第七十三章 「伊予三好会」 論文集
目 次
第一論文 伊予の三好姓と「三好長門守秀吉」 
第一論文 伊予の三好姓と「三好長門守秀吉」 平成31年2月1日(三好長慶の会15周年記念誌 寄稿)
 三好長慶会二十周年記念誌の発刊を心からお慶び申し上げます。

 平成二四年(2012)四月十五日第一回伊予三好会が「ホテル奥道後」で開催された。発起人は大阪在住で松山市出身の三好晶子さんご一家であった。当日は、阿波・三好家分家当主である三好輝政ご夫妻、「三好長慶会」出水康生会長以下三名、「堺ちくちく会」崎田公明幹事、「讃岐・伊吹島三好会」三好兼光代表ら、全国ネットから多数参加された。衷心より御礼申し上げます。
 出水氏から「三好長慶会の歴史と展望」、筆者が「伊予三好氏の来歴」を説明後、三好長門守秀吉一子秀勝が大蛇を討ち取った伝承のある湧ヶ淵まで散策し「竜姫宮」(蛇骨奉納)を参拝、昼食をとりながら懇談した。
あれから九年が経過したが、全国各地の三好会のご活躍に比して当地の三好会の活動は遅遅として進まず慙愧に耐えない。この機会に、中・近世の伊予(愛媛県)の三好氏の動向についてご報告させていただくことにしたい。

伊予の三好姓

 伊予の「みよし」姓の初出は宇和郡吉田八幡宮の徳治二年(1307)九月寄進状の「右馬助三善朝臣散位」である。宇和領は西園寺氏の所領であるが、三善氏は京から鎌倉幕府に招聘され幕府問注所の初代執事となった三善康信(1140〜1221)の係累と推定される。

 三好姓が顕著にみられる西日本は@愛媛A香川B徳島C山口D岡山E広島の順で、都道府県順位では@愛媛約一〇八〇〇人 A香川約七六〇〇人 B大阪約七六〇〇人 C兵庫約四一〇〇人 D広島約三八〇〇人E北海道約三八〇〇人F福岡約三二〇〇人G東京約三二〇〇人H山口三一〇〇人I神奈川約二五〇〇人で愛媛県がダントツである。愛媛県下で見ると@中予(松山市)約三四〇〇人 A南予(西予市)約三一〇〇人 B東予(四国中央市)約一二〇〇人で、周辺では香川(高松市 観音寺市 綾川町)約四三〇〇人、瀬戸内中国(広島福山市 岡山市)約二一〇〇人である。(『日本姓氏語源辞典』)

 愛媛県は、通常、東予・中予・南予に大別されるが、燧灘に面した東予は阿波・讃岐の三好氏の一統である可能性が高く、宇和海に面した南予の三好姓は宇和領を支配した西園寺家の家臣「三善」系である可能性が高い。一方、伊予灘に面した中予の三好姓は「源姓三好系図」(東京大学史料編纂所蔵)では阿波三好氏に繋がり、三好長門守秀吉は三好長慶の孫(?)に当たるとするが甚だ疑問が多い(後述)。

東予の三好姓

 東予の三好姓については阿波、讃岐の三好氏の研究で触れている可能性はあろうが管見では不詳である。
東予の内、讃岐・阿波に接する宇摩郡・新居郡以外は基本的には河野氏が守護職を掌握していたが、宇摩・新居郡は阿波三好氏の権勢が及んでいた。新居郷地頭の金子氏もその支配下にあったが、土佐の長宗我部氏の台頭とともに金子元宅は長宗我部元親と同盟を結び、豊臣政権の四国征服では徹底抗戦し自決する。東予と中予の三好姓との関連を確認することが出来ない。
江戸期に入って松山藩の道後温泉の管理は「明王院金子家」が担当している。新居の金子家の末裔とされる。(松山市『道後温泉』(1974))

南予の三好姓

 永和二年(1376)宇和庄(現・西予市)に下向し山田御所に在館した西園寺公良の子孫が土着して在地領主化して松葉城を築城(現・西予市宇和町)し宇和盆地を支配する。『宇和旧記』では松葉城主は西園寺藤原氏公広である。
『山田薬師縁起』には、(三善ヵ)左中丞光義が失明した息子の回復を医王に祈願し回復したので、宝殿を建立し延久二庚戌年(1070)薬師如来を遷し奉ったとある。末裔である在地土豪で開発領主であった熊崎備中守(三善)宗春が西園寺氏の下向を受けて山田御所を整備し迎え入れ、次男春範が西園寺実充の娘を娶り大永四年(1524)峯城を築城したと伝えられている。
 
 南予の三好姓を俯瞰する研究は管見では不詳であるが、山田部落の東南隅に通称「指のタネ」なる地区があり、三好本家を中心に三好一族が近年まで住んでいた。三好本家現当主は二四代目で代々「甚」を用いている。家紋は「丸に十」、菩提寺は西山田の「地蔵寺」で城川の「龍澤寺」(曹洞宗)の末寺である。龍澤寺は薩摩島津氏の庇護を受ける南予の最有力寺院である。『宇和旧記』では「山田村の内、峯の城、此城主三善左衛門佐春範と云ふ。大森、大先森、成城、松の城、城楽、是は枝城なり。」とあり、西園寺氏の有力武将として、西園寺氏の居城である松葉城(のちに黒瀬城に移動)の周辺の山城を固めた。(『開明』第二・三号滝上舜二「宇和の城跡探訪」(宇和文化保存会)、三好健二『山田ユイノ谷・成城城主三好本家考」(2012) 

戦国期、宇和領主西園寺公廣が大津(大洲)の戸田勝隆により謀殺され、配下の諸領主も下城となり、後難を恐れて三善から三好に改称した。南予の三好氏の現存する系図の多くは三善氏の系図から始まっている。

 中予の三好氏 ―三好長門守を軸に―
 温泉郡(現松山市)の三好姓旧庄屋(七家)の系図は、三好長門守から始まる。三好長門守秀吉は阿波三好氏の係累(三好長慶孫)とされるが史料的には確認できない。しかし三好長門守は、河野氏の家臣団の有力な武将として伊予の中世・近世史に登場する歴史上の人物である。具体的に史資料を挙げる。

@ 興国四年(1343)河野惣領家(北朝方)に対する庶家(予州家)による包囲作戦の南朝方からの加勢依頼状である。左中将は四条有資公を指し、南朝方の公家で伊予国司・左中将。同一文が忽那下野法眼館(忽那義範)にも出されている。三吉卿法眼館(三好氏)は、忽那氏と並ぶ有力な在地領主であったと推察される。名越城は松山市川内町河之内に在り、同地区に大熊城(大熊山)もあるが場所は未確認である。尚、阿波三好家は南朝方であったことを付言しておきたい。
「為予州名越城後楯、令発向、津々浦々可致合戦思食之状如件
  十一月八日 左中将(花押)  三吉卿法眼館」

A 河野通直(牛福丸)から三善長門守への「神途城」書状(天正十一年1583)
十二台城とも云い神途山(松山市北条)にあるが遺構は残っていない。文中の蔵人助は長門守の一子。
「先度至神途相勤、敵数人討取之由、心懸之段無比類候・・・・
先日於此表蔵人助手負候、如何候哉、涯分養生肝要候、事々
  七月九日  河野通直(花押)  三吉長門守殿」

B 高野山上蔵院蔵「河野氏御過去帳」 高野山には河野家一統の墓苑があり、
上蔵院が河野家を中心にした伊予を取り仕切った。
「『妙印禅定尼』霊位 豫州三吉長門守殿建立之 
天正十七巳丑年(1589)四月廿六日」

 南北朝期に湯築城城主河野氏に反旗を翻した三好(三吉)氏が存在し、後裔である三好長門守秀吉が天正年間に河野通直の配下として活躍したことは確認できる。その後秀吉の四国征伐で小早川軍に敗北した通直に従い安芸の竹原に移住したことは多くの「河野家譜」に書き残されている。
阿波三好氏との関連を示す文書も残存するが正鵠は期しがたい。

@「天正年中、三好長門守秀好(秀吉ヵ)というもの。阿波国三好長慶一族と縁を組。其党を此国に引入れ。武威を奮はんとせしか。思ふに任せすして大敗す。長門守は道後奥城主得能備後守通友の大老七人衆の一人なり。」(『伊予漫遊記』)

A「長門守秀吉あり。三好修理太夫長慶の孫にて。代々阿州居住の所。長曽我部元親に打負け。予州へ流浪し、河野通直に仕へ恩地として湯山千二百六十石を領す。」(『予陽郷俚諺集』)

B「三好・久米一族が同族であり・・・故地が伊予国喜多郡の久米荘だとすると・・・この三好氏(三好長門守)の系譜は不明であるが、おそらく阿波三好氏と早くに分かれた同族だったのではなかろうか。」(宝賀寿男『三好長慶の先祖』 ウエッブ)

「源姓三好系図」によれば

三好長慶―義継(左京太夫)――之勝(下野守→若狭守)―秀吉(長門守・為勝)―春勝(四郎右衛門尉)―定慶〈重右衛門尉〉―定勝〈九郎右衛門右衛門尉〉―秀重(九郎右衛門)と続き、江戸時代の温泉郡大庄屋、道後村初代庄屋「三好九郎右衛門秀重」から十二代で筆者に至る。定勝以前の墓地は長門守の居城「菊ヶ森城」の麓(食場)にあり「三好氏祖霊碑」がある。尚、長門守の墓と位牌(「文徳院殿故長門守円一慈尊大居士」)は、菊ヶ森より更に奥の「永徳山河野院円福寺」に現存する。「

三好氏祖霊碑」は以下である。
 「食場三好氏ハ小笠原信濃守義長ニ於イテ出ズ。姓ハ源氏阿波三好荘ヲ食ム。同氏焉ンデ後裔長門守秀吉(為勝)ハ伊豫河野通直(牛福丸)ニ仕へ湯山地壱千弐百六拾石ヲ食ム。菊森城ニ居シ東郡神途城ヲ援ケテ功有リ。石手地五百石ノ加賜アリ。又新居ノ凶徒ヲ夷シ功状賜フ。其子蔵人助秀勝ハ驍勇絶倫ニテ神途新居之役輿ニ有力ナリ焉。天正中ニ父子河野氏ニ従ヒ安芸ニ奔ス。既ニ而テ秀吉卒シ秀勝伊豫ニ帰リ事ニ遊ブ于。□氏大洲地三百五十石ヲ食ム。後、食場湧淵ニ隠ス。大蛇有リ秀勝銃ニテ之ヲ斃ス」(近藤元脩撰 巌谷修書)

 尚、松山藩温泉郡三八ヶ村の庄屋の内三好姓の庄屋は七家(四三三七石)あり、温泉郡石高(二一七九五石)の一九・九%、松山藩石高約十五万石の約二・八%を占める。長門守の所領を核に四〇〇年以上も地所を守り続けたことになる。(『松山領里正鑑』明治三七年1904)

「伊予三好会」としては伊予の東・中・南の三予の三好氏の地域研究を深化させ、更に阿波の三好氏とのつながりを検討していくことが急務である。そのためには、全国各地の伊予に縁のある「みよし(三好・三吉・三善)」さんがネットで結びついて先祖の情報や先祖への想いを文字化していきたいものである。

「三好長慶会」の悲願であるNHK大河ドラマ「三好長慶」が具体化した暁には、土佐の長宗我部元親、伊予の河野通直と並んで「三好長門守」が登場するシーンを平成最後の年の初夢としたい。