第八十五章 戦争と安穏 〜日蓮の「予言」と一遍の「遊行」〜 修羅・餓鬼・畜生の現世には必要悪か <作業中> |
一、 はじめに |
@戦争と安穏 〜日蓮の「予言」と一遍の「遊行」〜 書き込み:9/15(木)18:02:15
[レス] [削除] 一遍会9月度例会 卓話 <20220910> @戦争と安穏 〜日蓮の「予言」と一遍の「遊行」〜 修羅・餓鬼・畜生の現世には必要悪か Aウクライナをめぐって@ ヨーロッパ内の抗争? 第3次世界大戦? 16世紀 英西戦争<イギリス×スペイン> 17世紀 英蘭戦争<イギリス×オランダ> 三十年戦争<ドイツ> 18世紀 フランス革命(1789) 神聖ローマ帝国崩壊(1806) 19世紀 ナポレオン戦争<フランス×欧州> 露土戦争<ロシア×トルコ・英・仏> 赤十字社創設 20世紀 第1次世界大戦<独×欧州・米> オスマン帝国崩壊 国際連盟創設 第2次世界大戦<独・伊・日本×欧州・米> アジア植民地独立 国際連合創設 21世紀 ○戦争は勝者に絶対的勝利はなく、敗者に絶対的負北はない。<歴史の教訓> 〇ロシア? ソヴィエト? ロシア?新・ソヴィエト? 〇米国(一極)+中国 (二極)+ロシア(三極)+EU (四極)+日本(五局?) BウクライナをめぐってA フランシス・フクヤマ 『歴史の終わり』(1992年) 政治制度の最終形態は自由民主主義<資本主義+民主主義>であり、それが広がれば安定した政治体制が作られる。 <20年後> 「プーチンの戦争」・・・ 冷戦後の国際秩序に対する挑戦 @アメリカや他の民主主義国<民主主義と資本主義の自己矛盾> イラク戦争などの外交政策失敗、リーマンショックの金融政策の失敗(格差や不平等の拡大)、ポピュリズム<大衆迎合> A中国・ロシア他の権威主義国<社会主義と資本主義の併存> 自由民主主義国を凌駕 平等尊重 自由(競争)統制 『人新世の「資本論」』斎藤幸平(2020年) ?一遍と日蓮の邂逅(1) 一遍 延応元年(1239年) - 正応2年(1289年)) 生国 伊予 日蓮 承久4年(1222年) - 弘安5年(1282年) 生国 安房 ⇒年齢 17才差 生国 関東と四国 <接点なし> <接点@> 念仏(「南無阿弥陀仏」「南無妙法蓮華経」 ) <接点A> 実母生国 相模国 当麻周辺(無量光寺 瑠璃光寺) <接点B> 当麻(陸・川交通の拠点) 日蓮、佐渡配流時(1271年) ⇒一遍32才 日蓮と出会う可能性(年代 場所)??? D一遍と日蓮の邂逅(2) 〇時宗 薬王山瑠璃光寺(当麻山無量光寺末) 弘長元年(1261) 一遍上人参籠<禰疆捗ち魁愡?,了醜』。? 兄・道真死去。家族抗争、相模(当麻)に避難<『麻山集』> 〇日蓮宗 星梅山妙伝寺 文永8年(1271)日蓮上人が鎌倉から佐渡へ配流される際、当地の本間六郎左衛門尉重連宅内の観音堂に逗留。一遍上人、觀音堂の日蓮上人を訪ねる。而今音信取り合う。<web妙伝寺> 〇『聖絵』文永8年善光寺参詣。<当麻(母生地)に立ち寄る可能性> 〇妙伝寺お会式と当麻山開山忌の往来が1000年に亙り持続す E時宗・瑠璃光寺と日蓮宗・妙伝寺 〇地図 近距離 F時宗・薬王山瑠璃光寺 写真 G日蓮宗・星梅山妙伝寺 写真 H法華 即 名号 @ 【播州法語集】49 法華と名号とは一体なり。法華は色法、名号は心法なり。色心不二なれば、法華即名号なり。 故に観経(観無量寿経)には「若念仏者是人中芬陀利華」と説り。芬陀利華<ふんだりけ>とは蓮華なり。されば、法華を薩達磨芬磨利華<さつだるま・ふんだりけ>と名付けたりといへり。名号と芬陀利華とは一つなり。 I法華 即 名号 A 【播州法語集】79 或人、上人に問ていはく、「諸行も往生すべしや否。又、法華と名号といづれか勝れて候ぞ」と云々。 上人答曰、「諸行も往生せばせよ。せずがせず。又名号の法華におとらば劣れ、まさればまされ。・・・・・ 機に従て益あらば、いづれも勝法なり、本懐なり。 <衆生に対して利益があるなら、『法華経』も名号もすぐれた法であり、釈尊の本意そのものである。(橘・梅谷『一遍上人全集』)> J元寇の役 唐618−907 五代十国907― 960 宋960― 1127 金1115 ― 1234 元 1271ー1368 <モンゴル帝国1206ー 1635> チンギスハン(成吉思汗) 1162?−1227 フビライ(忽必烈)1215―94 孫 南宋・高麗征服 日本に朝貢を強要 文永5年(1268)蒙古から幕府へ国書が届く 執権北条時宗1251ー84拒絶 ◎文永の役(文永11年1274) 対馬・壱岐・博多 ◎弘安の役(弘安4年1281) 高麗軍 約4万 中国軍 約10万 ◇文永・弘安の役ともに暴風雨(神風)襲来で決着 KNHK 歴史探偵「元寇モンゴル帝国の秘密」 世界最強と言われたモンゴル帝国の騎馬隊。しかしその原動力となる馬たちにとって、船旅は初めての経験。 浮かび上がってきたのはモンゴル軍が直面していた予想外の事態!さらに、日本侵攻に使われた船の揺れも検証。モンゴル軍の船には激しい船酔いを引き起こす致命的な欠陥があることがあきらかに! 〇最強の騎馬集団の騎馬を使えず。 一艘4・5頭×600隻=2000〜3000頭 〇神風 神国 加持祈祷 神仏(天皇・貴族+幕府+既存寺社) (13)蒙古襲来図 絵図 (14)元寇の歌 明治25年(1892) 軍歌 四百余州を挙る 十万余騎の敵 国難此処に見る 弘安四年夏の頃 何んぞ怖れん我れに 鎌倉男児在り 正義武断の名 一喝して世に示す 多々良浜辺の戎夷 其は何 蒙古勢 傲慢無礼者 倶ともに天を戴かず いでや進みて忠義に 鍛えし我が腕 此処ぞ国の為 日本刀を試しみん 心筑紫の海に 浪押し分けてゆく 益荒男猛夫の身 仇を討ち帰らずば 死して護国の鬼と 誓いし箱崎の 神ぞ知ろし召す 大和魂潔し 天は怒りて海は 逆巻く大浪に 国に仇をなす 十余万の蒙古勢は 底の藻屑と消えて 残るは唯三人 何時しか雲晴れて 玄界灘 月清し 神国思想 ⇒ 神仏習合 ⇒ 日華思想 ⇒ 大東亜共栄圏 鶴岡八幡宮<放生会・仏事・供養・祈祷> (阿弥陀如来=八幡大菩薩) (15)「関東御成敗式目」51条 宗教的祭祀権 天皇⇒鎌倉殿(武家) 第一条 可修理神社専祭祀事 右濕坩与庸祁ノ・辧⊃夕坩ヘ瀁キ偲艮拭∩蛎ё駑稠刑怎・埣徇涌弌・〆瀁激行鞦a嬲・・・け・霤豸翳・◆講・臼犲圈・脇ャ濕臈n涜限脅顱・鎮ラ蘋震蕁・? 又至有封社者、任代々符、小破之時且加修理、若及大破、言上子細、隨于其左右可有其沙汰矣(現代訳) 第1条 神社を修理し、祭祀を専らにすべき事 右、神は人の敬ひによつて威を増し、人は神の徳によつて運を添ふ。然れば則ち恒例の祭祀は陵夷(りようい=衰退)を致さず、如在(によざい=神を祭る) の礼奠(れいてん=供物)は怠慢せしむるなかれ。これによつて関東御分の国々ならびに庄園に於ては、地頭神主ら各(おのおの)その趣を存し、精誠を致すべ き なり。兼てまた有封(うふ=封戸のある)の社に至つては、代々の符(=太政官符)に任せ、小破の時は且(かつがつ)修理を加へ、もし大破に及び子細を言上 せば、その左右(さう=状況)に随てその沙汰(=指示)あるべし。 (16)元寇の役への対応 武力 承久の変(1221) 武家の時代 鎌倉武士の西国配置 (元)×騎馬兵団 高麗軍+明軍 加持祈祷 「顕密体制」 体制派宗教(公家 武家) 反体制宗教(鎌倉新仏教 日蓮) 超体制宗教(一遍) 天の時 台風 武士政権 地の利 海国 高速道(東北道〜東海道〜中国道〜西海道) 人の和 (17) 国難と神祇と法華経と日蓮 国難発生の原因 善神捨国 〇「善神は国を捨てて相去り、聖人は所を辞して還らず。 是を以て、魔来り鬼来りて、災起こり難来る」(「立正安国論」) 〇「天照太神、正八幡、山王等諸の守護の諸大善神も法味をなめざ るか。国中を去り給ふかの故に、悪鬼便を得て国すでに敗れなんとす。」(「開目抄」) 〇「教主釈尊の日蓮がかたうど<仲間>をしてつみ(罪)しらせ給にや。よもさる<去る>ならば天照太神、正八幡等は此国のかたうど<仲間>にはなり給はじ、日蓮坊のかたきなり。」(「現世無間御書」) (18)北条義時と日蓮 相伝の所従に責随られて主上、上皇共に夷島に放れ給・・・・・所詮(一条)実経の所領を奪取て権経ナル真言の知行となせし上、日本国の万民等、禅宗、念仏宗の悪法を用し故に、天下第一先代未聞の下剋上出来せり。 而に相州は謗法の人ならぬ上、文武きはめ尽せし人(北条義時)なれば、天許し国主となす。(「下山御消息」) 北条義時 鎌倉第2代執権(1162年〜1204年<執権>〜1224) 日蓮(1222〜1289) (19)「顕密体制」 と 鎌倉新仏教 顕密体制 正統 <旧仏教(天台密教) > 異端 <新仏教(鎌倉仏教)> 黒田俊雄『日本中世の国家と宗教』岩波(1975)大阪大学名誉教授 1)公家的体制宗教(顕密主義)・・・・・神祇信仰(加持祈祷) 受容 貞慶・明恵・慈円・陰陽師 2)武家的体制宗教(禅密主義)・・・・・神祇信仰(加持祈祷) 受容 栄西・忍性・陰陽師・幕府祈祷師 3)反体制宗教(専修主義) ・・・・・・神祇信仰 排斥 法然・親鸞・道元・日蓮 4)超体制宗教(雑修主義) ・・・・・・神祇信仰 寛容(超越?) 西行・重源・一遍 (20)日蓮の他宗派批判 四箇格言(しかかくげん)は、鎌倉時代の僧侶で日蓮宗などの宗祖である日蓮が他の仏教宗派を批判した言葉である。 真言亡国(しんごんぼうこく)、 禅天魔(ぜんてんま)、 念仏無間(ねんぶつむげん)、 律国賊(りつこくぞく)の4つを言う。 『諌暁八幡抄』、『御義口伝上』等の御書かれている。 (21)日蓮「一谷入道御書」 元寇の実情 建治元年五月八日付のいわゆる「一谷入道御書」に、日蓮が接した当時の伝聞が伝えられている[93]。 (前略)去文永十一年(太歳甲戌)十月ニ、蒙古国ヨリ筑紫ニ寄セテ有シニ、対馬ノ者カタメテ有シ、総馬尉(そうまじょう)等逃ケレハ、百姓等ハ男ヲハ或八殺シ、或ハ生取(いけどり)ニシ、女ヲハ或ハ取集(とりあつめ)テ、手ヲトヲシテ船ニ結付(むすびつけ)或ハ生取ニス、一人モ助カル者ナシ、壱岐ニヨセテモ又如是(またかくのごとし) 。これによると蒙古軍は上陸後、宗資国(総馬尉)以下の守護勢を撃退し、島内の民衆を殺戮、あるいは生捕りにしたりしたうえ、さらには捕虜としたこれらの住民の「手ヲトヲシテ」つまり手の平に穴を穿ち、紐か縄などによってか不明だがこれを貫き通して船壁に並べ立てた、という話を伝えている。 (22)一遍と元寇@ 文永の役(1274) 弘安の役(1281) 『一遍聖絵』『一遍語録』 記載なし 〇筑前国 武士の館(建治二年1276) 大隅国 大隅正八幡宮 「とことはに南無阿弥陀仏ととなふれば なもあみだぶつにむまれこそすれ」 〇豊後国 大友兵庫泰帰依 他阿真教同行(建治三年1277) (23)筑前国 武士の館 (建武二年1276) 絵巻物 (24)一遍と元寇A 文永の役(1274) 弘安の役(1281) 1274 伊予旅立ち(超一、超二同行) 四天王寺、高野山、熊野参詣 1275 京都・西海道(九州)経由伊予に戻り念仏勧進 1276 筑前国 武士の館 大隅国 大隅正八幡宮 〜1277 豊後国 大友兵庫頼泰帰依 他阿真教同行 ( 文永の役の負傷の武士の鉄輪温泉治療?の伝承) 厳島 備前国福岡の市 京都 信州伴野・小田切里・大井太郎屋敷(踊念仏) 善光寺 白河関 江刺 松島 平泉 常陸 武蔵国 1281 相模国当麻(無量光寺創設) 1282 鎌倉入り 片瀬の地蔵堂 伊豆国三島神社 (25)一遍と元寇B 文永の役(1274) 弘安の役(1281) 第四・2段 困苦をきわめた九州の旅<1276〜> 九州を修行された間はとくに人の供養もほとんどなかった。春の霞がたなびく日、食物がなくなれば浄土往生を念じて永い一日を暮らし、夕べの雲が立ちこめる頃、衣もなくなれば斬鬼の思いを重ねて寒い夜を明かす有様であった。・・・・・行き会ったある僧が七条の袈裟の破れたのを差し上げたのを腰の巻いて、ただ縁にしたがい足の向くままに念仏を勧め歩かれた。賦算?(お札は貰うが布施なし<極度の経済の疲弊>) ・第四・3段 御家人・大友頼泰の友好と打算<〜1278> 四国へお渡りになろうとされた時、豊後国守護「大友兵庫頭頼泰」が帰依し、衣などを献上した。しばらく逗留し仏法のお話をされた時、他阿弥陀仏(真教)がはじめて同行相親の約束を申しあげた。鉄輪? (26)日蓮と元寇@ 文永の役(1274) 弘安の役(1281) 1260年(文応元年)7月『立正安国論』を著わし、前執権で幕府最高実力者の北条時頼に送る]。40日後、他宗の僧らにより松葉ヶ谷の草庵が襲撃されるも難を逃れる。(松葉ヶ谷法難) 1261年(弘長元年)5月、伊豆国伊東へ配流(伊豆法難)。 1264年(文永元年)11月、安房国小松原で東条景信に襲われ左腕と額を負傷、門下の工藤吉隆と鏡忍房を失う。(小松原法難) 1268年(文永5年)蒙古から幕府へ国書が届き、他国からの侵略の危機が現実となる。日蓮は執権北条時宗、平頼綱、建長寺蘭渓道隆、極楽寺良観などに書状を送り、他宗派との公場対決を迫る。 (27)鎌倉・龍ノ口の法難 絵巻物 (28)日蓮と元寇 A 文永の役(1274) 弘安の役(1281) 1271年(文永8年) 10月 佐渡へ流罪。流罪中の3年間に『開目抄』、『観心本尊抄』などを著述。また法華曼荼羅を完成させた。 1274年(文永11年)春に赦免、幕府評定所で頼綱から蒙古来襲の予見を聞かれるが、日蓮は「よも今年はすごし候はじ」(「撰時抄」)と答え、同時に法華経を立てよという幕府に対する3度目の諌暁をおこなう。 1274年(文永11年)、蒙古襲来(文永の役)。<予言から5か月後>。 1281年(弘安4年)蒙古軍再襲来(弘安の役)。 1282年(弘安5年)10月13日、池上宗仲邸(池上本門寺)にて入滅。 死を前に弟子の日昭、日朗、日興、日向、日頂、日持を後継者と定める (29)日蓮と元寇 B 文永の役(1274) 弘安の役(1281) ・@ 日蓮は、一閻浮提(いちえんぶだい 人間世界)第一の聖人なり。上一人より下万民にいたるまで、これを軽毀して刀杖を加へ、流罪に処するが故に、梵(天)と釈(迦)と日月四天(王)と隣国(の聖人)に仰せ付けて、これを逼責するなり。【上人知三世事】 A蒙古国の日本にみだれ入る時はこれへ(身延)の御わたりあるべし。【こう入道殿御返事】 自界叛逆罪、他方侵迫難すでにあい候了。これを以てをもうに、多く他方の怨賊ありて国内を侵掠し、人民諸の苦悩を受け、土地に所楽の処あることなからんと申す経文(金光明経)合ひぬと覚え候。【曽谷入道殿御書】 禅密主義尊重、正法「法華経」誹謗の結果⇒日蓮・法華経の正当性 (30)近未来の「戦争」と「安穏」 〇人間の力で抑止できない究極の兵器 nuclear weapon 核兵器(原子→水素→中性子爆発) 〇人間の力で操作できない行動 AI 人工知能(artificial intelligence) 〇人間が制御できない情報 SNS.Facebook ・Twitter・Instagram・YouTube ・LINE ∞∞ fake news 情報操作<哲学の喪失> (31)一遍 平和愛好者 大橋俊雄「一遍聖を憶う」 「日本の名僧11 遊行の捨聖 一遍」 聖は人を傷つけるような戦いによどみ、また戦いにまきこまれることを極力さけ、平和を一途に願った平和愛好者だったのであろうか。 ・・・・・・・・・・ いつ元が攻めてくるかもしれないと人たちが不安にいらだっていたとき、踊り念仏を修したのも念仏をとおし心のよりどころをあたえ、不安を少しでもとり除いてやりたいという心があったからであろう。 (32)国破れて私がある 詩人 溝口章(一遍会 初期会員) 元寇と云われるあの時に、一人の聖がそれとまったく無関係なように日本の国を歩いていた。何人かの信ずるものたちと一緒に遊行の旅を続けていた。それに私は実に驚いたんです。つまり私たちはあの時に日本国民として一億一心でしかありえなかった。あの国難の時代にもっと別な価値観を求めて歩いている一人の僧がいた。 昭和二十年八月十五日に「国破れて山河あり」という言葉をそれぞれの思いで呟いたと思うんです。もう一つは、私の中にあったのは、「国破れて私がある」という気持ちですね。山河よりも私じゃないか、と。 「私が生き残った」ということ、「私が生きている」ということがとても印象が深い。それは一遍とどっかで重なるかも知れないと、そう思いながら一遍を追い続けて |