第七十八章 宝厳寺小史(T) 古代 誓願院と遍照院
一、 はじめに

寺史なり寺院の由来・縁起については、論理的にあるいは史料的にみて事実であるか否かは不明確であることが多い。一遍生誕寺(?)ともいわれる時宗奥谷宝厳寺もまた例外ではない。

(注)時宗本山遊行寺の最新の小冊子『時宗二祖上人七百年御遠忌記念 法統を継ぐ ―真教上人の生涯とその教え―』では左記である。

「時宗宗祖一遍上人は、伊予(現在、愛媛県)に勢力を誇った河野氏の出身です。父である河野通広(出家後)如仏」は、「別府七郎左衛門尉」と称していたことから「別府」(現在、松山市・東温市などの諸説があります)の地に居住していたと考えられます。そのため、一遍上人も其の地で誕生したのでしょう。

今回「宝厳寺小史」として古代、中世(鎌倉期)、中世(室町期・戦国期)、近世(江戸期)、近代(明治・大正・昭和戦前期)、近代(昭和戦後期)、現代(平成・令和)に分けて報告したい。会員各位の意見や研究内容をご報告いただいて「宝厳寺小史」が更に充実できれば幸甚である。

古代については、テキストとして宝厳寺第四十六代住職小林覚住師が著述した『一遍上人略伝並に和歌』(昭和二年三月三十日発行)を使用し、

(注)小林覚住 略歴

大正十三年三月二三日宝厳寺就任(正住) 昭和五年四月十一日辞任(神戸薬仙寺へ担住)。 (遊行寺「遊行寺僧籍簿」記載)

二、 宝嚴寺の所在―奥谷(奥ノ谷)


{1}道後八景・八勝・十二景


近世以降各地で「名所八勝」とか「十二名勝」とか観光の見所が特定されてくる。温泉と遍路宿を持つだけに道後にもこの類のものは多い。残念ながら今日残滓すら訪ねることは不可能な場所や雰囲気が殆どである。
道後の背後の山峡は少なく語呂合わせの感が強い。尚、地名や名称については、元道後町長・成川房幸編纂『道後温泉誌』(1926)、二神将著『二神鷺泉と道後湯之町』(2003)を参照した。
「奥谷」は、道後の名所(八景・八勝・十二景)のすべてにリストアップされている。

◇道後八景
@義安寺蛍 A奥谷黄鳥 B円満寺蛙 C冠山杜鵑 D御手洗水鷄 E湯元蜻蛉 F古濠水禽 G宇佐田雁

◇道後八勝
@温泉楼月 A霊之石陽炎 B振鷺園雪 C円満寺蛙 D奥谷鶯 E鴉渓納涼 E冠山郭公 G放生池蓮

◇道後十二景
@六帝行宮 A二神遺址 B玉石霊趾 C湯築旧跡 D鷺谷神井 E湯岡古碑 F鴉谷聴泉 G亀城観月 H荒濠叢竹 I古寺老桜 J山塘夜帰 K拓川晩釣

◇道後十六谷

@法雲寺谷 A柿之木谷 B立石谷 C本谷 D湯月谷 E柳谷 F奥谷 G細見谷 H大谷 I桜谷 J石切場谷 K円満寺谷 L大堂谷 M鴉谷 N鷺谷 O義安寺谷

(注)六帝行宮
六帝とは景行・仲哀・舒明・斎明天皇と中大兄皇子(天智天皇)、大海人皇子(天武天皇)

(2)奥谷考

一遍生誕地(寺)との伝承のある豊国山遍照院宝厳寺は道後湯月町が所在地である。
寺伝では斉明天皇勅願、空海入住、のちに天台宗の遍照院となり、一遍の法弟・仙阿が時宗寺院として開創したとする。中世には奥谷派本山又は奥谷道場とも呼ばれた。熊野・本宮大社(念仏賦算神聖地示)、神戸・真光寺(入寂地)と並んで時宗三大寺社とも呼ばれる。時宗奥谷派の名称が示す通り、地元では「奥谷」で通じる場所である。
道後温泉本館から急坂を上がると遊廓跡に出る。元ネオン街を上りきると宝厳寺の山門に至る。境内を突き切ると奥に墓地が広がる。墓地の奥は里山になるが、行き止まりの右手の藪の中に昭和五七年に一遍会の新田兼市氏が私費で制作した「金剛の滝」の碑が建っている。戦前には谷川が流れて風情があったが「砂防ダム」の完成とともに荒廃して訪れる人もいなくなった。
藪をかけ分けて山頂に出ると兎道が残っており、西方は戦前には祝谷から山越(熟田津)に通じていた。東方は一山越せば石手寺に至るので「古代の道」或いは修験道・遍路道であったかも知れない。
「金剛の滝」の謂われは斉明天皇の朝鮮出兵時、行宮を奥谷に定め傍らの飛泉で禊ぎし、洗米の上御神撰として遙か大山祇の大神を拝し戦勝祈願をした。額田王の「熟田津に船乗りせむと月待てば・・・」はこの時の出陣の歌である。
   
 写真 

「金剛の瀧」記念碑とその周辺



碑文 「金剛の滝」由来(原文まま)



斉明7年(661)正月6日、時の女帝斉明天皇は、隣国の百済(朝鮮)を救援のため、水軍の精鋭を難波の海に集結し、中大兄皇子・大海人皇子(後の天智・天武天皇 )を従えて、一路瀬戸の海を西征の船旅に出陳され、その月の14日に、伊予の海にその軍船団の勇姿を現わされました。時に六十八歳の老女帝は、身心ことのほかお疲れ、御不予に渡らせ給うたので、道後のお湯に浴し給うため、急遽、御船を熟田津に泊め、道後奥谷の高台(現宝蕨寺の地 )を行宮と定められ、その側の飛泉を天皇御躬親汲み給いて、米を洗い、これを御神饌として遥か大山祇の大神を拝し、病気平癒と戦勝祈願のみそぎをなし給いました。後世「金剛滝」と呼は承るに至った飛泉こそ、此処道後奥谷の滝のことであります。また、天皇の率いる軍船団がこの地に到着の14日は満月の大潮であり、軍船は大潮に乗って熟田津の砂浜奥深く乗り上げていました。女帝が御病気快方に向かわれても、次の大潮まで船出が出来ず、月待ちの日々を重ねていましたが、やがて潮もよく、いざ出陣の歓びは全軍に満ち満ちました。この遠征に従軍していた万葉の歌人額田王も、この歓喜を
「熟田津に船乗りせむと月待てば 潮もかなひぬ 今は漕ぎ出でな」
熟田津爾船乗 世武登月待者 潮毛可奈比沼 今者許藝乞菜

と此処宝厳寺の地で詠まれたのでした。斉明天皇行幸と、この歌が作られてから今年でちょうど1320年に当たります


三、宝厳寺建立



遊行元祖一遍上人御誕生舊跡たる伊予国道後場之町時宗寶厳寺は、人皇第三十七代斎明天皇の勅願に依り、天智天皇即位四年(六六五年)国司散位乎智宿禰守輿命を奉して伽藍を創建し子院十二坊を置く、曰く法雲、善成、輿安、醫王、光明、東昭、歓喜、林鐘、正傳、来迎、浄福、弘願是なり、今の松ケ枝町は其址なり、本尊は春日作三尊阿弥陀如来なり、

宝厳寺には二つの寺院名が残されている。一つは「豊国山誓願院宝厳寺」であり、他の一つは「豊国山遍照院宝厳寺」である。現在の寺院名は「豊国山遍照院宝厳寺」である。

「豊国山誓願院宝厳寺」建立 天智四年

斉明帝が新羅征討時、のちの天智・天武の両皇子とともに斉明七年(六六一年)筑紫へ下向  中、熟田津の石湯(伊予の湯)に立ち寄る。このとき奥谷を上り「金剛滝」を背に大三島の大山祇神を遥拝、「国豊民安」を誓願された。後に、天智天皇が越智守興(国司散位乎智宿禰守輿)に命じて天智四年(六六五年)宝厳寺を建立させた。山号「豊国山」はこの由緒によるのであろう。
子院十二坊は法雲、善成、輿安、醫王、光明、東昭、歓喜、林鐘、正傳、来迎、浄福、弘願であり、「宝厳寺古図」(伊予史談会蔵)には参道をはさんで、左右六庵が描かれている。
後の遊郭松ケ枝町は其跡で、遊廓は左右十二軒合計二十四軒であった。後に一軒増え二十五軒となった。
本尊は「春日作 三尊阿弥陀如来」であるが、平成二五年(二〇一三)の火災で本堂とともに焼失した。
(注)越智守興(もりおき)
飛鳥時代の伊予の豪族。天智天皇二年(六六三年)白村江の戦いで伊予水軍を率いて出陣した。唐の武将の娘との間に生まれた玉澄が風早郡河野郷に居を構え「河野」を名乗る。

注)「「二十四楼柳の奥の軒行燈  柳原極堂」

四、法相宗から天台宗へ



初め法相宗にして主僧法興律師之に任す、此地道後温泉の東方奥谷と呼び斉明天皇並に天智天武三帝御行在の古跡なり、

法興律師の詳細は不明である。
「薄墨櫻」で著名な天台宗西方寺の縁起では、宝厳寺と同じく法興律師が開基である。寺誌によれば、斉明七年(六六一年)斉明天皇が伊予の国熟田津に御船泊、霊夢を感じ、国司乎智宿弥守興に勅して、法興律師を迎え伽藍を建立し、大樂山東光院西方寺と号した。平安時代は現在地より奥の勝岡山にあり、七堂伽藍を備え二十二の子院を持つ一大精舎であった。
(注)一遍の最初の師は、法相宗智得山継教寺の縁教律師である。一遍は初め隨縁と称したが、のち智真と名乗る。継教寺跡は不明である。

真言宗 弘法

大同元年(八〇六年)弘法大師九州より皈途当山に留錫す

弘法大師の事績と合致しない。弘法大師伝承(伝説)の一つといえよう。大同元年(八〇六年)は、空海は帰国途上又は大宰府「観世音寺」に止住しており、同年、宝厳寺に留錫することはあり得ない。矛盾点を明らかにしておく。

○延暦二二年(八〇三年)
遣唐使「藤原葛野麻呂」、最澄、空海(学僧)ら唐に出立。
(延暦二三年再出)
○延暦二四年(八〇五年) 
遣唐使船帰国。
空海 唐長安「青龍寺」恵果和尚から「遍照金剛」の潅頂名を受く(八月)。
恵果和尚入寂(十二月)
○大同元年(八〇六年) 
遣唐使判官{高階遠成}の帰国船に同乗し帰国(博多津)。(一〇月)
「請来目録」朝廷に提出。(一〇月)
(注)浅山圓祥師は、弘法大師空海が宝厳寺に留錫して十二伽藍を建立したが、その一寺であると記述しているが史料は不詳である。現在活動中の「弘法大師巡錫伊予二十一ヶ所霊場」には宝厳寺は加わっていない。
(注)「衛門三郎伝説」との整合性については、年代的には矛盾しない。衛門三郎伝説は天長年間(八二四〜八三四年)の物語であり、衛門三郎の死去は天長八年(八三一)十月、弘法大師空海の他界は承和二年(八三五)である。

「豊国山遍照院宝厳寺」に改称
 


天長七年(八三〇年)年天台宗に改宗し建治元年(一二七五年)又時宗となる、

法相宗から天台宗に改宗に当たり、天台別院の定額院となり「誓願院」から「遍照院」に改まる。一遍生存中に時宗を称することはあり得ない。(浅山圓祥『一遍と時衆』)

貞観十三年(八七一年)勅許に依り出雲岡及び伊佐爾波二社神殿に於て祈雨の修法をなし、大に霊験あり爾来二社の別當を兼ぬ、

貞観十三年(八七一年)六月、勅許により全国の名社にて「祈雨祭」実施。宮中「神泉苑」 で雨乞いの儀式を執り行う。伊予においても出雲岡(湯神社)、伊佐爾波岡(現湯築城跡 伊佐爾波神社は湯築城築城時御仮屋山に移転)で「祈雨祭」を実施した。
貞観六年  富士山噴火 
貞観十年  播磨国地震
貞観十三年 旱魃
貞観十四年 咳逆病(インフルエンザ)
貞観十六年 開聞岳噴火

五、藤原純友の乱と寺領拡大


天慶三年(九四〇年)又勅命あり逆徒降伏の祈願をなし、主僧定照丹誠を抽んで奏功の後国守散位好方より橘郷饒田の里を寺領に賜る

天慶三年(九四〇年)勅命により逆徒降伏の祈願をするが、伊予で起こった「藤原純友の乱」である。国守散位好方は純友を備前児島で誅している。「橘郷饒田の里」の橘郷を「立花」とすると「饒田の里」は、石手川南の現・立花周辺の豊穣の田(饒田)を指すのだろう。

六、古代から中世へ、そして一遍誕生

 貴族社会から武家社会に移行する中、伊予では中予は河野氏、南予は西園寺氏、東予は讃岐の細川氏の影響を受ける。これより「中世(鎌倉時代)」に入るが、関連記述を記載しておく。

河野(得能)通俊の宝厳寺再建


建暦三年(一二一二年年)當山十一世真恵和尚京都鞍馬山より毘沙門天の御像を勧請す、国守伊豫之介通俊厄除のため友月台に其堂宇を建立す

(注)国守伊豫之介通俊  得能通俊は河野通信の(長)子。一遍の伯父に当たる。「得能」の祖で承久の乱で戦死。その子通秀は北条方。曾孫が「通綱」で宝厳寺に寄進(石碑 大位牌など)。「友月台」は現在の本堂奥の墓地と推定される。中世の項で説明の予定。

伊予国主西園寺實氏の寄進



嘉禎三年(一二三七年)前相国西園寺實氏下向の砌當山に入り如意輪観世音を信仰して霊験を蒙り厚く之を供養せり、

(注)西園寺實氏(一一九四〜一二六九年)従一位 太時宗政大臣 嘉禎元年(一二三五年)当時 右大臣 嘉禎二年四月から寛文二年(一二四四年)まで職を辞しており(政争・鎌倉幕府?)、難を避け、伊予国宇和庄(西園寺領)に「下向」したか。西園寺氏が在地領主化し松葉城を築城し宇和盆地を支配するのは永和二年(一三七六年)以降である。『宇和旧記』

一遍房智真誕生



延應元年(一二三九年)河野通廣の二男松壽丸當山別院に於て誕生す、之を時宗の開祖一遍上人とす、

七、おわりに

 「宝厳寺小史 古代」を一応閉じるが、古代の寺院に関しては、資料が殆どない。
「延喜式」に三社(湯神社・出雲社・伊佐爾波神社)があり、祭神は@大国主命(大己貴命)・少名彦名命A櫛名田比売 大己貴命の母B応神・仲哀天皇、神功皇后、宗像三女神で、出雲朝と大和朝廷の影響が混在している。宝厳寺は「伊予の湯」に近接する寺として、古代においては「迎賓館」的役割を果たしたと考えられる。
会員各位からの多くの知識や情報を期待し、より鮮明な古代の「宝厳寺」像をイメージしたい。