第七十五章  正岡子規と伊予の文化  東雲女子大学第一〇講座 「子規が歩いた松山 その二」
一、 はじめに
はじめに

正岡 常規(まさおか つねのり) 
慶応三年(1867年10月14日) 松山市藤原新町出生
明治三五年(1902年 9月19日) 東京市下谷区上根岸82番地(通称「子規庵」)逝去
父 正岡隼太常尚 (松山藩馬廻加番)
母 大原八重(父 観山 松山藩儒学者)
妹 律(明治三年1870年出生)

「幸運な時代の青年」 中世(近世)から近代移行期に生を享けた「存在」
「生きている死者」  自らは語れないが、問いかけには答えてくれる「存在」


(注)司馬遼太郎 『坂の上の雲」

(注)論語「為政編」
 吾十有五而志 学、三十而立、四十而不惑、五十而知天命、六十而耳順、七十而従心所欲、不踰矩


(注)明治・大正の男子平均年齢  42〜43歳
 「人間五十年 下天の内をくらぶれば 夢幻の如くなり」

   
樋口一葉  24歳 石川啄木 26歳 正岡子規 34歳 尾崎紅葉 35歳 国木田独歩 36歳 長塚節 36歳 宮沢賢治 37歳 芥川龍之介 37歳

「日本国の自立  近世から近代へ」

『独立自尊』(福沢諭吉)「一身独立して一国独立す」・・・「福沢諭吉/大野?吉」(子規「東京松山比較表」)
明治元年(1868)   江戸を東京に改元(9月3日)
           明治に改元(10月23日)→ 東京遷都(明治二年)(首都の確定)
 明治 八年(1875) 千島領有(「樺太・千島交換条約」)
明治一〇年(1877)  西南の役(武士社会の崩壊)
明治一二年(1879)  琉球藩廃止沖縄県設置(日本領土の確定)
明治一九年(1886)  帝国大学令交付(教育体系確立)
明治二二年(1889)  大日本帝国憲法・皇室典範施行(立憲君主制国家)
明治二三年(1890)  帝国議会発足 教育勅語発布(議会制・自由民権国家)

「大日本帝国確立  欧米列強に並ぶ」
明治二七年(1894)  日清戦争勃発(〜28年)
明治二八年 (1895) 台湾 清国から割譲(「下関条約」)
明治三七年(1904)  日露戦争勃発(〜38年)
明治三八年(1905)  南樺太 ロシア国から割譲(「ポーツマス条約」)
明治四三年 (1910) 朝鮮併合 満州国日ソ分割

(注)大正ロマン、昭和モダン・・・・竹久夢二 高畑華宵       ポストモダン


「現代」
 昭和二〇年(1945年) 第二次世界大戦(大東亜戦争)敗北 
 昭和二二年(1947年) 日本国憲法施行(象徴天皇(君主)制民主主義国家) 
 昭和二六年(1951年) サンフランシスコ講和条約・日米安全保障条約締結(アメリカの傘の下で軍備放棄)
平成 元年(1989年)
 令和 元年(2019年)

「もの知り」・・・WHAT (これ な〜に)
「もの識り」・・・5W2H(どうして)・・・「チコちゃんに叱られる!」


【設問@】5W2Hとは? (すべては疑いに足る) 子規は「帝国大学」の「哲学」からスタートした。
一、柳原極堂(碌堂)と道後村(石手寺を含む)を歩く (明治二八年九月二〇日)

〇子規「散策集」(平岡講師説明) @石手 A城北 B城南 C湯之町 D今出

【設問A】「散歩(walk)」と「散策(stroll)」の違いは?
     「巡礼」(西国三三ヵ所霊場)と「遍路」(四国八八ヵ所霊場)の違いは?
   (注)「哲学の道」 逍遥 漫歩 遊歩 吟行 遊行  「策」に「杖」の意あり。
      「俳句(碑)の道」

〇柳原極堂(碌堂)


○砂土手 諸説あり 外堀説 運河説 水害防止(城下内) 櫨(ハゼ)・蕎麦(ソバ) 砂+土手
  「砂土手や山をかざして櫨紅葉    子規」
  「砂土手や西日を受けて蕎麦の花   子規」

○糸瓜畑
 白粉から化粧水(ヘチマ水・へちまコロン)
  「五六反叔父がつくりし糸瓜哉    子規」

○石手川(旧名 湯山川・宝川)
  「鮎寄せの堰音涼し宝川」      黙禅」

(注)百姓(おおみたから) 御宝町

○櫨の道(菜種油・荏胡麻脂・胡麻油 → ( 櫨ろうそく )
(注)内子「大森和蝋燭屋」)
  「馬の沓換ふるや櫨の紅葉散る    子規」

○石手寺(熊野山石手寺 天台密教から真言密教へ「四国霊場八十八カ所第五十一番札所」)
  (注)天台系寺:定額寺・圓福寺・石手寺(地蔵院)・西法寺(薄墨桜)・常信寺(松平(久松)藩主菩提寺)
     「南無大師石手の寺よ稲の花     子規」【句碑】
     「裏口や出入りにさはる稲の花    子規」
     「身の上や御籤を引けば秋の風    子規」【句碑】 
  (注)御御籤 御神籤 御仏籤 
  (注)塔頭 60以上( 修験者 聖(高野・熊野聖) 遍路 ほか 温泉入浴日(0と5の日) 
  (注)曹洞宗(河野家) 
     義安寺「山門に 蛍逃げこむ しまり哉   子規」【句碑】(義安寺蛍=源氏蛍)
     市隠軒
     西禅寺「鶏頭の丈(セ)を揃えたる土塀哉  子規」【句碑】
     龍穏寺「嘘のよな十六日桜咲きにけり   子規」【句碑】 (ラフカデイオ ハーン『怪談』)

○避病院
(コロリ)
      「稲の香に人居らずなりぬ避病院    子規」
  (注)子規、幼少時に「擬似コレラ」に罹る

○湯築城跡
(御竹藪の堀) 江戸期は松山藩直轄 地震対策(温泉停止)で竹薮(社寺・庄屋)拡張
      「古濠や腐った水に柳ちる      子規」
      「足なへの 病いゆとふ 伊豫の湯に 飛びても行かな 鷺にあらませば    子規」【句碑】

○持田  (農村地帯 砂土手 伊予(蜜)柑 二十世紀梨  明治三十年以降普及  「西条柿」主流)
      「鶏頭の丈(セ)を揃えたる土塀哉    子規」【句碑】(再掲)西禅寺・庄屋屋敷
二、夏目漱石と道後湯之町を歩く(明治二八年一〇月六日)

〇夏目漱石(金之助)
◎道後八勝十六谷(奥谷・柿木谷・桜谷・鷺谷・烏谷(烏渓)・祝谷・・・)
(注)湯山、伊台(湯台)、祝谷(湯湧谷)・・・・・・湯桁(井桁)

○道後八景 
 @義安寺蛍 A奥谷黄鳥 B円満寺蛙 C冠山杜鵑 D御手洗水鷄 E湯元蜻蛉 F古濠水禽 G宇佐田雁

○道後八勝 

@温泉楼月 A霊之石陽炎 B振鷺園雪 C円満寺蛙 D奥谷鶯 E鴉渓納涼 F冠山郭公 G放生池蓮 

○道後十二景  

@六帝行宮 A二神遺址 B玉石霊趾 C湯築旧跡 D鷺谷神井 E湯岡古碑 F鴉谷聴泉 G亀城観
H荒濠叢竹  I古寺老桜 J山塘夜帰 K拓川晩釣 

○道後十六谷 
 @法雲寺谷 A柿之木谷 B立石谷 C本谷 D湯月谷 E柳谷 F奥谷 G細見谷 H大谷 
I桜谷 J石切場谷 K円満寺谷 L大堂谷 M鴉谷 N鷺谷 O義安寺谷    

【設問B】明治期の「道後の名所名物」の中に魅力あるスポットがあるか。(複数可)

○道後温泉(明治二十七年四月竣工) 道後鉄道 明治二十八年八月運転開始
「稲の穂に温泉の町低し二百軒   子規」
「地震して温泉涸れし町の夜寒哉  子規」(明治三一年)
(注)湯祈祷(旧暦二月二二日 宝永四年(1704)一〇月 大地震→温泉停止 同五年二月湧出)
(注)椿の湯 男湯「十年の汗を道後の温泉に洗へ」 女湯「巡礼の杓に汲みたる椿かな」

○柿木谷

「柿の木にとりまかれたるたる温泉哉    子規」→「温泉の町をとりまく柿の小山哉」(修正)

○鷺谷(黄檗宗大禅寺)
「山本やうしろ上がりに蕎麦の花    子規」
「黄檗の山門深き芭蕉哉     子規」
→鳥越山鷺谷寺(後の大禅寺)  温泉寺(元々の湯神社)?

○烏谷(烏渓)紅葉谷とも 「花月亭」    宮島黄葉谷
「柿の木や宮司か宿の門がまへ    子規」→「柿の木や宮司か宿の門構」(修正)  宮司 烏谷家
◎道後の社寺時宗 宝厳寺、浄土宗 円満寺 延喜式神社(伊佐弥波神社・湯神社・出雲崗神社)
○黄檗宗大禅寺 「黄檗の山門深き芭蕉哉」(再)

○宝厳寺(時宗開祖一遍智真生誕地 (遊行 賦算「南無阿弥陀仏札」踊念仏」 阿弥陀仏十二光 塔頭十二院))
「古塚や恋のさめたる柳散る    子規」  (「一遍上人御生誕地」碑)
「色里や十歩はなれて秋の風    子規」  (色里 妓廊 松枝町) 【句碑】 

○松ヶ枝遊郭

「二十四楼柳の奥の軒行燈    極堂」(松ヶ枝遊廊 塔頭十二院の二分割)

○湯神社(二神社 祭神 大国主命(大己貴命おおなぬし)・少名彦名命) 温泉神社?   鷺谷寺の前 流失  

○出雲崗神社(祭神 奇稲田姫命(クシナタヒメ 櫛名田比売)=素戔鳴命妃=大己貴命の母)

〇「鷺石」  放生園(からくり時計)

「玉の石」 温泉本館傍ら (「真暫寝哉ましましいねるかも」「速見の湯」「少名彦名神社」(大洲) )
「陽炎や苔にもならぬ玉の石   子規」(明治25年)

〇柿の木(西条柿 伊予蜜柑なし  柿の木谷(「にぎたつ荘・メルパルク・市営テニス場 〜風土記の道)

〇鷺谷共同墓地 
  「しる人(曾祖母 小島久)の墓を尋ねけるに四五年の月日ハ北?の山墳墓を増してつひに見あたらず・」
「花芒墓いづれとも見定めず     子規」
(注)埋葬者 「椿館」の山手にある墓地。墓地を歩いて司馬遼太郎著『坂の上の雲』に登場する人物の墓を確認しよう。

【設問C】「柿の句」はあるが「蜜柑の句」は?  (西条柿 伊予(蜜)柑)

【設問D】子規と漱石は一緒に道後温泉に入湯したか? (漱石の風呂好き 子規の風呂嫌い)

三、「道前」、「道中」、「道後」・・・・・古代・中世の道後温泉文化

(1)古代の行政区分

@ 五畿七道
〇五畿:@大和国(奈良県の旧国名)A山城国(京都府の旧国名)B摂津国(大阪府の北西部と兵庫県の東部の旧国名)C河内国(大阪府南東部の旧国名)・D和泉国(大阪府南部の旧国名)
〇七道:@東海道 A東山道 B山陽道 C山陰道 D北陸道 E南海道 F西海道 + 蝦夷(関東・東北)

A伊予国府(所在地不明 今治市?)と郡制
「道前」(みちのさき)  宇摩・新居・周布・桑村
「道中」」(みちのなか) 国府/・越智・野間)
「道後」(みちのしり) 「道後七郡」(風早・和気・温泉・久米・浮穴・伊予・喜多)+宇和

B伊予の支配者

道前平野(東予)越智氏 
道後平野(中予)伊予氏、久米氏、河野氏
  ? (南予)西園寺氏(宇和)、社寺(御荘)
 
(2)古代の温泉文化

@日本の三古湯 <◇◇の湯 温湯  温泉?>
有馬の湯(有馬) 舒明天皇 後白河法皇 足利義稙 豊臣秀吉 「烏」「大国主命・少名彦名命」 非火山性
牟婁の湯(白浜) 斉明天皇、持統天皇、文武天皇・・・熊野詣   大和朝廷に近い       非火山性
伊予の湯(道後) 景行天皇、舒明天皇、斉明天皇       「鷺」「大国主命・少名彦名命」 非火山性
(注) 鷺谷「推定断層」と奥谷・出雲崗の合致点(温泉本館)→温泉湧出(戦前は硫黄の匂と湯槽下から温水出た記憶) 

(注)有馬皇子「家にあれば笥に盛る飯を草枕 旅にしあれば 椎の葉に盛る」

A伊予の三古湯
道後温泉   「大国主命・少名彦名命」 
  鈍川温泉     
  湯之谷温泉  「大国主命・少名彦名命」 
(注)「府中」(今治)― 湯之谷温泉 ― 鈍川温泉 ― 湯山(奥道後) ― 道後温泉 (古代の温泉ルート?)

B古代の道後温泉(詳細不明)
〇白鷺伝説・・・・・・・・湯神社(二神社)延喜式内社(927年) 洪水で流出、出雲崗神社と合祀
鷺谷
〇大国主命・少名彦名命伝承・・・・出雲崗神社(冠山)延喜式内社
烏谷(烏渓)
〇伊佐爾波岡(伊社爾波岡)・・・・・・伊佐爾波神社 延喜式内社 湯築城築造に伴い「御仮屋山」に移転

C行幸啓来湯
〇天皇家
@ 景行天皇、皇妃八坂入姫(「伊予国風土記逸文」)
A 仲哀天皇、皇后息長足媛<神攻皇后>(「伊予国風土記逸文」)
B 聖徳太子(「伊予国風土記逸文」)
C 舒明天皇(「日本書紀」)
D 斉明天皇、皇太子中大兄皇子(天智天皇)、大海人皇子(天武天皇)(「日本書紀」)
(注)「伊予国温泉碑」(「椿の湯」広場)
「いしぶみの跡に啼けり閑古鳥   子規」(聖徳太子碑 明治25年)
  
〇万葉歌人  山部宿禰赤人(久米族ヵ)
「島山の 宜しき国と 凝(ここ)しき 伊予の高嶺の 伊佐庭の岡に立たして 
歌思ひ 辞(こと)思はしし み湯の上の 樹群を見れば 臣の木も 生ひ 継ぎにけり 鳴く鳥の 声も変らず
遠き代に 神さびゆかむ 行幸処(いでましところ)
反歌 百(もも)磯城(しき)の 大宮人の飽田津(にきたつ)に 船乗りしけむ 年の知らなく    赤人」

〇万葉歌人  額田王
 「熟田津に 船乗りせむと月待てば 潮もかなひぬ 今は漕ぎ出でな     額田王ヵ」 

D伊予の湯桁(『源氏物語』)
「いでこの度は負けにけり。隅のところどころいでいて」と指を屈めて、「十・二十・三十・四十」など数ふるさま、伊予の湯桁もたどたどしかるまじう見ゆ。」
「(伊予の国の物語など申すに、湯桁は幾つと問はまほしく思せど・・・)

E古謡「伊与の湯」
「伊予の湯の さらは(伊佐爾波)に立ちて 見渡せば たけ(和気)の郡(こおり)は 手にとりて見ゆ」
(注)伊佐爾波の丘=道後公園の丘

【設問E】「湯桁」(又は「井桁」)とはどのような構造か。女官たちはどのように入浴したか。「湯帷子(かたびら)」はどのように使用したか。「混浴」か。古代の入湯のあり様とは・・・。(注)陸奥(現 東北)の秘湯

(3)中世の道後温泉(詳細不明)

@湯釜薬師(江戸期まで利用 名号「南無阿弥陀仏」 河野通有(一遍智真と従兄弟)依頼)

A遊行七代託何(たくが)上人『禅時論』『条々行儀法則』(伊予奥谷道場<宝厳寺>化導)
「伊予の湯の井桁はいくつ左八右九中は十六と悲願不思議の入出湯」(出湯に入る)

B連歌師(聖 阿号衆)(宝厳寺連歌 大三島連歌) 連歌 → 発句 → 連句・俳句

C湯築城 湯月城 湯付城   河野家呼称「道後殿」→ 湯築城周辺の「道後」の定着化

Dキリシタン宣教師のレジデンシヤ(司祭館) @下関「港」 A山口「市」 B道後「市」 入湯の記録なし
 (注)道後「市」:「湯之町」、「市町」(旧地名 上市 今市)、「門前町」(石手寺)
四 近世の道後温泉

(1)藩主の温泉経営(松山藩直轄)
代 官  温泉郡(+和気郡 ×風早郡) 
明王院 「鍵屋」(温泉鍵) 「お茶屋」(藩主休息所) 宿泊者届け出 旅籠割り当て 遍路等行倒れ保護供養
町名主  世話役
大庄屋  村行政 外様大名(伊達公、加藤公)宿泊 祭礼神輿お休み所 遍路等行倒れ保護供養 年貢取立
社 家  祈願 祭礼
(参考)「温泉祈祷・湯神社再興日記」宝永四年 烏谷備前(宮司)
「宝永四丁亥年十月四日 未之上刻大地しんする時ニ 温泉つぶれ不出ス・・・一七日勤之内 時の代官福本孫兵衛殿 鯉口伊兵衛殿 大庄屋三好平兵衛始其外郡方替り替りニ御出被成 湯之町ニ而は明王院ヲはじめ町人替る替る参詣する也。

【設問F】道後温泉の辺りにて 「寝ころんで蝶泊らせる外湯哉   一茶」
この句は一茶が外湯に入浴した時の句か、外湯を眺めた句か。(注)江戸期の「外湯」は「牛馬湯」とも呼ばれた。


(2)道後温泉図 道後村図 

(スライド参照)
五、伊佐庭如矢と道後温泉の近代化 〜湯治場(癒し)から温泉場(観光)〜

◎伊佐庭如矢 年表 

祖父 成川眞「棹(土佐) 父 国男(医師) 母 マキ 三男  通称 斧右衛門 震庵 禿毫庵碧梧桐
1828年(文政11年) 九月十二日、道後の町医者・成川国雄の三男として出生。「誕生地」の石碑(「ふなや」東端)
1844年(天保15年/弘化元年) 松山藩士阿部家入り婿、阿部家の娘、射狭(いさ)と結婚、長男・柯(おのえ)が誕生
1856年(安政3年) 私塾「老楳下塾」(ろうばいかじゅく)を開く(〜1895年)。
1868年(慶應3年/明治元年) 長男に家督を譲り、分家して「伊佐庭姓」を名乗る。松山県→石鉄県→愛媛県吏員として勤務。
1873年(明治6年) 松山城を県参事・江木康直に嘆願して、廃城の危機から救う。
1880年(明治13年) 内務省に出向。翌十四年、愛媛県に戻り、愛媛県吏員を辞す。
1882年(明治15年) 山田郡郡長に就任(〜1884年)。翌十六年、愛媛県高松中学校長兼任する(〜1885年?)。
1886年(明治19年) 金刀比羅宮禰宜になる。
1890年(明治23年) 二月、道後湯之町(1889年町制施行)初代町長に就任。道後温泉の改築に着手。
1892年(明治25年) 養生湯の改築が完了。
1893年(明治26年) 道後鉄道を設立し、初代社長に就任(〜1896年)。
1894年(明治27年) 四月一〇日、道後温泉本館改築完了。
1895年(明治28年) 八月、一番町〜道後、道後〜三津口間に軽便鉄道を開通させた。
1899年(明治32年) 霊の湯、又新殿を新築した。
1902年(明治35年) 三期十二年の任期満了、道後湯之町長勇退。
1907年(明治40年) 九月四日、脳溢血により死去。八〇歳没。
(注)加藤恵一『道後の夜明け―伊佐庭翁ものがたり―』(昭和63年)

◎伊佐庭如矢 事績(松山市)

(スライド参照)

◎伊佐庭如矢の記憶
○伊佐庭如矢(成川)生誕碑    元成川邸入口(「ふなや」東端)
○伊佐庭如矢胸像 説明版     温泉本館北側階段脇
○伊佐庭如矢顕彰碑        道後公園
○伊佐庭如矢事績解説       子規記念博物館

「設問G」伊佐庭如矢の松山・道後の近代化について、現在次元で判断して、特に評価する計画fがあれば述べなさい。
六、松山の宝 道後温泉・・・・・現代・将来の文化

「いで湯と城と文学のまち」・「国際観光温泉文化都市」
(注)国際観光温泉文化都市とは
@<住民投票>別府市(昭和25年)A伊東市B熱海市C奈良市D京都市E松江市(昭和26年)F芦屋市G松山市H軽井沢町 I<政令指定>長崎市 日光市 鳥羽市

(注)産業基盤は? 官庁の出先機関は? 大企業の支店は? アクセス(飛行場・港湾・高速道路)は?
   国際会議場は?  国際競技場は? 歴史的建造物は? 近代的・未来的建造物は?
   無料駐車場は?  高齢化率は? 温泉量は? 宿泊施設(外国人、遍路、サイクリスト等)は? 

 四国四県の経済的・社会的規模  日本全体の5% 

1)、外湯から内湯へ (光と影)


○別府八湯 「山は富士 海は瀬戸内 湯は別府」「油屋熊八」「亀の井」 観光船(大阪・神戸〜別府)
       「一遍聖」鉄輪温泉 蒸し湯 公開浴場(@100〜200円)
       湯布院、阿蘇、国東半島、宇佐八幡宮
       大学(立命館アジア太平洋大学) フェスティバル  観光ホテル「 」(ハイ〜ロウ)
○城 崎   旅館と商店、文化設備 時間帯の共有 共同浴場(1泊前提)
       天橋立 出雲   

2)、道後から五〇〜一〇〇万都市温泉地へ(光と影)

○ 道後温泉郷  
@コース   京都(古都)―広島(原爆記念碑)―しまなみ海道―四国 (松山の位置付け)
Aアクセス  空(空港) 陸(新幹線・高速道路) 海(大型観光船) (松山の位置付け)
B文化圏   オンリーワン文化(?)
C温泉量   〇奥道後温泉からの「引き湯」〇鈍川温泉からの「温泉配送」〇温泉郷の拡大化
C四国セット 四国は岩手県より小さい「島」。点→線→面→立体への広がり不可欠 

【設問H】道後温泉は「松山の宝」になりうるか。
(正解はありません、21世紀感覚で自由にメモしてください)

年間100万人道後温泉利用者(実績)中20%(20万人)が外国人利用と設定した場合
最低2泊での観光・見学コース(公共交通機関のみ利用)。 ○日中 ○夜間
@ 外国人の宿泊施設・商業施設(含む通貨)。
A 外国人がエンジョイする文化・観光施設、文化サービス、土産。大学(図書館・資料館)の公開。
B 外国人向けの救護・医療・入浴法(スパ 裸身?)。
C 「しまなみ海道」の活用法。
D 休日等の教会(礼拝) 宗教の許容 神道 仏教 普化宗(虚無僧・尺八僧) 座禅 ヨガ。
E 遍路体験 浴衣(湯帷子)体験 音曲体験
F 水(川)と空(空間)と道(遍路道=歩行者専用)のある温泉場(古代の湯〜未来の湯?)
「道後」の時間的・空間的・文化的見直し
古代・中世・近世・現代の道後温泉文化を許容・包含してこそ「道後の未来」はある。
七、子規と道後  @漢詩 A俳句・和歌 B「散策集」より

〇漢詩

@ 明治一四年「温泉に浴す」(「同親会温知社吟稿」「近世雅感詩文」)
「温泉能医疾 幸哉在隣村
   投宿連幾夜 日浴両三番
   地有妓楼在 湯中美人繁」

A 明治一五年「道後詞」二首(「緒先生□作(さんさく)詩稿」)
  「楼閣連軒欲斂昏 毫絲哀竹入雲聞
   紅妝一隊皆嬌態 長袖花顔裙接裙」
       又
  「高楼待客半含羞 一笑満顔春色浮
   時様髻鬟理来処 夜灯点尽幾楼楼」 

B 明治一六年「道後に遊ぶ途上の作―明日将に東都に赴かんとするなり」
    省略
(注)六月九日 太田正躬、森知之 同伴「東海紀行」(子規の温泉入湯記録)
C明治二二年「(遊)道後温泉」
    省略
(注)八月一五日以前 内藤鳴雪 同伴

〇俳句

陽炎や苔にもならぬ玉の石     (明治二五年)
いしぶみの跡に啼けり閑古鳥    (同    )
時鳥首の浮たる温泉哉       (明治二七年)
温泉の町に紅梅早き宿屋哉     (明治二八年)
やゝ寒みちりけ打たする温泉哉   (同 二九年)
草花や露あたたかに温泉の流れ   (同    )
地震して温泉渇れし町の夜寒哉   (同 三〇年)
湯治場や床机を移す新樹哉     (同 三一年)
温泉の道や通ひなれたる萩桔梗   (同    )
百合活けて百合の歌詠む湯治哉(   (同 三二年)

〇和歌


道後温泉
もろもろのすめらみかどのきたまひし恵みもあつきいで湯なりけり  (明治二〇年)
道後公園
見渡せばはるかの沖のもろ舟の帆にふく風そ涼しかりける      (明治二〇年)
故郷を憶ふ
伊佐庭の湯月をとめの手枕に夢や見るらんますらをの友       (明治三一年)
足なへの病いゆてふ伊予の湯に飛びても行かな鷺にあらませば    (明治三一年)
碧梧桐ノ帰郷ヲ送ル
古里の伊与の二名に君行かば道後の桜散らひてあらん        (明治三三年)
道後温泉
南のいよの出湯は遠つ神六代の帝のいでましどころ         (明治三三年)

(注)漢詩・和歌・俳句は『道後温泉』(松山市 昭和四九年)から引用。

〇「散策集」より
 省略

【設問I】和歌・俳句から各一首、一句を選び、鑑賞してみよう。

[ 受講生の質問に答える」
各位殿
貴「コメントシート」拝見しました。おひとりお一人の文章から真摯な学習ぶりがうかがわれ敬意を表します。
郷土の生んだ文学者 子規・正岡常規を通して、文学や歴史に興味を抱いていただくと子規さんも喜ぶことでしょう。ますますのご勉学を祈っています。 
Tさん
(4)について
子規の『散策記』に関して「散歩と散策に触れた指摘」は管見ではありませんでした。『散策記』にぜひ目を通してください。子規は病後でしたので足は達者ではありませんでした。
9月20日の石手コース : 『杖に拠りて町を出づれハ稲の花   子規』
9月21日の城北コース : 「病院下を通りぬけ御幸寺山の麓にて引き返し」ます。おそらく杖を突いてでしょう。
10月2日の城南コース : 「例の散歩に出かけまほしくて十月二日只ひとり午後より寓居を出て・・・」
              『汽車道をあり(歩)けば近し稲の花   子規』 この日もおそらく杖を突いてでしょう。
10月6日の湯之町コース: 「天気は快晴なり病気は軽快なり漱石と共に道後に遊」んでいますが、その後大街道で芝居を見ています。健脚ぶりですが、大街道・道後間は「道後鉄道」を利用しています。この日もおそらく杖を突いてでしょう。
10月7日の今出コース : 「俄かに思ひ立ちて人車(人力車)をやとひ今出へと」出掛けます。この日もおそらく杖を持参していたでしょう。

 子規は「例の散歩」と記述しています。私には「散策」と「杖」が深く結びついているように思えます。 ご参考までに。
(5)について
伊佐爾波神社の南(40年ほど前まで「道後小学校」が建っていた現在の「メルパルク」「にぎたつ会館」がある)の丘が「柿の木谷」です。
『柿の木にとりまかれたる温泉哉    子規』・・・湯之町が柿の木に取り囲まれている
『柿の木や宮司か宿の門がまへ    子規』・・・現在の「ふなや」側から見て、湯神社への階段脇の宮司宅に柿の木があった。
伊予柑は持田村の庄屋「三好保徳(やすのり)」らが中心になって明治22年(1889年)から栽培が始まり、育成・普及へと広がっていきます。中予に蜜柑が普及したのは大正・昭和に入ってから、南予では戦後になります。『愛媛子どものための伝記 第2巻 三好保徳 ほか』(1983年刊) をご覧ください。

Tさん
(5)について
「地元のひとでもごくわずかな人しかない」ということは・・・
歴史的には、道後に限りませんが、戦前(1935年)には温泉近郊の家には浴室(五右衛門風呂)はありませんでした。皆、温泉に出掛けました。「月受券(定期券のようなもの)」は安価でした。市内も町々に「銭湯」がありました。岩崎町、南町、一万町にもありました。民家に浴場が出来たのは昭和30年後半(1960年)ではないかと思います。ご両親、いや、ご祖父母からお話を聞いてみてください。
ぜひ道後温泉(本館・飛鳥の湯・椿の湯)や奥道後温泉〜「桜の湯」(東温市)に一度でよいから入湯しませんか。「伊予の湯」の良さを肌で感じてください。

Kさん
(4)について
漱石の随筆や小説に温泉がよく登場します。『坊つちゃん』にも「住田(道後)の温泉」の話題が出ますね。子規は松山中学を退学して上京する直前に道後温泉に入湯した記述はありますが・・・当時の医学知識では、結核には風呂は禁物だったのかもしれません。
(5)について
道後本館の改修工事は7〜8年要します。学生時代にぜひ道後温泉(本館・飛鳥の湯・椿の湯)や奥道後温泉〜「桜の湯」(東温市)に一度でよいから入湯しませんか。「伊予の湯」の良さを肌で感じてください。他県に出掛けた時には「道後温泉観光大使」になった気分でPRしてください。

Eさん
(4)について
日本人の平均年齢は明治・大正期は男子42〜43歳(女子50歳)から昭和期の50歳台(女子60歳台)、平成期の70歳台(8歳台)になり令和期では男子80歳台、女子90歳台に入ります。
その背景には医療・食育・経済環境などなど多岐にわたるのでしょうが、大学で多くを学び、将来に役立てていただきたいものです。ただ実態は「健康寿命」とは直接結びついていないのが今日から将来にかけての問題かと思います。
明治・大正期の人は「10代 学生期、20代 自立期、30代 壮年・中年期、40代(中年・老年期)、50代(後期高齢者と考えていたと思います。「子規中年期説」は学生の皆さんにはショックだったようですね。限られた学生時代です。限りなきものを目指して活動されますように・・・

Oさん
(5)について
古代から中世・近世、そして近代・現代に至るまで、広義の「道後郷」(松山を含む)は四国最大の町(地域)であり続けました。今日、松山市に東温市・伊予市・松前町を加えると高知県の人口に匹敵するほどの大都市です。
ご質問の「道後温泉(湯之町)」ですが、旅館に内湯もなく、「湯治場」でした。最大の観光客は「四国遍路」さんでした。差別語になりますが、本館の前に「外湯」があり、「牛馬湯」とか「乞食湯」とか呼ばれていました。
一茶に句に「寝ころんで蝶泊らせる外湯哉   一茶」があります。
近代まで道後温泉本館は武士と神官・僧侶が入湯できましたが、一般人は別の浴場でした。皮膚病その他の病気の人は「養生湯」が指定されました。もっとも、日本中の温泉場はそんなものでした。道後の宿屋も「木賃宿(きちんやど)」「遍路宿」が殆んどで、米か薪持参で宿泊すると歓迎されたということです。
この機会に、ぜひ道後温泉(本館・飛鳥の湯・椿の湯)や奥道後温泉〜「桜の湯」(東温市)に一度でよいから入湯しませんか。「伊予の湯」の良さを肌で感じてください。

Tさん
(5)について
松山の歴史は500年ほどですが、道後(広義)の歴史は1500年(神代の時代)まで遡れるでしょう。是非是非、歴史、文化、風土などなど「温故知新」で学んでいただきたいものです。
久米に古代の遺跡があり「正倉院」もありました。「久米族」は興味があります。大学の在る「桑原」は「桑の原」ですが、古代養蚕が盛んだったのでしょうか。

Sさん
(4)(5)について
俳句の造詣が深いようですね。実作もされるのですね。素晴らしい。
「百合の花子規の歩いた道後かな」
子規の句にある「うつむいて何を思案の百合の花」は、まるでロダンの彫刻を連想します。
俳句は詳しくありませんが、お返しの句を送ります

 『散策集』を読みて
   稲の花 子規の歩いた道後かな 

Sさん

(5)について
この機会に「道後の文化」について考えてみたいものです。子規さんは「道後煎餅」が好きで、東京の「子規庵」に届くと、ぽりぽりと食べていたようです。「坊っちゃん団子」は漱石の『坊っちゃん』に描かれていますが、どちらの菓子屋も健在です。道後の誇りです。「温故知新」で子規さんの『散策記』の月日に合わしてお友達と散策されてはいかがですね。

Mさん
(4)(5)について
道後小学校のご出身ですか。それなら私は「大先輩」に当たります。第二次世界大戦中でしたから「道後国民学校」に入学しました。卒業時は「道後小学校」になっていました。道後温泉が「松山の宝」になるためにも、お互いに道後温泉の歴史や文化を語り継いでいきましょう。頑張ってください。

Yさん
(4)について
「観光客があれだけたくさん集まるということはすごく魅力的な場所があるということだ」と指摘していますが、どこだと思いますか。スポットか、雰囲気か、温泉の建物か、温泉の質か、浴衣歩きか、遍路体験か・・・・・ いろいろとお友達とも話し合って、是非、子規さんが歩いた『散策記』の道を追体験してほしいなあと願っています。

Nさん
(4)(5)について
今回Iを選んたのは中谷さんお一人でした。
「草花や 梅雨あたたかに 温泉の流れ     子規」
「草花」と「あたたかに」という関連性のない言葉を温泉という語で結びつけ、ひとつの美しい句にしあがったという鑑賞は、私自身大いに勉強になりました。
子規の時代には、道後の道は舗装されておらず、川沿いの道に草は生え、川からは温泉の湯気が立っていたのでしょう。ノンビリとした温泉場の風景が目に浮かぶようです。
インターシップで道後のホテルで実習をされる由、楽しみですね。何気ない「おもてなし」が旅人の旅情を慰めてくれることでしょう。お頼みしますよ。

Oさん
(4)について
正解です。驚きました。よくご存知でしたね。
「5W1H」の「HOW」は学校で教わりましが、「2H」の「HOW MUCH」は「ビジネス」で学ぶ言葉と思います。いかに美しい言葉で語っても、「数字の裏付け」のない企画・言動は、多くの人に、次なる時代に継承されません。子規さんは数字に細かかったのですが、高浜虚子は数字にめっぽう強く俳誌『ほととぎす』を今日まで持続させたのは「HOW MUCH」思考でなかったからでしょうか。
(5)について
「国際観光温泉文化都市」として21世紀にまつやま・道後は発展するには・・・・大いに行政に提言してほしいものです。

Sさん

(4)について
正解です。驚きました。よくご存知でしたね。
「5W1H」の「HOW」は学校で教わりましが、「2H」の「HOW MUCH」は「ビジネス」で学ぶ言葉と思います。いかに美しい言葉で語っても、「数字の裏付け」のない企画・言動は、多くの人に、次なる時代に継承されません。
子規さんは数字に細かかったのですが、高浜虚子は数字にめっぽう強く俳誌『ほととぎす』を今日まで持続させたのは「「HOW MUCH」思考でなかったからでしょうか。
(5)について
「鈍川温泉」と「湯之谷温泉」に入浴・・・・東予(今治・西条)出身の方かな。
4ページに「府中(今治)―湯之谷温泉―鈍川温泉―湯山(奥道後温泉)―道後温泉(古代の温泉ルート)」と記載しました。このルートを歩いた人物を探索中です。湯之谷、鈍川に立ち寄った文人の文章をご存知なら、ぜひ教えてください。「伊予の三古湯」を宣伝したいと考えています。

Kさん
(5)について
「砂土手」は「砂+土手」の指摘をしましたが、「なるほど」と合点されたようですね。歴史学というより地質学からのアプローチです。
大学の在る「桑原」が「桑の原」であれば養蚕に関係するのでしょうか。「石手」は「石の手」で、郷土史では「衛門三郎八つ墓伝説」に結びつけていますが、私はこの通説に疑問を待っています。
松山子規会で「子規の愛した『へちま』は何語か」という卓話を致しました。「へちま」は辞典では「糸瓜」と書きますが・・・・・ご興味があれば調べてみてください。
一つ一つこだわってみると、「チコちゃんに叱られる」の世界があるようです。