第八十六章 一遍聖「別願和讃」の世界 <一遍会令和5年3月例会(20230311)> |
一、 はじめに 鎌倉仏教 始祖の遺文 一遍上人の遺文 法然 (1133〜1212) *「観無量寿経」 『選択(せんちゃく)本願念仏集』(1198) 「南無阿弥陀仏 往生之業(ごう) 念仏為先」 関白九条兼実の要請 「一枚起請文」 (1212 臨終時) 勢(ぜい)観房(かんぼう)源(げん)智(ち)上人の要請 「唐土(もろこし)我(わが)朝(ちょう)にもろもろの智者達の沙汰し申さるる観念の念にもあらず。又学問をして念のこころを悟りて申す念仏にもあらず。ただ往生極楽のためには、南無阿弥陀仏と申して、うたがいなく往生するぞと思い取りて申す外には別の仔細候わず。 ただし三心四修と申すことの候うは、皆決定して南無阿弥陀仏にて往生するぞと思ううちにこもり候うなり。 この外に奥ふかき事を存ぜば、二尊のあわれみにはずれ、本願にもれ候うべし。念仏を信ぜん人は、たとい一代の法をよくよく学すとも、一文不知の愚鈍の身になして、尼入道の無智のともがらに同じうして、智者のふるまいをせずしてただ一向に念仏すべし。 証の為に両手印をもってす。 浄土宗の安心起行この一紙に至極せり。源空が所存、この外に全く別義を存ぜず、 滅後の邪義をふせがんがために所存をしるし畢んぬ。 建暦二年正月二十三日 大師在御判(原文には「源空(花押)」とある) 親鸞(1173〜1262) *「無量寿経」 『教行信証』(?〜1262 未完)「教・行・信・証・真仏土・化身土」 『歎異抄』(親鸞没後二〇年頃1282頃)親鸞に師事した河和田の唯円著 (序・第一条〜第一八条・結文・付録) 〇倉田百三『出家とその弟子』『愛と認識の出発』 日蓮(1222〜1282) 『立正安国論』(1260) 一遍 (1239〜1289) *「阿弥陀経」 「別願和讃」(1287) 聖戒編『一遍聖絵』(1299) *「我が化導は一期ばかりぞ」 *「一代聖教みなつきて、南無阿弥陀仏になりはてぬ」 *「世尊説法時将了、慇懃付属弥陀名」「五濁増時多疑謗、道俗相嫌不用聞」(「観無量寿経」 ●『聖絵』『絵詞伝』所収の遺文 大橋俊雄『一遍』(吉川弘文館人物叢書 1983) 『聖絵』 別願和讃・誓願偈(げ)文・道具秘釈・偈頌(げじゅ)E「六十万人頌」「十一不二偈」 「礼書写山頌」「答公朝書頌」「六字無生頌」「本無一物頌」 和歌五二首・消息一通・法語一篇・遺誠一篇・門人伝説一二篇 『絵詞伝』 別願和讃・誓願偈文偈頌「六十万人頌」「十一不二偈」「一称万行頌」 「答公朝書頌」「六字無生頌」 和歌二八首・消息二通・法語三篇・遺誠一篇・門人伝説一三篇 (注)両者共通(和讃・偈頌を除く)・・・*資料的価値は高い 和歌一六首・消息一通・法語一篇・遺誠一篇・門人伝説二篇 【問題の提起】 一遍の布教(遊行・踊念仏・賦算・六時念仏=六時衆)は一遍独自なものか 遊行 (1)神道系 - 御師(おし)・神人・願人など<伊勢・熊野・八幡などから出て、配札家祈祷・代参などを名目に回国遊行し、各地にその分社分霊を奉斎して歩いていた。 (2)陰陽道系 - 法印陰陽師(暦や符を持って「田舎わたらい」し、各地に博士村や院内村を作って卜占・厭魅・方術とともに荒神祓をして歩いていた。) (3)仏教系 (イ)念仏系 - 聖(空也) (ロ)密教系 - 山伏・客僧(空海) (ハ)法華経系 - 持経者・六十六部・法華経行者 (ニ)禅宗系 - 雲水・放下僧・虚無僧 (五来重 松崎憲三 著作に拠る) 踊念仏 「をどり念仏は空也上人、或は市屋、或いは四条の辻にて始行し給ひけり(938年頃)」(『聖絵』) ?一遍遊行は300年後であり、踊念仏は地方にも拡散されていた。 賦算 ? 神託 熊野本宮証誠殿の白髪なる山伏(祭神=家津(けつ)御子(みこ)神(かみ)=阿弥陀如来(本地)> 「融通念仏すゝむる聖、いかに念仏をば悪しくすゝ。めらるゝぞ。御房のすゝめによりて一切衆生はじめて往生すべきにあらず。阿弥陀仏十却正覚に、一切衆生の往生は南無阿弥陀仏と決定するところ也。信不信をえらばず、浄不浄をきらはず、その札をくばるべし」(『聖絵』) 六時念仏(六時衆・時衆) 六時(ろくじ)礼讃(らいさん)とは、浄土教における法要、念仏三昧行のひとつ。善導の「往生礼讃」(「往生礼讃偈」)に基づいて一日を六つに分け、誦経(読経)、念仏、礼拝を行う。 建久参年(1192)、法然が、大和前司親盛入道見仏の招きをうけて、後白河天皇の追善菩提のために八坂の引導寺において別時念仏を修したが、これを浄土宗六時礼讃の始まりとする。 捨聖 「捨ててこそ」 教(きょう)信(しん)沙(しゃ)弥(み) 「同(弘安)九年に、いなみのの教信寺に参り給ふ。本願上人の古跡なつかしく思ひ給ひながら、やがてとほり給ふべきに侍りけるに、いかなる事かありけむ、「教信上人のとどめ給ふ」とて一夜とどまり給ふ。(『聖絵』37) 「さて兵庫の島より御むかへに船をたてまつりたりければ、「いなみ野の辺にて臨終すべきよし思ひつれども、いづくも利益のためなれば進退縁にまかすべし」とて、兵庫へわたりて。観音堂にぞ宿し給ひける。(『聖絵』44)) ●京出身。奈良興福寺の僧。遁世の志強く諸国遍歴、承和三年(836)「加古駅」で草庵を結ぶ。妻を娶り、村人と耕作し、旅人の荷を担ぎ、念仏を続ける。死後、死体 を鳥獣に施した由。(開山堂には教信の頭だけ葬る)親鸞、一遍ともに。教信に私淑。一遍の門弟「湛阿」が「野口の大念仏」を開始。 踊り念仏での「念仏」考 「無量寿経に云く、「曽更見世尊 即能信此事 謙敬聞奉行 踊躍大歓喜」(『聖絵』) 「はねばはねよ をどらばをどれ はるこまの のりのみちをば しる人ぞしる」(『聖絵』)004 「跳ねば跳ねよ 踊らば踊れ 春駒の (乗)法の道をば 知る人ぞ知る」 「ともはねよ かくてもをどれ こころごま みだのみのりと きくぞうれしき」 (『聖絵』)005 (とも跳ねよ かくても踊れ 心駒 弥陀の御法と 聞くぞ嬉しき) ●一遍の踊念仏は他の修行者の遊行とは違い、見世物興業に近い。人の集まる地域に「踊り屋」という一段高いステージを設け、男女の踊り手(一遍の同行者は二〇から四〇人おり、ほぼ半数は尼僧だった)が輪になって歌い踊り、やがて観客を巻き込んで法悦に至る趣向だった。その過激な狂乱状態は保守的な人々からは反発を受けた。 念仏 南無阿弥陀仏(7音)+南無阿弥陀(5音) 「な〜むあみだ〜ぶつ(7音)+なむあみだ〜(5音)」 和讃(7音+5音)・・・ エンドレス 心地よい 日本人(日本語)のリズム 身を観ずれば 水の泡 消えぬる後は 人ぞ亡き 命思えば 月の影 出で入る息にぞ 止まらず 始の一念 よりほかに 最後の十念 なけれども 念をかさねて 始とし 念のつくるを 終とす 早く万事を 投げ捨てて 一心に弥陀を憑(たの)みつつ 南無阿弥陀仏と 息たゆる これぞ思ひの 限りなる 〇『鉄道唱歌』(七五調) 「汽笛一声新橋を・・・」 明治時代に作詞された唱歌。全五集・334番(1962年に発見された「北海道唱歌」や大和田建樹の郷里を歌った「伊予鉄道唱歌」を本編に含め、全六集・374番、または、全七集・399番とする説もある。 一、名も常磐なる 松山の 市街を中に 取り巻きて 葛(かずら)の如く 縦横に 蔓(つる)さし延ばす 伊豫鉄道 二、先ず乗り出だす 高浜の 港の海の 朝げしき 艪を押し連れて 出でて行く 船は落ち葉か 笹の葉か 六、伊豫鉄道の 本社ある 松山市駅は 昼も夜も 出(い)で入(い)る列車の 数繁く 行き交うバスの 絶え間なし 和讃について『岩波仏教辞典』(中村元・福永光司・田村芳朗・今野達1989)に拠る 和讃は、仏・菩薩、祖師・先人の徳、経典・教義などに対して和語を用いてほめたたえる讃歌である。声明の曲種の一。 サンスクリット語を用いてほめたたえる「梵讃(ぼんさん)」、漢語を用いてほめたえる「漢讃(かんさん)」に対する。 七五調の形式の句を連ねて作られたものが多く、これに創作当時流行していた旋律を付して朗唱する。原型である「讃歎(さんだん)」を和讃の一種とみなす事もある。 讃歎(さんだん) 和讃の原型である「讃歎」(「仏教讃歎」、「讃談」とも)は、古く奈良時代にさかのぼる。和文の声明(で、曲調は「梵讃」・「漢讃」に準ずる。法会の奉讃供養に用いる歌謡として作られたと考えられている。 『法華(ほっけ)讃歎(さんたん)』 伝光明皇后(701 - 760年) 『百石(ももいし)讃歎(さんだん)』 伝行基(668 - 749年) 『仏足(ふっそく)石歌(せっか)』文室(ぶんよの)真人(まひと)智(ち)努(ぬ)(693 - 770年) 天平勝宝五年(753年)作。薬師寺の「仏足石」(国宝)の後方に「仏足跡歌碑」(国宝)が残る。万葉仮名を用いる。歌体は、五 - 七 - 五 - 七 - 七 - 七調で 「仏足跡歌体」と呼ばれる。 『舎利(しゃり)讃歎(さんだん)』伝円仁(794 - 864年) 「讃歎」から「和讃」への転換となる。現在は、真言宗にその声明が伝わる。 和讃 和讃は、「讃歎」の流行の後を受け、平安時代中期頃には成立・定着する。広く民衆の間に流布し、仏教の布教だけでなく、日本の音楽にも大きな影響を与え、民謡や歌謡、ことに演歌などの歌唱法に影響の形跡がある。 古和讃(平安時代中期〜後期に作成され、天台浄土教によって流布) 『本覚讃』伝良源(912 - 985年) 『極楽浄土弥陀和讃』千観(918 - 984年) 『極楽六時讃』『来迎讃』源信(942 - 1017年) 鎌倉仏教の和讃 鎌倉時代には、和讃は布教の用に広く認められ、鎌倉仏教各宗で流行をした。また旧仏教である真言宗・天台宗などにも影響が及び、『高僧讃』・『神祇讃』などの和讃が作られた。 『浄土和讃』 『高僧和讃』 『正像末(しょうぞうまつ)和讃』 総称「三帖和讃」 親鸞(1173 - 1263年) 『別願和讃』一遍(1239 - 1289年) 『浄業和讃(じょうぎょうわさん)』 他阿(1237 - 1319年) 『浄業和讃』は、「往生讃」と他13編からなる。 一遍 (1239 - 1289年) 『別願和讃』(ベチグヮンナサン)1287年 「この山(書写山)をいでゝ、なを国中を巡礼し給。松原とて八幡大菩薩の御垂迹の地のありけるにて、念仏の和讃を作て時衆にあたえたまひけり。」(『聖絵』) (注)松原八幡 姫路市白浜町に鎮座。763年石清水八幡宮を勧請。 全文 七〇句 前段 二〇句 現世の人間世界(おれは河原の枯れすすきおなじお前も枯れすすき) 中段 二四句 人間世界から仏教の席へ(寿限無 寿限無 五劫の擦り切れズ・・・) 下段 二六段 仏も衆生も南無阿弥陀仏 (ここに幸あり 白い雲) 主参考書籍 ○『一遍上人全集』橘俊道・梅谷繁樹 春秋社1989 ○『一遍語録を読む』金井清光 法蔵館 2022 一遍 別願和讃(ベチグヮンナサン) 1 現世の人間世界 前段 二〇句 『おれは河原の枯れすすき』 俺は河原の 枯れすすき おなじお前も 枯れすすき どうせ二人は この世では 花の咲かない 枯れすすき ●水泡と月影 身を観ずれば水の泡 消えぬる後は人ぞ亡き 命思えば月の影 出で入る息にぞ止まらず ●人天善処と地獄鬼畜(六道=天上・人間・(修羅)・畜生・餓鬼・地獄) 人天善処の形(身体)は 惜しめども皆留まらず 地獄鬼畜の苦しみは 厭へども又受けやすし ●人間の感覚的欲望の儚さ 五根=眼(視覚)耳(聴覚)鼻(臭覚)舌(味覚) 身(触覚) 第六意識 第七末那識(まなしき)第八阿頼耶識(あらやしき) 眼の前の形(身体)は 目癈(し)ひて(盲目)見ゆる色もなし 耳の辺りの言の葉は 耳癈ひて聞く声ぞなき 香を嗅ぐ味なむる事 只暫くの程ぞかし 息の操り絶えぬれば この身に残る功(く)能(のう)なし 過去遠遠の昔より 今日今時に至るまで 思いと思う事は皆 叶わねばこそ悲しけれ (注) 水泡と月影 *「朝に死に、夕に生まるるならひ、ただ水の泡にぞ似たりける」(『方丈記』) *「朝に道を聞かば夕べに死すとも可なり」(『論語』) 人天善処 六道 天上・人間・(修羅)・畜生・餓鬼・地獄 (地獄鬼畜)(地獄 naraka 奈落 善処 五戒(不殺生・不偸盗・不邪淫・不妄語・不飲酒) 十善(五戒+不悪口・不綺語・不貪欲・不瞋恚・不邪見) 唯識 感覚(視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚)、意識、・無意識(末那識) 潜在意識 遺伝子情報(阿頼耶識) 2,人間世界から仏教の席へ 中段 二四句 寿限無 寿限無 五劫の擦り切れズ 海砂利水魚の水行末 雲来末 風来末 食う寝る処に住む処 藪ら柑子の藪柑子 パイポ・パイポ・パイポのシューリンガン、シューリンガンのグーリンダイ、 グーリンダイのポンポコピーのポンポコナの、長久命の長助 ●仏教の学問的知識は輪廻の業 聖道浄土の法門を 悟りと悟る人は皆 生死の妄念尽きずして 輪廻の業とぞ成りにける ●仏教学の知識は間違いのもと 善悪不二の道理には 背(そむ)き果てたる心にて 邪正一如と思いなす 冥(めい)の知見ぞ恥ずかしき 煩悩即ち菩提ぞと 云いて罪をば作れども 生死即ち涅槃とは 聞けども命を惜しむかな (注)聖道 聖道門の略(自力門・難行道) 浄土 浄土門の略(他力門・易行道) 輪廻 三界(欲界・色界・無色界)六道(天・人・修羅・畜生・餓鬼・地獄) 「煩悩即菩提(般若 生死即涅槃(解脱)善悪不二 邪正一如」 *生まれ、生まれ、生まれ、生まれて、生の始めに暗く、 死に、死に、死に、 死んで、死の終わりに冥し。 (空海『秘蔵宝鑰』) ●法身仏は知ろうが知るまいが利益なし 自性(じしょう) 清浄(しょうじょう) 法(ほっ)身(しん)は 如々(にょにょ)常住の仏なり 迷いも悟りも無き故に 知るも知らぬも益ぞ無き (注)仏身(生身(なまみ))? 法身・報身・応身 (正法・像法・末法) ●万行円備の報身仏も利益なし 万行円備の報身仏は 理知冥合の仏なり 境智ふたつもなきゆへに 心念口称に益ぞなし ●自力の応身仏も出離の益なし 断悪修善の応身は 隨縁治病の仏なり 十悪五逆の罪人に 無縁出離の益ぞなき 3,仏も衆生も南無阿弥陀仏 後段 二六句 『ここに幸あり』 嵐も吹けば 雨も降る 女(衆生))の道よ なぜ険し 君(阿弥陀)を頼りに 私は生きる ここに幸あり 青い空 命のかぎり 呼びかける こだまの果(はて)に 待つは誰 君(阿弥陀)によりそい 明るく仰ぐ ここに幸あり 白い雲 ●名号酬因の報身仏(阿弥陀仏)が衆生を救う 名号酬因の報身は 凡夫出離の仏なり 十方衆生の願なれば 一人も漏るるとかぞ無き ●口から出まかせの南無阿弥陀仏が往生 別願超世の名号は 他力不思議の力にて 口に任せて唱えれば 声に生死の罪消えぬ ●一念も十念もない南無阿弥陀仏 始めの一念より外に 最後の十念無けれども 思いを重ねて始めとし 思いの尽くるを終わりとす 思い尽きなむその後に 始め終わりは無けれども 仏も衆生も一つにて 南無阿弥陀仏とぞ申すべき ●南無阿弥陀仏と息絶える迄唱えよ 早く万事を投げ捨てて 一心に弥陀を頼みつつ 南無阿弥陀仏と息絶ゆる これぞ思いの限りなる ●弥陀三尊恒沙聖衆の来迎引接 此の時極楽世界より 弥陀観音大勢至 無数恒沙(こうしゃ)の大聖衆 行者(ぎょうじゃ)の前に顕現し 一時に御手を授けつつ 来迎(らいごう)引接(いんせつ)たれ給う (注) 名号酬因の報身 阿弥陀仏 凡夫出離の仏:凡夫(発心)? 法蔵菩薩(四十八願)誓願成就? ? 阿弥陀仏 おわりに 令和四年を振り返って @ NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」 (注)河野通信 伊予守 源義経 通信の妻(政子の妹?)一遍 「道後殿」 ANHK「英雄たちの選択」(2022年12月14日放映) 「踊って踊って大ブーム 一遍上人 『鎌倉武士』を捨てた男」 宝厳寺 新・鋳造一遍立像(上人堂安置)登場 (注)『一遍会報』四五〇号掲載 事務局「上人堂の一遍上人立像」(写真) 六〇九回例会 青山淳平氏「一遍はいずこへ〜小説・中山紘治郎」をめぐって Bユネスコ無形文化遺産「風流(ふりゅう)踊(おどり)」登録 「跡部の踊り念仏」 ●『一遍会報』四五〇号掲載 円増治之氏「信州佐久。『跡部の踊念仏』」 (注)圓増氏は「跡部の踊念仏」を「一遍流」と考えない。時宗学者である五來重氏、梅谷繁樹氏も同一見解である。 C国史跡「伊予遍路道」に浄瑠璃寺・浄土寺境内 追加 浄瑠璃寺 四国霊場第四六番札所 708年 行基 建立。空海 復興。堯音(ぎょうおん) 再興<江戸期> 隠居寺 真言宗豊山派法蓮寺。住職 前園実知雄師(一遍会講師) 浄土寺 四国霊場第四九番札所 室町期 建立。「空也上人立像」 安置。 繁多寺 四国霊場第五〇番札所 三ヶ日参篭、三部経奉納(父 如仏の多年の持経)1288年 (注)『浄土寺・浄瑠璃寺と写し霊場』愛媛県歴史文化博物館(令和四年) 講演「浄瑠璃寺・法蓮寺と尭音師」前園実知雄(俊恵) 令和四年度は一遍さんフアンには記憶に残る一年と云える。 一遍会令和五年三月例会(20230311) |