第六十七章  一遍父「七郎明神社」の所在について (覚書)
一、 はじめに
平成二八年(2016)八月、湯神社の歴代宮司であった烏谷氏の社家が取り壊された。事情を知らない町民、氏子にとってはショックな出来事だった。湯神社境内に存在するとされる河野七郎通広(一遍実父)を祀る七郎明神社(児守社)の所在を確認しておかねばと思い立ち、宝厳寺関係者や商店街の幹部に尋ねたが確答を得ることが出来なかった。そこで文献調査を開始し、一遍会、七郎明神社の創立に尽力された一遍堂主人 故新田兼市氏の記録から安置してある場所を確認できた。
「この由緒ある児守社は、温泉センター(*注記参照されたい)建設当時、地行(ママ)のため一時とりのぞかれ、冠山の湯神社の境内の以前の位置に多少修築され、昔のままに、菓祖中島神社と並んで建立されていますが、世の移り変りとともに、人々に知られないままにあります。」(『時衆 あゆみ (一遍の仏念)』(1976)
郷土資料による七郎明神社
@【七郎明神 是は一遍上人の父河野七郎通広を祝ひ祭る宮也。湯神社石壇の端に祠有り、】 ○『予陽郡郷俚諺集』(松山藩家老 奥平藤左衛門貞虎(1668〜1710)編、宝永七年(1710))
A【阪(坂ヵ)中央開林叢祠、曰児守明神、是皆為湯神社之属祠也、】○『伊予古蹟志』(松山藩士 野田石陽(1775〜1827)著。文政年間(1818〜1830))
B【出雲岡烏谷に葬る、小祠建営、称河野父神廟】○『宝厳寺旧蔵「河野系図」』
C【七郎大明神は湯神社の坂中右脇の小社也。七郎大明神児守の御前と有是也・・・・此御神ハ小児を守り玉ふ也。】○『伊予国旧蹟考』
 この祠は江戸期には「児守御前」と呼ばれていたが、明治三年「御前」が削られて「児守社」となった。祭神は神大市姫命、鎮疫神、下陣 河野七郎通広霊である。【一遍会編『一遍の跡をたずねて』1989】
時宗資料による七郎明神社
『遊行日鑑』によれば、遊行上人が宝厳寺に泊し、伊佐爾波神社・湯神社・岩崎神社を参詣している。湯神社・岩崎神社は河野通広に縁があり、一遍も恐らく訪ねたのではあるまいか。
D『遊行日鑑』抜粋
○ 遊行五一代賦存(延享四年1747)
 【延享四年六月二日 今日四ッ時八幡宮江御社参之筈なり、(略)神前ニ而御拝、略懺悔、弥陀経念仏回向、夫より二畳台御着座、神楽相済候而御帰り、夫より河野七郎大明神宮江御参詣、御輿ニ而御拝、(略)】
○遊行五六代傾心(文政九年1826)
 【文政九年八月一五日 八幡宮回廊ニ而御下車、此処御手水有之、二畳台ニ而如法衣御召、神前ニ而御拝、略懺悔、弥陀念仏一会、而二畳台ヘ御着座、神楽相済、夫ヨリ河野古城跡岩崎明神ヘ御社参、湯ノ神社、七郎明神各心経一巻之御法楽、夫ヨリ温泉玉之石被遊御覧、御帰リニ相成候条、(略)】
○遊行五六代傾心(文政九年1826)
 【文政九年八月一五日 八幡宮回廊ニ而御下車、此処御手水有之、二畳台ニ而如法衣御召、神前ニ而御拝、略懺悔、弥陀念仏一会、而二畳台ヘ御着座、神楽相済、夫ヨリ河野古城跡岩崎明神ヘ御社参、湯ノ神社、七郎明神各心経一巻之御法楽、夫ヨリ温泉玉之石被遊御覧、御帰リニ相成候条、(略)】
七郎明神社を「児守社」と表示する初出文献の調査を進めているが、遊行四六代尊証上人(1644~1700)が元禄十三年(1700)「伊予に入り、ここで松山宝厳寺の庫裏を再建、児守社を参詣し拝志村の別府墓所代参などを行って」いる。(禰宜田修然・高野修『遊行・藤澤上人史』、『時宗教学年報第六輯』橘俊道師「元禄時代の遊行」、越智通敏『一遍 ―遊行の跡を訪ねて―』、田中弘道「遊行上人と天徳寺」(『一遍会報』三六七号2014)
昭和三四年(1959)五月二一日〜二五日、「宗祖六百六十年御遠忌」が宝厳寺で修行され、遊行七十一世隆宝上人(1888〜1981)が宝厳寺で親修の節、七郎明神社(児守社)で法要が行われた。当時の住職は永浜秀道師であった。この間の事情を故新田兼市氏の記録から引用する。
「代々の遊行上人は伊予時に足を入れられる度に、先ず、児守社の修、改築をなされ、大法要を行う行事が六百数十年にわたり続いてきたのであります。(略)私は宝厳寺の長(ママ)浜住職に、この児守社の縁起をお話しいたしましたところ、長(ママ)浜住職も驚かれ、早速に、御本山へ問い合わされました、その史実が明らかにされました。急ぎお社の修築をいたしまして、上人をお迎えし、無事法要を終わったことがありました。」(『時衆 あゆみ』1976)
その他の七郎明神社
湯神社に在る「七郎明神社(児守社)は一遍の父 河野(別府)七郎通広に由来するが、これとは別に和気郡馬木村(現 松山市馬木町)の佐古岡神社にも七郎明神が在る。今は佐古岡神社に合祀されているが、河野七郎通運(みちかず)を祀っている。七郎通運は河野通治の子で、元弘三年五月七日、足利軍との戦いにおいて、敵方武将・大高重成との一騎討ちに敗れて討死した。元弘の変(乱とも云う)では河野氏は幕府派と後醍醐天皇派に分かれて抗争した。
また、御手洗島(呉市豊町御手洗)宇津神社には「七郎大明神」を祀って「七郎明神」の掲額がある。宇津神社の七郎明神は三嶋社(大山祇神社)の本地仏大通智勝仏の一六王子の内の第七王子である。鎌倉時代末期の正安四年(一三〇二)に三嶋社の境内に十六王子社が創建され(「大山積神社文書」)、現在は第一王子社と十六王子社が接がれて十七神社と称している。(石野弥栄「中世の伊予河野氏と三嶋社(大山祇神社)について」『一遍会報』三二〇号2007)
一遍会理事 今村威氏の教示によるが、御手洗島に隠棲した江戸期の伊予の俳人栗田樗堂(松山藩町方大年寄役、隠居して庚申庵に住む)が「宇津祭詞」を残している。 
阿岐(安芸)の国大長の郷 宇津の社のミまつりハ とし毎葉月の廿日なりけり 往昔七郎明神の神号ありしを いづれの世にか今の唱になぬあらたまりしとぞ かつ 村老の口称に残れるハ 其さき一嶋すべていよの国越智郡に属せしよし いかなるゆへあるしか 社記の詳なるを見ざればしるづ猿田彦の神の猛く雄々しき容をうつし しりへに神たからのくさぐさを運ぶ 中にも里童 蜀錦の袖をあらそひ 糸管に天楽の曲をうながしつゝ いともミやびに御幸の道の塵を払ふ などか神慮もおかしとハおぼし給ハむや 実に一日の壮観なりけらし
  今ひと手鞨鼓(かっこ)にちらせ花薄
 おわりに
一遍の父 河野通広(如仏)を祀る七郎明神社の由緒を湯神社境内に掲示し、宝厳寺(一遍生誕地)、伊佐爾波神社(遊行上人透かし彫り)・湯神社(七郎明神社)・岩崎神社(湯築城址)湯釜薬師(一遍親筆名号)という一遍上人ゆかりの道後界隈の見学路の設定を提案したい。
(注)「温泉センター」は昭和三九年(1964)開業した道後財産区が設置したヘルスセンター。採算が悪化し、松山市公営企業局温泉部に移管されたが経営は好転せず四四年には個人経営「ニュー宝荘」で再出発したが、数年後、経営悪化により閉館となる。現在は市営駐車場となっている