第七十六章  子規と遊里・遊郭俳句
一、 はじめに

愛媛新聞(平成三〇年六月一〇日付)の「道標」に復本一郎氏(国文学者・神奈川大学名誉教授)の寄稿「松ヶ枝町のこと」が「ふるさと伝言」として掲載された。
『松山 子規事典』編纂にあたり「松山の花街・遊郭」等を執筆したが、子規研究に当たって、おそらく意識的に、遊里や遊郭と子規との絡みは、今日まで管見では発表されていないと思われる。遊里、花街、遊郭も今日では「死語」化されてきているので、今回ささやかな研究を通して、会員各位の記憶に留まれば幸いである。
「愛媛新聞(平成30年6月10日付)「道標」より

そのユニークな俳句活動が注目されている俳人で、世界俳句協会理事長の夏石番失氏から五月十三日の昼すぎに電話があった。岩波文庫の一冊としての「山頭火句集」の作業が終わったとの報告。選句、解説と大変なことであったであろう。特に、解説に当たっては、山頭火披見の当時の書籍類に目配リしての執筆であったという。この姿勢やよし、である。そのようなところにまで目配りしつつの解説は、彼が俳人であると同時に優れた比較文学者でもあるから。学問にとって、最も大切な基礎作業。 彼は、私より一回り若い。同じ干支(えと、未=ひつじ=年)。  
 私の場合も、正岡子規研究において、一番重要なことは、子規が何によってその本を読んでいたかを確認する作業。子規の場合、俳書はおおむね江戸時代の版本(はんぽん)によって読んでいる。その点〕私が俳譜研究より子規研究へと歩を進めてきたことは幸せであった。私の手もとには、子規が披見したと思われる俳書類の版本がいくつか集まっているからである。
子規の明治二八(1895)年の著作に夏目漱石の愚陀払確滞在中に執筆した「散策集」がある。その中に、子規が「古往今来当地身の第一の豪傑」とする一遍上人ゆかりの宝厳寺を、漱石とともに訪れる記述が見える。その描写の中にある「松枝町」「妓廓」といった言葉や子規の、
色里や十歩はなれて秋の風
の句のことが気になっていた。
 昨年四月、松山子規会会長の烏谷照雄氏のご案内で旧「松ケ枝町遊廓」の跡を散策できたことはうれしいことであった。子規披見の可能性のある書物を追い掛けることは子規研究にとって不可欠であるが、フィールドワーク(実地踏査)によってこそ確認し得る点もすくなくないからである。遊郭跡地を前にして、かつての雰囲気がかろうじて伝わってくるようにも思えた。遊廓当時の面影を残すという建物が二軒ほど残っていたが、文化財としてなんとか保存であろうか。
 新刊の「松山 子規事典」(松山子規会)を播(ひもと)くと、二神将氏の執筆による「松ヶ枝町」の項目があり、「松ヶ枝町遊郭」の写真が添えられていた。責重な写真。この手の写真、他にもあるのであろうか。一方、三好恭治氏執筆の「松山の花街・遊郭」の項により松川二郎著「全国花街めぐり」(昭和四年六月、誠文堂刊)の存在を知り得た。何とか入手することができないかしら、とインターネットにて検索、幸い手に入れることができた。この書、著者自身が「全国花街を網羅した最初の著述」と自負するだけあって、すこぶる貴重。「松ヶ枝町」にも、ほんの少しではあるが言及されている。「松枝町遊廓」の発足は、明治十(1877)年とのこと。少年子規は、瀦愛されていた曾祖母小島久(ひさ)に連れられての宝厳寺参りの途次、「松ヶ枝町遊廓」をも何度か通って、その不思議な光景を目に焼き付けたことであろう。

一、「遊郭十句集」について  『子規全集』(講談社版) 別巻三 (527頁)

明治三十一年四年の月次十句集(第十四回)で表題は「遊郭」。幹事は墨水。高点者は河東碧梧桐。参加俳人は、子規・碧梧桐・肋骨・楽天・繞石・愚哉・碧玲瓏・墨水・左衛門・香墨・春風庵・森々・秋竹・胡堂・東洋・露月の十六名。全句を参考までに一覧するが、ここでは子規の句のみ抜書きする。
(春)
春の夜の明けなんとする廓かな 
初會かな臺に小さき春の鯛    
傾城の汐干見て居る二階かな   (注)州崎ヵ(江東区東陽一丁目。江戸期「深川洲崎十万坪」)
蛤と海草をぬふ裲襠(シカケ)かな   (注)『今昔物語』巻三〇―十一 
吉原の火事映る田や鳴く蛙         「卑しからぬ身分の男、妻をすてた後復縁する話」

(夏)
旅にして妓樓に遊ぶ浴衣哉  
汗くさき遊女と寐たり狹き花筵(ゴザ) 
船著きの小き廓や綿の花        (注)隅田川→今戸(橋)→(猿若町)→日本堤  

(秋) 
                   「牡丹載せて今戸に帰る小船かな  子規」
吉原のにわか過ぎたる夜寒かな 
船を出て月に散歩す遊女町       (注)隅田川→今戸(橋)→(猿若町)→日本堤 
(注)「廓」(くるわ) 遊女屋の集まっている所。遊郭。遊里。
「初会」(しょかい) 娼妓が、ある客に初めて相方となること。また、その客。
「娼妓」(しょうぎ) 遊女。特に、公認された売春婦。公娼。
「傾城」(けいせい) 遊女。近世では、特に太夫を指す。女郎。傾国。
「太夫」(たゆう)  最上位の遊女。
「妓樓」(ぎろう)  遊女を置いて、客を遊ばせることを業とする店。遊女屋。女郎屋。
「遊女町」(ゆうじょまち) 遊女のいる町。遊里。遊郭。色町。
「裲襠」(りょうとう)帯を締めず打ち掛けて着る裾の長いもの。現在も婚礼衣装に用いる。
              打掛。
(注)十句会は郵便による句会で、明治二九年四月子規の提唱で開始、明治三五年子規死去まで合計25回続いた。現在流で云うと「ウエブ句会」に相当するか。
二、「東京松山比較表」(六八項目)について

明治二十二年十二月、上野の「無極庵」で開催された松山会で、子規が発表し、参会者の関心を集め、松山会を大いに盛り上げた。詳しくは『松山 子規事典』(250〜251頁)を参照されたい。
     「東京」    「松山」
26  芳原      道後松ヶ枝町
27  州崎      三津新地
(注)芳原(吉原)遊郭には柳原極堂、古島一雄、州崎遊郭には古島一雄と登楼している。詳しくは後述。
三、子規が訪ねた遊里

 明治期の花街は、現在の繁華街の「クラブ」に相当する「待合」「茶屋」として利用し活用された貴顕男女の交際の場であるが、本項で取り上げたのは芸妓を抱える「茶屋」「遊郭」に特定し、子規が俳句、漢詩、随筆(『仰臥漫録』『病牀六尺』)、紀行文(『はてしらずの記』)書簡などで書き記している花街・遊郭を特定して記載した。
あれほど歩き好きの子規が鶯谷に住みながら、浅草・吉原にはほとんど出掛けていないが、浅草が東京都市部に組み込まれるのは明治末期からである。昭和初期でも「山の手」の子女にとっては浅草・墨東に足を向けることはほとんどなかった。
 道後温泉も当時は松山の郊外で、徒歩と人力車が交通手段であり、道後村の住民にとって松山は「ご城下」であり、着飾って
出掛ける街であった。地元でも「松ヶ枝町」に出かける子女はいなかった。

@松ヶ枝町 (まつがえちょう)
松山市道後湯月町に在る。詳しくは「道後松ヶ枝町を歩く」。
「松枝町を過ぎて宝厳寺に謁づ こゝは一遍上人御誕生の霊地といかや 古往今来当地出身の第一の豪傑なり 妓廊門前の柳往来の人をも招かでむなしく一遍上人御誕生地の古碑にしだれかゝりたるもあはれに覚えて
  古塚や 恋のさめたる 柳散る
     宝厳寺の山門に腰うちかけて
色里や 十歩はなれて 秋の風  」  子規遺稿『散策集』より
(注)子規の『筆まかせ』中「東京松山比較表」では「芳原?道後松ケ枝町」となっている。

A稲荷新地 (いなりしんち)
子規の『筆まかせ』での「東京松山比較表」では「洲崎?三津新地」となっている。
 三津東新地に「十軒茶屋と呼ばれる遊郭があり明治二六年(一八九三)に稲荷新地に移転した。稲葉楼・朝日楼・敷島楼・吾妻楼・いろは楼・日英楼・日新楼・三福楼・新月楼・八千代楼・住吉楼・鈴の家・一力楼・勝利楼の一四軒が貸座敷(茶屋)として営業、一三〇余名の娼妓がおり昭和初期まで活況を呈した。稲荷新地という呼称は町内に稲荷神社があったことに由来するものであろう。子規がたびたび訪れた「溌溌園」は、「稲荷新地」の北裏堀川畔にあった。(三津浜郷土史研究会編『三津浜誌稿』1960)

B吉原(芳原) (よしわら)詳しくは「吉原を歩く」。

江戸の遊郭。元和三年(一六一七)江戸八百八町に散在していた遊女屋を日本橋葺屋町(ふきやまち)に集め、同四年一一月に開業した。(『江戸紀文))明暦三年(一六五七)の大火に全焼し、千束日本堤下三谷(現在の台東区千束)に移し、当地を「元吉原」浅草の移転先を「新吉原」と称した。
新吉原は巾五間の「おはぐりどぶ」で囲まれ出入り口は大紋一箇所であった。貞享(一六八四〜八八)頃の遊女屋は二五三軒、遊女は太夫三人、芸子六七人、局三六五人、散茶六六九人、次女郎一一〇四人で、弘化年間(一八四四〜四八)には七千人を超えた。明治に入ってからは人身売買をめぐって諸外国からの非難もあり、新政府の指導により娼妓は約三千人に縮小された。
明治一七、一八年ごろ、子規は柳原極堂の案内で吉原に出掛け登楼する。遊郭情緒がなく失望している。(「子規を語る」毎日新聞 1931 『子規全集 別巻3』講談社版に転載)
落語「紺屋高尾」は六代目三遊亭円生の噺で、神田紺屋町の染物屋吉兵衛の職人久蔵と当世飛ぶ鳥を落す勢いの三浦屋の高尾太夫の遊郭物の名作であるが、子規没後の作品である。
(注)「吉原の太鼓聞こえて更くる夜にひとり俳句を分類すわれは    子規」
根岸の子規庵と吉原との直線距離は1・5キロほど。

C品川 (しながわ)
東海道五十三次の第一の宿駅で、江戸の南の門戸に当たる。江戸の遊所として公許の吉原に次ぎ、北品川宿、南品川宿、内藤新宿の三宿からなっていた。旅籠に遊女(飯盛り女)を置くことを許され、明和(一七六四〜七二)以降五百人の遊女が居た。場所柄から「南」と呼ばれて賑わった
 「この時の趣、藪のあるような野外れの小路のしかも闇の中に小提灯をさげて居る自分、小提燈の中に小石を入れて居る佳人、餘は病床に苦悶してゐる今日に至るまで忘れる事の出來ないのはこの時の趣である。それから古洲と二人で春まだ寒き夜風に吹かれながら田圃路をたどつて品川に出た。品川は過日の火災で町は大半燒かれ、殊に假宅(かりたく)を構へて妓樓が商賣してゐる有樣は珍らしき見ものであつた。」(『病床六尺』)
「春の夜や無紋あやしき小提灯   子規」

D州崎(すざき)
「枯蘆を刈りて洲崎の廓かな   子規」

E飯坂温泉 (いいざかおんせん)
福島市北部、摺上川が福島盆地に出る谷口の河岸段丘上に位置し、鯖湖を中心にした地区で、昔は「鯖湖の湯」といわれ、秋保・鳴子と共に奥州三名湯の一つである。泉質は単純泉または芒硝泉で、共同浴場も多い。開湯時期は不詳であるが、日本武尊が東征の折入湯したという伝承がある。
元禄二年五月松尾芭蕉が訪ね(『おくの細道』)、明治二六年七月正岡子規が芭蕉の跡をたどって宿をとった。女流文人としては与謝野晶子、宮本百合子が歌や小説『禰宜様宮田』を残している。
飯阪妓廟「凌霄やからまる縁の小傾城  子規」(凌霄花 のうぜんか)
(注)「奥の細道」
一つ家に遊女も寝たり萩と月   芭蕉
意訳:(越後の国、市振で)一つの宿屋に遊女と泊まり合わせた。(聞けば伊勢参宮の途中とか。同行を望んだがそれもできぬ)われわれとは萩と月のような取り合わせ。あわれさを感じるなぁ。

F島原 (しまばら)
江戸時代のおける京都唯一の公許の遊郭として朱雀町に開発されたが、寛永一七年(一六四〇)に京都所司代板倉重宗の命で六条三筋町(柳町)から移転した。江戸中期から祇園(東山区)北野(上京区)の茶屋町にも遊女屋が認められたが、あくまで島原支配下の出稼地として黙許されたものである。(『京都府下遊郭由緒』)。旧揚屋の「角屋」は寛永期(一六二四〜四四)の建築で重要文化財である。
「京都御役所向大概覚書」によれば
町数 六町、家数 七〇軒、人数 一五八三人(男 四〇八人、女一一七五人)で傾城五四九人、太夫 一八人、天神 八五人、端シ 一六一人、禿 二二七人と記載されている。最盛期とされる元禄三年(一六九〇)には一九八軒、遊女が一七一五人居た。
   「嶋原の入口淋し枯柳    子規」
四、子規の遊里用語

 子規が使用した用語として、半玉、居つづけ、太夫、傾城、芸妓、芸者がある。花魁、茶屋、舞妓(舞子)の句を調査中。管見では見つかっていない。

半玉  (注)まだ一人前でない、玉代ぎょくだいが半分の芸妓。おしゃく。雛妓。 半玉が燭の心剪る櫻かな 
東宮御慶事紀念 君ガ幸多キ新婚ヲ望ム
半玉カ芸者カ女郎カ屁ヒルチフ女学生徒カ君ガ妻ハタレ

居続け
(注)妓楼などに遊びを続けて帰らぬこと。流連。 牡蠣汁や居續けしたる二日醉 

太夫
、傾城  (注) 「太夫」 最上位の遊女。 「傾城」 近世では、特に太夫を指す。
六月や太夫となる身罪深し 

芸妓 (注)酒宴の間をとりもち、歌・三味線・舞踊などで客を楽しませる女。芸者。芸子
一群の藝妓に出逢ふ花見哉 

芸者、小芸者
(注)歌舞や三味線などで酒席に興を添えるのを業とする女性。芸妓。芸子。
夕立に藝者の小哥くつれけり 
小藝者の蚊遣も焚かず夕化粧 
五、遊里の情景

@道後(松ヶ枝町)遊郭

「道後の遊廓と湯月城址」 田山 花袋
  道後は思ったほどすぐれたところではなかった。それは松山の東北の丘陵の裾の平野に落ちるやうなところに位置してゐた。汽車でも行けるが、その時間を待つのが厄介なので、私達は車をつらねて細い暗い町の通を通って行った。
 大きな旅館は旅館に続いてゐた。何の旅館にも内湯がなかった。旅客は手拭を下けて、そこの中央にある大きな浴に入って行かなければならなかった。そこの浴槽は、さすがに綺麗で、石造か何かで、湯が沢山にあったけれど、二階に浴後の茶を勤める設備などには好いところがあるとは思ったけれど、概して温泉場といふ気分には不満足であった。昔栄えた温泉も年を経て老朽して、湯も少くなって了つたといふやうな感じがした。たしかに道後は有馬などと均しく老衰した温泉である。
 私達は晩飯をすましてから、通の方へ散歩に出かけた。いくらか爪先上りになってゐた。少し行くと、左の方に門がある。覗いて見ると灯があかるくついてゐた。
 『どうだ、行って見やうぢゃないか』
一行の先達とも言ふべきS君が言った。中には躊躇するものもあったが、ぞろぞろ皆なその方に入って行くことになった。私などは、其時分はまだねつからさうした社会の味を知らないので、一層躊躇された。『何アに、いやなら、唯帰って釆たッて好いぢやないか。酒を飲んだだけで帰って来たって好いぢやないか』 かう言ってS君は私の袖を引いた。
 私達の上つたのは、左側の大きな家であった。長い廊下をつたって行くと、奥の中二階の八畳の一間があった。やがて.女中が来て、芸者が客の人数の頭だけ呼はれることになった。酒が出て、料理が出て、やがてその多勢の女達がやって釆た。
 その夜の騒ぎを私は今でも忘れることが出来ない。何故と言って、さういふ遊びをしたのは、私には殆んど最初であったからであった。歓楽の世界が初めて私の前に展けたのであった。今考へると、随分可笑かったことであらうと思はれる。私は誰黙って隅の方に坐って、独りで盃ばかりを手にしてゐた。一緒に行った人達が大きな声をあげて流行唄をうたったり、都々逸を唄つたりするを誰見てゐた。芸者達が客の間にわり込んで坐って、手を客の膝の上に置いたりするのを不思議さうにして見てゐた。『T君、何うしたんだえ? 少し騒ぎたまへな。隠し芸でも出したまへな。何も遠慮してゐることはありやしない。』などとW君は言った。
その多勢の芸者の中で、とん子といふのが二十三四で、一番綺麗であった。梅江とか藤江とか言った妓も給麗であった。その他半七だの時子だのといふのがゐた。
 その藤江といふ妓が私の便所に行くのについて来て、水をかけてくれて、桃色のハンケチを出して呉れた時には、
私の体はイヤにワクワクした。この女なら、一夜静かに寝て見ても好いと思った。しかし何も一言も口を利かなかった。ところが、その藤江ほ私の相手ではなくって、W君のもので、半七といふ二十七八の年増の芸者が私の相手だと開いた時には、私は失望した。
 私は暗い一間に入るには入ったが、すぐそこから出て、旅館の方へ一人で帰って来た。もう一度湯に入らうと思って、大湯の方へ手拭を持つて行て暖まって、それから旅宿に来て、布団の中で、東京でわかれて釆た若い女に長い長い手紙を書いた。その手紙には、何んなに思結めた心持が書いてあったことであらうか。何んなに悲しい言葉が書きつらねてあったことでらうか。手紙を書きながら涙が紙の上に落ちて落ちて仕方がなかったことを覚えている。その手紙を私は今見たいと思ってゐる。」以下省略                                                                                         (注)「日本一周」中編、大正四年刊  『道後温泉』(松山市 1974刊)より転載(393〜395p)

A稲荷新地 
  該当なし

B吉原遊郭 
○「吉原の太鼓聞こえて更くる夜にひとり俳句を分類すわれは    子規」
(注)根岸の子規庵と吉原との直線距離は約1・5キロ○ 極堂:「子規を語る」毎日新聞 1931 『子規全集 別巻3』239〜240p
(その童貞を破らせた話 殺風景な吉原に失望 女好きのする男振りだった)
「【柳原】子規と異性の話――明治十七年か八年だつたらう、僕に「お前は吉原を知ってゐるか」と聞くから「知つてゐるよ」といふと「どうして知つてゐるか」と、いふ、わしは「もう三,、四度行つたことがある」といふと「わしもそれはうすうす聞いてゐた、それではこれからわしを連て行け」といふ「連て行けといつても今は金がない」「金はわしが持つとる」ととうとう二人が吉原にのし込んだ、
大門をはいつてしばらく歩いてゐると正岡が「オイもうわしはやめた」といふ 「どうしたんだ」といふと「わしは懐中をなくしたわい」といふ 「そいつは困つた、それでは引き返さう」といつて四、五間帰りかけると、そこに正岡の懐中が不思議に人も拾はず落ちてゐた。人が拾はなかつたのも道理ぼろぼろの汚ない財布を紐でぐるぐる巻きに口をしめてゐた、それが煮しめたやうな色をして地面と殆ど見わけができなかつたので誰にも気づかれなかつたものらしい 「あゝあったあった」「あつたらさあ行かう」」と以前私が連れて行つてもらつた青楼へ二人で登った、
その翌朝連れ立つて帰る途中に正岡は「青楼はまるでつまらん所だね、あれでは詰まらん詰まらん」と繰り返していつた、その時私は「こいつふられたから、あんなことをいふんだな」と思ったが後でよく考えて見ると正岡は本で読んだ吉原文学のおいらん、美しいその遊廓情緒をその心に描いて行った、ところが現箕の吉原はいかにも殺風景であつたので少からず失望を感じたものにちがいない、詰り実利主義の吉原と正岡が想像したロマンチックな吉原が一致しなかったのだな (注)「青楼」―遊女屋妓楼。江戸時代は吉原遊廓を指した。 子規・極堂が登楼した妓楼は不明。芸妓のいない三流ところヵ。
吉原遊郭 『仰臥漫録』明治34年9月29日 448〜449
扠紅緑(佐藤紅緑)ノ「下駄ノ露」ハ 富士ノ頂上」ト同ジク作者ノ工夫ハ見エヌ
併シ写生二行カレタ御苦労ハ受ケ取レル 若シ吉原十二時トイフヤウニ完成シタラバ面白カラウ
此「下駄ノ露」(コレハ吉原ノ朝ヲ写シタルモノ)ニ就イテ思ヒ出シタコトガアル 
アルトキ 一念(古島一雄)ニ伴ハレテ「角海老」(かどえび)二遊ンダ次ノ朝一念ハ居続ケスルトイフノデ蒲団カブツテ相方トサシ向ヒデウマサウニ豆腐カ何カ食ツテタカラ自分ハ独リ茶屋へ帰ッテ其二階カラシバラク往来ヲ見テ居タ スルト其時横町カラ出テ病院へデモ行クノデアラウト思ハレル女ガ二人頭ハ大シヤグマ、美シキ打掛(ウチカケ)着テ静カニ並ンデ歩行ク後姿二今出タバカリノ朝日ガ映ツテ龍カ何カノ刺繍ガキラキラシテ居ル 之ヲ見テ始メテ善イ気持ニナツタ 吉原デ清イ美シイ感ジガ起ツタノハ此時バカリダ(注)吉原「角海老」(吉原)最大クラスの遊郭 時計台はシンボル。写真参照されたい。

C州崎遊郭 「子規を語る」毎日新聞 1931 『子規全集 別巻3』240p
「【柳原】・・・後年「日本及日本人」に古島一雄が正岡を州崎へ連れて行ってその童貞を破らしたやうに書いてゐたが、いづくんぞ知らん、それ以前に童貞を破らしたものがこゝにゐるんだ。」「子規を語る」『子規全集別巻3』240p

D品川遊郭 『病牀六尺』十三 (250〜252p)
○古州よりの手紙の端に
 御無沙汰をして居つて誠にすまんが、実は小提灯ぶらさげの品川行時代を追懐して今日の君を
床上に見るのは余にとつては一の大苦痛である事を察して呉れ玉へ。
とあつた。此小提灯といふ事は常に余の心頭に留まつてどうしても忘れる事の出来ない事実であるが、流石に此道には経験多き古洲すらも尚記憶してをるところを以て見ると、多少他に変つた趣きが存してゐるのであらう。今は色気も艶気もなき病人が寝床の上に儀悔物語として昔のゝろけも亦一興であらう。           
 時は明治二十七年春三月の末でもあつたらうか、四箇月後には驚天動地の火花が朝鮮の其慮らに起らうとは固より知らず、天下泰平と高をくゝつて遊び様に不平を並べる道楽者、古洲に誘はれて一日の日曜を大宮公園に遊ばうつと行て見たところが、櫻はまだ咲かず、引きかへして目黒の牡丹亭とかいふに這入り込み、足を伸ばしてしよんぼりとして待つて居る程に、あつらへの筍飯を持つて出て給仕して呉れた十七八の女があつた。此女あふるる許りの愛嬬のある顔に、而もおぼこな虞があつて、斯る料理屋などにすれからしたとも見えぬ程のおとなしさが甚だ人をゆかしがらせて、余は古洲にもいはず独り胸を躍らして居つた。古洲の方も流石に悪くは思はないらしく、彼女がランプを運んで来た時に、お前の内に一晩泊めて呉れぬか、と問ひかけた。けれども、お泊りはお断り申しまする、とすげなき返事に、固より其事を知つて居る古洲は第二次の談判にも取りかゝらずにだまつてしまうた。其から暫くの問雑談に耽つてゐたが、品川の方へ廻つて帰らう、遠くなければ歩いて行かうぢやないか、といふ古洲がいつに無き歩行説を取るなど、趣味ある発議に、余は固より賛成して共にぶらぶらとこゝを 出かけた。
外はあやめもわからぬ闇の夜であるので、例の女は小田原的小提灯を点じて我々を送つて出た。 姉さん品川へはどう行ますか、といふ問に、品川ですか、品川は此さきを左へ曲つて又右曲つて・・・・・其虞迄私がお伴致しませう、といひながら、提灯を持て先に駈け出した。我々は其後から踵(つ)いていて一町余り行くと、薮のある横町、極めて淋しい虞へ来た。此から田甫(たんぼ)をお出になると一筋道だから直ぐわかります、といひながら小提灯を余に渡して呉れたので、余は其を受取つて、さうですか有難う、と別れようとすると、一寸待つて下さい、といひながら彼女は四・五間後の方へ走り帰つた。何かわからんので躊躇してゐるうちに、女は又余の処に戻つて来て提灯を覗きながら其中へ小さき石ころ一つ落し込んだ。さうして、左様なら御横嫌宜しう、といふ一語を残したまゝ、もと来た路を閻の中へ隠れてしまうた。此時の趣き、薮のあるやうな野外れの小路のしかも闇の中に小提灯をさげて居る自分、小提灯の中に小石を入れて居る佳人、余は病床に苦悶して居る今日に至る迄忘れる事の出来ないのは此時の趣きである。
其から古洲と二人で春まだ浅き夜風に吹かれながら田甫路をたどつて品川に出た。品川は過日の火災で町は大半焼かれ、殊に仮宅を構へて妓榛が商売して居る有様は珍らしき見ものであつた。仮宅といふ名がいたく気に入つて、蓆囲ひの小屋の中に膝と膝と推し合ふて坐つて居る浮れ女どもを竹の窓より覗いてゐる、古洲の尻に附いてうつかりと佇んでゐる此時我手許より炎(ほのほ)の立ち上るに驚いてうつむいて見れば今迄手に持つて居つた提灯は其蝋燭が尽きた為に火は提灯に移つてぼうぼうと燃え落ちたのであつた。
うたゝ寝に春の夜浅し牡丹亨
春の夜や料理屋を出る小提灯
春の夜や無紋あやしき小提灯(五月二十五日)  
                                
E飯坂遊郭 『はてしらずの記』 明治26年(1893年)7月25日〜27日 539〜541p
(注)飯坂若葉新地 遊郭  貸座敷 七軒 娼妓 約五〇人『全国遊郭案内』 
「はて知らずの記」によれば、正岡子規は明治26年7月25日福島から人力車で飯坂温泉に向かい、25日26日飯坂温泉内の旅館に宿泊し、27日人車で桑折に向かったとされています。
 

〇傾城は のちの世かけて花見かな 「帰路殆んど炎熱に堪へず。福島より人車を騙りて飯坂温泉に赴く。天稍々曇りて野風衣を吹く。涼極つて冷。肌膚粟を生ず。湯あみせんとて立ち出れば雨はらゝゝと降り出でたり。浴場は二箇所あり雑沓芋洗ふに異ならず。
夕立や人声こもる温泉の煙
二十六日朝小雨そぼふる。旅宿を出で、町中を下ること二三町にして数十丈の下を流るゝ河あり。摺上川といふ。飯坂湯野両村の境なり。こゝにかけたる橋を十綱(とつな)の橋と名づけて昔は綱を繰りて人を渡すこと籠の渡しの如くなりけん 古歌にも
みちのくのとつなの橋にくる綱の
       たえずも人にいひわたるかな
など詠みたりしを今は鉄の釣橋を渡して行来の便りとす。大御代の開化旅人の喜びなるを 好古家は古の様見たしなどいふめり。
釣り橋乱れて涼し雨のあし
向ひ側の絶壁に憑りて構へし三層楼立ちならぶ間より一條の飛爆玉を噴て走り落つるも奇景なり。
涼しさや瀧ほどばしる家のあひ
旅亭に帰りて午睡す。夢中一句を得たり。をかしければ記す。
涼しさや羽生へさうな腋の下
こゝに召し使ふ一人の男年は十六七なるが来りていふ。生れは越後にして早くより故郷をはなれ諸国をさまよふて今は此地に足を留むと雖も固より落ちつくべきの地にもあらねば猶行末は流れ渡りに日本中を見物するの覚期なり。されどそれよりも成るべくは亜米利加に渡りて見たき存念なるが如何せばよからんといふ。年若きに志大なるが面白ければ 様々の事話しなどす。名は何と呼ぶやと問ふに平蔵と答へければ
平蔵にあめりか語る涼みかな
など戯れに吟ず。明日は土用の丑の日なればとて 四方の村々より来る浴客夜に入りて絶えず。
当地は佐藤嗣信等の故郷にして其居城の跡は温泉より東半里許りに在り。医王寺といふ寺に義経弁慶の太刀笈などを蔵すといふ。故に此地の商家多くは佐藤姓を名のると見えたり。此処に限らず奥州地方は賎民普通に胡瓜を生にてかぢる事恰も眞桑瓜を食ふが如し。其他一般に客を饗するに茶を煎ずれば 茶菓子の代りに糠漬の香の物を出だすなど其質素なること総て都人士の知らざる所なり。
二十七日曇天朝風猶冷かなり。をとつひより心地例ならねば終に医王寺にも行かず。人力車にて桑折に出づ。途中葛の松原を過ぐ。
世の中の人にはくずの松原と
         いはるゝ身こそうれしかりけれ
と古歌に詠みし処なり。
(注)飯坂温泉の旅館に宿泊旅館は不明(松葉館説と和田屋説)

F島原遊郭
(注)与謝蕪村  
○花を踏みし草履も見えて 朝寝かな
○住吉の雪にぬかづく 遊女かな
六、新吉原・元吉原(芳原)を歩く

〇新吉原・・・  「浅草」の東京市編入は遅く、子規は浅草に出掛けていない。
 かつて松山市内に「江戸町」があり「江戸町停留所」があった。今日、歴史的にはまったく根拠のない、却って将来に禍根を残す「大手町」があり「大手町停留所」がある。
承久の乱(一二二一年)では伊予の河野氏(通信以下)は宮方に加担し、武家方(鎌倉・北条氏)に敗退した。伊予には鎌倉御家人が派遣され、その中に「江戸氏」がいた。当時の浅草は海に面していたが、「江」の「戸」を領有していたのが「江戸氏」であり、道後郷の一部を領有していたので一遍時衆のことは承知していたと思う。
一遍時衆が陸奥江刺まで遊行し「河野通信墓」で「踊り念仏」して弔ったが、『一遍聖絵』によれば「武蔵の国石浜(現・台東区浅草石浜町)にて、時衆四五人やみふしたりけるを見給ひて、
「のこりゐてむかしをいまとかたるべき こゝろのはてをしるひとぞなき」
という次第で、病の時衆を「江戸氏」に預けた。やがて、この地に「時衆・石浜道場」が開かれ、民衆の町浅草が誕生する。新・吉原は江戸氏の領地内である。
地図 「東京街歩きガイド」(実業之日本社 1996刊)
    コース20 「吉原と一葉の作品に、江戸・明治の跡をみる 今戸から三ノ輪へ」
    浅草駅―今土焼―待乳山聖天―吉原大門跡―鷲神社―一葉記念館―浄閑寺―三ノ輪駅

〇元吉原 
・・・  「明暦の大火」で全焼したので、この地ではわずか四〇年くらいの営業であった。現在の地図で云うと「人形町駅」の東側で、出入りは「大門」だけで四方は「掘割」である。
現在の「芳町」を中心に、東は「明治座」、南は「水天宮」あたりまで花街は広い範囲であった。現在の「人形町」がすっぽり入る範囲か。大通りを越えれば「日本橋久松町」であり、「久松家屋敷」も近い。 
ガイド図の右橋の「横山町問屋街から浜町へ」に「元 吉原」の全域が表示されている。
、道後旧松ヶ枝町を歩く

〇奥之谷宝厳寺古図 (伊予史談会蔵)・・・金剛滝、奥之院、開山堂、毘沙門道、鎮守社、総門など

〇松ヶ枝町略図 (池田洋三『わすれかけの街 松山戦前戦後』愛媛新聞社2002)

〇遊郭「朝日楼」写真&平面図(犬伏武彦『民家と人間の物語 愛媛・古建築の魅力』愛媛新聞社2003)
まとめにかえて   〜遊里文化と日本文化〜

(1)後鳥羽上皇が編纂された「梁塵秘抄」に有名な「今様」がある。
〇遊びをせんとや生れけむ、戯れせんとや生れけん、遊ぶ子供の声きけば、我が身さえこそ動がるれ。
〇舞え舞え蝸牛、舞はぬものならば、馬の子や牛の子に蹴させてん、踏破せてん、
真に美しく舞うたらば、華の園まで遊ばせん。
〇東屋(あづまや)の妻とも終(つい)に成らざりけるもの故に、何とてむねを合せ初めけむ。
(2)「遊里文化」は、うぶ(初心)な青年である子規や花袋のエッセイに見るように、異世界・異文化に初めて接した驚愕と恥じらいが感じられる。ラスベガスやマカオで大道芸(マジックショー)やスペクタルショウ、賭け事、ディズニーーランドのパレードと映像の中にあった建造物、アルハンブラ宮殿やアラブの王宮内の「後宮」の静謐・・・始めた体験する異文化は、次々と、語られ、「伝説」が生まれる。(3)アメリカの現代哲学者 ロジェ カイヨワは『遊びと人間』(講談社学術文庫 岩波現代叢書)で「文化は遊びの中始まった」という認識から展開していく。

パイディア(Pidia) ルドゥス(Ludus)
ミミクリ(模擬) けんか サッカー
アレア(運・偶然) 野球 (存在しない)
アゴン(競争) パチンコ ごっこ遊び、
インリンクス(眩暈) サーカス (存在しない)

(注) パイディア(Pidia) 即興と歓喜の間にある、規則から自由になろうとする原初的な力
ルドゥス(Ludus)  恣意的だが強制的でことさら窮屈な規約に従わせる力
(4)遊里文化の代表は、東(江戸)の吉原、西(京)の祇園・島原になろう。その文化を支えたものは、茶屋・置屋・仕出しなどに分業化した「お茶屋システム」と芸妓・舞妓(舞子)への徹底した「芸妓教育システム」があった。その背景には、舞踊・歌舞伎(阿国)、立花(池坊)、絵画、茶道、連歌(時衆僧)、説教節・・・寄席芸(聖)、俳諧、能(世阿弥 観阿弥)、建築、作庭、刀剣、作陶がある。また中世の日本人の根源的な美意識である「詫び・寂」が生まれる。

その文化の多くは、室町時代に「阿弥文化」とも云われ、「阿弥」と称する技術集団、芸能集団、知識集団が活動した。「賎業」として差別された「遊女」「職人」も「南無阿弥陀仏」と口唱念仏することにより成仏(救済)するとする一遍時衆の念仏理念(「南無阿弥陀仏」)が精神的な支えとなっていく。遊里文化の華が開くのは「元禄時代」である。「遊里文化」を芸術(美)までに昇華させた浄瑠璃・歌舞伎も「女郎(娘)歌舞伎」・「若衆歌舞伎」から今日見る「野郎歌舞伎」となり東の「荒事」、西の「和事」に分化していく。

令和の新しい時代の「遊里文化」は・・・・・                  以上
遊廓十句集(明治三十一年四月)

香墨 森々 子規 秋竹 楽天 肋骨 左衝門 愚哉  胡堂 東洋 繞石 露月 碧玲瓏 春風庵 碧梧桐 墨水(幹事) 

     春の部

温泉の宿に遊女と語る日永哉    森々
吉原の小学校や桃の花         楽天
遊廓に我恋初めし櫻かな        愚哉
色町の物干台や春の風         胡堂
春の夜の明けなんとする廓かな   子規
春の夜のつひうかうかと通ひけり 碧玲瓏
春風の禿を呼ぷや煙草盆      春風庵
傾城の頭痛に悩む春の宵        墨水
夜櫻や廓此頃薄月夜          東洋
湯治場や廓に近き春の月      碧梧桐
傾城に肩ひねらせつ二日灸     左衝門
吉原の火事を見に行く朧かな    秋竹
引手茶屋の軒提灯や花の頃    繞石
電燈かつと廓の口の柳かな      肋骨
六法や廓の櫻男伊達          露月
吉原の櫻に耻ちし白髪かな     香墨
廓見に花見戻りの群集かな    森々
大門を出でゝまばゆき初日哉   楽天
遊廓の灯夥しき櫻かな        愚哉
小賢しき禿や酔ひし雛の酒     胡堂
初会かな台に小さき春の鯛    子規
敵娼は常時廓中第一の花     碧玲瓏
小傾城の雛祭り居る昼の雨   春風庵
流連けて三昧なんど弾く春の雨   墨水 
絵姿や傾城恋ふる春の暮      東洋
廓の灯や蛙鳴く夜の小千住    碧梧桐
女具して廓見に行く朧月      左衛門
吉原の櫻写真す異人かな      秋竹
花の廓野次馬集ふ喧嘩哉      肋骨
二三人廓出て行く春の雨       露月
遊廓の昼静かなる櫻かな      香墨
遊廓に入る大門の柳かな      香墨
春の廓若き男のなぷられし     露月
退け過きの雨淋うて遅櫻       肋骨
傾城に序ある揚屋の雑煮哉     秋竹
夜櫻や廓に意趣の伊達くらぺ    左衛門                                                                        花の頃都島原の君を見る      碧梧桐
茶を摘みし女なりしを小傾城    東洋
柳緑りに暮れんとす廓の灯     春風庵
夜櫻や初会にして未だ親まず   碧玲瓏
傾城の汐干見てゐる二階かな    子規
色町の三味きこゆ川の柳かな   胡堂
萬歳と猿曳はいる廓かな      楽天
廓近く父に肖たるが畑打つ       楽天
春雨や遊女つれだつ傘と傘     胡堂
蛤と海草をぬふ裲襠かな        子規
傾城は三層楼に花の春       碧玲瓏 
廓から戻る朧の橋高し        春風庵
流速の傾城町に日の永き      東洋
花に酒居つゞけの愚や二日酔    碧梧桐
雛抱いて禿罪なき酒宴かな     秋竹
花に酔ふて遊女見に行く人数哉  露月
入口の青柳見ゆる廓かな      露月
吉原や夜るの櫻につり灯       香墨
廓更けて雨となりたる櫻かな    森々
傾城の芹摘みに出る保養かな    森々
夜櫻に人の減りたる小雨かな    楽天
吉原の火事映る田や鳴く蛙     子規
遊廓や社日の晩のぞめき衆    碧玲瓏
海に近く春の廓の灯多き       春風庵
大門を出づれは春の風が吹く     東洋
千金を遊廓の酒に櫻かな        碧梧桐
みだれ箱に蚕飼ふたる遊女かな    秋竹
廓見ゆ菜の花街道横に折れ      露月
紀文酵ふて揚屋出てたり春の夕    香墨
廓焼けて淋しき宵や春の雨 森々
傾城の歌をよみたる櫻かな      森々
夜櫻や掏児縛らるゝ仲の町     楽天
いとしさに馴染をかさね春尽きぬ  碧玲瓏
百軒の廓千本の夕櫻     春風庵
花は櫻傾城は賎しきものにぞ    東洋
見苦しき遊女の欠伸春遅し       森々
廓の雛屏風ひそかに灯のともる   碧梧桐
屠蘇酌むで禿かしこき御慶哉    秋竹
朧夜の廓逃け来し二人かな      露月
使して廓に這入る桜かな     森々
二階暖く遊女の寝衣干してある  春風庵
蝶胡蝶曲輪は昼の静なる        東洋
春の夜の素見客多き格子かな     森々
提灯の曲輪に這入る春の脊      東洋
櫻さく紋日の伊達を小傾城    碧梧桐
女連れて廓の櫻見に出でし    露月
小謡や吉原堤朧月       香墨
汐干狩洲崎の浜の遊女かな       森々
    夏の部
小田原や廓の跡の麦畠          楽天
遊廓の跡うち返へす麦畑         愚哉
女郎部屋に牡丹明るき鏡かな     胡堂 
旅にして妓楼に遊ぶ浴衣哉       子規
遊廓の祭りすんだる夜の雨     碧玲瓏
提灯は花魁送る駕籠涼し      春風庵
欄に倚りて遊女夜涼む楼の月     墨水
短夜の傾城町になゐふるふ      東洋
更衣其夜遊女の姿かな       碧梧桐
遊女町二階三階土用干       左衛門
揚屋出て柳に夏の夜は明けぬ     秋竹
幇間の大尽に侍す扇かな       繞石
初会にして青梅のちきり浅からぬ  肋骨
心中の騒きに廓明け易き       露月
蝙蝠や遊廓の路次裏田圃       香墨
水打て灯をともしたる廓かな    楽天
遊廓や明けひろげたる夏坐敷      愚哉
絹帷子に帯しだらなき遊女かな    胡堂
汗くさき遊女と寝たり狭き花莚    子規
傾城の団扇で招く螢かな       春風庵
しだらなく遊女いねたり狭き蚊帳  墨水
萍の身は数ならぬ遊女かな       東洋
客多き鮨屋の女房遊女なりし    左衛門
編笠をそれかと推し禿かな       繞石
爪びきや内所の口の青すだれ     肋骨
遊廓に牡丹の君の浮名かな       香墨
傾城の牡丹きらせつ橡による     胡堂
船著の小き廓や綿の花         子規
傾城の受け出されたる更衣      墨水
夕涼遂に新地へ廻りけり       左衛門
すさまじや昼寝して居る傾城等   繞石
口説多くして夜はやふけぬ鮓の台  肋骨
品川の灯し涼しき洲崎かな      墨石
短夜や時の木を拍つ早き音      繞石 
蝙蝠や戸口に妓夫の二三人      肋骨
夏痩せて遊女の恋のいぢらしき   墨水
     秋の部
遊廓の祭り角カや土俵入り      愚哉
燈籠に遊女灯ともす庭の萩      胡堂
吉原のにわか過ぎたる夜寒かな   子規
小格子女郎のあくたいをいふ燈寵哉  碧玲瓏     
傾城は相撲の妻や鮓の店      春風庵
灯篭に仁和賀などある廓かな    墨水  
肌寒や傾城町にのこる月      左衛門  
うそ寒や白粉はげし女郎の顔    繞石
女郎屋の中庭に痩せて女郎花    肋骨
待宵を遊廓に笛吹き胡弓弾く    愚哉
傾城のしたたか酔ひし新酒哉    胡堂
船を出て月に散歩す遊女町     子規
七夕の竹を樹てたり廓中      碧玲瓏
待宵を小侍従と申す遊女かな   左衛門  
遊廓や秋の蚊うなる外厠       愚哉
     冬の部
火事滑えて廓は雨となりにけり   楽天
遊廓や師走月夜の頻冠り       愚哉
侘しさに遊女三味ひく炬燵かな   胡堂
花魁のつひに来さりし衾かな   碧玲瓏
寒き夜の廓に火あり妓の走る    墨水
楼の雪禿に燭をとらせけり      碧梧桐
二三人遊女居残る火鉢かな      左衛門
木枕に名代部屋の寒さかな       秋竹
ひけ迄とたゝひて行きし布団哉     繞石
廻し部屋に独り寝の粋や塞からず   肋骨
川千鳥若き遊女の京言葉         露月
冬の夜の遊廓淋しうどん売       香墨
遊廓や辻占売りの声寒き        愚哉
引つけの坐定まらす火鉢かな    碧椅桐
居つゞけて雪に揚屋の火燵かな   左衝門
店張って遊女淋しき火鉢哉       秋竹
名代部屋に布団かぶる客の空寝哉  繞石
馴染客は賊でありける師走かな   肋骨
吉原に五人斬あり年の暮        香墨
鉢叩きつゝ廓に姉を捜すかな     楽天
遊廓の火事や二階に戸惑ひす     愚哉
ものぐさき蒲囲の襟や廻し部屋   墨水
禿等か騒く揚屋の煤払         秋竹
女郎町に心中はやる師走かな    繞石
間夫に首尾すつめたき肌のいとしかり 繞石
(注) ◇◇◇ 遊里遊郭を示す語
参考資料
明治三十一年四月
「遊廓十句集」 俳句会出席者 一覧


香墨    渡邊香墨 茨城県生。 (調査中) 
森々    青木森々  (調査中) 
子規    正岡子規(慶応三年〜明治三五年) 省略
秋竹    竹村秋竹(明治八年〜大正四年) 愛媛県生。本名修。初号修竹。子規について俳句を学ぶ。金沢四高在学中に北声会を組織、北陸に子規派を広めた。
楽天    中村楽天 兵庫県姫路市生。「国民新聞」記者から「」国民の友」編集者。「ホトトギス」同人。「日本派」最初の類語句集『新俳句』(民友社)の編集、刊行に支援。 (調査中)
肋骨    佐藤肋骨(明治四年〜昭和一九年) 東京都生。本名安之助。陸軍少将。永く在外武官として活躍。近衛連隊在職中から瓢亭、非風らと作句、子規の教えを受ける。    
左衝門   吉野左衛門(明治一二年〜大正九年)東京都生。本名太左衛門。初号太朗。「国民新聞」に務め、のち「京城日報」社長。俳句を子規に学ぶ。『栗の花』『左衛門句集』など。  
愚哉    新井愚哉(明治四年〜昭和九年)岡山県高梁市生。本名太一郎。画家。子規に俳句を学び、句は『新俳句』『春夏秋冬』等に入集。『相模百景』『廿五年』等。 
胡堂    加藤胡堂。松山生。本名寛一。松風会員。(注 参照)
東洋    北里病院入院(注 参照) 
繞石    大谷繞石(明治八年〜昭和八年)松江市生・本名正信。英文学者。二高在学中、同窓の碧梧桐・虚子らと句作。東大に進んで直接子規の教えを受けた。四高在学中北声会を指導。句集『落椿』。  
露月    石井露月(明治六年〜昭和三年)秋田県生。本名祐治。新聞『小日本』『日本新聞』の記者を務め
      た後、医学を志し医師になる。その傍ら『俳星』『亙川』『雲従』等の雑誌を発行。
碧玲瓏   直野碧玲隴。「日本派」最初の類語句集『新俳句』(民友社)の編集支援。北里病院入院。(調査中) 
春風庵   北里病院入院(注 参照) 
碧梧桐   河東碧梧桐(明治六年〜昭和一二年) 省略 
墨水    梅沢墨水(明治八年〜大正三))静岡県生。本名喜与太郎。実業家。十八歳から俳句を子規に学び、関西俳壇で活躍した。 『墨水句集』

(注)「芝の白金三光町にあった北里病院から『新俳句』という句集の現れたことも思いがけない出来事であった。それはその病院に入院中の上原三川君と直野碧玲瓏君とが・・・・・その外に東洋、春風庵という二人もいた――『日本新聞』の句を切り抜いて持っていたそれを材料として類題句集を編み、それを国民新聞社にいた中村楽天君の周旋で民友社から出版したのであった。校正万般出版上の面倒は楽天君の隠れたる努力であった。この頃余は『国民新聞』の俳句の選者を依頼された。」 (高浜虚子著「子規居士と余」十二より)

【参考図書】
『子規門結社・俳人・歌人一覧」『子規全集第二十二巻 年鑑 資料』(講談社版1978) 
『伊予俳人録』 白田三雅 編(松山子規会叢書第26集 1998)
『回想 子規・漱石』高浜虚子著 (岩波文庫2002)
『子規居士の周囲』柴田宵由著 (岩波文庫2018)