第八十三章  一遍とほととぎす
  「郭公なかぬ初音ぞ珍しき」(『菟玖波集』)は一遍の作か
 (一遍会 令和4年5月例会 卓話)  )
はじめに  連歌式にふれて

令和四年の御歌始の儀は、一月十八日宮中で厳粛に執り行われた。御題は「窓」。

天皇陛下の御歌(御製)
  世界との往き来難かる世はつづき 窓開く日を偏に願ふ


令和三年の御歌始の御製を掲げる。御題は「実」。
  人々の願ひと努力が実を結び  平らけき世の到るを祈る


感染症(新型コロナ)禍で日本人は羅針盤を失った感があるが、御製を拝読して大御心の温もりと深甚なる祈りを多くの国民は感じ取ったに違いあるまい。改めて和歌の生命力に感嘆した。

今日の宮中の年初行事である御歌始は古く平安時代から延々と継承され、京都御所には御歌所が設置されていた。和歌は貴族を中心に開花した宮廷文化であるが、武家社会では、俳諧連歌を鎌倉幕府から江戸幕府に至るまで正月には「連歌始」として執り行われた。
一方、宮廷連歌御会の終焉は元禄一四年(一七〇一)の霊元院と東山天皇の時期とされるので、宮廷の連歌始は一七世紀に消滅している。(田中隆裕「宮廷連歌御会の終焉」
室町幕府の連歌始は正月一九日、江戸幕府の連歌始は正月二〇日、承応年間(一六五二〜一六五五)以後は正月一一日に江戸城中で行われた。柳営連歌始とも云う。
天文(1532?1555)年間に始まる。里村家の人々を中心に連衆が登城し、宗匠が発句、歴代将軍が脇(代作)、次の宗匠が第3を作るのを常例とし、老中以下の陪聴が許された。
時宗浅草日輪寺住職も連歌始に出仕している。【承応二年住持其阿江戸城連歌初式出仕】(禰%c修然『時宗の寺々』)

(注)江戸時代の日輪寺の格式
 江戸時代の日輪時は、寺領三十石で、塔頭に安称院、林香院、宝珠院、東福院の四院をもっていました。また、日輪時はもともと佐倉城主であった堀田家の菩提寺である。
 江戸幕府との関係では、日輪寺の主僧は将軍に特別に拝賀出来る資格(乗輿独礼席)を許され、徳川三代将軍家光の寛永年間からは、殿中でおこなわれた恒例の正月十一日の御連歌始の儀式にお連歌衆として。亀戸天神の神官等十名程の人々と伺候していた。
将軍の御代替わりには、登城時の衣服を幕府から与えられることになっており、日輪寿の主僧には高い格式が与えられた。
(注)最後に柳営連歌始め  
  日輪寺住職「寿阿弥」・・・森鴎外「寿阿弥の手紙」に詳しい・

特筆すべきは、時宗における連歌式であり、今日まで営々と続いている稀有な連歌の催事である。
時宗清浄光寺(遊行寺)の主要行事である歳末別時念仏会を例年十一月 十八日から二八日にかけて開催される。修行する前の十八日に「御連歌の式」が執り行われる。
遊行上人をはじめ全山の僧侶が小書院に参入して。熊野の大権現の神前に、連歌を奉納する。これは別辞念仏を修行するに当り、熊野大権現の神意を伺う為の御連歌の式であるとされる。
二八日の御滅灯(一ツ火)でクライマックスを迎えるが、これは闇から再び弥陀と釈迦の光明に照らされた世界が戻ってくることを表現しています。

また、年末に行っていた行事のため、「一年間の悪業を懺悔し、来年の善業を志す」 という意味合いもある。(時宗教学研究所『時宗辞典』)
俳諧連歌発句は、室町期から江戸期に掛けて、武士・商人・時衆・阿弥衆中心に普及し、処々で初句会が開催された。
「歳時記」(新年)に江戸城連歌・初連歌・御連歌始がある、
花近し髭に伽羅たく初連歌 
言水「後れ雙六」
燭剪りのひかへて連歌始かな
吉田冬葉「懸葵」

一、ほととぎす考

1、「道後八景」とホトトギス

明治初期に作られた「道後八景」には鳥が詠み込まれ「冠山杜鵑(とけん)」とある。杜鵑とはホトトギスを指す。
「義安寺蛍 奥谷黄鳥 円満寺蛙 冠山杜鵑 御手洗水鷄 湯元蜻蛉古濠水禽 宇佐田雁」
冠山は古くは「出雲崗」と呼ばれ、「延喜式内社」では「出雲崗神社」があった。今日は、湯神社と呼ばれ、出雲崗神社は合祀されている。この社域に、一遍聖の父である河野通広を祀る神社(子守社)と墓が残っている。遊 行上人の伊予回国に当たり、度々詣でている。
一遍生誕寺とされる宝厳寺は奥谷にあり、黄鳥が当てられている。黄鳥とはウグイスを指す。(WEB拙論「道後学序説〜景観と文化 (道後八景十六谷))

2、明治初期の「小学唱歌」『夏は来ぬ』

 戦前の学童がよく口にした唱歌に「夏は来ぬ」がある。作詞は佐々木信綱、作曲は小山作之助作曲で、明治二十九年(一八九六)五月、『新編教育唱歌集(第五集)』にて発表された。
「卯の花の匂う垣根に 時鳥早も来鳴きて忍音もらす夏は来ぬ」五・七・五・七・七・(五)の和歌の口調である。
因みに信綱(明治五年〜昭和三八年)は歌人・国文学者、学士院会員、芸術院会員、文化勲章受章者であり、代表句「ゆく秋の大和の国の薬師寺の塔の上なる一ひらの雲」は著名である。

3、時鳥の故事来歴

時鳥は時(季節)を告げる「渡り鳥」であり、祖霊と共に農村に舞い降り、田植えの刻を告げるとされた。古く弥生期より、米と共に南アジアからやってくる季節鳥である。
『万葉集』には、霍公鳥(ほととぎす)を詠んだ歌が一五三首あり、大伴家持が詠んだ歌が多い。
暁(あかとき)に 名能里(なのり)鳴くな
る 霍公鳥(ほととぎす いやめづらしく 思ほゆるかも(『万葉集』四〇八四)
卯の花の 共にし鳴けば 霍公鳥(ほととぎす) いやめづらしも 名能里(なのり)鳴くなへ (『万葉集』四〇九一)
平安期の清少納言 『枕草子』(長保三年(一〇〇一年)頃)のほととぎすの記述を採り上げてみたい。岩波『日本古典文学大系』(19)に拠る。
@賀茂へまゐる道に、田植うとて、女のあたらしき折敷のやうなるものを笠に着て、いとおほく立ちて、歌をうたふ、折れ伏すやうに、また、なにごとするとも見えでうしろざまにゆく、いかなるにかあらむ。をかしと見ゆるほどに、ほととぎすをいとなめううたふ、聞くにぞ心憂き。「ほととぎす。おれ。かやつよ。おれ鳴きてこぞ、我は田植うれ」とうたふを聞くも、いたくな鳴きそ」とはいひけん。仲忠が童生ひいひおとす人と、ほととぎす鶯におとるといふ人こそ、いとつらうにくけれ。(二二六段)
Aほととぎすは、なほさらにいふべきかたなし。いつしかしたり顔にも聞えたるに、卯の花、花橘などにやどりをして、はたかくれたるも、ねたげなる心ばへなり。五月雨のみじかき夜に寝覚をして、いかで人よりさきにきかむとまたれて、夜ふかくうちいでたるこゑの、らうらうじう愛敬づきたる、いみじう心あくがれ、せんかたなし。六月になりぬれば、音もせずなりぬる、すべていふもおろかなり。よる鳴くもの、なにもなにもめでたし。ちごどものみぞさしもなき。(四一段)

4、中国の故事伝説に拠るホトトギスの名称

ホトトギスに当たる漢字は、杜鵑・霍公鳥・郭公・時鳥・子規・杜宇・不如帰・沓手鳥・蜀魂などなど多い。明代の李時珍『本草綱目』禽部三「杜鵑」の釈名に「其ノ鳴「不如帰去」ト曰ウガ如シ。」とあり、日本では「本尊建てたか(ホンゾンタテタカ)」・「天辺かけたか(テ ッペンカケタカ)」・「特許許可局(トッキョ キョカキョク)」が一般的である。
長江流域に蜀国(古蜀)があり、杜宇(とう)という男が現れ、農耕を指導して蜀を再興し帝王となり「望帝」と呼ばれた。後に、長江の氾濫を治めるのを得意とする男に帝位を譲り、山中に隠棲した。「望帝杜宇」が死ぬと、その霊魂はホトトギスに化身し、農耕を始める季節が来るとそれを民に告げるため、鋭く鳴くようになったと言う。
思うに、ほととぎすの一声は「生」の予兆・予告を表しているのではあるまいか。古来、日本人にとって、祖霊は「山の神」として近郊の山に住し、春の田植え、秋の取り入れには「田の神」として舞い戻って来られる。村落共同体の精神的中核になって連帯を支え続ける。まさに歓喜の一声と云えよう。

5、「子規」はホトトギスの鳴き声か

李白の詩に
「蜀国曽聞子規鳥  宣城還見杜鵑花
一叫一廻腸一断  三春三月憶三巴」
がある。
「子規鳥ヲ聞ク」とは、「子規と鳴く鳥の声を聞く」の意であろう。後年、蜀が秦によって滅ぼされてしまったことを知った杜宇の化身のホトトギスは嘆き悲しみ、「不如帰去」(帰り去くに如かず)と鳴きながら血を吐くまで鳴いたと言う。
思うに、またほととぎすの一声は(「死」の予兆・予告を表しているのではあるまいか。
自然の暴威や感染症の拡大で、農村は疲弊し飢餓に苦しむ。田の神も共に嘆き悲しむ。血を吐くまで鳴くという悲嘆の一声とも云えよう。

二、一遍上人と「ほととぎす」

1、『筑波集』と一遍聖の連歌(俳諧発句)


勅撰の連歌集の嚆矢は『菟玖波集』である。連歌が日本武尊の新治筑波の問答歌に起こるという説による最初の連歌撰集で二〇巻からなる。二条良基が連歌 師救済と共撰、延文元年(一三五六)に成り、翌二年勅撰に準ぜられた。
(注)救済(ぐさい)は鎌倉時代末期から南北朝時代にかけての地下の連歌師。弘安七年(一二八四)〜永和四年(一三七八)。
古来の連歌を「付合」を主として二千句余集める。『菟玖波集』に集録されている一遍の郭公の発句は以下である。
遊行の時、兵庫の島につきたりけるに、浄阿上人待向ひたりける夜の連歌に
月に鳴けめぐり逢う夜の子規  託何上人
善阿法師一遍の仏事の席に一日千句侍りけるに
頼むぞよ十声一声ほととぎす  能阿法師
文和三年四月、家の千句連歌に
待てばこそ鳴かぬ日のあれ子規 堂誉法師
郭公なかぬ初音ぞ珍しき    一遍上人
一遍上人の連歌発句には「前書き」がなく、
文和三年は一三五四年であるから一遍上人の時代(一二三九〜一二八九)から六、七〇年経過している。後代に一遍上人が作ったと言い伝えられたということではあるまいか。一遍上人の詠んだ(と想像される)百数句の中で「ほととぎす」の句は、後述の一句のみである。
同趣の歌に「聞くたびにめずらしければ郭公いつもはつね(初音)のここちこそすれ」の一首がある。勅撰和歌集『金葉和歌集』所収で興福寺第三一世別当永縁権僧正(一〇四八―一一二五)の句で「初音の僧正」としても著名である。拙論への研究者のご見解を是非伺いたいものである。
また、連歌の座での句の披露が「ほととぎす なかぬはつねぞ めづらしき」とすると、二通りの解釈ができる。
郭公鳴かぬ初音ぞ珍しき(郭公は鳴かず?)
郭公鳴かぬは常ぞ珍しき(郭公は鳴いた?)
 明らかに初音の句が優れているが、二様の解釈ができるのが俳諧の面白味かもしれない。
託何上人(一二八五〜一三五四)は七代目遊行上人で、宝厳寺との関係が深く強い。康永三年(一三四四)六月伊予回国中に奥谷派を遊行派に編入し、『條々行儀法則』一巻を述作する。秋、兵庫で四条二代浄阿らと連歌興行、『禅時論』(執筆年不明)を執筆する。巻頭に「託何上人作」とあり(仮托かもしれないが)、奥谷道場宝厳寺に関係ある一文で、道後温泉についても記述している。宝厳寺における連歌の様子に詳しく触れている。
(注)拙論『一遍会報』第四三三号「奥谷道場宝厳寺時衆連歌文化考」

2、『一遍聖絵』中の「ほとゝぎす」

一遍聖の生涯を絵巻にした鎌倉期の作品であり、国宝に指定されている。原本は時宗本山遊行寺にある。(第七巻 二七段)
 同七年閏四月一六日、関寺より四条京極の釈迦堂にいり給ふ。貴賎上下群をなして、人はかへり見る事あたはず、車はめぐらすこともえざりき。一七日ののち、因幡堂にうつり給ふ。
 そのとき、土御門入道前内大臣、念仏結縁のためにおはしまして、後におくり給へる、
 一声をほのかにきけどほとゝぎす
     なほさめやらぬうたゝねのゆめ
   返事        聖
郭公なのるもきくもうたゝねの
     ゆめうつゝよりほかの一声 

(注)「一声」とは「南無阿弥陀仏」のこと。
(注)土御門入道前内大臣は村上源氏、源通親の孫、中院通政(〜一二八六)

三、
時鳥の記憶

本稿は、一遍会第六〇三回例会で発表した講話を中心にしており、時鳥に関する詩華集を紹介した。ここでは紙面の関係上割愛するが表題のみ参考に記載しておく。
【漢詩】
聞王昌齡左遷龍標遙有此寄    李白
聞砧             孟浩然
【西洋の詩歌】
W・ワーズワース 「カッコウに寄す」
R・ブラウニング 「春」
【日本の民話】
柳田国男『野鳥雑記』(八)郭公
鹿児島の民話「ホトトギスの兄弟」
滋賀県の民話「金貸しほととぎす」

四、正岡子規と「ほととぎす」


正岡常規が「子規」と号したのは、明治二二年五月九日に喀血した後です。
明治二二年五月九日 真砂町の寮で突然喀血。翌一〇日、寄宿舎初代監督「服部嘉陳」送別会に出席し。帰寮後再度喀血する。その後一週間ほど喀血続く。
「時鳥」の題で四,五〇句作る。子規と号す。
「卯の花をめがけてきたか時鳥」
「卯の花の散るまで鳴くか子規」
「八千八声鳴いて血を吐く時鳥」

子規は、この年、ホトトギスを文献から集中的に集めている。題して「八千八聲」上・下の大作です。俳句分類の始まりがここにあると考えられる。
「八千八聲 上」―中国資料をはじめとして、万葉集、八代集、家集、日記、狂歌、長唄、都々逸、など歌類
「八千八聲 下」―平家物語、菟玖波集、吾妻問答、新撰菟玖波集〜芭蕉・蕉門 の俳諧連歌、発句、狂句
改造社版『子規全集』第二〇巻に収められている。編集責任者は河東碧梧桐・高浜虚子・香取秀實・寒川鼠骨で昭和六年の出版である。同書の一遍の発句は「時鳥鳴かぬ初音ぞめつらしき」である。関心のある方は、県図書館・子規博が所蔵しているので一読を進めたい。

おわりに

現代の松山人にとって、また俳句愛好家にとって、一遍上人と時鳥の知識はほとんどなく、「正岡子規→喀血→血を吐くホトトギス」と、近代で最も長い寿命を保っている月刊誌である『ほととぎす』があまりに有名である。   
論者にとって、短絡的に捉えるのではなく、わが国のみならず中国、西欧での歴史的、文芸的な位置づけをも正当に理解して、初めて「ほととぎす」の真実に迫ることができるのではあるまいか。
ほととぎすの一声は、「生への予兆」であり、且つ「死への予兆」でもあり、南無阿弥陀仏の一声は生死を超克すると云えよう。
郭公なかぬ初音ぞ珍しき
郭公なのるもきくもうたゝねの
ゆめうつゝよりほかの一声
一遍の連歌発句として、記憶しておきたい。