江戸時代には松山藩の郡手代として勤め士分(馬廻加番)に取り上げられる。
1867年、徳川幕府が瓦解した明治維新に隼太の長男として子規は誕生する。武士(支配層・エリート)の遺伝子は@「常在戦場 常時死身 臨終安穏」A「タテ社会(忠孝) イエの論理(家督相続)」。
2)当時不治の病とされる結核に罹り人生計画(哲学者、外交官等)が大きく狂う。(日野原重明)
3)限られた人生の中で俳句革新に乗り出し、「安心」の境地に達し、和歌、新体詩、ジャーナリスト等、多彩な分野に挑戦する。
出自 子規の系譜
・ 出自 父方  松山藩の武士の子 「常在戦場 常時死身 臨終安穏」A「タテ社会(忠孝)イエの論理(家督相続)」。
   母方  松山藩の儒者の孫  「十有五而志乎学、三十而立、四十而不惑、五十而知天命」
 家系 次男 父(佐伯隼太(常尚) 養子  挫折  大酒家(毎日一升位))               
       母(八重 儒者大原観山(有恒、武右衛門)  長女 後妻)
       *長男(数馬 早世)  先妻(倉根半蔵娘 10石)
 *隼太は常武の長女(村)が藩士佐伯政景に嫁して生んだ次男(長男は政房) 。
初代 団七(山手代・郡手代)― 二代 団七(郡手代)― 三代 不詳―四代 不詳―五代 一甫(茶坊主・茶坊主頭)― 六代 常武(徒歩目付)― 七代 隼太(大小姓格・馬廻加番)― 子規 
先祖・正岡氏は風早郡(現・松山市)八反地に住む豪族。河野氏家臣。越智郡竜岡幸門城主、河野三十二将の一.
・ 「武士と俳句」(「獺祭書屋俳話」) 武士:高尚優美 素町人・土百姓:月並調(金子兜太)
(参考)『筆まかせ』(第一 明治二二年)○玄祖父 ○曾祖父 ○父 ○余

家名を上げないと生きた甲斐なし、文学した甲斐なし。(文章確認中 子規の墓名碑)
子規は明治31年7月に碧梧桐の兄河東可全にあてて書いた手紙に添えて、自分の墓碑銘を送付

「正岡常規又ノ名ハ處之助又ノ名は升又ノ名ハ子規又ノ名ハ獺祭書屋主人又ノ名ハ竹ノ里人 
伊予松山ニ生レ東京根岸ニ住ス 父隼太松山藩御馬廻り加番タリ 卒ス 母大原氏ニ養ハル
日本新聞社員タリ 明治三十□年□月□日没ス 享年三十□ 月給四十円」

学生期

エリート進学・遊学→当時不治の病とされる結核に罹り、人生計画(哲学者、外交官等)が大きく狂う。
明治6年 大原観山私塾  明治8年 勝山学校通学 明治13年 松山中学(明治16年退学上京)
明治16年須田学舎、共立学校 明治17年 東京大学予備門<明治19年第一高等中学校改称>
明治23年7月第一高等中学卒業。9月 東京帝国大学文化大学(哲学科)入学 明治24年国文学に転科 明治26年3月 東京帝国大学文化大学中退。

家住期

明治25年11月 東京移転で母八重、妹律上京。 明治25年12月 新聞「日本」社員。
明治27年2月 転居「東京市下谷区上根岸八十二番地」転居。(子規庵)
限られた人生の中で俳句革新に乗り出し、「安心」の境地に達し、和歌、近代詩、新体師、ジャーナリスト等、多彩な分野に挑戦する。

林住期


遊行期

子規 生死の執着  @哲学的苦悩
○「生が帰(キ)か死が帰(キ)か夢の世の中の 夢見て悩む我身なりけり」
(明治17年9月  竹村鍛宛  大学予備門)
○「悟りといふことハ仏教の専有物でハないが・・・
 悟りは一つであるが、その方法は二つある。
 自力と他力、聖通門と浄土門、その極端にあるものとして禅宗と真宗 座禅観法と念仏 阿弥陀さまと一処になって始めて絶対の境地に達して悟りが開ける」
 「悟りとハ悟らぬさきの悟りなり 悟りてみれハ何もかもなし」 一休禅師
(明治23年4月 常盤会寄宿舎茶話会)

子規 生死の執着  A大喀血(而立)
○「身の上や御籤を引けば秋の風」 
(明治28年9月 石手寺 「二十四番凶 病事は長引ん命にはさはりなし」 )
○「行く秋や我に神なし仏なし」
(明治28年10月 小栗神社)
 ⇒自力 
 →日蓮に傾倒(自力信仰) 須磨療養中『日蓮記』
○「平和なる天下に生れ(略)能く平地波乱的の大事業を成就するあらば、其人が徹頭徹尾時勢を造出し技量を驚かざるを得ず。(略)余法華宗の開祖日蓮に於て之れを見る。(略)野心は須らく大なるべきなり。」
(明治28年8〜10月『養痾日記』(「日蓮」)
⇒近代俳句の革新 「日本派」「ほととぎす」 決意

子規 生死の執着  B禅的悟り
○「余は今迄禅宗の所謂悟りといふ事を誤解して居た。悟りといふ事は如何なる場合にも平気で死ぬる事かと思って居たのは間違ひで、悟りといふ事は如何なる場合にも平気で生きて居る事であった。
(「病床六尺」第十一、261)(明治33年6月)
○「をかしければ笑ふ。悲しければ泣く。併し痛の烈しい時は仕様がないから、うめくか、叫ぶか、泣くか、又は黙ってこらへて居るかする。其中で黙ってこらへて居るのが一番苦しい。盛んにうめき、盛んに叫び、盛んに泣くと少しく痛が減ずる。(明治34年) 
○「今迄悟りと思ふて居たことが、悟りではなかったといふことを知った●けが寧ろ悟りに近づいた方」かも知れん。さう思ふて見ると悟りと気取りと感違へして居る人が世の中にも沢山ある。」)(明治35年)
  「ありのまま」が子規の到達した一つの悟りヵ

子規 生死の執着  C省察 「ほととぎす」第四巻第五号(明治三四年2月)
○「死を感ずるには二様の感じ様がある。一つは主観的の感じで、一は客観的の感じである。
 死を主観的に感ずるといふのは、自分が今死ぬる様に感じるので、甚だ恐ろしい感じである。客観的に自己の死を感じるといふのは変な言葉であるが、自己の形体が死んでも自己の考は生き残っていて、其考が自己の形体の死を客観的に見てをるのである。
→棺 
→土葬・火葬・水葬・ミイラ・星 
→秋、とある農村の曼珠沙華の咲く野辺での土葬 (窪寺の風景!)

子規の往生(慶應三年(1867)10月14日〜明治三五年(1902)9月19日)
11日「病床六尺」124
12日「病床六尺」125
13日「病床六尺」126 宮本医師 碧・鼠骨・佐千夫・秀真・節・虚子(泊)
14日         虚子                  
15日「病床六尺」127 碧梧桐(看護)
16日         虚子・左千夫(看護)
17日              
18日 へちま三句   柳医師 碧・羯南・虚子(泊) 宮本医師
               「誰々が来ておいでるぞな」(最後の言葉)
19日未明(午前一時)没  虚子が碧梧桐、鼠骨連絡   通夜  
20日通夜
21日午前9時出棺 会葬150余名 大龍寺埋葬 「正岡常規墓」
子規の往生(続)
○「病床六尺123」 〇支那や朝鮮では今でも拷問をするさうだが、自分はきのふ以来昼夜の別なく、五体すきなしといふ拷問を受けた。誠に話にならぬ苦しさである。
○「病床六尺124」 〇人間の苦痛は余程極度へまで想像せられるが、しかしそんなに極度に迄想像した様な苦痛が自分の此身の上に来るとは一寸想像せられぬ事である。
○「病床六尺125」 〇足あり、仁王の足の如し。足あり、他人の足の如し。足あり、大磐石の如し。僅かに指頭を以てこの脚頭に触るれば天地振動、草木号叫、女◇氏(じょくわし)未だこの足を断じ去って、五色の石を作らず。
○「病床六尺126」 ○芭蕉、奥羽行脚 「蚤虱馬のしとする枕許」 ○上野動物園虎の臭い
○「病床六尺127」 〇芳菲山人より来書。(略)「俳病の夢みるならんほとゝぎす拷問などに誰がかけたか」


W 「南無阿弥陀仏」と「南無糸瓜仏」


一遍の達観と安心
001「世をわたりそめて高ねのそらの雲 たゆるはもとのこゝろなりけり」
*弘長三年(1263)  伊予・別府宅
003「とことはに南無阿弥陀仏ととなふれば なもあみだぶにむまれこそすれ」
*建治二年(1276) 大隅正八幡宮
015「身をすつるすつる心をすてつれば おもひなき世のすみぞめの袖」
*弘安三年(1280) 奥州江刺祖父通信墳墓  *窪寺(宝厳寺)歌碑
036「極楽にまいらむとおもふこゝろにて 南無阿弥陀仏といふぞ三心
*弘安九年(1286)冬 石清水八幡宮 三心=至誠心・深心・廻向発願心
050「旅衣木の根かやの根いづくにか 身の捨てられぬ処あるべき」
*天応二年(1289)七月  淡路島        *宝厳寺歌碑

子規の達観と安心
「糸瓜サヘ仏ニナルゾ後レルナ」(「仰臥漫録」) (他力句)
絶筆三句
 @「糸瓜咲て 痰のつまりし佛かな」  ・・・成仏(他力句)
 A「痰一斗 へちまの水も間に合わず」 ・・・生への執着(自力句)
 B「をととひのへちまの水も取らざりき」・・・死の覚悟(自力→他力)
(注)
A句は、生前( 1,2年前の8月)、主治医宮本仲医師(日本新聞社隣の開業医⇒帝大医学部教授)に子規が贈った句である。
「丁度その八月の事、子規が悪かった時、私が直ぐに行けなかった。そこで私が行かないものだから、糸瓜の水をいくら?んでもさっぱり効果がないと云ふ意を含めて詠んだものと覚えている。」(宮本仲「私の観た子規」)
B句は「子規逝くや十七日の月明に  虚子」に符合するヵ。
・絶筆三句  「来迎三尊」説(阿弥陀如来 観音菩薩 勢至菩薩)

糸瓜封じ 
  「をととひのへちまの水も取らざりき        子規」
  「子規逝くや十七日の月明に            虚子」
【 糸瓜封じ】
  上野浄名院(律宗)糸瓜を供えて咒をしてもらう。ぜんそく封じ。咳の薬。旧暦8月15日 
【胡瓜封じ】 今治 高野山世田山栴檀寺 通称「世田薬師」  
        「土用の丑の日」(夏越しの儀式)
【メモ】
@『言海』大槻文彦編(明治三七年)学名:Luffa cylindrica (L.) Roem.
ヘチマ(名)糸瓜 蛮語ナリト云、詳ナラズ、或云、糸瓜(イトウリ)ヲ約メテ、とうりトモイフ、とハ伊呂波歌ニテ、へトちトノ間(マ)ナレバイフト、強牽ナレム)
A中国最古の医書『神農本草経』(2〜3世紀)に記載なし。インド原産のウリ科の一年草。また、その果実のこと。日本には室町時代に中国から渡来した。
B『羅葡日対訳辞書』(1595年)、『日葡辞書』(1604年)にヘチマ(Fechima葡語のローマ字)で出ている。『本朝食鑑』(1697年)等に糸瓜と書いて「へちま」と訓じる。『物類称呼』(江戸時代)では、本来の名前は果実から繊維が得られることからついた糸瓜(いとうり)。これが「とうり」と訛った。「と」は『いろは歌』で「へ」と「ち」の間にあることから「へち間」の意で「へちま」と呼ばれるようになった。
C『江戸語の辞典』(講談社学術文庫)
@ おろかなこと。何の役にも立たぬこと。またその人。
A 醜いこと。またその女。B拙劣。へま。

「五六反叔父がつくりし糸瓜哉」 (子規『散策集』明治28年(1895)9月20日)
(注)へちまの活用先は化粧品(化粧水)である。明治20年代から白粉とお歯黒が廃れた。<明治期の一家庭で「へちま」を植えるのは一般的なこと>

【沖縄のへちま料理】
 ナーベーラー  (へちまの味噌煮) 
 ゴーヤ(にがうり)  学名: Momordica charantia ツルレイシ

「南無阿弥陀仏」と「南無糸瓜仏」
「一代聖教みな尽きて南無阿弥陀仏と成り果てぬ   一遍」 
「糸瓜サヘ仏ニナルゾ後レルナ      子規」
 「成仏ヤ夕顔の顔ヘチマの屁       子規」
 「糸瓜咲て痰のつまりし佛かな      子規」 
「糸瓜も仏になった。子規も仏になった。糸瓜も子規も仏になった。子規は「糸瓜仏」という仏になった。」越智通敏 『子規会誌』11号(昭和56年10月号)
「俳諧は禅なり、禅に非ず。禅は俳諧なり、俳諧にあらず。俳諧に禅あらば禅に俳諧あるべし」
(子規 「病床六尺」 第五 121)

「南無糸瓜仏」の守り人
「五十年糸瓜守りて愚に徹す」   寒川 鼠骨(1875〜1954)
「吾が生は糸瓜の蔓のゆく処」   柳原 極堂(1867〜1957)
「春風や闘志いだきて丘に立つ」  高浜 虚子(1874〜1959)大正二年 俳壇復帰)
「闘志尚存して春の風を見る」                        (喜寿)
「古人の跡をもとめず、古人 の求めたる所をもとめよ」松尾芭蕉(『許六離別の詞』(柴門の辞) )
「草木国土悉皆成仏」 「山川草木悉皆仏性」(仏典)
「花鳥諷詠」「客観写生」(虚子提唱 伝統俳句)
「俳諧に禅あらば禅に俳諧あるべし」(子規「ホトトギス」俳諧無門関)

おわりに
「Ars longa, vita brevis」 限りある人生 限りなき希求 
                
【参考】 『一遍聖絵』に見る一遍 
 

【第一巻・第1段】大宰府へ出立(大宰府聖達、肥前国清水寺華台)
【第一巻・第2段】大宰府へ再出立(聖戒剃髪 大宰府随伴)
【第一巻・第3段】善光寺参詣(二河白道図)
【第一巻・第4段】窪寺閑室三年間念仏修行

【第二巻・第1段】菅生岩屋参篭
【第二巻・第2段】遊行出立(超一・超二・念仏坊同行 聖戒別れ)
【第二巻・第3段】四天王寺参篭 初賦算
【第二巻・第4段】高野山参詣

【第三巻・第1段】熊野本宮(律僧賦算 証誠殿にて熊野権現神託 那智大社参詣
【第三巻・第2段】伊予府中念仏道場での勧進
【第三巻・第3段】大宰府で聖達と風炉で語らい

【第四巻・第1段】筑前国・武士の屋形
【第四巻・第2段】大隈正八幡宮参詣
【第四巻・第3段】備前国藤井・吉備津宮神主夫妻出家
【第四巻・第4段】京都・因幡堂
【第四巻・第5段】信濃国佐久郡伴野市庭の在家(歳末別辞念仏)
         信濃国小田切の里の武士の館(踊り念仏)

【第五巻・第1段】信濃国小田切の里近くに大井太郎の館(踊り念仏)
【第五巻・第2段】下野国小野寺境内
【第五巻・第3段】白河の関の明神
         江刺の祖父河野通信の墓参り
【第五巻・第4段】平泉・常陸国(雪景色)・武蔵国石浜
【第五巻・第5段】鎌倉入り拒絶される

【第六巻・第1段】片瀬の館の御堂での別時念仏  片瀬浜の地蔵堂にて踊り念仏
【第六巻・第2段】伊豆国・三嶋大社参詣
【第六巻・第3段】霊峰富士山 冨士川 鰺坂入道入水往生
【第六巻・第4段】尾張国・甚目寺

【第七巻・第1段】大津の関寺での踊り念仏
【第七巻・第2段】京都四条京極・釈迦堂での踊り念仏と賦算
【第七巻・第3段】京都・空也上人遺跡 市屋道場での念仏厳修
【第七巻・第4段】京都洛西・桂道場

【第八巻・第1段】京都亀岡・穴生寺
【第八巻・第2段】山陰・丹後の久美浜 海辺の念仏道場
【第八巻・第3段】美作国一宮(中山神社)
【第八巻・第4段】四天王寺
【第八巻・第5段】磯長・聖徳太子御廟(大阪府河内郡太子町「叡福寺」)墓参
         当麻寺(中将姫の浄土曼荼羅)参詣

【第九巻・第1段】山城国・男山(石清水)八幡宮参詣 淀の上野の踊屋
【第九巻・第2段】天王寺 歳末別時厳修 如一上人の往生
【第九巻・第3段】印南野(加古川市)・教信寺ヵ
【第九巻・第4段】播磨国・書写山円教寺
【第十巻・第1段】備中国軽部教願の往生
【第十巻・第2段】備後国・一宮 吉備津神社
安芸国・一宮 厳島神社
【第十巻・第3段】伊予国・一宮 大山祇神社

【第十一巻・第1段】阿波国から淡路国へ
【第十一巻・第2段】淡路国・志筑 北野天神社参詣
【第十一巻・第3段】淡路島から明石の浦・兵庫観音堂へ
【第十一巻・第4段】兵庫の観音堂

【第十二巻・第1段】兵庫の観音堂(紫雲)
【第十二巻・第2段】兵庫の観音堂(臨終告知 西宮大明神、淡路殿女房へ十念)
【第十二巻・第3段】兵庫の観音堂(臨終)時衆七人入水往生
          一遍上人堂と一遍立像

(注)全十二巻 48段 48図
十二光仏(「大無量寿経」)阿弥陀仏の光明を12の功徳?(くどく)?に分けてたたえる呼び名。無量光・無辺光・無碍光?(むげこう)?・無対光・?王光?(えんのうこう)?・清浄光?(しょうじょうこう)?・歓喜光?(かんぎこう)?・智慧光・不断光・難思光・無称光・超日月光?(ちょうにちがっこう)?。
十二光徳 十二光箱(十二道具)十二因縁

045おもふことみなつきはてぬうしとみし よをばさながら秋のはつかぜ(第十一、@)
(想うことみな尽き果てぬ 憂しと見し世をば さながら秋の初風)
046きへやすきいのちはみづのあはぢしま 山のはなから月ぞさびしき(第十一、@)
(消えやすき命は水の淡(泡)路島 山の端から月ぞ寂しき)
047あるじなきみだのみなにぞむまれける となへすてたるあとの一声(第十一、@)
(主なき弥陀の御名にぞ生まれける 唱へ捨てたる後の一声)
048名にかなふこゝろはにしにうつせみの もぬけはてたる声ぞすずしき(第十一、@)
(名にかなふ心は 西の空蝉のもぬけ果てたる 声ぞ涼しき)
049よにいづることもまれなる月景に かゝりやすらむみねのうきくも(第十一、A)
(世に出づることも稀なる月影に かかりやすたむ峰の浮雲)
050旅衣木のねかやのねいづくにか 身のすてられぬところあるべき(第十一、B)
(旅衣 木の根萱の根何処にか 身の捨てられぬ処あるべき)
051阿弥陀とはまよひさとりのみちたへて たゞ名にかよふいき仏なり(第十二、@)
(阿弥陀とは 迷ひ悟りの道超えて ただ名(無量寿仏)の通ふ生き仏なり)
052南無阿弥陀ほとけのみなのいづるいき いらばゝちすのみとぞなるべき(第十二、@)
(南無阿弥陀 佛の御名の出づる息 いらば蓮の実とぞなるべき)