第六十四章  「一遍歌集 全百首」の試み
   はじめに
 平成二七年十二月例会(第八七五回)で「歌のひじり一遍 ―捨・遊・念― 」のテーマで講演した。まとめとして、子規が「散策集」で一遍に触れた一節を借用して「古往今来当地出身の豪傑は、一遍と子規なり。」で結んだ。
 一遍は鎌倉仏教のひとつである時宗の開祖として中学校の歴史教科書に記述され広く知られているが、一遍の詠んだ歌についてはほとんど知られていない。
 子規が厳しく批判した「古今和歌集」から始まる勅撰和歌集のうち「玉葉集」に一遍の歌は四首(または二首)撰ばれており、一遍の係累(実子、弟とも云われている)である国宝『一遍聖絵』(以下『聖絵』と表記)の編者 聖戒法師も一首撰ばれている。一遍と聖戒のほかに、伊予人で勅撰和歌集に撰ばれた歌人を残念ながらあげることができない。 子規が俳句の体系化を図るべく先人の俳句を跋渉したことを見習い、子規生誕一五〇周年にあたり「一遍歌集 全百首」をここにとりまとめたが、多くの歌人、俳人、また一遍研究者や宗門関係者によって、全国各地で喪われた一遍の和歌が発掘され追加されることを願ってやまない。
一、一遍と和歌
 一遍上人(一二三九〜一二八九年)は「遊行聖」と呼ばれ、また「捨聖」「湯聖」「医聖」「市聖」とも呼ばれている。一遍の生きた中世にあって、顕密佛教や鎌倉仏教の創始者のなかで数多くの和歌を残した人物は曹洞宗の開祖道元禅師を除いてはいない。今回は一遍聖の残した和歌(法歌)を通して、「歌のひじり 一遍」について触れてみたい。
 一遍の遺した法歌は、九八首確認できる。そのうち二首は勅撰和歌集「玉葉和歌集」(以下「玉葉集」)に撰ばれている。更に、「玉葉集」から二首、一遍作とする研究もあり、これを加えると百首となる。(小林守「隠された遊行上人―『玉葉和歌集』の一遍と他阿」)
「玉葉集」撰の一遍の歌は、当時の政治状況(鎌倉・北條執権と京都上皇・天皇家の確執)から、一遍の直接の法継者である他阿真教と同様に「読み人知らず」、法弟である聖戒は「聖戒法師」で記載されている。本論では一遍和歌百首として研究を進めていくことにする。
 一遍にとって「和歌」は布教(賦算)にあたっての貴重な言語ツールであったが、同時に、貴族、寺社(禰宜、住持)、知識人、時衆との言語コミュニケーションの「場」でもあったと考えられる。座の文学でもある連歌も同様であろう。『聖絵』の編纂者聖戒もまた真教と法歌を通じてつながりがあった。『聖絵』には多くの上人伝とは違って六十首の和歌が載せられており(そのうち五二首は一遍の歌)、他阿真教が『聖絵』制作に当たり聖戒を支援したと考えられる。
 与えられた紙面の制約もあり、文学的(鑑賞)、文学史的な記述は避け、宗教者としての一遍の歌の分析をすすめていきたい。ご寛恕いただきたい。
二、一遍の和歌の全体像
 一遍作の和歌として現在まで残った和歌は百首あると考えるが、一遍は入寂に際して一切を捨てきっており、生前に残した歌は、数倍、数十倍、数百倍あったろうと推察される。参考にした一遍の和歌百首を掲載した文書は左記十二である。掲載歌数の順に表記する。
 七〇首『一遍語録』、五二首『一遍聖絵』、二九首『遊行上人絵詞伝』、二八首『一遍上人法門抜書』、八首『夫木抄本』、四首『一遍上人行状』『玉葉集』、三首『鎌倉九代記』、二首『阿弥陀経見聞私』、一首『一向上人語録』『拾遺風体集』『播州法語集』『法華経直談抄』
 合計掲載数二〇〇余首であるが、重複する歌が一〇〇余首あり、もっとも信頼に足る『一遍聖絵』から順に一遍の和歌一〇〇首を特定し整理番号(mk01〜mk100を付した。
書     名 
掲載歌数 採用歌数 整理番号
@『一遍聖絵』
A『一遍語録』 
B『夫木抄本』 
C『一遍上人行状』 
D『一遍上人法門抜書』 
D『阿弥陀経見聞私』
E『鎌倉九代記』 
F『一向上人語録』
G『拾遺風体集』 
H『玉葉集』  
五二首
七〇首
八首
 四首
二四首
二首
三首
一首
一首
四首
うち 五二首
うち 二〇首 
うち  三首 
うち  二首 
うち 一五首
うち  二首 
うち  二首
うち  一首
うち  一首
うち  二首
(mk01〜52)
(mk53〜72)
 (mk73〜75)
(mk76〜77)
 (mk78〜92)
 (mk93〜94)
 (mk95〜96)
 (mk97)
 (mk98)
(mk99〜100)
二、「一遍聖絵」と「一遍語録」
 『聖絵』は一遍没後一〇年(一二九九年)に編纂され、別願和讃・誓願偈文・道具秘釈と偈頌の類では六十万人頌・十一不二頌・礼書写山頌・答公朝書頌・六字無生頌・本無一物頌の六種、和歌五二首、消息一通、法語一篇、門人伝説一二篇が収められている。これらは一遍の真撰としてもっとも信頼がおかれている著作である。
和歌の収録数がもっとも多いのは『一遍語録』(一七五六年)で七〇首である。うち五〇首は『聖絵』と同一であるから二〇首が追加されており、他方『聖絵』の二首が削除されている。

036極楽にまいらむとおもふこころにて 南無阿弥陀仏といふぞ三心

040我みばや見ばやみえばや色はいろ いろめく色はいろぞいろめく
次に『聖絵』未記載の二〇首は左記の歌である
053おしめどもつゐに野原に捨てにけり はかなかりける人のはてかな

054皮にこそおとこをんなのいろもあれ 骨にはかはるひとかたもなし

055すてやらでこころと世をば嘆きけり 野にも山にもすまれける身を

056捨てこそ見るべかりけり世の中を すつるも捨ぬならひ有とは

057おもひしれうき世の中にすみぞめの 色々しきにまよふこころを

058こころをばいかなるものとしらねども 名をとなふればほとけにぞなる

059おしむなよまよふこころの大江山 いく野の露と消やすき身を

060こころからながるる水をせきとめて をのれと淵に身をしづめけり

061心をばこころの怨とこころえて こころのなきをこころとはせよ

062とにかくに心はまよふものなれば 南無阿弥陀仏ぞ西へゆくみち

063すみすまぬこころは水の泡なれば 消たる色やむらさきの雲

064弥陀の名にかすまぬ空の花ちりて こころまどはぬ身とぞなりぬる

065仏こそ命と身とのあるじなれ わが我ならぬこころ振舞    

066ひとりただほとけの御名やたどるらん をのをのかへる法の場人

067夢の世とおもひなしなば仮のよにとまる 心のとまるべきやは

068いにしへはこころのままにしたがひぬ 今はこころよ我にしたがへ

069いまははや見えず見もせず色はいろ いろなるいろぞ色はいろなる

070となふれば仏もわれもなかりけり 南無阿弥陀仏の声ばかりして

071となふれば仏もわれもなかりけり 南無阿弥陀仏なむあみだ仏

072まじへ行みちにないりそくるしきに 本の誓のあとをたづねて
三、夫木抄について
「夫木抄」の正式書名は『夫木和歌抄』(ふぼくわかしょう)で、『夫木和歌集』『夫木抄』『夫木集』さらに略して『夫木』とも呼ばれている。「夫木集」とは「扶桑集」の省画である。同書の跋文に「但扶桑者日本国之総名也」とあり撰者 藤原長清の同書に寄せる意気込みが感じられる。
長清は遠州勝間田(静岡県榛原郡榛原町(現・牧之原市)に居住し、同地区に勝間田城址がある。長清は時衆(勝田証阿弥陀仏・越前左太夫蓮昭)で他阿真教と親交があった。
○同年(延慶)九月の頃、久万のより下向に遠江国鎌塚宿にて勝田証阿弥陀佛越前左近太夫蓮昭まうでゝ(略)
(『二祖他阿上人法語』巻八)
○延慶ノ比 勝田証阿弥陀佛越前左近太夫蓮昭 我所ヘ召請申侍テ(略)
○ 或時 勝田証阿弥陀佛 十題十首ノ歌ヲヨミ侍リケルニ、(略)(『二祖上人詠歌』(下)
他阿真教は長清の和歌の師である藤原為相との交渉があったので、為相を介して親交ができたと思われる。
墓は榛原町(旧勝間田村)「道場」(時衆勝間田道場)の「清浄寺」(一遍弟子恵法和尚開山)の裏山に在る五輪塔であるという。
藤原為相は一般には冷泉為相として知られている。弘長三年に生まれ嘉暦三年に没した。鎌倉時代の公卿で歌人。藤原為家の三男、母は阿仏尼(『十六夜日記』の著者)である。冷泉家の祖で正二位権中納言である。家領の相続をめぐって異母兄二条為氏と争う。しばしば鎌倉へでかけ関東歌壇の指導者として重きをなした。「新後撰和歌集」などに歌がある。初名は為輔。通称は藤谷中納言。(『日本人名大辞典』)
同書の成立は延慶二〜三年頃で、文保から元徳・正慶頃に加筆修正されている。内容は一七三五一首を三六巻五九六題に部類し、巻三四に神祇釈教、巻三五に人倫、巻三六に人事を載せている。
『夫木抄』には一遍の和歌が八首撰ばれている。『聖絵』、『語録』との同一句が五首(06・23・36・58・61)、『夫木抄本』のみが三首(73・74・75)である。更に後述する勅撰和歌集「玉葉集」四首中の二首(36・75)は、『夫木抄』八首の中から撰ばれている。 
006こころよりこころをえむとこころえて 心にまよふこころなりけり

023あともなきくもにあらそふこころこそ なかなか月のさはりとはなれ

036極楽にまいらむとおもふこころにて 南無阿弥陀仏といふぞ三心

058こころをばいかなるものとしらねども 名をとなふればほとけにぞなる

061心をばこころの怨とこころえて  こころのなきをこころとはせよ

073にしへ行くまよひさとりの道たえて 南無阿弥陀仏のこゑにまかせよ

074みなとなふ人はあま夜の月なれや  くもはれねどもにしへこそ行け

075なにかなふ心はにしにうつせみの  もぬけはてたる声ぞすずしき
四、『玉葉集』について
玉葉和歌集」(以下「玉葉集」)は勅撰和歌集である。勅撰和歌集は「新葉和歌集」を加えると二十二代集になるが、一般には「二十一代集」で、『古今和歌集』(延喜五年成立)に始まり、『新続古今和歌集』(永享十一年成立)までの五三四年に及ぶ。編集時期から「三代集」(古今集・ 後撰和歌集・拾遺集)・八代集(古今集から新古今集)・十三代集(新勅撰集から新続古今集)と区分することもある。
八代集を代表する歌人は紀貫之、藤原定家で、十三代集を代表する歌人は二条派であろう。武士方が上皇・天皇方を圧倒し古代から中世への移行を決定付けた「承久の変」(一二二一年)後に一三代集となるが、「玉葉和歌集」は十四代集で、一三一二年に伏見院が下命し京極為兼が編纂したものである。承久の変で上皇方に加担した伊予国の豪族河野家は所領の総てを失い、通信(一遍祖父)は陸奥の江刺に流されたが、一遍の歌には通信の墳墓に詣でる奥州、関東の遊行の歌が数多く残されている。
「玉葉集」の撰者京極為兼は、新旧の佛教に深い関心を寄せていた。浄土宗の開祖法然が勅撰和歌集に撰ばれたのは「玉葉和歌集」が初出である。西山派深草派流祖の円空上人も入っている。円空は一遍が大宰府の地で学んだ西山派の聖達上人の実子である。時衆関連では国宝『一遍聖絵』の制作にかかわった聖戒と画僧円伊、『夫木抄』撰者の藤原(勝間田)長清も撰ばれている。一遍智真と他阿真教は、名を記されていないが(「読人しらず)、多くの研究論文からその作品の存在が紹介されている。
冷泉為相の私撰集『拾遺風体集』(延慶元年)に、京極為兼の歌を四首、一遍の歌を二首、『夫木抄』の撰者勝間田長清の歌一首を入れている。長清は冷泉為相の歌の門下であり、時衆(他阿真教)門徒である。また浄土宗開祖の法然を四首、他阿真教の歌を三一首撰んでいる。
一遍の歌二首
098西へ行く山の岩ねをふみなれば 苔こそ道のさはりなりけれ

023あともなき雲にあらそふ心こそ なかなか月のさはりなりけれ
一遍の歌は「玉葉集」ではすべて神仏の託宣歌として取り扱っている。
(石清水八幡宮)
099しをりせでみ山のおくの花を見よ たづねいりてはおなじ匂ひぞ  

(石清水八幡宮)
100谷川のこのはがくれのむもれ水 ながるるもゆくしただるもゆく  

(真如堂)
074弥陀たのむひとはあま夜のつきなれや  雲はれねども西にこそゆけ 

(石清水八幡宮)
036極楽にむまれんとおもふ心にて 南無阿弥陀仏といふぞ三心      
参考までに他阿真教と聖戒の歌を記す。

読人しらず(他阿真教)
あはれげにのがれても世はうかりけり  命ながらぞすつべかりける   

聖戒法師 釈教の心を 
なにとして跡もなき身のうき雲に  心の月をへだてそめけむ       
五 その他の歌集について
 「『一遍聖絵』『一遍語録』『夫木抄』『玉葉集』について述べてきた。この四集で一遍の歌は七七首である。残りの二三首の出所を簡略に記す。
『一遍上人行状』(二首) 著者不明。正安二年(一三〇〇)頃成立。 
『一遍上人法門抜書』(一五首)「播州法語集」の漢文態相当部分と一遍法語の備忘録から成る。類書にない消息・法語・和歌があり、貴重である。明応八年(一四九九年)頃成立。「語録」の原型らしい。法歌としては@「折々の歌」(九首)A『上人発心之事大概』(二首)B『一遍上人七夕之御歌』(四首)から成る。
『阿弥陀経見聞私』(二首)天台宗の室町末期の学僧栄心著
『鎌倉九代記』(二首)鎌倉時代の歴史書(年代記)元弘元年頃成立。
『一向上人縁起絵詞』(一首)浄土時宗開祖一向俊聖の縁起の巻子本。本山蓮華寺所蔵。上巻末に「文明二年(一四七〇)同阿書之」とある。
 『聖絵』には一遍の宇佐八幡宮参詣の記述はないが、一向の縁起絵には一章を割いて説明している。
  一向上人歌云
098にしへ行山の岩かどふみならし  こけこそ道のさわりなりけり
  
一遍上人返歌
097にしへゆく山の岩かどふみならし こけこそみちのたよりなりけり
『拾遺風体集』(一首)冷泉為相の私撰集 (延慶元年)。
為相は「にしへ行山の岩かどふみならし こけこそ道のさわりなりけり」を一遍の歌として撰んでいる。同時代人も同じ浄土門の一遍と一向を混同していた証左でもある。資料としての正確さを期すため整理番号(098)を付した。諒とされたい。
六 おわりに
 一遍時衆を中核にして阿弥集団が結成され、将軍家始め戦国武将の庇護の下に、室町期〜江戸期に和歌・連歌、絵画、彫刻、漆器、立花、作庭、刀剣、茶道など、現代につながる日本独特の美意識に根ざした文化を構築する。今回は一遍の和歌(法歌)収集に視座をおいて取りまとめた次第である。
【追記】本論文で採り上げた一遍和歌百首はブログ「熟田津今昔」第六十二章「『一遍歌集 全百首』索引」にアッププロードしている。@登録番号索引 A漢字交じり和歌索引 B五〇音順索引より成る。
(http://home.e-catv.ne.jp/miyoshik/nigitazu/nigitazu62.html)追記】本論文で採り上げた一遍和歌百首はブログ「熟田津今昔」第六十二章「『一遍歌集 全百首』索引」にアッププロードしている。@登録番号索引 A漢字交じり和歌索引 B五〇音順索引より成る。
(http://home.e-catv.ne.jp/miyoshik/nigitazu/nigitazu62.html)
参考 一遍の和歌の出典
@『一遍聖絵』:『一遍聖絵』(聖戒編 大橋俊雄校注 岩波文庫 2000年)。
A『一遍語録』:『一遍上人語録 付播州法語集』(大橋俊雄校注 岩波文庫 1985年)。
B『夫木抄』:『新編 国歌大観』第二巻「夫木和歌抄巻」(角川書店1984年)
C『播州法語集』:『一遍上人語録 付播州法語集』(大橋俊雄校注 岩波文庫 1985年)。
D『遊行上人絵詞伝』:『一遍上人全集』(橘俊道・梅谷繁樹 春秋社1989年)。
E『一遍上人行状』:『定本時宗宗典』下(山喜房1979年)
F『一遍上人法門抜書』:『定本時宗宗典 上(同右)
I『阿弥陀経見聞私』:『一遍上人全集』(春秋社1989年)
J『法華経直談抄』:『一遍上人全集』(春秋社1989年)
L『鎌倉九代記』:『北条九代記』(教育社 1979年)
L『一向上人縁起絵詞』:(『一向上人の御伝集成』(浄土宗本山蓮華寺1986年)
M『拾遺風体集』:冷泉為相私撰『拾遺風体集』(1508年)
N『玉葉集』:『新編 日本古典文学全集』第四九巻「中世和歌集」。(小学館2000年)
(注) 20160727 新たに一遍の和歌四首を確認しました。
101 踊ハネ申シテタニモカナハヌニ 居眠シテハイカガアルベキ

【出典】「一遍上人絵詞伝直談鈔」十二巻。作者は賞山(〜1726)。年代定本ともに正徳四年(1714)。<『定本時宗宗典』上巻(時宗宗務所刊1979)に拠る>

102 證(さとり)とはさとらでさとるさとりなれ さとる了(さとり)は夢の了りよ
103 佛ぞと名あるはあやし佛には ほとけと思ふ心あるかは
104 生ながら佛の道はなき物を 南無阿弥陀仏の声に生まれよ

【出典】「一遍上人念仏安心抄」一巻。作者は七條道場二十二代持阿切臨(サイリン)(〜1661)<『定本時宗宗典』下巻(時宗宗務所刊1979)に拠る>