第八十七章 |
〜漱石の「松山落ち」と子規との「愚陀仏庵五二日」〜
1,はじめに
宗教学者・山折哲雄氏「日本人の死生観」・・・心臓死と老病死
作家・柳田邦男氏「死は人生の物語を躍動させる」・・・死後生
2,漱石の「松山落ち」
シュトゥルム・ウント・ドラング・・・疾風怒濤 青春彷徨
●明治二六年 帝国大学文科大学英文学科卒業
●明治二六年 就職活動
●明治二七年二月 肺結核騒動
●明治二六・二七年 恋慕、失恋、破局
●明治二七年 転居繰り返し
●明治二七年 参禅 借金
●明治二七年 松山落ち
3,子規との「愚陀仏庵五二日」
小説「坊つちゃん」と「愚陀仏庵」の世界
友情と文学・・・・・・・・・・・・生・死(詩)・再生
4.まとめ
子規山脈と漱石山脈・・・・・・俳聖・子規 文豪・漱石
「愚陀仏」考
持つべきは友 菅虎雄・正岡子規
1,はじめに
昨年(令和五年)十二月、松山の県民文化会館で「第44回日本死の臨床研究年次大会」が開催された。非会員でも参加可能であったので、二日間の学会に参加した。興味ある講演が二つあったので紹介したい。
一つは宗教学者・山折哲雄氏の「日本人の死生観 三途の川を渡りかけ」、他の一つは ノンフィクション作家・柳田邦男氏の「死は人生の物語を躍動させる」である。
山折哲雄氏からのメッセ―ジは「死には二つの類型がある。「心臓死」と「老病死」である。
*PPK(ピンピンコロリ) 予告死(断食)
*西行法師「ねかはくは花のしたにて春しなん そのきさらきのもちつきのころ(山家集)」
*伊予の安西禅師。大洲・寿永寺の末寺、中村の本誓寺の住持。
『予州安西法師往生記』母七年忌.に「四国巡礼」をし、大洲寿永寺に入り、高譽を師として出家、安西と号した。宇和島藩立ち合いの下で息を引き取った。
柳田邦男氏からのメッセージは「死後生」である。
可能な限り生き残っている人の記憶に残るべき老後の生き方を考える。
*中江兆民(弘化四(1847)年〜年明治三四年(1901)五四歳
「一年有半」『続一年有半』『三酔人経綸問答』(喉頭がん)
*漱石と子規の死は今日的には「老病死」とは云えないが、「平均年齢五〇歳」を「人生八〇〜一〇〇年時代」に置き換えれば、子規五〇歳代・漱石七〇歳相当であり、決して若死にとは云えまい。
*夭折の文学者
二四歳 樋口一葉 立原道造
二五歳 北村透谷
二六歳 石川啄木 金子みすゞ
二九歳 小林多喜二 新美南吉
三〇歳 中原中也
三一歳 梶井基次郎
三三歳 中島敦 織田作之助
三四歳 正岡子規
三五歳 芥川龍之介 尾崎紅葉
四九歳 夏目漱石 横光利一
併せて漱石と子規の華々しい「死後生」を想起した。
東雲女子大の「正岡子規と伊予の文化」講座中、担当している「愚陀仏庵の五十二日」の講義をベースに「生・死・再生」「生・老・病・死」について、ご一緒に考えていきたい。
2,漱石の「松山落ち」の背景
明治二六年、漱石は帝国大学を卒業して高等師範学校の英語教師になるも、日本人が英文学を学ぶことに違和感を覚え始めた。先述の失恋もどきの事件や肺結核も重なり、極度の神経衰弱・強迫観念にかられるようになった。その後、鎌倉の円覚寺で釈宗演の下に参禅をするなどして治療を図るも、効果は得られなかった。
明治二八年、東京から逃げるように高等師範学校を辞職し、菅虎雄の斡旋で愛媛県尋常中学校(旧制松山中学、現在の松山東高校)に英語教師として赴任した。松山は正岡子規の故郷であり、ここで二ヶ月あまり静養中の子規とともに俳句に精進し、数々の佳作を残している。
赴任中は愚陀仏庵に下宿したが、五二日間に亘って子規も居候した時期があり、俳句結社「松風会」にも参加し句会に出席した。これはのちの漱石の文学に影響を与えたと言われている。
*持つべきは友(菅虎雄) 精神的不安な漱石の支援者・保護者
@明治二六年 帝国大学文科大学英文学科卒業A明治二六年 就職活動B明治二七年二月 肺結核騒 C明治二六・二七年 漱石の恋慕D明治二七年 転居繰り返しE明治二七年 参禅F明治二七年 借金漬けG明治二八年 愛媛県尋常中学校(旧制松山中学、現・松山東高校)英語教師 H明治二九年 第五高等学校教授
@ 明治二六年 帝国大学文科大学卒業
明治二三年 帝国大学文科大学入学(文部省貸費生 年額八十五円) 明治二六年 帝国大学卒業 大学院進学(就職困難 待機ヵ)
【参考】帝国大学文科大学 英文科 (明治二四年〜三〇年 一〇名)
明治二四年 立花 政樹 *大連税関長
二六年 夏目金之助(漱石) 松山中学 五高 一高 東大講師
二八年 玉蟲一郎一 松山中学 二高 東北大学
山川信次郎 五高 一高
二九年 島 文次郎 京大
田村喜作 徳島中学 福山誠之館
三〇年 上田 敏(柳村) 東京高等師範 東大講師(小泉八雲の後任)
長尾順耳 四高 広島高等師範学校
土井林吉(晩翠) 郁文館中学 二高
伊藤小三郎(風洋) 富山県中学 三高
【参考】帝国大学令の公布
明治十九年三月二日に「帝国大学令」の公布をみた。当時の学校令によって制度化された諸学校中で小学校・中学校・帝国大学を一連のものとしたことは明治五年の学制以来の方針であり、帝国大学を高等教育機関の中心をなすものとしたことはいうまでもない。特に学術技芸の研究および教授に関し、帝国大学に重大な任務を担当させたことは、森文相の文教政策から容易にこれをうかがうことができる。これによって十年に創設された東京大学は帝国大学として改造され大学教育が整備される本源となった。
帝国大学 大学院・分科大学(法科大学・医科大学・工科大学・文科大学・理科大学)
(分科大学長・教頭・教授・助教授・舎監・書記)
A明治二六年 就職活動(不合格)
*七月〜八月 学習院
友人立花銑三郎(学習院嘱託教授) 学習院出講斡旋依頼
不合格 合格を見越してモーニング新調!
合格者「重見周吉」(愛媛県出身 今治中学 米・エール大学医学部)
*一〇月一九日 高等師範学校英語教授(嘱託)週二回出講
年額四五〇円 月額三七円五〇銭
文部省貸与分返済七円五〇銭 父への仕送り分一〇円 差引手取り 二〇円
B明治二七年二月 肺結核騒動
*菅虎雄紹介 北里柴三郎 診断 肺結核初期
運動 大弓練習朝夕一〇〇本×2回
*横浜英字新聞「ジャパン・メイル」 明治二八年一月中・下旬
菅虎雄の仲介で主筆・頭本(ずもと )元貞を通じ、横浜英字新聞「ジャパン・メイル」受験するも、不合格。
C明治二七年 転居・転居・転居
*大学寄宿舎を出て菅虎雄の新居(小石川)に寄食
*一〇月、突然漢詩の書置きを残して飛び出す
*宝蔵院(尼寺)に寄宿。転居を繰り返す。詳細不明。
D明治二六〜二七年 漱石の恋慕
この時期、女性(三人以上)への恋慕(失恋 示談金)
*明治二六年〜二七年
帝大文科大学院 夏目漱石・小屋保治、帝国大学寄宿舎舎監清水彦五郎の紹介で、明治二六年八月宮城控訴院長大塚正男長女大塚楠緒子と見合い、小屋は婿養子として大塚家に入る。
(注)小坂晋『漱石の愛と文学』 漱石『こころ』 先生が恐れる程に頭の質が良く、無口で求道的・脱俗的なKのモデルは・・・大塚保治?
翌二七年七月、漱石は小屋に「恋を譲る」の一文を認め送る。
*明治二七年春
(注)菅井一郎『夏目漱石の恋』 『永日小品』の「心」に登場する女
「宝鈴が落ちて廂瓦に当る様な女」を残して歩く、小股の切れ上がった、花柳界につながる女。漱石は結婚を望むが、女の母が高等師範の教師に過ぎない漱石との結婚に反対破綻。手切れ金三〇〇円払う。
大金三〇〇円は菅虎雄から借金し、明治二八年松山赴任後に菅に月賦で返済した。
*江藤淳『漱石とその時代』では、漱石がトラホームに病んで毎日のように駿河台の井上眼科に通院していた折、待合室で落ち合う若い女性がいて、不案内なお婆さんが入ってくると手を引いて診察室に連れて行ったり、いろいろ面倒を見る親切な女性に一目惚れしたらしいと記している。
さらに、二〇年後に能楽堂で再会したことを鏡子夫人に語っている。(夏目鏡子『漱石の思い出』)
*嫂 登世(夏目和三郎直矩の後妻)明治二四年七月二八日、享年二四歳
(注) 江藤淳『決定版 夏目漱石』 江藤淳『漱石とその時代』「罪―江藤氏は嫂登世への禁忌的な思慕に対する罪悪感と言うー」と「生ー彼を閉じ込めていた霧の世界の奥底から浮かび上がってくる女の幻影ー」との二律背反に直面していた。
【参考】夏目家 漱石の兄姉 「土井中照氏WEB日誌」
長男:大一 (大助) 安政三(1856)〜明治二〇年(1887)
次男:栄之助 (直則)安政五(1858)〜明治二〇年(1887)
嫂 小勝 明治二五年再婚(医師・岸本庄平)
・・・結婚祝いを届けるため岡山へ行き、松山の正岡子規宅を訪問。
三男:和三郎 (直矩)安政六(1859)〜昭和七年(1932)
嫂 登世 〜明治二四年 享年二四歳
四男:久吉(幼逝(
長女(姉):ちか(幼逝)
五男(末子):金之助【漱石】
E明治二七年 参禅
参禅 明治二七年一二月二三日〜二八年一月七日
鎌倉円覚寺塔頭「帰源院」 釈宗演・釈宗活
菅虎雄の紹介状(明治二一年参禅「無為居士」号授与)
公案「父母未生以前本来の面目は如何」
(注)『門』十八〜二十一 『夢十夜』第二夜
一月七日、鎌倉引上、菅宅訪問(報告)
「法蔵院」に戻る。
*弓道と禅
静中動 一点集中 静寂 心 形
F明治二七年 借金漬け
*文部省貸与分九〇〇円 返済七円五〇銭 延期手続き
*交際手切れ金三〇〇円 菅虎雄から借金。
*松山赴任時入用金五〇円 菊池謙二郎(山口高等中学校)から借金
*父への仕送り分一〇円
G明治二八年 「松山落ち」
*四月 愛媛県参事官(キャリア官僚浅田知定(同郷)から菅虎雄に愛媛県尋常中学校英語教師の人選を頼まれ、夏目金之助を推薦
*四月、東京から逃げるように高等師範学校を辞職し、菅虎雄の斡旋で愛媛県尋常中学校(旧制松山中学、現在の松山東高校)に英語教師として赴任
*菅虎雄 八月末、第五高等学校教授
H明治二九年 明治二九年 第五高等学校教授
*第五高等学校長・中川元から英語教師の依頼あり。夏目金之助を推薦する。
先任教授 ラフカディオ・ハーン(明治二四年-〜二七年)。
漱石から松山での不満の書簡(訴え)が頻繁に届く。
*四月、五高等学校教授として赴任(月額八〇円?一〇〇円昇格)
【参考】
*菅 虎雄 明治〜昭和時代前期のドイツ語学者。
元治元年(1864)一〇月一八日生まれ。明治二四年帝国大学を卒業し、五高教授となる。明治二九年親友の夏目漱石を五高に招く。明治三四年一高教授。教え子に芥川竜之介,菊池寛らがいる。能書家としても知られ、漱石の墓碑銘を書いた。
昭和一八年(1943)十一月一三日死去。八〇歳。筑後(福岡県)出身。号は無為白雲陵雲。(『日本人名辞典』抜粋)
3,子規との「愚陀仏庵五二日」
@ 小説「坊つちゃん」と「愚陀仏庵」の世界
●誕生 慶応三年(1867)
夏目金之助(漱石) 江戸牛込(現在の東京都新宿区)
正岡処之助(升、常規 子規) 伊予松山(現在の愛媛県松山市)
●出会い
明治一七年九月 東京大学予備門(第一高等中学校・第一高等学校(改称)入学。同期生。共に落第経験。
●友情の芽生え
@忘れてゐたが彼(子規)と僕(漱石)と交際し始めたも一つの原因は二人で寄席の話をした時先生も大に寄席通を以て任じて居る。ところが僕も寄席の事を知つてゐたので話すに足るとでも思つたのであらう。其から大に近よつてきた。
彼は僕には大抵な事は話したやうだ。兎に角正岡は僕と同じ歳なんだが僕は正岡ほど熟さなかつた。或部分は万事が弟扱ひだつた。従つて僕の相手し得ない人の悪い事を平気で遣つてゐた。すれつからしであつた。(悪い意味でいふのでは無い。)(夏目漱石「正岡子規」)(『漱石全集』25巻)
A余(子規)、吾が兄(漱石)を知ること久し。しこうして吾が兄と交わるは、すなわち今年一月に始まるなり。余の初め東都に来るや、友を求むること数年、いまだ一人をも得ず。吾が兄を知るに及んで、すなわちひそかに期するところあり。しこうしてその知を辱くするに至り、すでに前日を憶えば、その吾が兄に得るところは、はなはだ前に期するところに過ぎたり。ここにおいてか、余は始めて一益友を得たり。その喜び、知るべきなり。 正岡子規 「『木屑録』評」
1 愚陀仏庵の五二日
●漱石・松山の止宿先
◎城戸屋旅館(『坊っちゃん』山城屋のモデル)→廃業
@何だか二階の梯子段の下の暗い部屋に案内した。熱くって居られない。
A「十五帖の表二階で大きな床の間がついて居る。おれは生まれてからまだこんな立派な座敷に這入った事はない。
◎愛松亭→ 松山中学校外国人教師宿舎 →愛松亭跡記念碑 漱石珈琲店 愛松亭
ノイス(Noyes)?ターナー(Turner)?ホーキンス(Hawkins)?ジョンソン(Johnson)?夏目金之助(漱石)
◎愚陀仏庵→ 松山市二番町上野義方邸の「離れ」→ 焼失 →駐車場 →
●漱石と愚陀仏庵
「愚陀仏は主人の名なり冬籠 漱石」
(注)参禅(明治二七年一二月〜二八年一月)時の作品ヵ。
「漱石」は、子規から譲り受けた雅号。 『漱石』は、数ある子規の俳号の一つ。
注記
「愚+((阿弥)陀仏+庵」
「知其愚者、非大愚也。知其惑者、非大惑也。大惑者、終身不解。大愚者、終身不靈」(『荘子』天地篇第12)
「大愚到リ難ク 志成リ難シ」(漱石 漢詩),<大愚則大智>
「無知の知」(不知の自覚)古代ギリシア哲学者、ソクラテス
「阿弥陀」無量寿(無限の時間 アミターユス)無量光(無限の空間 アミターバ)
●恩師(神田乃武)宛 書状
拝呈出立の節は色々御厚意を蒙り奉万謝候 私事去る七日十一時発九日午後二時頃当地着仕候間乍憚御安意被下度候赴任後序を以て石川一男氏に面会致し早速貴意申述置候間左様御承知被下度候同君事ハ今回石川県に新設の中学校へ更任相成明日当地出発の筈に御座候小生就任来既に四名の教師は更迭と相成石川君も其一人に御座候何事も知らずに参りたる小生には余程奇体に思ハれ候
教授後未だ一週間に過ぎず候へども地方の中学の有様抔は東京に在って考ふる如き淡泊のものには無之小生如きハ―ミット的の人間は大に困却致す事も可有之と存候
くだらぬ事に時を費やし思ふ様に勉強も出来ず且又過日御話の洋行費貯蓄の実行も出来ぬ様になりはせぬかと竊かに心配致居候
先ハ右御報まで余ハ後便に譲り申候時下花紅柳緑の候謹んで師の健康を祈り申候 頓首
四月十六日 金之助
神田先生 座右
(注)ハ―ミット 隠者的 漂泊の詩人 鴨長明 吉田兼好 西行法師
芭蕉・・・・禅的世界 西洋哲学世界
●子規招聘の書簡(恋文ヵ)
〇明治二五年五月二六日 一番町愛松亭・・・神戸県立病院 常規宛 )
「(略) 古白氏自殺のよし当地に風聞を聞き驚入候。随分事情のある事と存候へども 惜しき極に候。
当地着後直ちに貴君へ書面差上候処、最早清国後出発の後にて詮方なく 御保養の途次ちょっと御帰国は出来悪く候や。
小生近頃俳門に入らんと存候。御閑暇の節は御高示を仰ぎたく候。 (略)」
五月二十六日 子規賢兄 研北(「机下」の意 夏目金之助
明治二五年八月二七日 二番町上野方・・・ 湊町大原方 常規宛)
〇拝呈 今朝鼠骨子来訪。貴兄既に拙宅へ御移転の事と心得 御目にかかりたき由申をり候間、 御不都合なくばこれより直に御出でありたく候。
尤も荷物など御取纏め方に時間とり候はば後より送るとして身体だけ御出向如何に御座候や。先は用事まで。早々頓首。
八月二十七日 子規俳仙 研 漱石)『漱石・子規往復書簡集』和田茂樹編
【資料】愚陀仏庵の五十二日 ― 日録
● 子規 ― 生と死の狭間 ― 従軍記者 喀血 神戸・須磨病院 帰郷
漱石は明治二十八年東大大学院卒業と同時に東京高等師範学校の嘱託教員を辞め、松山尋常中学に赴任します。子規は明治二十六年に東大を中退し日本新聞社に入社します。子規は文芸担当なのですが、政治・社会情勢に相変わらず強い興味を抱いていたので、従軍記者として日清戦争の取材に大陸へ行くことを希望し、二十八年四月に広島港から出港します。しかし子規が出発してまもなく下関で講和条約が締結され、子規はその役割を達することなく帰国の途につきます。子規は帰りの船の中で大量の吐血をし、いちじるしく体調を損なってしまいます。神戸に上陸し、静養していた子規に帰国から三日遅れの日付で、東京に帰る途中松山に寄らないかと誘いの手紙を漱石は書いております
当時漱石は追跡症(統合失調症)といわれる精神病の一種を引き起こしていて、文芸の創作が自分の精神の回復の一助になるのではないかという、言わば漱石の「エゴイズム」が子規を松山に立ち寄らせたのだと思っております。
いざ子規が愚陀仏庵で暮らし始めると、そこに集まったのは、柳原極堂、野間叟柳、小学校教員の団体、その大部分は松山藩士の子弟たち、子規の気のおけない幼少時からの仲間たちだったのです。子規のまわりには遠慮のない松山弁が飛び交い句会
が連日開催された。
●松風会 ― 俳句結社の誕生
松風会は松山で結成された全国初の子規派俳句結社である。
【発会】
松風会は、明治二七年三月二七日に、松山尋常高等小学校の校長・中村一義(愛松)、教頭・野間門三郎(叟柳)、訓導・伴政孝(狸伴)ら三人を発起人として、大島梅屋、国安半石、河野青里、永木永水、乃万撫松、阪本伸緑、玉井馬風、服部華山、白石南竹ら、松山尋常高等小学校の教員たちにより結成された。「松風会」の名称は、芭蕉の道をたどるという意味て「蕉風会」はどうかという提案があったが、松山だから「松風会」で落ち着いた。この日、狸伴の家に同校有志が集まって句会が開かれ、その会で同意を得たものである。
(注)松山尋常高等小学校教員は「愛媛師範学校」(明治九年(1876)年創立)卒業が前提であり、明治初期の県下のエリート(文化人)であった。跡地が「市立番町小学校」である。
その後、会員には海南新聞記者の柳原碌堂(極堂)、県学務主任の大導寺松露、弁護士の天野箕山、海南新聞社員の森孤鶴(盲天外)、正宗寺住職の釈佛海(一宿)、子規の叔父で市吏員の岡村三鼠、愛媛新聞編集主任の御手洗不迷、教員の久松陽松、松本野堀、近藤我観らが参加し、週一回の持ち回りで句会を開き、俳句に熱をあげていった。
当初、教頭の野間叟柳が宗匠格として選句をしたり講釈をしたが、月並みの域を出なかった。そのうち子規の教えをうけた下村為山が帰省し、代わって指導することになった。
【松風会以前の子規による指導】
松風会以前の松山における子規に呼応した俳句活動は、明治二四年夏が最初である。その年の子規の帰省を機に、当時松山中学の学生であった河東碧梧桐・高浜虚子・河東可全・武市烙松らのグループが俳句草稿を回覧した後、子規の批評を仰いだ。俳史上は。重要な事項である。
(注) 『子規・漱石』高浜虚子著(岩波文庫)
【松風会初期の子規による指導 愚陀仏庵以前】
「松山地方において、新派俳句に共鳴して之が研究を始めたるは明治二十七年春である。」
「明治二十八年三月三日、子規は従軍記者として東京を出発し広島を経由して十三日、松山に帰り叔父大原恒徳の邸に投せられた。余等(松風会会員)同人数名とともに、その邸を叩きて日本派俳句につきて教へ を請ひしに、居士は快く之を容れられ、日夜懇篤に教示を与えられた。従軍の途次のため、僅かに数日を出でずして十八日名残惜しくも袂を分かって広島に送ることとなった。」
(注)野間叟柳「松山地方における日本派俳句研究の起源と子規居士」(子規会誌)
【愚陀仏庵時代】
松風会結成一年後の明治二八年八月には子規が従軍後の病気療養のため帰省したので、懇請して指導を受けることになった。愚陀仏庵で毎日のように開かれる句会・勉強会には、やがて夏目漱石も加わり日参組も現れるほどの活況を呈した。『散策集』 は当時の吟行の記録であり、『俳譜大要』 は松風会会員の指導を前提として執筆された。テキストはなく「子規口述筆記稿本」(明治二八年)を子規博が所蔵している。
(注)「子規口述筆記稿本」 半紙表裏に墨書でびっしり口述内容のエッセンス(基本事項)が書かれておる。和田克司(子規学者)の調査では、「増補再版 獺祭書屋俳話」(明治二八年九月五日)の内容と一致している。
「増補再版 獺祭書屋俳話」 ?「子規口述筆記稿本」(愚陀仏庵の五二日) ?『俳譜大要』
4 子規と漱石 ― 句会 吟行 松山中学校
句会
漱石 二階から下りてきて参加
「愚陀仏庵の52日 日録」参照。記載ある句会は一〇回程度 (連日連夜 開催ヵ)
但し、子規の健康不良で九月二六日から一〇月八日まで松風会句会は子規鼻血出血により遠慮)
勉強会の記録は不明(連日連夜 開催ヵ)
九月 一日 延齢館句会
三日 松風会句会
一一日 松風会句会
二二日 運座句会
二四日 松風会句会
二五日 松風会句会
一〇月 三日 正宗寺「名月」句会
八日 運座句会
一二日 子規送別句会(花の舎)
一七日 送別句会( 三津・ 久保田回漕店)
◎吟行 『散策集』
第一回 九月二〇日 道後郊外 同行 極堂
第二回 九月二一日 松山郊外(北) 同行 愛松 極堂 梅屋 三子
第三回 一〇月 二日 藤野・大原邸訪問 同行なし
第四回 一〇月 六日 道後温泉・宝厳寺 同行 漱石
第五回 一〇月 七日 今出 村上斎月邸 同行なし
(注)『子規紀行文集』復本一郎編(岩波文庫)
◎松山中学校(略史)
藩校「明教館」設立
英学司教・小林小太郎(儀秀) 慶応義塾
松山県学校(改称)
英学舎(改称) 所長 草間時福 慶応義塾
(県立)英学所(改称)
(県立)北予変則中学校(改称)
(県立)松山中学校(改称)
(県立)第一中学校(改称) 慶応義塾英語教師
(県立)第一中学校廃校
(私立)伊予尋常中学校開校 外国人英語教師
( Noyes、Turner、Hawkins、Johnson)
(私立)伊予尋常中学校閉校
(県立)松山尋常中学校開校 帝大英語教師
(県立)松山中学校(改称) (夏目金之助・ 玉虫一郎一)
(県立)松山第一高等学校
(県立)松山東高等学校
5 子規・漱石の別離と再生
友情と文学・・・生・死(詩)・再生― 文学革新 それぞれの人生
正岡子規
○子規最後の句 辞世三句 をととひの へちまの水も とらざりき
句会(座の文学)
伝統俳句(芭蕉・蕪村・子規) 近代俳句(虚子・碧梧桐〜) 現代俳句
○平常心
○余は今まで禅宗のいはゆる悟りといふ事を誤解して居た。悟りといふ事は如何なる場合にも平気で死ぬる事かと思つて居たのは間違ひで、悟りといふ事は如何なる場合にも平気で生きて居る事であつた。『仰臥漫録』二十一
夏目漱石
○漱石最後の句 「瓢箪は 鳴るか鳴らぬか 秋の風」
○ 則天去私
伝統文学(露伴・紅葉) 近代文学(漱石・鴎外〜) 現代文学
○木曜会(夏目漱石宅書斎)毎週木曜日午後3時以降<津田青楓「漱石山房と其弟子達」>
(教え子)
四天王 小宮豊隆、鈴木三重吉、森田草平、安倍能成
十大弟子 赤木桁平・阿部次郎・安倍能成・岩波茂雄・内田百閨E寺田寅彦・野上豊一郎・松根東洋城
(小説家)中勘助・江口渙
(学者・文化人)和辻哲郎、滝田樗陰
(学生)芥川龍之介、久米正雄、松岡譲
4.おわりに
子規山脈と漱石山脈・・・・・・俳聖・子規 文豪・漱石
持つべきは友 菅 虎雄 正岡常規
「友の憂いに吾は泣き 吾が喜びに友は舞う」(旧制一高寮歌)
「友を選ばば、書を読みて、六分の侠気、四分の熱」(与謝野鉄幹)
【参考文献】
〇『漱石とその時代』第一部 江藤 淳 新潮社1970
〇『夏目漱石と菅虎雄』原武哲 教育出版センター1983
〇『夏目漱石外伝』菅虎雄先生顕彰会(代表 原武 哲)2014
〇『漱石・子規 往復書簡集』和田茂樹編 岩波書店2002
〇『夏目漱石全集』岩波書店刊
〇『松山 子規事典』松山子規会 2017
(拙稿)
〇「子規と小林小太郎 伊予松山藩の英学徒たち」『子規会誌』100号
〇「子規の東京大学予備門落第周辺 ―隈本有尚と漱石・子規 『子規会誌』109号
〇「松山中学校の外国人英語教師の来歴」『子規会誌』127号
○「漱石の月俸八十円の「真実」『子規会誌』134号
○「明治二十五年八月のMATSUYAMA
〜子規・漱石・ホーキンス〜」 『子規会誌』139号
*松山東雲女子大学。短期大学共通講座「正岡子規と伊予の文化」
「愚陀仏庵の五十二日
〜子規と漱石の友情 近代文学誕生の契機」(講義録)2023・2024