第七十四章 一遍上人の遺言「南無阿弥陀仏はうれしきか」 〜他阿真教と伊予房聖戒〜 
一遍会3月度例会(20190309)
「二祖他阿真教上人七百回御遠忌」に寄せて
一、 はじめに


(一)祖他阿真教上人七百回御遠忌について
)


(二)時宗(時衆)の位置づけ


〇浄土宗(法然) 真宗(親鸞) 時衆・時宗(一遍・真教・呑海)
〇念仏宗  一念仏  多念仏  融通念仏

■ 融通念仏をすゝむる聖、いかに念仏をばあしくすゝめらるゝぞ。
(『聖絵』第三、第一段) 文永十一年1274
■六十万人の融通念仏は、同日、播磨の淡河殿と申す女房の、参りてうけたてまつりしぞ、(『聖絵』第十二、第二段) 文永十一年1274
(注)最後の賦算 二五億一七二四人目  「南無阿弥陀仏 決定往生 六十万人」) 
■ 聖達上人、「いかに十念をばすゝめずして、一遍をばすゝめ給ふぞ」ととひ給ひければ、
十一不二の領解のおもむきくはしくのべ給ふに、感嘆し給ひて、「さらば我は百遍うけむ」とて百遍うけ給ひけり。(『聖絵』第三、第三段) 建治二年1276
 (注)「六字名号一遍法 十界依正一遍体 万行離念一遍法 人中上々妙好華」

〇時宗十二派
【参考】時宗十二派【遊行派:阿号・弌号】【当麻派:阿弥号】【浄土一向派:(誉号 阿号)
1 遊行派 藤沢 清浄光寺(遊行寺) 有阿呑海
2 四条派 京都 四条道場 金蓮寺 浄阿真観
3 六条派 京都 六条道場 歓喜光寺 聖戒(伊予房)
4 当麻派 相模 当麻道場 無量光寺 他阿真教
5 奥谷派 伊予 奥谷道場 宝厳寺 仙阿(伊豆房)
6 一向派 近江 番場 蓮華寺 一向 → 礼智阿
7 天童派 出羽 天童 仏向寺 一向 → 行蓮
8 霊山派 京都 東山霊山 正法寺 国阿(七代他阿託何の弟子)
9 国阿派 京都 円山 双林寺 国阿
10 市屋派 京都 市屋道場 金光寺 作阿(唐橋法印印承)
11 御影堂派 京都 新善光寺 王阿(後嵯峨天皇皇子)
12 解意派 常陸 海老島  新善光寺 解意阿
(注)聖戒の「阿号」は? (後述)
〇遊行上人と藤沢上人

@ 一遍―――A真教―――B智得―――C真光・・・当麻山無量光寺
―――C呑海・・・藤沢山清浄光寺(藤沢上人@)
――D安国<2> E一鎮<3> F託阿G渡船<4>・・・・〔遊行74代〕真円<藤沢57世>

〇偏諱(かたいみな)


一遍  松寿丸(祖父・若松丸)→随縁(師・縁教)→智真(華台上人命名)→ 一遍
    (注)「隨縁雑善恐難」(『聖絵』第一 第一段)1251
真教  不詳  一遍死後に「真教」(師・智真)
聖戒  聖戒(師・聖達) 伊予坊(伊予生まれ) 「弥阿」(『開山弥阿上人行状』)記載。
(注)『聖絵』第十二 第二段の誤読ヵ。阿号なし。浄土宗西山派。
仙阿  不詳 伊豆房(鎌倉生まれ?)

1、一遍と伊予房聖戒

〇一遍の家系
武家の子 家系 仏門 幕府方(武家方) 次男  母(大江[毛利]季光娘)
一遍の生涯(1239〜1289) 文永の役(1274)弘安の役(1281)

●通信――*通広――〇通真・・・・・・・・・別府河野家継承(庶家)
      ―― 通尚 一遍(智真坊)・・時宗開祖
       ―― 通定 聖戒(伊予坊)・・『一遍聖絵』編者(『願成寺縁起』 河野通慶の子)
       ―― 不詳 仙阿(伊豆坊)・・奥谷派宝厳寺開基(鎌倉生まれヵ)
   ――●通俊――〇通秀・・・・・・・・・得能河野家継承(庶家)
   ――●通政
   ――●通末
   ――〇通久――通継――通有・・・・・・・鎌倉系・・・河野家継承(総領家)
――〇通継
(注) 承久の乱(1221) 〇武家方  ●宮方 *出家

⇒過酷な乱後処理
伊予・河野家は鎌倉系に変質。 北条時政女(谷ヤツ)の息子が河野総領家となる。

上皇・天皇・親王 貴族・僧侶 宮方武士 河野一族
後鳥羽(隠岐)
順徳(佐渡)
土御門(土佐→阿波)
六条宮雅成親王(但馬)
冷泉宮頼仁親王(備前) 一条信能(斬首)
中御門宗行(斬首)
藤原光親(斬首)
二位法印尊長(自害)
熊野小松法印(梟首) 藤原秀康・秀澄(処刑)
山田重忠、源翔、三浦胤義(自害)後藤基清、五条有範。佐々木広綱、大江能範(梟首) 通信(奥州江刺に流刑)通俊(戦死)
通政(斬首)
通末(流刑)




〇聖戒の生い立ち
生年・没年 弘長元年(1261)〜元亨三年(1323)(『開山弥阿(みあ)上人行状』)
(注)次兄(一遍)と22歳差、長兄(通真)と約40歳差 ???  

出身地   伊予    
姓名    河野通定(『越智系図』)     
父     河野通慶(『願成寺縁起』 同寺二代目住職<文永十一年(1274)春より>)
母     不詳 
出家    弘長 三年(1263) 『聖絵』第一、第二段(注)2歳 
文永十一年(1274) 『聖絵』第二、第二段(注)13歳 
建治 二年(1276) 『聖絵』第三、第三段(注)15歳 
(注)聖達上人から「聖戒」名を与えられたが、聖戒が何時聖達上人にあったか特定できない。
弘長三年説は、聖戒は二歳であるので論外。『聖絵』第一、第二段の「『しかじ、恩愛をすてて無為にいらむには。ただし、いま一度師匠に対面のこころざしあり』とて太宰府へおもむき給ふあひだに、聖戒も出家をとげて、あひしたがひたてまつりき。」から、弘長三年(1263)の父如仏の死から文永八年(1271)信州善光寺参詣までの八年間の出来事である。従って、一〇歳までに聖達に会い「聖戒」名を頂いたことになる。
文永十一年説は、一遍、超一・超二・念仏房と桜井で別れて見送っているので、九州には出掛けていない。
建治二年説もあり得るが、『聖絵』第三、第二段の「・・・『さらば我は百遍うけぬ』とて百遍うけ給ひけり。伊与へいり給ひたりし時、このやう、くはしくかたり給ひて、「いかにも知者は子細のある事なり」とぞ申され侍りし。」から、聖戒は聖達と一遍の場には居なかったと思う。 

〇『一遍聖絵』の中の聖戒

@「しかじ、恩愛をすてて無為にいらんには。ただし、いま一度師匠に対面のこころざしあり」とて、大宰府へおもむき給ふあひだに、聖戒も出家をとげて、あひしたがひたてまつりき。」
(『聖絵』第一、第二段) 弘長三年1263

A「聖此の地に参籠して遁世の素意をいのり給ふ。霊夢しきりに示して感応これあらたなり。この時、聖戒ひとり随逐してたてまつりて、・・・ (『聖絵』第二、第一段) 文永十年年1273

B「同十一年甲戌二月八日、同行三人あひ具して与州をいで給ふ。超一超二念仏房此三人発因縁有奇特恐繁略之」
(注)「三人発因縁」(安永版木) 「此三人発心因縁」・・・御影堂本
聖戒五六ヶ日おくれてててまつりしに、同国桜井といふ所より、同生を花開の暁に期し、再会を終焉の夕にかぎりててまつりて、いとまを申し侍りき。・・・・・『臨終の時はかならずめぐりあふべし』とて名号かきてたまひ、十念さづけなどし給ふ。(『聖絵』第二、第一段) 文永十一年1274

C「聖戒淡州修行の時もこの札なほ侍りき。かのいはほのうへにうつしおかれけぬ半偈の文もかくがやとおぼえて、感涙おさへがたかりき。」(『聖絵』第十一、第一段) 時代不詳 聖戒は淡州遊行をしたか?

D「八月二日、聖、縄床に坐し、南をむきて法談し給ふことありき。巽の方に因幡の蓮智上人、南に兵庫光明福寺方丈坐せらる。其の外、道俗かずをしらず聴聞す。右のわきに聖戒が侍りしに、筆をとらせて法門をしるさせたまふ。清書してよみあげ侍るに・・・」(『聖絵』第十一、第四段) 正応二年年1289

E「聖の給はく、「こころざしのゆくところなれあみなちかづきぬ。結縁は在家の人こそ大切なれば、今日より要にしたがひて近習すべし。看病のために相阿弥陀仏。弥阿弥陀仏・一阿弥陀仏ちかくあるべし。又、一遍と聖戒とが中に人居へだつる事なかれ」との給ふ。」(『聖絵』第十一、第四段) 正応二年年1289 (注)聖戒に「阿号」なし。

F「十七日の酉の時ばかり、『すでにご臨終』とて人々さわぎあへり。聖、西にむきて合掌して念仏し給うふ。其の時、聖戒はあからさまに浜にいでて侍りしが、『すでに御臨終』と申しあひたりし程に、いそぎまゐりたりしかども・・・・・」(『聖絵』第十一、第四段) 正応二年年1289

G「十八日のあした、聖戒をよび給ひて、『わが目を見よ。赤き物やある』とおほせらる。みたてまつるに、赤きすじあり。すなはち、あるよしを申すに、『そのすじのうせむ時を最後とおもふべし』と云々。(『聖絵』第十二、第二段)  正応二年1289

H「正安元年己亥八月廿三日  西方行人聖戒之□ 画図 法眼円伊 外題 三品経伊卿筆」
(『聖絵』最終) 正安元年1299

【追記】『聖絵』から、一遍と聖戒が会った記述を指摘しておく。

I「熊野をいで給ひて、京をめぐり西海道をへて、建治元年の秋のころ、本国にかえりいり給ふ」(『聖絵』第三、第二段) 建治元年1275

J「国中あまねく勧進して、いづちともなくいで給ひぬ。次の年、又事のゆえありて、予州をとおり九国へわたり給ひて、聖達上人の禅室におはしたりければ、なのめならず悦び給ひて、・・・」(『聖絵』第三、第三段) 建治二年1276

K「又、不思議なりしこよは、近江の国草津と申す所におはせし時、中夜をはりて人みなしづまりて後、にはかに雷電し、雨あらく風はげしかしに、聖おきゐ給へり。そのかたはらに(聖戒)侍りしかば・・・」(『聖絵』第七、第一段) 弘安六年1283

〇聖戒の遊行同行

宗門や一遍研究者の中には一定期間、一遍の遊行に聖戒が同行したとの論述もあるが、資料的には確かめられない。聖戒は「時衆」でなく「阿号」もない。
 同寺文永十一年(1274)春より、伊予内ノ子の願成寺の二代目住職((『願成寺縁起』)を勤めた。
兵庫観音堂で一遍の重病の床に駆けつけ、一遍の「遺誡」を書き取っている。『聖絵』第十一、第十二に詳細な記述がある。

一遍没後、聖戒は京都に住み、貴族社会にも近づき、京都六条に「歓喜光寺」を開く。『一遍聖絵』(『六条縁起))をまとめるに当たって時衆(他阿真教以下)と接触したと推察するが、管見では聖戒と時衆(他阿真教以下)の記録を確認していない。
兄弟又は法兄弟とみられる伊予奥谷宝厳寺の仙阿(伊豆房)についても一切触れられていない。






2、一遍と他阿真教

〇真教の生い立ち

生年・没年  嘉禎三年(1237)1月〜文保三年(1319)
出身地    京都 
姓名     古河 名は不詳(「同時代史料には「真教」の名前なし。一遍死後ヵ」
父      藤原左大臣頼実卿(「桑折寺過去帳」福島県伊達郡桑折町 時宗寺院)
母      柳原前大納言之原娘(「桑折寺過去帳」)
出家     浄土宗鎮西派弁西に学ぶ。豊後国主大友頼泰(よりやす)帰依。豊後瑞光寺(不詳)の高僧。

〇浄土宗鎮西派(聖光房弁長  知恩院、増上寺)。「念仏往生」「諸行往生」
浄土宗西山派(法然−証空―聖達・・・如仏・一遍 「念仏往生」のみ
〇瑞光寺(大分近郊 所在不明)  別府・鉄輪温泉「瑞光寺」あり。

〇一遍と真教の出逢い
 建治三年(1277)一遍 九州巡教  弘安元年(1278)豊後「草庵」(不詳)で出会う。

「其の所<豊後>にしばらく逗留して、法門などあひ談じ給ふあひだ、他阿弥陀仏がはじめて同行相親の契りおむすびたてまつりぬ。惣じて、同行七八人相具して、弘安元年(1278)夏の比、与州はわたり、同秋、秋の厳島へまゐり給ひぬ。(『聖絵』第四、第三段) 建治三年1277

「建治三年秋の比、九州化導のとき、予(真教)始めて温顔(一遍)を拝し奉り、草庵に止宿して、一夜閑談せしめ、後更(夜明け方)に及ぶまで欣求浄土の法談あり。その時聖(一遍)予(真教)に示して云く。
『離穢土の行人は宣(もう)すに及ばず、世俗の類に於ても常にまさに無常の理を知るべし。無常の理を知るものは地獄を恐るべし。地獄を恐るゝものはまさに念仏すべし。念仏すれば即ち罪滅す。罪滅すれば即ち浄土に生ず。凡そ無常の観念は一に非ず。常に心を摂して此理を按ずべあい。・・・此くの如く知らば貪欲の心起るなく、更に愛念(執着の心)を発させず』。
既に此の理を示し給う時、心肝に染め感涙落つ。立ち処に有為無常の理を悟り、年来所居の栖(すみか)を捨てゝ一所不住の身となり、堅く師弟の契約を成し、多年随逐しってまつる。誠に謝し難きは恩徳なり。(原漢文)(『奉納縁起記』)1277

(注)『奉納縁起記』:二祖真教が嘉元四年(1306)掃部助心性とその子藤原有重とに縁起絵図十巻を描かせ熊野本宮に奉納した。江戸中期までは存在したが現在はなし。一遍が建治の頃宇佐の宮に霊夢を感じ、次に男山に詣り、ついで熊野の神告を蒙ったとある。また再度入山した「万歳の峰」に石の塔婆を建てたとあり、これは現存する。漢文。(『時宗辞典』1989)

(検討中)豊後の地で一遍は真教に「他阿弥陀仏」の名を与えたヵ。
「他」は「自・他」の「他」ヵ。「他力本願」も「他」ヵ。

〇島津家(薩摩国近衛家「島津庄」庄官)
〇大友家(相模国大友郷支配 「鎌倉御家人」)・・・一遍(河野家 一時期鎌倉御家人)
  大友兵庫頭頼康は一遍、他阿に帰依、以後時宗の大檀越<梅谷氏>
〇鉄輪地獄 (「上人の湯」)
〇宇佐八幡宮(一向上人との出会い  番場・七葉山蓮華寺<一向宗本山>)
〇一遍と真教の同行(遊行)

『一遍聖絵』(1299制作)と『遊行上人縁起記』(第一章〜第四章)(1307制作)の重複事項
第五章〜第十勝は「真教伝」。下表は兵庫・真光寺蔵『遊行縁起』に拠る。

1−1  遺恨を持つ親族に襲われる。敵の太刀を奪って逃げる一遍。
1−2A 建治二年(1276)一遍上人熊野参詣。律僧に賦算。
1−2B 證誠殿で権現より神勅
1−3A 吉備津宮の神主の子息の妻が一遍に帰依、剃髪して出家。
1−3B 神主の子息が福岡の市で一遍を襲うが、帰依して出家。
2−1  弘安二年(1279)信州佐久郡伴野で初めて「踊り念仏」。
2−2  弘安三年(1280)陸奥 白川の関屋の柱に歌を書く。
2−3  松島の見仏上人の遺跡に詣でる。
2−4  弘安五年(1282)相模国龍口で利益する一遍上人。
2−5A 弘安五年(1282)駿府国井田であじさか入道、時衆入りを願う。
2−5B あじさか入道、富士川で入水往生。
3−1A 弘安六年(1283)尾張国甚目寺で、毘沙門天、霊現を示す。
3−1B 飲食を大衆に施す。
3−2  近江国大津の関寺で、比叡山の僧宴聡と宗論する。
3−3A 弘安七年(1284)一遍上人、四條大橋を渡り京へ入る。
3−3B 一遍上人、京極の釈迦堂に入る。
3−4A 空也上人の遺跡に市屋道場をつくり、数日送る。
3−4B 因幡堂にもしばらく逗留する一遍上人。
4−1A 弘安九年(128)、四天王寺に参詣する。
4−1B 四天王寺で一遍上人は七日祈祷して、壷から舎利を出す。
4−2  正応元年(1288)12月、一遍上人、伊予国三島社に参詣。
4―3  正応二年(1289)2月、神官たちは一遍上人を今針の津に訪ね道場制文を書く。
4−4  正応二年(1289)5月、一遍上人、阿波国大鳥里河辺で憩う。
4−5A 正応二年(1289)8月22日、西宮の神主、一遍上人に見参、十念を授かる。
4―5B 正応に年(1289)八月23日、一遍上人、兵庫・観音堂で臨終する。

3、一遍の遺戒・遺言と呪縛

@「さて兵庫の島へ渡りて観音堂に宿し給ふ。其の比、他阿弥陀仏、病悩の事ありけるに、聖曰く、「我巳に臨終近か付きぬ。他阿弥陀仏はいまだ化縁つきぬ人なれば、能能看病すべき」よしのたまふ。 而るに、所々の長老たち出で来りて、「御教化につきて機の三業を離れて念仏ひとり往生の法と領解し侍りぬ。然而、猶最後の法門うけ給は覧」と申しければ、「三業のほかの念仏に同ずといへども、ただ詞ばかりにて義理をも心得ず。一念発心もせぬ人共の」とて
「他阿弥陀仏、南無阿弥陀仏はうれしきか」との給ひければ、やがて他阿弥陀仏落涙し給ふ。上人もおなじく涙を流し給ひけるにこそ、「直他人にあらず、化導をうけつぐべき人なり」と申しあひけれ。

Aさて遺戒の法門を書き給ふ。其の詞に曰く、
  五蘊の中に衆生をやまする病なし。四大の中に衆生をなやなす煩悩なし。但、本性の一念に背きて、五欲を家とし、三悪を食として、三悪道の苦を受くる事、自業自得の道理なり。然者、みづから一念発起せずよりほかは、三世の諸仏の慈悲もおよばざるところ也。」
(『遊行上人縁起絵』第四 1239)

B「五蘊(色・受・想・行・識)の中に衆生をやまする病なし。四大(地・水・火・風)の中に衆生をなやなす煩悩なし。但、本性の一念に背きて、五欲(目・耳・鼻・舌・身)を家とし、三悪(貧・瞋・痴)を食として、三悪道(地獄・餓鬼・畜生)の苦を受くる事、自業自得の道理なり。然者、みづから一念発起せずよりほかは、三世(過去・現在・未来)の諸仏の慈悲もおよばざるところ也。(『聖絵』第十一 第三章)

C「同十日の朝、もち給へる経少々、書写山の寺僧に侍りしにわたしたまふ。つねに
「我が化導は一期ばかりぞ」
とのたまひしが、所持の書籍等、阿弥陀経をよみて手づからやき給いしかば、伝法に人なくして師とともに滅しぬるかと、まことにかなしくおぼえしに、
「一代聖教みなつきて、南無阿弥陀仏になりはてぬ」
との給ひしに、「世尊説法時将了、慇懃付属弥陀名」の心にて「五濁増時多疑謗 道俗相嫌不用聞」とあれば、よくよくしめし給ひしにこそ。」(『聖絵』第十一 第三章)

D「他阿弥陀仏は聖一代の間変わらぬ調声役(ちょうしょう)でありましたうえ、折から病気であったから、聖は「大切にせよ」とおっしゃったので、調声の本座を去らずにそのまま座っておられた。」
(『一遍聖絵』第十一 第三章)

(注)『一遍上人全集』現代訳
「我が化導は一期ばかりぞ」:私(一遍)の念仏勧進は一生涯きりのことであるぞ」
「一代聖教みなつきて、南無阿弥陀仏になりはてぬ」:釈尊一代のみ教えはみな尽き果てて、結局、南無阿弥陀仏ひとつに納まってしまった。」

『法語』
E又ある人問ひて云く「上人御臨終の後、御跡をばいかように御定め候や」。
上人答えて云く「法師のあとは、跡なきを跡とす。跡をとどむるとはいかなる事ぞ。われしらず。世間の人のあとゝは、これ財宝所領なり。著相(執着)をもて跡とす。故にとがとなる。法師は財宝所領なし。著心(執着心)をはなる。今、法師が跡とは、一切衆生の念仏する処これなり。南無阿弥陀仏」(橘・梅谷『一遍上人全集』「法語」第一201頁)

F「時衆制誡」(十八専莫)
第一条 専仰神明威 莫軽本地徳
(もっぱら神々の威光を仰いで、その神の本地の仏の徳を軽んじてはなない。)
(第二条〜第十七章 省略)
第十八条 専守知識教 
莫恣任我意我遺弟等 至□末代 須守此旨 努力勿怠 三業行体 南無阿弥陀仏
(もっぱら知識の教えを守って、自分の思うままに考えふるまってはならない。
私(一遍)の死後の弟子たちは、末代に至るまで、この制誡の趣旨を正しく守り、決して意口意三業の称名を怠ってはならない。南無阿弥陀仏。一遍)

 〇「知識帰命」
@ 今から臨終の夕べまで、一身を知識に任せる。
A どのようになろうとも、制裁を維持してはぶらない。
B 制裁を破ると、今生で白黒となり後生において阿弥陀仏の四八願にもれ、三悪道に落ちても悔いはない。
C ひとたび往生が約束されても、往生を取り消す。
(注)聖(一遍)は@往生を保障する付与権とA往生の取り消しを決定する奪取県を共有していた。
不往生者 弘安二年(1280)=嘉元四年(1239) 七名 
「知識帰命」の制定者は、一遍か他阿真教かで見解が分かれている。

〇 一遍時衆の末期の組織統制実態は問題多し。
@不信心 
「ただいま結縁のために伊勢大神宮のいらせ給ふに、山王もいらせ給ふなり。不信のものども小神たちに罰せられて、おほく病悩のものありぬとおぼゆるぞ」とおおせられき。一時ばかりありて雷電とどまりぬ。其の朝、『やむものやある』とたづね侍りしかば、時衆一度に十三人やみ侍りき。」(『聖絵』第七 第一章)1283 
A 男女不純
  弘安十年「十二道具の制定」(『聖絵』第十 第一章)1283 
4、真教の自立
〇 呪縛(マインドコントロール)

@ 「我が化導は一期ばかりぞ」(『聖絵』第十一 第三章))
A 「一代聖教みなつきて、南無阿弥陀仏になりはてぬ」(『聖絵』第十一 第三章)
B 「知識にをくれ奉りぬるうへは、すみやかに念仏して臨終すべし。」(『縁起絵』第五) 

〇一遍最後の賦算―播磨の淡河殿の女房
「六十万人の融通念仏は、同日、幡(播)磨の淡河殿と申す女房の、参りてうけたてまつりしぞ、かぎりにて侍りし。
凡そ、十六年があひだ、目録にいる人数、二十五億一千百廿四人なり。其の余の結縁衆は、歳須もかぞへがたく、竹帛もしるしがたきものなり。」(『聖絵』第十二 第二章)1289

(注)賦算数二十五億一千百廿四人の「億」は「万」の誤りが通説。賦算札「南無阿弥陀仏 決定往生 六十万人」で「万」と「億」を間違えるヵ。「億」とは10万を指し、250万1124人であろう。白川静『字通』(平凡社1996)「古くは十万、のち万万をいう。)」
「目録」と「時衆過去帳」の混同ヵ。私見では「目録」は賦算札の印刷枚数の記録ヵ。

〇真教最初の賦算―北条時俊(淡河殿)
(『縁起絵』第五に拠る)
 一遍上人入寂後、「知識にをくれ奉りぬるうへは、すみやかに念仏して臨終すべし。」として摂津・播磨の国境の丹生山に分け入り、極楽浄土寺のお堂で念仏しながら死を待った。
 その時、粟河(現淡河町)領主 北条(淡河)時俊(北条時政のヤシャマゴ)が念仏札を受けたいと訪ねてくる。
 真教「聖は己に臨終し給ぬ。われらはいまで利益衆生にむかひたらばこそ」と固辞。
 時俊「かよに縁をむすびたてまつるべきものゝ侍るうへは、ただ給らん」
 【賦算】
 真教「如此化導ありぬべからんには、徒に死しても何の詮かあるべき。故聖の金言も耳の底に留り侍れば化度利生し給にこそ」
(注)『聖絵』熊野の神託との対応
「御坊のすゝめによりて一切衆生はじめて往生すべきにあらず。阿弥陀仏の十劫正覚に一切衆生の往生は南無阿弥陀仏と決定するところ也。信不信をえらばず、浄不浄をきらはず、その札をくばるべし」(『聖絵』第三 第一段)

〇真教最初の賦算地―北条時俊(淡河殿)本国
 粟河の領主の勧めと時衆に推されて「知識」として「賦算の旅」(遊行)に出る。
 越前国 北条時継 所領地

北条時政―――時房―――時盛―――朝盛―――時継
                   ―――時俊  (真教最初の賦算)
越前国(淡河領主本国)真教最初の布教地
                  時俊妻 (一遍最終賦算)
    ―――妹(谷 ヤツ)

通信―――通広―――通真・・・・・・・・・・・別府河野家継承(庶家)
              ―――通尚 一遍(智真坊)・・・・時宗開祖
              ―――通定 聖戒(伊予坊)・・・・『一遍聖絵』編者
              ―――不詳 仙阿(伊豆坊)・・・・奥谷派宝厳寺開基
歴史的事実ヵ・・・あまりに出来すぎたストーリーである

5、他阿真教と伊予坊聖戒
真教と聖戒の関係は(通説では)冷たいものであった。しかし、一遍への思いは、互いに強いものがあり、惹かれあうものがあったとしても不思議ではない。

正応三年(1289)8月23日 一遍逝去。信者達によって、荼毘(火葬)に付され、霊骨を五輪塔に納められ、お木像を御影堂に祀られる(『聖絵』最後の絵)
伏見天皇に奏して「真光寺」の寺名を拝受し、播州守護職赤松円心より寺領を寄進され、七堂伽藍は荘厳を極め、寺地は三十八町四方に及ぶ。
正安元年(1199)8月23日 『一遍聖絵』(聖戒編)
正安三年(1301)8月15日 二祖真教上人兵庫に至り一遍上人御影堂で13回忌を勤め、自ら調声する
元亨三年(1323) 『遊行縁起』「宗祖・二祖絵伝」完成する
文保三年(1319)1月27日 二祖真教 死去
後醍醐天皇より「西月山」の山号を勅賜、南朝の皇族「尊観法親王」が住持され、念仏の大道場として繁栄
『一遍聖絵』編纂での真教と聖教の連帯(仮説)

@「一人のすすめ」について
「一人のすゝめによりて此の画図をうつし、一念の信をもよほさむがために、彼の行状をあらはせり。」(『聖絵』第十二−第三章 1289〜1299の間)

一人 @いちじん  天皇
   Aいちにん  右大臣
   Bいちのひと 摂政関白 
通説では『一遍聖絵』(六条)を分蔵してきた歓喜光寺の所伝記「摂政関白九条忠教」が有力。
Cひとり   他阿真教 
一遍の後継者としての気概と遊行を通した時衆の求心の必要性を感じ、他阿真教は聖戒に一遍聖の行状を絵巻にしてはと勧めた。「一人のおすすめ」でなく「一人のすすめ」であり、聖戒は敬語でなく対等の立場の人物として記述している。『一遍聖絵』(六条縁起)全十二巻は正安元年(1299)に完成する。
さらに14年経過した嘉元三年(1303)12月以降『遊行上人縁起絵』(絵詞伝 全十巻)
が完成する。
他阿真教と聖戒は互いにいがみあったのではなく、時衆の協力なくしては『一遍聖絵』は完成は困難であったろう。製作費に関しては、貴族、信者の拠金にウエイトを置く発言を論者は一遍会例会で発表した。(『一遍会報』(第  号)要旨記載)

A一遍「勢至菩薩」・真教「観音菩薩」化身説
真教 観音菩薩 「真教」は同時代には記録なし。 智真(一遍)に教化される→「真教」 

@「そののち、雲居寺、六波羅蜜寺、次第に巡礼し給ひて、空也上人の遺跡、市屋に道場をしめて数日をおくり給ひしに、唐橋法印印勢(承)、勢至菩薩の化身にておはしますよし、霊夢の記をもちてまゐれり。聖は「念仏こそ詮にてあれ、勢至ならずば信ずまじきか」とていましめ給ふ」(『聖絵』第七 第三段)

A「勢至菩薩の化身にておはしますよし、夢想どもあまた侍りしに、廿三日にしもをはり給ひぬるはあやしきことなれども、いささかかの霊瑞もある人をば、権者と申すことはその詮なき事なり。『聖絵』第十二 第三段
(注)二十三日は勢至菩薩縁日
真教「観音菩薩」化身説・・・文献あり。ただし調査中。
藤沢の時宗寺院「定光寺」本堂は「阿弥陀三尊」が正面、左に一遍上人(勢至菩薩側)、右に真教上人(観音菩薩側)が並ぶ。
『一遍聖絵』編纂での真教と聖教の連帯(仮説)
@「一人のすすめ」について
「一人のすゝめによりて此の画図をうつし、一念の信をもよほさむがために、彼の行状をあらはせり。」(『聖絵』第十二−第三章 1289〜1299の間)

一人 @いちじん  天皇
   Aいちにん  右大臣
   Bいちのひと 摂政関白 
通説では『一遍聖絵』(六条)を分蔵してきた歓喜光寺の所伝記「摂政関白九条忠教」が有力。
Cひとり   他阿真教 
一遍の後継者としての気概と遊行を通した時衆の求心の必要性を感じ、他阿真教は聖戒に一遍聖の行状を絵巻にしてはと勧めた。「一人のおすすめ」でなく「一人のすすめ」であり、聖戒は敬語でなく対等の立場の人物として記述している。『一遍聖絵』(六条縁起)全十二巻は正安元年(1299)に完成する。
さらに14年経過した嘉元三年(1303)12月以降『遊行上人縁起絵』(絵詞伝 全十巻)
が完成する。
他阿真教と聖戒は互いにいがみあったのではなく、時衆の協力なくしては『一遍聖絵』は完成は困難であったろう。製作費に関しては、貴族、信者の拠金にウエイトを置く発言を論者は一遍会例会で発表した。(『一遍会報』(第  号)要旨記載)
A一遍「勢至菩薩」・真教「観音菩薩」化身説
真教 観音菩薩 「真教」は同時代には記録なし。 智真(一遍)に教化される→「真教」 

@「そののち、雲居寺、六波羅蜜寺、次第に巡礼し給ひて、空也上人の遺跡、市屋に道場をしめて数日をおくり給ひしに、唐橋法印印勢(承)、勢至菩薩の化身にておはしますよし、霊夢の記をもちてまゐれり。聖は「念仏こそ詮にてあれ、勢至ならずば信ずまじきか」とていましめ給ふ」(『聖絵』第七 第三段)

A「勢至菩薩の化身にておはしますよし、夢想どもあまた侍りしに、廿三日にしもをはり給ひぬるはあやしきことなれども、いささかかの霊瑞もある人をば、権者と申すことはその詮なき事なり。『聖絵』第十二 第三段
(注)二十三日は勢至菩薩縁日
真教「観音菩薩」化身説・・・文献あり。ただし調査中。
藤沢の時宗寺院「定光寺」本堂は「阿弥陀三尊」が正面、左に一遍上人(勢至菩薩側)、右に真教上人(観音菩薩側)が並ぶ。




まとめ

真教と聖戒の関係は(通説では)冷たいものであった。しかし、一遍への思いは、互いに強いものがあり、惹かれあうものがあったとしても不思議ではない。
一遍は優れた「カリスマ」であり、真教は優れた「オルガナイザー」であり、一遍生存時の「オカルト集団」から、道場を主体にした信仰集団に発展させた真教の功績は大なるものがある。
一遍は後継者候補としては当初は伊予坊聖戒であった。なぜ聖戒が一遍の遊行集団(時衆)に参加せず、浄土宗(西山派)を通したのか、大いなる謎である。(『聖絵』)真教日本語ついては、一遍の「南無阿弥陀仏はうれしきか。直他人にあらず、化導をうけつぐべき人なり」戒名ら、時衆集団の第一等であることが位置付けられる。(『縁起絵』)
 仏(阿弥陀仏)・人(時衆)・名号(南無阿弥陀仏)一体であり、「臨終」に当たって「南無阿弥陀仏」を口唱すれば、「十八願」により阿弥陀仏自身が近づいてきて成仏させてもらえる(成仏できる)という教理を、遊行と賦算と踊念仏を通して、一遍と真教が実現したことは何人も肯定するに違いあるまい。


「知識」真教と「時衆教団」の結成以降は、次回にまわしたい。

【参考文献】
@ 大橋俊雄『一遍と時宗教団』(ニュートンプレス1978)
A 今井雅晴『時宗成立史の研究』(吉川弘文館1981)
B 高野修『時宗教団史』(岩田書院2003)
C 小野澤眞『中世時衆史の研究』(八木書店2012)
D 桜井哲夫『一遍と時衆の謎』(平凡社2014)
E 長澤昌幸『一遍仏教と時宗教団』(法蔵館2017)
F 坂井孝一『承久の乱 真の「武者の世」を告げる大乱』(中公新書2019)
G 本郷和人『承久の乱 日本史のターニングポイント』(文春新書2019)